遺言の代わりになるもの

※自分のTwitterアカウントから抜き出しコピペ

風化する自分の脳、哀しくて心地好い。悔しいことも、愛しいことも、貰い泣きも、貰い笑みも、諸々の思いの記憶を、宇宙の誰かが預かってくれるなら砂になれる。冷凍庫よりも堆肥コンポストで。無記名でいい。誰にでも使われればいい。私のもののようで、そうでもない

時々ものすごく不安になってた。私の至らぬせいで子供らの可能性を台無しにしてきちゃったんではないだろうかと…けど、こうも思う。この不安は我が子に於ける自分の影響力を大きく見積もり過ぎてるだけかもしれないと

子は私の知らない人間と仲良くなり、私の知らない音楽を聴いたり私の知らない土地を旅したり私の知らない用語を覚えて仕事したり私の知らないものを味わって笑って報告したりしなかったりしてくれる、これ幸せ

ところで、リアル人間関係でもネットでも、なかなか私と合う人がいない。趣味推しも、政治的なことに関する考え方も、家族とか友人との距離感についての感覚も、全部揃って私と一緒!って人、なかなかいない。全部一緒である必要はない。諦めが優しさなのかもしれない

ハマっている様々な娯楽も、突き詰めたら全て「無ければ無いで何とか生きていけるどうでもいいもの」だけど、死ぬまでの持ち時間(どのくらいあるか知らない)に楽しみがあればあっただけ良いし、どれ程に楽しめるか、その為の借りてる身体だし持ち時間だと思うから家族各々にも、その活用を薦めたい

ネットの情報収拾でもリアルの繋がりでも、全世界を把握することは無理で、その時に見ようとしたこと興味をもったことに限られる。これでいいんだと思う一方、その、こっからここまで、と自分が区切らざるを得ない範囲の中でまでも、あちら立てればこちら立たずの矛盾の存在にヤキモキしたりする。

仮に明日この世を去るとしても私は、これまで色々な人々の反面教師になったり「なんだろうあの人…」と思われ誰かの心に何らかの影響は1ミリ位は(善し悪しにかかわらず)及ぼせたと思うので、意味有ったから悔い無し※でも我が子の笑顔は1秒でも長く見たいしあの番組の推しの出番は観てから逝きたい

病院での待ち時間でアカウントの各所を整える作業。自分の過去ツイコピーもTwittbotに登録しているが、もうすぐ登録数の上限が近い。このサービスを使い始めて何年になるだろう。ある意味で心の拠り所だ、いつ自分の頭と体が消滅しても、何かを考えて生きていたという証のつもりだった

でもネットから自分の言葉が跡形もなく消えても、リアル生活で自分の気配が跡形もなく消えたとしても、この何十年かの決して褒められたものでない私の振る舞いや喋ったこととかが、誰かの記憶には分散して残り、それが僅かでも誰かの感覚を刺激したり考えをかき混ぜたかもしれないことが遺言に代わる

…そうやって私は昔の日記を消したり昔のアカウントを消したりしたんだ、それで良いんだと言い聞かせてだ

「遺したさ」この欲はつまり、自分、生きてて無駄な存在でもなかったんじゃん?と思いたさ、でもあるな


※その後、自分の記憶に関する物思いをまた記録した。

https://mottiii.hatenadiary.org/entry/2021/10/20/101107