使っていたbot(自動投稿予約)サービスに、twitterのAPI使用がタダではできなくなるっぽいので、botに登録していた言葉を仮に置いておくその3

千里の道も一歩…これは、一歩踏み出さなければ千里なんて無理ってことだ。決して「一歩踏み出しさえすればもう千里先に行けることが確約された」わけじゃない
数多くの「もう見返す機会もこの先ないし処分しても良い気がするが思い出が纏わりついているから処分したくない気もする、その判断の気力もなく放置している」モノたちが積もり積もっている。これらを退かさないと身動きとれない。掃除もできない。そこに直面することから逃げている(2018)
そんなわけで、…人にされてイヤだったことを反面教師にできるためには、反面じゃない教師も居てこそでは。人にされて嬉しかったこともあってこそだと思った。
こちらの気持ちや状態をよく思い遣ってものを言ってくれる母と、そうではなく頭ごなしに怒ってくる親戚と、両方いたからなのかな私が親戚を反面教師として見ることが可能だったのは…これもし後者しかいなければ、世の中そういうもんだと思って悪しき例を継承してしまったおそれもあるかも
宝石は、空の星と同じように眺めていたい派。所有して身につけたりしなくて別にいいのでどっか宝石カフェみたいなところでただ見たい。けどブリリアントカットの綺麗なダイヤモンドとかの各宝石の典型的な形のが各種1個ずつくらい手元にあってもいいかも。いつでも眺められるセット
混ぜっ返したいというか…「Aである!異論は認めない!」というものを見ると「Bかもしれないよ?」を投げて寄越したくなるとか。それでそれを見つけた人が「ほぼAだけどBかもしれないなあ」と思ってもらったら私の気が済む…みたいなさ
誰かしらに聞いて貰えれば気が済むようなことをBotに登録して時間差で流すことで、少し個人特定のリスクが減る
何かを呟きたい。だけど個人特定はされたくない。なのでいま呟きたいことを一般化する作業が必要。それがめんどくさい
親世代祖母世代から見て無意味な行動でも、子供なりに自分の意味を持ち、メリットを考えて選んでいるということ/「私には分からんが、この娘が良かれと思って選んだ道なんだから、何か良い点があるんだろう」と信じてほしい/そういう態度の祖母で常にいてくれていれば、一緒にいても苦ではなかった
よく「ツイートする暇はあるのに私のメールには返信してくれない」「ツイートはできるのに私のラインは既読にしてくれない」っていうけど…ツイートというのは多数に向けてのスピーチ時間なんでプライベートなメールやラインの時間とは分けて考えてるんです私の場合。スピーチ中に電話に出ないのと同じ
何を見て哀しくなるか、何を読んでこの世の無情さ等に叫びたくなるか、は私の問題であって…ひとえに私の性質の問題なので…
そう、あのね…人として素敵な人がいる、好きな人がいる、その人がこの世にちゃんと恙無く幸せに存在している…ということを思い浮かべるだけで、こちらも幸せな気持ちになるというもの…アイドルを思うってそういうこと。その人がこちらを認識しようがしまいが関係なく
DTC湯けむり純情篇、素敵面白ミュージカル!あの重いナレーションから…あと、あそこでHIGHER GROUNDとか…超笑った。DTC可愛い良い子達で縦笛兄弟も好き。いいことの歌と踊り大好き。ダンさんの寄り添い方テッツのモテ方チハルの恋、宮崎さん良い人だし好き、達磨もWRもカッコ良"
どうして斜め後ろから見える小さい子の頬っぺというのはそんなに…神なのねえ
ドラマやアニメなどのフィクションではなくて実在する男の子が、女の子や女の人を「可愛い」「きれい」「好き」などと本当に愛でているのを目の当たりにすると私は何故だか安心する…「そうか、女の子を可愛いと思う男の子って、実在するんだ…物語の中だけじゃなかったんだ良かった…」ってなる
人は(←主語が大きいな、私は、だろう)自分が興味の無いものに対してその価値を低く見てしまいがちだな~自分が知らない良さがドラマが苦労がきっとあるのに見えてないの
お財布が寂しい中で如何に楽しむかというお題を出されてるゲームなんだ、これはね。多分。クリアできると思うよ私
伝統芸能にせよ現代パフォーマンスにせよ、何かしら仕草のどこかに男っぽさ女っぽさを引き立たせるような、衣装もまたその性差を魅力的に見せるような、そういうものにとても惹かれる。ファッションなんかも、その魅力を追求してバリエーション豊かに発達してると思うので性的強調も程よく欲しい
民族舞踊の動画を辿るとどんどん時間経つ…刺繍たっぷりの生地の女性のスカートがふわっと広がりみな同じ方向にリズミカルに揺れてるのを観るとか男の人がソロダンスでブーツを手でバシバシ叩いてるのとか短調な変則拍子に合わせて男女とも激しくステップするとかそういうの観るの好き
自然ってありがたい面もある以上にとてつもなく恐ろしいものだよ…人工に守られてなかったら、このヒトが人間としての命の営み文化楽しみすべても自然の威力に擦り潰されて無くなってる今頃。自然からヒトを守る人工を否定すること≒人間否定することになる…ありがとう人工
大会社、有名人、与党、等々が今まで物語のなかで悪として描かれ過ぎてたのかそれともそういう大手に何かしら狡そうなところを見つけ叩くことでスッキリする物語を好み過ぎてたのか、それで私は現実の大手のこともネガティブに見てたとこある。実際は大手には大手になった理由、努力、価値もあるのに
怖がらくてよいものまで必要以上に怖がらせようとするのは、人の生活を壊すことだから…。きちんと検査もして安全だというものを東日本のものは怖いから食べられないと言われ続けてずっと住めないとか言われ続けてたら…それは命に関わるし、何もなければそれで良かったとかじゃないんですよ
片方二重だとか、眉の高さが微妙に違うとかも、相当好きなんだけども。これっていわゆる美形の規格とは違うかもだけど、私は割とそういう引っ掛かりに魅了されるんだ
左右非対称なところがあるビジュアルってとってもセクシーだよね、と常日頃から私は言ってるのですが、何故なのかはあまり考えたことがない…生物学的になんかあるのかな…
単語で検索した時にネガティブワードが目に入るっていうのは哀しみだよ。私も、悪いと思ってないものについてはなるべく良い意味の言葉とともにツイートしてこのネット世界に遺したいとは思ってるんだけどね…
また新しい案件の研修がある。この時給千円のこの仕事にしか使えない知識を仕入れに行くけど、虚しく思わないようにしたい。期間限定でも何かを新しく学ぶというのは、脳のゲームを無料どころかお金を貰えてプレーできる幸運だと思うことにする(2018)
こういう思いを私がヒトがダラダラとネットに書き散らせるのも、安定した電気供給その他インフラのお蔭だし、食べ物を始め生きるのに必要な物資が手元に届くためのあらゆる働きをしてくれる人達のお蔭だし、経済が回っているお蔭だし、だから私も経済を潤し税金を納めて生きたい。いつもここを忘れまい
きめ細かく真面目に考えられたほうが良い問題、が、活動家の市民の人達のやり方によって逆に政治利用されて却って蔑ろにされる…という事例をよく見かける。それに対して批判反論する側の方もまた、負けじと湧き上がる…それでなんとなく両陣営の勝ち負けの問題のように傍から見ると見えてしまう
人は何故、炊飯スイッチを入れ忘れたままおかずを作っていただきますの直前にご飯がまだ無いことに気付くように、服を半分くらい脱いでからお風呂をまだ沸かしていなかったことに気付くのか。(着直した)(2018)
マイノリティの人であること、を候補擁立の売りにして多様性をアピールしたつもりになるって、変…逆に人をその属性でしか見てませんよという表明になっちゃうのでは…?政治家として優れてるかどうかで(結果的にその人がマイノリティかどうかに拘らず)選ぶというのならいいのに
嫌いなものに対して単に自分の好みだけでなく「その表現が世に誤解を招き誰かを傷つける、だから嫌いと表明することによって世の中を良くしたい」とかいう欲望が一個乗っかることによって嫌いと言いやすくなる
帰化した人としない人とで違うのって、差別の話じゃなくて区別、そういうルールの話だと思う。たとえば家賃を払って借りて住んでいるだけでいつ引っ越すかもわからない人とそのアパートの大家とでは権限も当然違うように…。って私は常々思ってるんで
私の身体の中の細胞のひとつの中の小さな宇宙にどんな誰がいてどんな暮らしをしていようが、彼と私がご対面することなんてないもん
なので人様の発言「※※には興味がないが〇〇は良い」のことを私の脳内で変換して「※※はこちらにとって取るに足らないものだが、〇〇はそれを超えてこちらにアピールしてくるから認めてやろう」のようなニュアンスを勝手に私はつけるの、我ながら良くないものの見方だ。〇〇は※※であるから良いのに
大きな地震が起きたら電気ブレーカーを落としておく、水を溜める。ガスは自動的に止まるようになってるけど電気はそうじゃないもんなあ。あと給水所がどこにあるのか紙の地図も持ってると良い。電気ない時ネットで検索とかできないから、必要情報印刷して出しておくといいのね(自分メモ)
何のジャンルでもそうだけど、何かに対してその時に自分が興味が持てないorなんとなく気に入らない、のは、それは仕方ない。気づいてない魅力を今は受け入れる状況にない、のは別に罪もない。ダメなのは、それを好きだと思う人がいることを想像せずに往来で貶すこと。言うか言わないかの違い、大きい
多分、人類が増えることを良しとしていなくて、地球のため自然のためには人類はむしろ減ったほうが良いと考えてる人がいるんじゃないかな。でもそういう人の考える「減らしたい人類」の中に、もしかしてその人自身は含まれていないんじゃないかな…。
1995年位に研究されていたことが、今の世に出、今は2040年を見据えてる、という落合陽一さん。良かった。お仕事というのは未来を作る、そして少数の方々の需要を満たすことが世の中の為になることもあるんですね。興味のおもむくまま研究したことが結果的に誰かの幸せを支えることも。2018
一人になる時間を持てることが、こんなにありがたいものだったのかと泣いた、あの頃の気持ち、忘れないでおこうと思った
「自分のことを自分のペースで何もできないまま、乳幼児を家で面倒見ている、目を離したら子供の命に関わる」っていう仕事と「外で買い物をしてくる」仕事は、同時に出来ない。この二択だったら、もう絶対に後者の仕事がラク。なのに前者の仕事を休むことができないとなると、精神病む
「最近の音楽が皆同じに聴こえる」というのは老化現象だと思う。興味が薄いもの、薄れたものは細かく判別できない。好きになってそれに対して感性が鋭敏になれれば、それがどんなジャンルだってあれとこれが同じには思えない。幼少の頃に全ての通過車両の車種を瞬時判別していた息子も今は全然
割と長々と座って仕事する職種なんだけど、座りっぱなしって寿命縮めるって世間でよく言われるから休み時間の度に、こまめに手足を動かしたり首や肩を回したりストレッチしたりしてる、のに、これやってるの私ばかりで隣や向かいの人達ただ座ってるけど、私が恥ずかしいから動いて欲しい(2018)
映画でも何でも、自分に関する誰かの記憶を消去する系の物語が、悲しくて私にはどうにもダメだ…いや、ダメっていうか、悲しくてしかたない
オークションサイトやフリマサイトで宿題代行品が問題になってる件で思うんだけど、そもそも夏休みに宿題で自由研究させなくても別によくない?「宿題だ」と思うと、「自由」な気持ちで経験積むことが却って妨げられるのでは。締切や評価のない気楽さから得られる学びを長期休暇にこそ味わいたいし
つまり私は何を突然悟ったかというと、お臍出してるファッションの人は、私なんかに心配される必要ないほど暑がりだということ。うっかりお臍が冷えちゃうとかいう問題じゃなく、とにかく全部暑くて裸でいたいほど暑くて、だけど胸とかは仕方なく隠したいだけ。心配する必要ないレベルなの。分かったよ
ネットの不仲説を二人で笑い飛ばしていたという木村拓哉さんと二宮和也さんの対談を観てて、ああ、そんなふうにネット記事が勝手に勝手なイメージを植え付けてる世の中なんだなとつくづく思ってた(2018.8)
さくらももこさんには「神のちから」という漫画作品があるんだけど、これがめちゃくちゃ変で楽しい。あと「神のちからっ子新聞」ていうのもあるんだけど、これももうネーミングからして脱力感も天才じゃない?
それから「そういうふうにできている」も超絶面白かったなあ。これ第一子を生む前に読んでおきたかったと思った(無理だが)産んだ人にも面白いし経験ない人にも楽しいエッセイだよ
冷房効いてる電車内で思ったんだけど、昔の人は皆が厳しい環境(暑さ寒さ等)に打ち克つことが命を保つ手段だったから、厳しい環境下で根性出して何かを成し遂げる人を誉れ高いと褒めてたんじゃないか。今の人々は同じことを見て「何もそこまでせずとも人は生きていける。生きていけるべき」と思う
「きっとあのグループを売りたいが為に、このグループを冷遇したに違いない」という陰謀説を信じちゃう人達、…がまだいるんですよ…常識で考えてそんなこと業界に何のメリットもないだろうに。勝手に物語作って広めて芸能事務所を悪の組織みたいに言う人達がまだいて私のオタ活に雑音流してくる
私の好きな人達がうたう歌の詞に「外野の言葉はシカトする」ていうのがあって、このシカトっていうのを私がどう受け取ってるかというと、…分かってる人は分かってるし分かってない人も分かる日がくるかもしれないし、分かった人同志、楽しくやろう、だと思ってる
え、障害のある人が何かしら挑戦してるのが「感動を生み出す道具」?に見える?そんなわけないでしょね…大会で頑張ったアスリートさんやコンクールで賞をとる健常者さんだって誰だって、見る人に感動を生み出してるけど?障害あるひとにばかりなぜ道具だ等と言う?…やりたくてやってる人にそんなこと
この世が「ある」ことはさすがに分かるんだけど…「何故ある」「何の為にある」のかが分からないのって、なーんか腑に落ちないよ
石ノ森章太郎さんの転んでもただでは起きなかった傷心海外旅行の経験が、ああして活かされたサイボーグ戦士だったとはね
サイボーグ009の主題歌)「誰がために」メロディも良いし歌詞も超好き。「夢見て走る死の荒…野…」で号泣しそうになるし。サイボーグ戦士は皆がそれぞれに辛い過去を持ってるんだけども、それこそドラマ石ノ森章太郎物語に出てきたあの台詞のように、悲しいと両立できる感情で自他を救えてる
検察側の罪人、木村さん二宮さんのあのアレとかアレなんかもう凄くて…木村さんあの時点でおかしくなってからの色気たるや。二宮さんの爆発、この人をこのままにしていていいのかと思うくらいの壊れた感じで、そのあとすぐ鎮まるの怖かった。静かにしてる時の向かい合いもしみじみ哀しくてやられたな
「親を通してこの世界から貰った大事な身体」をどう使おうと、それがこの世界から承認されたなら機能するってことでいいんだと思う。親は子供に身体をあげたんじゃなく橋渡ししてるだけ。我が子に「身体をあげた」とか思わない。世界からこの子が身体を授かることに微力ながら関わらせて頂きました
映画、ドラマ、ドキュメンタリー、スポーツ観戦解説番組、…などなど、感動が伝わるように作ってあるから、それを観て私は、人の心の有り様とか生き方に感動することが可能になるようなアンテナを「演出に育ててもらっている」感じがする。そこで知る視点、感動、は、嘘ではないと思ってる
夏の野球やマラソン、可哀想、けしからん、…っていう人もいると思うけど、私から見るともっとそれより過酷で御無体なスポーツショーって他にたくさんあるけどな?プロレスとかツール・ド・フランスとか。誰かに無理矢理させられてる訳じゃなくて出たくて出てるならいいんじゃないの、讃えても
いやもう本当にマジで「ぼくの地球を守って」は最終巻まで読んだらホント後悔させない!!やっと皆が救われるってば。過去が今と未来を生かすことになる。その年齢のそこの縁にしかないものを一緒に享受できる尊さ。その後の話も微笑ましくて大好き(2018.8)
被害の影響の程度を、過少に伝えるのも過大に伝えるのも、人の生活に悪さを為すんだよね。大袈裟に言っとけばいいんだろうと単純に考えるそのことが、被災地を復興しようと頑張ってる人達の足を引っ張るってことや、へたしたら人の命に関わるってことを忘れちゃいけないと思った。
主流、多数派、人気者、…そういう存在をとにかく嫌いであるとする人がいるし、そういう存在に対しては決めつけた目で見てもいいと思ってる人がいるし、そういう存在にならどんな酷い言葉を投げつけても許されると思ってる人がいる
今世を生きてる途中で前世の記憶が出てきても本当に困るだけだよね!/(ぼくの地球を守って)読み進める間に何回も文句言う人(私)
私が恨んでる相手も、私があれから少しは変わったように、もう変わってくれてるかもしれない。いつまでも同じところにはいないかも。にも関わらず私が恨みを消したくないって思っちゃうのは、やっぱり私が昔の私自身に気を遣ってしまうからとしか思えない…昔の私に「忘れて構わない」と言って貰いたい
蝉ってずっと地下暮らしに慣れて長年生きてたのに、死ぬ前に突然わけのわからない熱や光に襲われる未経験の過酷な環境へ移動して婚活しなきゃいけないのホント大変だね。子孫残すためだから仕方がないのか
ぼくの地球を守って6巻)むちゃくちゃ辛い鬼のような展開だけど、…木蓮ってそんなこと思ってたのか…そうか…紫苑、よく頑張ったね、良かったね…、って最終ページでは思えたんで、私もよくここまで頑張ったな(2018.8)
中高年になっても、自分の中身の幼さが小中学生かのような気持ちになる。だから、外側に年寄りの皮を着ていることを、中の自分がすっかり忘れてこのSNS往来を歩いてて、ふと自分の状態に気付くと、急に恥ずかしいような感じ
古語、「もののあはれ」と「いとをかし」は復活しても良いのでは?(適当に何にでも多用して流行らせておいて欲しい、この語)/で、そのうち本来の用法と違う意味が主流になって、古文のテストで誤答されがちになるんでしょ、そうだね…
好きな有名人であろうがプライベートについては割とどうでもいい。…ってこととは別に、実在するんだかなんだか出処の分かんない「関係者によると」的な嘘文章を適当に作っては売上を稼ぐものの存在とその作文を事実だという前提でものを言う人々の存在が、とにかく不愉快だと思う
途中途中がしんどい物語は、しんどさの分だけハッピーエンドの喜びが大きくなる。知ってる。
どんなにしても何を飲んでも渇きを癒やされないどころかどんどん消耗する人、VS、どんなに渇きを癒やそうと思ってもその手に携えてたのは実は相手にとって毒水だということに気づかないまま分け与えようとする人、どちらも何かを知らないから罪。そういうことに無力な私には刺さり過ぎて嫌なの
紫苑、愛し愛することを知らないから愛されたいけど半端に愛されても辛いからすぐ逃げ拒否る様子。玉蘭は善意の中でのぬくぬく育ちで紫苑の本当を理解できないなり紫苑を助けたくているけどそういうの紫苑には迷惑でしかないし自己満足としか思われてない。この二人が象徴する断絶に私は絶望する
ひとたびその決めつけていた方面への、まさかの好き、まさかの興味、それを持って改めて観てみれば、まるで違う色と度の眼鏡をかけたかのように物事が自分に向かってくる。かつて決めつけていたものの後ろにも人はいるし、自分のような決めつけをしてくる他者から今度はもやもやさせられる因果めぐり
決めつけといえば、男女別学校に関する誤解や偏見を解いてくれる意見を目にする、良い傾向。でも同時に、共学校についてのステレオタイプなイメージもまだまだあるように思う。なんでもひとまとめにしないでほしいな
そう。お酒の風味が大好きなのに、お酒に弱いから困ってる。お料理やお菓子にお酒の味がついてると幸せ。でも本当は、微塵も酔いたくない。酔うために飲みたいという人は多そうだけど、私は違うの、酔わないで味だけ味わいたい
漫画でも映画でも、私が基本的には同性間のラブストーリーにあまり食指が動かない理由としては、女の子が男の子をo男の子が女の子を好きになるところを見たいからだ。違う身体を持つ未知の相手を前に戸惑ったりときめいたりしてる人々を見ているのが好きだから。ただ私自身は同性に恋してたことはある
これはオウムみたいなカルトテロ組織にだけじゃなく、ある種の自然万歳思想家にも感じること。地球に優しくない人間は悪だというならまず貴方から早く逝けばいいのでは?という極論が頭に浮かぶ
ヒトの肉体、ヒトの繋がる社会、そこから生まれるヒトの感情、…を否定して壊す教義について私は「そういう視点も有りかもしれないが、それをヒトが支持することに何のメリットがある?」と思うし、「そんなに他を壊したいならまず自分が滅びれば良いでしょ。なに自分は例外に置いてんの?」とも思う
老い。見た目の衰え以上に、脳の衰えについて、とても不安。頭が回らなくなったら多分、人に適切に優しくすることも難しくなりそうで、その頃、自分の生きてる意味はあるのかとさえ思う。一方で、せっかく今まで経験を積んだりいろいろ頑張ったんだから、あと余生はご褒美としてラクに生きたいとも思う
すごく文才のある人の文を読んで、なんかすごいなと思ったとき、なんかすごいなどという感想では稚拙で申し訳ない気がしてしまう。または単に私の、感想等を言語化する能力のなさが、文才のある人に対して恥ずかしくなる気持ちも正直あるかも。絵の上手な人に絵を返す程のハードルを勝手に感じてしまう
私個人の主観体感でしかないけど、義務教育時代が一番、人間関係に辛さを感じてたな…どの時代にも、やな奴はいたけど、「ここは狭い世界だが、世の中にはここではない世界がもっとデカくひろがっているのだ」という認識がまだ自分自身に備わってなかった分、思考の全てを同じクラスの問題に侵食されて
その記事は、竹久夢二さんや中原淳一さんのことを取り上げていて、「かわいい」が大正時代あたりから確立した…のような話だった。かわいいは、もっと前からなかったっけ?って次に娘とほぼ同時で口から出た言葉「枕草子とか!」
遺された人がどんな気持ちになるかを敢えて考えずに本音を言うとね、私は綺麗に終わりたい。大事な人に迷惑を掛けたくないというこの私利私欲を、存分に満たしたい。だけどこの気持ちは知られてはいけない…だからなんとか老衰に見せかけて安楽死したい。不可抗力だと思われたい
歳で、いい感じに肘が柔やわしてくると、子供のおもちゃになって折に触れて触られる。たまに自分でも触って自分で癒やされてる
好きな俳優さんやアイドルさんが、一人で複数の、雰囲気のまるで違う役やお仕事をやってくれてさえいれば、私はその一人の人のあの時やこの時のことを交互に思い浮かべてさえいれば、ずっと飽きずに幸せでいられる…この仕組みを永久機関って呼んで良かったっけ
不安を煽る感じの歌って、心に残って好き。小さい頃に聴いたり観たりしたものでも、長年に渡り妙に記憶に染み付いて懐かしいのは、その手のやつ
千年女優のエンディング曲、ボーカルの「おぉおぉおぉ~」ってところと、ジャカジャカした伴奏とが、すんごい不安を煽る仕掛けで、もうね、大好物
いろいろ片付けないと人生を終われない…。寿命って私にとってお片付けの締切みたいなとこある。締切、永遠に来ないで欲しい
喉元過ぎて忘れた熱さを思い出せば、その道を辿っている人に対して「それぐらいのこと…」って言えるわけないし。それと自分の歩いたルートがたまたま通りやすかっただけで皆もそうだと思い込んじゃならない
ところで、気に入ったドラマや映画やコンサート等のDVD/Blu-rayを買うと、字幕を表示して観るのが大好きなんだ…好きな人々が交わす言葉を、耳でも目でも味わいたい派なので
善意が迷惑かそうでないかは受け取る側が決めるんだし、「これは善意でやってることです」知ってる、だからこそその気持ちが役に立たなかったら申し訳ないから、実は迷惑なんですということは知らせてくれてありがとうと思うの
フォロイーさんにお薦めされてた、大島弓子の『四月怪談』ですが、めっちゃ素敵なそして哀しい楽しい漫画だから、心の片隅に置いといてください。肉体の縛りのない自由にも惹かれるし、その縛りあればこそのあれやこれやも愛しい…
小学生の頃(感受性があるとかではないけど)未知の人々がただ怖くて、日直になると「静かにしてください」等、うるさい子に注意しなくてはならない仕事が嫌で、あの時代の大きな悩みだったなあ。大人になった今、あの頃より本当に図々しくなれた。あまっさえ、みんな私と同じじゃんとまで思えるように
そりゃ勿論、親になってみたら、なるほど、こういう事情があったのかと気付かされること多々あるよ。でもだからといって、子供の立場オンリーで感じた思いは、またそれはそれで大事な視点だから
育てられる間にああされたりこうされたりしたことがイヤだった、ってことは、別に子供を産んでいようがいまいが発信して構わないと思います。いつまでも子供としての気持ちがあるつもりでも、どうしても私主婦としてはその頃の感覚も薄れがち。親にされてイヤだったことの事例は知りたい
教えてくれる現場の人には「この仕事を初めてする人間の目線で見る」をやって欲しいと思う。何その「それは違うんだ、この欄のデータはいつも間違いだからでこっちのデータでやってね」は、最初に言っといて。折角覚えて動き出しても、後出しの「我々は知ってるが新人は知らない事項」でやり直しになる
ずっと心の中で消さないでいる叶わずだ思うだけの昔の人への片想いとかその他は、私が死んでしまうといよいよ本当に消えるのかね…世の中全ての人々の各々脳内にしまってある秘密の思念は、寿命が来たらそのまま知られないまま身体と共に消える?そんなことあってはならない!…の気持ちが最近強い
私にとってTwitterとは何だ。何か心によぎったら、それを書く。それが自分にだけじゃなく、いつかどこかだれかに「そういうこともあるよね」と思ってもらうっていうなんかアレなやつ
素敵な文章や面白い物語やカッコいいパフォーマンスや綺麗な絵やときめく音楽や、それにこれはいったいどうやって作ったのという神技みたいなアートなどに出逢う度に、ヒトってこんなにすごいことするのになんで何故生まれて何故いつか死ぬの意味わからないけどヒトは好きだヒトで良かった…って思う
続編希望!と言いながらも、本当は続編以上に遥かに本編が愛しくて転げ回ってしまってるんだ/円盤を手にするまでがドラマ鑑賞とも思うけど、毎週のように、次どうなるの次は次はと気持ちを掴まれていた日々が行ってしまう
こうして、私の好きなTV連ドラが最終回を迎える度に人はロスの風に吹かれ、毎6月9月12月3月の度に心に空いた穴に記憶の中の登場人物達の家を作っては、自分ではない人間が創作した人間の世界でいっぱいにして生きてしまう
復讐心がまずは生きるモチベになるけれど、それと折り合いをつけないと虚しいよね、ってことはBJは、自分でもよく分かってたんだろうなあ…ってことを、「復しゅうこそわが命」と「笑い上戸」から感じた
不発弾と二人目がいたとえらばれたマスクは、母の為の復讐というカテゴリに入りそうだし、不発弾とえらばれたマスクと骨肉は、マザコンBJ3部作と私が勝手に呼んでいる
あとね全国の女子高生は制服スカートの下にタイツなりスパッツなりなんなり穿いて、生膝を寒風にさらさないのが常識という世の中が来ればいい。婦人科系にも冷えは大敵
エンタメには、作るひとたちがこれまでの人生経験で縁のあった人やもの、から生まれた色々なものが溶け込んでるしそれらが観る人たちにまた作用する、尊い、みたいなことを思った。けどそれは何もエンタメだけに留まることでなく、どんな仕事にもそれがある
楽しい夢なら、夢から醒める瞬間まで夢だとは気付かずにいたいと思う一方で、夢から醒める前に「これ夢だったよね、知ってる」とどこかで分かって内心クスクス笑ってから逝きたい気もするしな~
空飛ぶタイヤ、守るものがある人間の弱みに付け込む者の理不尽を思うと、ハッピーエンド後も悔し泣き止まらない。でもよく頑張った。よく堪えたね。どん底まで地に叩きつけられた人を再び立ち上がらせたのが、あの最も非力な彼の、最も損得から遠い心の力によるものだったというの最高に熱い展開だった
私の場合は、祖母に対してだったが、彼女が「世間に見せるための自分作り」にあまりにも完璧であろうと情熱を注ぐし、その事業に孫まで巻き込むもんだから、私は祖母の望むように生き…られればまあ良かったがそうはできないのでどんどん「安心満足させる為の私」を作るべく嘘をついたor何か隠した
歳も性別も容姿も早く外して「〇〇が好き~!」という気持ちだけを心置きなく恥ずかしげもなく雲の上からひたすら世界に発信するため逝きたい。と思ったけど、よく考えたらそれ、今インターネットで可能じゃん
乳児は仕方ないけど、幼児に時と場所を弁えてふるまうことを躾けることは、その子が「自分の当たり前は他人の当たり前ではない」と学ぶことでこの先世の中でやっていく為に役立つ。但し親が人目を恐れるあまり子に抑圧的になって育ちを損ねてはいけない。虐待と躾の区別を出来るよう周囲サポート要る
ついった、元ついの意図がよく分かられないままで伝言ゲーム的に何かの波紋に触れた先々で、みんなが各々自分の中にある感覚で好き勝手な心情を吐き出す世界になってしまうねどうしてもね
では、育つこと老いることに纏わる色々なことは他人に何もかもいつどこでも許容してもらえるものだ、というわけではない。ここは若い大人だけの空間という場の存在も尊重されて然るべきと思う。(公共の乗物の車内はそうではない。最低限のマナーは気にする必要あるけど)
自分の知らないことや未経験なジャンルに対して想像力の限界というものがあるのは仕方がないけど、育つことや老いることに関しては、人類誰もが無関係であるはず無いうえ、どうしても弱者なので、そこには他者からのより深い察しを必要とするので、知ってもらうのも良いこと
子を産む以前の感覚を忘れそうになるが、時々思い出してみよう。泣き声のみならず、乳幼児が出す液体への許容など、乳幼児のやることなすこと肯定してしまうような感覚が身につくあまり、そうでなかった頃の感覚が取り戻し難い。迷惑だと言う人だって正しい。追い詰めるではないが、認識するのも大事
子供に甘い親を許さない人を許せない気持ちはあるけれども。子供に甘い親を許さない人の許せなさを許したい。但し「子供に甘い親だから泣かせている」わけではない事例が、実は意外とたくさんあることを私は親になってから知った。
50回目のファーストキス」のことを考えてた。彼女が毎日いわば生まれ変わって彼と出逢う、一日しかない人生を前世の記憶無いまま何回も行うようなもの、でも彼は彼女の数々の生を知ってる、これと似たことが、私らよりとてつもなく長生きしてる誰かから見れば起こりうるのかなあ、…ってことを
セーラー戦士もタキシード仮面も、呼称を誰から授かったんだろう。セーラー服やタキシードを着ている、それ以外にもっと重要なコンセプトを込めたネーミングがあってもいいだろうに何故そんなに服装の事しか言ってない呼び名を名乗ったのか特にタキシード仮面、まもちゃん自分で言い出したのかな可愛い
自分が「これは自分だ」と認識していることよりもっとはるかに自分って深く大きいのかもしれない、それは自分じゃない人の力によって可能かも
二人は切なくて愛しい人達だったし、強く深い愛情っていうのは脳みその限界を超える何かを生み出せるのかなと思った。ムロさんも可愛かったし佐藤二朗さん好きだしそしてコメディ要素も好き(50回目のファーストキス
50回目のファーストキスを観て来た。当初は、私の涙腺が記憶喪失関連にむちゃくちゃ弱いと知っての狼藉かと思って避けたい気持ちで一杯だったが、超絶に笑いが止まらない場面が多々あり、ある意味で安心して観続けてたら、やっぱりむちゃくちゃ涙腺を攻撃される羽目になった、でも大丈夫(2018)
私は私の中にある感覚でしか人を推し量れないけど、同性に恋愛感情を持つことが多々あった私の場合「いつも異性(or同性)にしか恋しないわけじゃない。」「恋したらいつも身体を欲するわけじゃない。」ので、きっと他人にもそういうところがあるだろうと推測している
ドラマ「死神くん」の第二話にでてくる牧くん(違う)と最終回に出てる春田くん(違う)がどこかでうっかり出逢わないかなあ
あんなに泣かせられておいて、そのあと時間が急にスキップされ、全く不可解な展開の場面を見せられると、その経過時間に何が起こったのか答えを早く知りたくなるね。連続ドラマは続きを観たくなるように作られる。おっさんずラブ
出産直後に見た不可解な夢、あの時だけの生まれて初めての感覚満載のへんてこりんな夢、あれをもう一度見たくて、どうにかしてもう一度だけ、出産直後の心身状況を出産なしに軽く再現できるかやってみたい
Eテレらららクラシック、マーラーのアダージェット好き過ぎそして宮川彬良さんの解説が良くて泣けてきてしまった。道理でこの曲を始めて聴いたとき作曲者が誰なのかも私が知らない頃「なんでこんなに胸とかが所々聴きながら痛くなるんだろう」「なぜ死ぬような終わり方が気持ち良いんだろう」って
相互理解の話で思い出したんだけど、やはり地球外の生物と対等な交流って難しそうだな。まず、この地上の菌と人が対等に付き合えるか考えて?言葉とか倫理観とか知能とか身体の仕組みとかの壁の以前に、こっちが菌であっちがヒトだった時の対等な付き合いのメリットや可能性ってあるのかな
家族、特に連れ合いと、消費行動に関して価値観が合わない時、相手を変えようとする前にまず自分の中である程度できることはないのか手を尽くす。…という当たり前なことを、私はこれまであまりしてこなかったが、これからはする。「手持ちのコインで如何に楽しむかのゲームだと思って」やってみる
理解し合えなくても認め合いたい、って思うのは、つまり、理解できない事項の存在を認められる間柄のほうが、私には優しく感じられるからなんだ
自分の過去の呟きをツイログで検索して探すと、そうかそんなこと思ったか…ってなる。あと、こんなことしてる私は何だかんだで自分が好きなんだな。ていうか自分が思ったこと感じたこと考えたことを葬り去る気持ちになれないんだ
電気機器の使用を忌み嫌っている事例をよく聞く。自分だけでなく家族にも携帯電話やPCも、電子レンジも使わせないと。ある意味、宗教。それが如何ほど身体に何か良いことがあるのか。気分の問題だろうけど、家族が必要以上に仕事や宿題で苦労することのデメリットのほうが遥かに大きい気がする
いつも大体そうだよ、大手を闇とか言っておけば、もっともらしいし、叩いておけばちょっとカッコイイ言論風味が出るしアクセスも増えるし?
とにかく都心のメトロ等の駅構内で「今、自分に急な生理的事情が発生しておトイレに駆け込みたくなったら?」と仮定して周囲を見渡して見てほしい。何処にトイレがあるのか案内表示が如何に見つけにくいか気づく。改札の内にも外にもおトイレを設置して反対方向のホームや出口付近にも設置してほしい
照れくささもあるけど、私自身が、直接的な教育も受けずただただ危険回避の生き方を強調された記憶しかないため、性に関して何が正解なのか子供に何を伝えたらいいか分かってない
「いざという時」に人としてどんな心構えでいるべきかの性教育、を我が子に直にできないまま時が過ぎてしまった。「人としてどう振る舞うか」さえ間違えなければ「いざという時」のことも自ずと分かるだろう、というのを言い訳にし。直接的な話をできないでいた主な理由は、照れくささ
それにしても演劇って凄いよね。地下深くの隠れ家から、空に聳える大聖堂の頂上まで、全部同じ舞台の板の上にて現すんだから
劇団四季ノートルダムの鐘、良かったよ…!アニメも好きだけど、こちらも佳き。かなり複雑でシビアで悩ましい要素入ってる。それと高いところが平気な男子が好き。あとやはり私はアウトゼア好き過ぎ、ヘブンズライトとヘルファイアコントラストとか大好き過ぎ、フロロの変態みが観たくなる人
ホームの端から端まで歩いたけど、別に今日の私は切羽詰まってたわけではない。ないが、もし切羽詰まった人が先頭車両から降りて、ホームの最後尾に申し訳程度に一ヶ所しかおトイレがないとなったら、って想像しないのか?設計段階で
自分では完璧に出来ていたと思ってた仕事でミスがあった、悔しい、でもなぜかそんなにイヤじゃない。二重チェック体制で安心してミスできていたからかもしれないし。満点目指してたゲームで失点したかのような、次は勝つぞみたいな、そんな感じの気分
何かしら理不尽な怒られかたで怒られて泣くと、某親戚に「そうやって泣くのはこっちが悪いみたいじゃない!?失礼だね!」と更に追い撃ちかけられて益々涙が止まらなくてホントしんどかったあの頃。別にそんな計算で泣いてた訳じゃないよ、本当に本当に悲しくてつらくて泣いてたのでした。(昔の話)
昨日どころか一時間前の私と今の私が同じヒトって感じがしないときあるんだけど、一応、生まれてこのかた同じ身体を使って同じ心臓で稼働してると思ってるし、どうしても私の頭の後ろは鏡がないと自分では観られない、面白い
小説でも映画の脚本でも、割と私が好きなストーリーというのは、…現実には有り得ない「もしも何々だったら」の設定によって、登場人物のとてもリアルな反応の数々が作用し合って、結果的に彼ら一人一人が目から鱗を落としまくって、補い合って癒し合うことになるやつ
赤子幼児児童思春期成長青年壮年老年退化と、ゆるゆると行く大多数の人に比べると、時間の流れる速さがめっちゃ変わってるから、そうだよねアルジャーノンに花束をのチャーリィから観る観られるそういう独特の景色が独特でドラマを産み出すわけなんだねって思った
白い王子様(優しそうだし本当に優しいが哀しみを隠している)と黒い王子様(ひねくれてるし優しそうではないが実は優しいし哀しみを隠している)が出てくるお話があるとしたら、私は大抵、黒いほうを気に入ってしまうんだけども…どうしてですか?
あと、ほぼ同じ気持ちから派生してる願望として「親に自分の死を見せたくないにも関わらず、『私は人生に概ね満足して怖くなく痛くなくサラッと終わりました』と親に知らせたいと望む」
要するに、しんどくなく、つらくなく、でも、ある程度手応えのあるような役割を務めることができ、且つ、人の幸せの役に立つことがごくささやかにでも少しは出来ている実感があること、これが私の望む暮らしなんだろうと思う
黙々と単調な作業中も「この調子で終業時刻までつつがなく過ごせたらお金が貰える」の気持ちと「私の今日の働きは巡りめぐって誰かの幸せの役に立ってる?必ず役に立ってるよね?」の気持ちがある。仮に誰の何の役にも立たない仕事(有り得ない)だとしても貰えるお金を誰かの役に立てられると
世の中には様々な商品やサービスがあって、様々な作業が発生していて、そこに従事する多くの一人一人がいて、その中の一人になっている私は、決して替えが効かない人員ではないし、私がいなくても、私のような程度の誰かがそれを埋めるけど、でも就業中は私の替わりはいない、…という状態、これが好き
大学で学問に勤しむことができるということに真に喜びを感じる人だけが大学に通う状態、が理想だと思う。でも実際は、大学卒業しておかないと就職に不利になりそうだという現実的な懸念に動かされ、自分の中で「これなら学んでやってもいいかな」と思う分野を選んで進学したという気持ちの人も多いかと
命に関わるような間違いは避けていかなきゃいけないが、ちょっと失敗したって、自分かまたは誰かの学びになるんだから、それもまたある意味人助けになったと思おう/むしろ、間違いを隠蔽しようとすることが人に多大な迷惑を拡げる
子供の人生が順風満帆とんとん拍子でいることをあまりにも望みすぎる人、邪魔な要素を予め取り除こうとする人、って、子供の生きる力のことを信用してはないんだろう。というか子供のことを人扱いしてないからかも。人生の無駄を許さない人。親族にそういうタイプの人間がいた。息苦しさがあった
子供の重要な、例えば入試、例えば最終面接、には「体調万全でアクシデントもなく無事に済みますよう」と激しく祈ってきたけど、最近は「一度きりと思える本番も実は一度きりってわけでもない。そこで何か不本意があっても、そこから何か学ぶ仕組みだろう」ってどこか気楽に応援する気持ちになれた
ハイローのルードボーイズとか、ルパンのカリオストロの城とか、未来少年コナンのインダストリアでのあれとか、そういう、海抜高いとこから底のほうまで縦に目一杯使った戦いを観るのって、割と好きなんだ(でも私自身は普段から高所苦手)
誰かが何かのジャンルの面白さ素敵さに突然気付いてはまって楽しくなってる様子、を見るのは、とても好きです
定期購入してる福島産のお米、美味しいし、これとはまた別の福島の農家さんのお米も買って食べたらこれもとても美味しいです。NHKの「21人の輪」に登場した龍之介くんとお父さんのように、きっと並大抵ならぬ苦労をなさって安全性と美味しさを届けてくれたんだと思って今日も炊飯します(2018
自分の窮状を人に言えない場合の主な理由人に心配をかけたくない・自分に人が遠慮して幸せを表すのを控えてしまうかもしれないと思うと申し訳ない・よく分からない人に干渉されたくない・優しい人が救いの手をくれても、受け入れられるか分からないから、拒否する事態を予め防ぎたい等"
最近行ったことのある料理店では、入店してからずっと、BGMに同じ曲が何回もリピートで流れていた。でも食べてる間にいつのまにか別の曲に変わってて、いつ変わったのか分からないからそれを確かめるためにまた行きたいお店(2018)
だからあんまり敢えて「超越しよう」とか「ヒトを超えよう」とかしなくていいんじゃないかなあ、ヒトでいる時間にはとことんヒトをやっていればいいんじゃないかと。そういう時間なんだから集中してていいと思う
この世で人間っていう夢を見る為にこの世で人間をやってるんだとしたら、夢見てる間は、醒めた後のことは気にしなくても良いって思えてきた。っていうか醒めた後のことなんて考えないでこの夢(「人間」)に没頭したほうがより効果的かも(ただ、つらくなり過ぎたら夢だと思い出すのも良いか)
若い頃よりも時間の過ぎ去る速さが速過ぎ。去年なんてついこないだ。この調子で行くと私はあと十年後位には「還暦?そんなの全然、あっという間」って思ってるし、五十年後位には「一世紀なんて束の間」とか思ってるし、体感時間に含ませる実際の時間がどんどん長くなる、しまいには永遠も一瞬になる
自分の枠を少しだけでも超える為に勇気を出した人達を観た…例えば目元を見せてモデルを務めたまややも、式典中に反対派の意見に言及した修さんも、ドライヤーをかき集めた月海も。蔵之介に背中を押されて蔵之介の背中を押してくれる皆。まやや綺麗。初登場のノムさんイメージピッタリ(海月姫)
子は親を選べなかった、という想像のほうが好き。というか救われる気がする
通りすがりの幼稚園児くらいのお子さんが、めっちゃ嬉しそうに笑いながら万歳しながら歩いてたのを見て、とても嬉しかった。それで私は連れと「たいていの人、大人になると表通りの他人の前ではしゃいだり大声で笑いながら小躍りしながら移動したりはしなくなるけど、なぜなんだろう」って語り合った
「黒博物館ゴースト&レディ」(藤田和日郎)何て皮肉で幸せな関係なんだろう…○○○○の依頼人と引受人が互いに互いの○○○○○になったりするの、ありなんだね、良いんだね~。あのラスト、超好き。ゴースト愛しい https://t.co/4V1okeKiuT"
母などが、祖母によく「楽しみなんてない。貴方のことだけ。」と言われて呪縛だった、親の意に逆らえなかった、と言ってた。私も祖母には逆らい難かった。子や孫の生き方をあれこれ考える他になんの趣味も持っていなくて持とうともしない彼女の存在が重くて
未来少年コナン大好きです。名作です。カリオストロみがあります。モンスリーちゃんのダイスへのツンデレが最高に可愛いしコナン君は信じられないほど身体能力と精神力が強しラナが健気で可愛いです
人生、肉体と意識が一緒になって催す舞台だとしたら、その演じられたものを見て誰かが何か感じて受け継ぐことがあるだけで、終われば舞台装置も役者も解散してどっかへ行く、でも舞台の記憶は誰かの中に残る
肉体って死ぬと他の物質に形が変わるだけで構成する物質は無くならない、のは分かるけど、意識がどうなるかは知らない…から想像するんだけど、無くなることなく形が変わるとしたら、それは意識と呼べないね。無くならないけど形が変わった肉体がもう肉体ではないのと同様、意識じゃないね最早
(『四つの約束』読後感想で)「何事をも、自分のこととして受け取らない」ことの大切さ。…そうだね…誰かに何か凹むようなことをされたとしても、この心構えあればなんとか生きられそうだな
私が宇宙のことを考えると哀しくなる理由は、宇宙の時間と空間が大き過ぎてヒトの手に負えないのを思い知らされることと、こんな手に負えないものの中で、手に負えないもののことを考えられるヒトに生まれておきながら、それどころじゃない日常のあれやこれやの悩みばかり頭に詰まってしまってること
母に感謝してるのは、私が私のことをまあ好きでいられるように私を育ててくれたことだな…
私が自分の肌の上の常在菌のことにはあまり関心がない位には地球は普段は人類のこと気に止めてないかも
神様がいるかいないか…私は、いると思うっていうか、何を神様と呼ぶかだと思ってる。この世がこんな風に「在る」そのこと自体を神様って呼んでもいいし(私が自分でどうにもできないしそのわけも分からないこと)
二次元の世界と三次元の世界のことで想像に耽る時にいつも、ドラマ「泣くな、はらちゃん」を思い出す人になってしまった。あの長瀬さんと麻生さん、とても良い。切なくて可愛いんだよ~それと、ドラマを踏まえて聴く主題歌「リリック」(TOKIO)めっちゃ好き。超絶好き。
「アンチ」については、私はもう仕方がないと思う、ていうか、興味ないものを興味ないが故によく知らないんだろうし嫌いはきらいなんだから仕方がない…それより「我はファンです」という人の一部が、他者攻撃によって本末転倒なことをやってしまう例、それが不思議だ
人気アイドルと事務所はなぜか叩いても大丈夫なものと思われているのか、ともすると必要以上に貶される。人気というのは降って涌くものではなく地道に各人が獲得したもので、またそれを育てる人々も並みならぬ努力をしているし、そういった人気タレントが発信することで何かが世に広まる。それも仕事
被害者だとアピールすることで別な風評被害を生む仕組み、色々な分野で見かける
でもやっぱり…「美味しいものもどうせ食べたらすぐなくなるんだから、最初から食べなくても同じだ」とは全然思えない
痛くて苦しいことは、無いに越したことはないから、痛覚なんて無きゃいいと思ったりする。けど、痛覚を無くすことに成功したら、自分や他人を痛めることに躊躇わなくなりがちで、結果として人は滅ぶのかも
何年もかけて学校で教わっていることを、未来では脳に直接のデータダウンロードで数時間のうちに済んでしまうようになるのだろうか。だとしたら、自分が自分である意味があまりないし、生きるモチベも減退しそうだな…そうやって滅ぶのかも
解散させられた、冷遇された、圧力かけられた、などの隠謀論を作って信じて被害者的な立ち位置を自分の推しに当て嵌め、勝手に敵を想定して他者を下げたり、そういう人々が見受けられるけど…そういうのは推しを意志のあるヒト扱いしてない点で推しにも失礼だしネガキャンにしかなってないよと思う
HiGH&LOWの、全員が主役というコンセプト、これって趣深い。私にとってはあの人やあの人のことが主役とはなかなか思えないと感じても、別の視聴者の別の視点から観たら、また別のキャストが主役たり得る…観る人の数だけ主役が生じるんだなあ、って思った(2018.1)
人が頑張って作った何かを、また別の誰かが好きになってそれを楽しみにしているのを見ると、ヒトで良かったと思うんだ、いつも
恋する輪廻オーム・シャンティ・オーム、ミュージックシーンを繰返し観てて飽きない。ヒロインのシャンティプリヤ、困惑したようなだけど強くて可愛い眉、すっごく好き。オーム役の俳優さんも可笑しみと爽やかさがあってとても良い
予定日にもまだ遠いのに急に産気付くケース多々ある、そもそも予定日だって便宜上決めてあっても、その目安になったその時の生理周期が絶対的なものでもないし。ってことをもっと妊婦さん以外の人も知ってたほうがいい
こうしてインターネットを使えるのはインフラがきちんとしてるからだし、安全に国の批判ができるのも、この国の仕組みが安全にものを言えるようにしてくれてるからだから。国ってひとくちに言うけど国は私達だから。法のもとでの選挙の結果が国、各自で自分のことを考えて投票すれば結果的にOK
っていうか、現状、こちらから戦争仕掛ける理由なんてないし平和の為には今はしっかり防衛、おうちの鍵をかけて、近隣でおかしな動きがあったら警察の力に頼るしかないもの。無抵抗でいれば攻められることはないなんてことはない
良いねえ、元のオリジナルを作った人の知るよしもないところで誰かがその言の葉から何かを受け取って何か出して、また誰かの心に種を蒔いたりするのがとても良い
心身を壊して本末転倒にならない程度の「無理」の範囲を、見極めながら頑張る、って難しいな
好きな人が、(あくまでもお芝居の中で)すごい可哀想な目にあっているのを観るの、好き
当アカウントは、子供の頃から受けていた学校教育の反動で、「国旗と国歌にアレルギーを持つ人」へのアレルギーを持っています。ご注意ください
現状に適切に対応できる憲法に更新できるための智恵を出し合える(ということがタブー視されない)世の中になるといいなあ、と思う
喩えていうと、お部屋の賃貸料を払っている人と物件を買った人とでは管理の話し合いに参加できる権限が違ってないとおかしい、ってことに似てると思う。やはり参政権は国籍のあるところで持つもの。
やはりTwitterは、こうやって発作のように起こる「私はこれが好き!」を気軽に言える場であることが本当に好き
起きるなり急にBJに逢いたくなって、以前プレゼントしてもらったブラック・ジャック画集(BJ生誕25周年の。秋田書店)をめくって感嘆して落ち着いたのだった。この画集、素晴らしいんだよ。突然BJに逢いたくなる発作を持つ方々に推奨。
複数ジャンルにまたがったアカウントのこと考えると、蛇行してカーブのところに三日月湖を残しながら流れる川を思い浮かべるの、私だけではないはず。
持ちたい記憶だけを持ったまま、あれとかこれとかのめんどくささだけをリセットして生きたいって思うんだけど、本当にみんながみんなそれやっちゃったら世の相互扶助が、回んない。誰かのめんどくささが私の生存を成り立たせてくれてるように、私のめんどくささは誰かのことを生かしてるらしい
よく、悩みがあると食事も喉を通らないとか言う、ホントにそうだ。しかも通らないのは食事だけではない。物事全部にたいしてシャットアウトしてゆく勝手に。五感がどこもかしこも。
心配事がピークに達すると、何を見てもちゃんと目にはいってこない、その心配事が少しずつほぐれるにつれて視界がまた復活してくる、外界を感じとる余裕が戻ってくる
デスノート夜神月があんなんなってる終わりのほうで、高校生の頃の可愛い目をした夜神くんの回想みたいなコマが挟まれる頁もとても好きだし、ホント最終巻大好き
タイムラインを読んでいて皆さんのアイコンやユーザー名を見ていると、私にはきっと思い付かない名前、とか、私にはその発想はなかったな、という絵や写真、が並んでいて、世界を私の知らないところで私じゃない人達が作ったんですねという証拠がここにある…みたいに胸が詰まってくる
(巨悪は眠らせない)面白かった。名取裕子さん貫禄、演技すごく良かったし、玉木宏さんの検事も良い…ビシッとしつつも葛藤の表情に引き込まれ。謎解きもドキドキ。政治上の正しさと法律上の正しさ、どこに着地するのか固唾飲んで観てて、なるほどそうなるのかとひとつの納得感(2017.10)
(ナラタージュ)優しさ臆病さが却って人を傷つけてるのもよくよくわかってるんだと思うんだけど、理屈じゃなく必要とされて必要としてたんだよね…って泣いて観ていた。過去は捨てられないけど大切なものとして見られるようになったし動き出せるようになった(良い)(2017)
家名への拘りよりも民の幸せを見るほうが大事だという直虎は心穏やかに落ち着いてるし、民にとって優しい、実質本当の君主だし、もう井伊であろうがなかろうが構わないや。…と思う一方で、私は虎松のこと五輪選手を応援するかのように「ガンバレ井伊!」って気持ちで観てゆくだろう(2017.10)
いやな職場でも長く働ける人=スルースキルが高い人?そのスキルって食べていくためには必要かもしれないけど人としてどうかと言われると、また違う。何を許せて何を許せないか、というのは「生きやすさ」とはまた別な、なんかその人なりの「人の優しさとはこれ」という感受性にもよるし
ところで、見た目が透明な水なのに、飲んだらミルクティーなあの商品のこと思ってた。技術の進歩で、私の五感の知ってる世界からどんどん実際の外界が離れていくの、面白いし怖い。もうなにも信じられないや
なんのしがらみもなく、言葉を発する人のことを好きとか嫌いとかそういうことに関係なく、ただ、言葉、感じ方、考え方、だけを見る見られる、ってことは実際にはとても難しい。言葉も感じ方も考え方もその人の纏ってきた先天後天的ないろいろから作られるし人との関係から生まれるからかな
お釈迦様、自分が誰かを好きで(嫌いで)自分が誰かに好かれている(嫌われている)…っていうような状態を解除した上で、そこに何が見えるのか見てみたかったのかなあ。って(Twitterでいうとフォローフォロワー数0の感じ?ちょっと違うか…)
プリンセスチュチュの世界が好きな人にも嵐のMonsterのMVを観て欲しい。通じるものがあると思う
ムスカもいいんだけど、悪役として私がより一層好きなのはレプカ(未来少年コナン)。レプカ可愛いよ。逃げ出そうとする時に咄嗟にまとめる荷物の中身などに注目してください。あとコナンがレプカをちょっと助けようと思って手を差し伸べちゃう場面があるんだけど、それをレプカが掴もうとするの可愛い
ジブリアニメに出てくる女の子は、みんな家事能力が当たり前のように高くて、見ていて(個人的に)つらくなってくる(のは私だけのような気がする)
パジャマに限らず、ウエストの紐が奥に引っ込んでしまわないようになってて欲しい
推しキャラが生きてる保証がない映画の予告やあらすじなど、怖くてとても読みに行く勇気はない/もうスネイプや成瀬さんや政次みたいに好きな人が息絶える場面はホント観たくない
私がいつまでも教室に残され必死でお腹の限界に挑まされている(そうなると美味しさも分からない)間に、大柄な児童はその給食をあっという間に平らげ、他人のまで欲しそうにしていて、世の不条理を感じた思い出(登校拒否寸前だった)
学校給食で完食を強要した教諭のことが話題になってましたが、体調やアレルギーも体格も胃袋の大きさも消化能力も個人によって違うこと、それを「食育」で知る機会があっても良いのでは。なので一律同じ量を完食することに拘らず、自分の適量で自分で取り分ける仕組みも良いと思った…実現化難しいかな
ユーザーのそれぞれに、なぜ、いつ、Twitterを始めたのかという理由があるのを考えると、ちょっと気が遠くなってくる。人のそれぞれに生まれた日があるとか、それぞれに名前や記憶や歴史があるとか、そういうこと真面目に考えると、圧倒される
何の意味があるのか自分でもよくわからないことを継続しているけど、生きてる間に自分の生きてる意味がヒト一人一人の頭に分かるようには出来てなくて、全体を見通す存在からしかその絵は把握できないんだろうからまあ、意味わからなくてもいっか
今までに自分が寝てる間にみた夢が、もし記憶消えなくて全部どっかに録画されてたら、取り出してリピートしたいやつがそうとう何本かあるんだ。それだけで残り寿命使えそう。(二度と見たくない忘れたい夢もたくさんあるけど)
とてもとても自分が何なのかを考えてる時がある。と思えば、自分とかホントどうでもいいくらい外のいろいろなものに心奪われて過ごしてる時がある。どっちが楽しいかっていうと、どちらにもしんどい場合と楽しい場合がその時々で色々あるなあ
銀河鉄道999は、宇宙服など着なくても気軽に駅のホームから乗れば、汽車が地面を離れて遠くなって水平線が丸くなって地球が遠ざかる景色を車窓から見られるっていう、あの絵を観たとき、本当にわくわくした。ゴダイゴのテイキングオフで泣けてた
そして教団はたいして面白くない書籍何冊も買わせてお金を出させるんじゃなくて、こっちにお金をどんどんくれたら心穏やかに自由になれるのでお金下さいと思った
子供の頃に身内がいっとき洗脳されてた宗教団体、やたらに現世利益を強調して、なにかというとすぐ体験談作文で、信心のお蔭でもたらされた病気の治癒とか仕事の成功とか聞かされたけども。そういうのじゃないんだよな…ATMみたいな便利な信仰とかじゃないもっとなにか心の有り様を…
喧嘩の時に楽器や化粧を忘れない芸能スピリッツがある達磨一家、面白い
ノボルが過去は燃やしたっていうのがとても悲しい。素敵なことだってあったはずなのに(HiGH&LOW)
「夢=天職」ではない、楽しいか楽しくないかで仕事を決めていい、っていう考え方、目から鱗かも。貝塚くん良いなあ/言葉にすること大切だわ…。泣けた。大切だと思うものを大切にして生きることに懸命で可愛い悦子に心動かされてく人達に温まった。(DX校閲ガール)
紙媒体な雑誌を手に取ってわくわくしたあの気持ちを愛してるんだね河野悦子。なくしたくないんだね。新しく合理的にすることで切り捨てられるそれを/恋の問題が解決したら、後半は暗号謎解きミステリーになってる(DX校閲ガール) 
自分の推しが幼児じゃない限り、いい大人の人が自分で決めてたことなんだから、「きっと圧力受けてやりたいこともできずにカワイソウ」なんて可哀想がるの、逆に結構失礼な想像だと思うんだよね。子供扱いしてる
自然の欲求が起こるのを待つのもいいけど、敢えて自分に刺激を与えてみるとそれを切っ掛けに何かが良い方向に行くことがあるね!ってことを、おトイレに行きたくなかったけど座ってウォシュレット使ったら素晴らしかったのでつくづく感じてウォシュレットは良い。素晴らしかったです
いろいろな思いをしてきたり、してる、これとかあれとかにも「意味がある」「大丈夫」って言ってもらえると涙出そうに安心する。ありがとう
井之頭五郎さんが、ネットで検索して調べるんじゃなくて、自分の感覚でお店の佇まいや暖簾の雰囲気を見て美味しい店か判断して入っていくのがカッコいい
(可愛い松重さん目当てに録画した孤独のグルメ傑作選で出てきた大阪のお好み焼き定食を観て思い出した)炭水化物をご飯のおかずにするという文化を私が食卓に取り入れるなら、粉抜きのお好み焼きだと思い、最近気に入って作るのは、葱やニラを卵でとじてお好み焼き的なソースをかけたもの。ご飯に合う
たぶん私は、いえのなかを片付けると「これでいつ死んでも大丈夫」ってなって、これでいつ死んでも大丈夫って思えることで生き生きして長生きしそうだ
ところでMonster歌詞「見かけじゃなくて心を抱いて」何いってんの貴方達イケメンじゃん、って思うけど、そっか違う、これは、怪物の中の綺麗で可愛い心(不可視)を美形アイドル(可視)によって表現してる…アイドルの正しい仕事だと解釈した(目に見えない仏心を仏像偶像で表すような感じ)
むっちゃくちゃ可笑しかった…デザインや色使いがもう、いちいちカッコいい。ミニオン可愛い。兄弟仲良しになる微笑ましい。アグネス超可愛い。バルタザール80年代にどっぷり漬かってる度合いが私にはとても楽しい。とにかく笑った口角がずっと下がらず観られる映画(怪盗グルーのミニオン大脱走)
仮に世界で一番好きな相手と結婚したとしても、一日中同じ部屋に居て全く独りの時間がないくらいなら、一生涯独りでいるほうを選ぶわ
ファインディングネバーランド、歌もすごいし踊りもすごく良いのだけれど、演出もホント素敵。夢の世界。あと子役の方々も上手過ぎで彼らが何か喋るたびに自動的に涙、字幕読むためすぐ拭く必要。ネバーランドがどこか外にあるんではないんだ皆の心にそれぞれあると思う。現実と向き合う為の子供心
私が誰かのツイートを見てそれを好きと思うとき、ツイ主の年代はともかく、性別はほぼほぼ意識されない。このことをつくづく考えると、人間て男女の違いって実はそんなにないのではと思ってしまう。男の人に女の人に社会が期待する役割はそれぞれ違うかも知れない、というのはあるけど
Twitterで、ああこの人のツイート好きだなと思う。その人が男性だったり女性だったりどちらか分からなかったりする。若いのか年輩なのかも分からなかったりする。ただ、ツイートが好き
おとわ、他人のために生きることしかしたいことが無かったというか、自分のためだけにこう生きたい、というような発想自体がなかったように見える。南渓さんが「もういい」って言って諸々降ろさせてあげたくなるような。子供に還らせてあげたくなるような人(2017)
旅館に行くと夕食が用意されていた。これすなわち素晴らしい(夕食の献立を考えなくて済む。夕食のための買い物をしなくて済む。夕食作りの時間を考慮して動く必要がない。夕食後の後片付けが要らない。)夢のような時間だった(2017)
タケコプターって、あの小さなプロペラが回るから飛べるのではないと私は思ってる。きっとそういう物理じゃなく、他の何かの凄い力のせいで飛べるんだけど、分かりやすいように竹トンボのようなプロペラが一応ポーズとして回ってみせてるんだ…と思うのね
みたらし団子の甘辛いたれの美味しさは人類の宝。
お釈迦様がいまいたら、きっと識字率の低い国に行って色んな子供たちのことを撫でたりさすったりしていそう。そこはインターネット環境なさそう、Twitterはしてなさそう
地下鉄路線表示が色分けだけじゃなく頭文字併記になったとき、GJだと思ったもん(カラーバリアフリー)
小野政次追悼緊急特盤『鶴のうた』初回盤届き、聴。フォトブックの政次の表情、良い。あの時この時の彼の人生が偲ばれ泣きそう。政次の朗読沁みるし次郎法師の美しい謡い経も。音楽、素晴らしい(おんな城主直虎)(2017.9)
抵抗できない人間に暴力を振るうという行いは、何がなんでもやめてほしい/ってタイムマシンがあったら、これを言いに行きたい対象が何人か居る。けど実際タイムマシンがあっても私が何かの権力を持ってないと抑止できないだろう、と思うともうやりきれない気持ち
映画でもドラマでもそうだけど、なにかささやかなきっかけによって、今まで「見ていたはずなのに見ていなかった」事柄の魅力が急に目の前にくっきり浮き出て来ることがあるから、油断できない
HiGH&LOWというジャンルの入り口にほんの僅かに触れたことによって、E-girlsさんたちの可愛らしさが私のアンテナに物凄く受信された。なんならどのチームのより苺美瑠狂テーマのSTRAWBERRYサディスティックのMVが一番好きになったという人がここにいてもいいでしょ
辛かったことがあったんだけど逃げられないでいた。私はね。昔。逃げたらそのあと私の大切な人々が代わりにどうなるか、火を見るより明らかだったから。自分だけじゃなく逃がしたい人々がいて、でも逃げれば済むことではなかった
ちょっと思い付いた感想だけどブログに書くほどでもないようなこと、たとえば「ドラマのサトラレで吉川先生の飼っている金魚の名前がキャロラインってよくよく考えたらめちゃめちゃ可愛いじゃん」みたいなこと。それをツイートという形でこの世に置いておくの、それをいつか誰かが見つける。楽しい
最初はイヤな奴で邪魔な人だったのに、あとからなんとなく可愛くなって、最後は主人公に味方してくる脇役、のカテゴリ内では、猿渡五郎、私のなかでスルーできない人物になってきた。
またあの不思議な地域のことを考えてる。SもWもOもRもDもそれぞれがむちゃくちゃ独自の文化を持っててカラーが互いに混じり合わない、あの狭い場所で。国境のようなものがあるのかどうか
Mr.ビーンで好きなのは、ビーンが教会で眠すぎて讃美歌歌う合間に床に頭付けそうになる回、ビーンがスーパーで包丁の切れ味を確かめる為に懐から魚を出す回、ダンスホールビーンの彼女がビーンに見せつけるようにわざと他の男の人と踊ったりする回、など枚挙にいとまがない
私が観ていたドラマのことなんですけど、原作の面白さを生かして作られていながら原作既読者に先を読ませず原作ファンにもミステリ作家さんにも褒められ、いまだに毎週のように録画を1話ずつ順に鑑賞して盛り上がられているっていうの凄いと思う(貴族探偵)(2017)
何かが主流になり多くの人が倣う→それに対して、それってどうなのという疑問を呈する→それに対して…の繰返しの中でだんだんどこか良いところに近付いて行ってると思いたいけど、どこら辺を歩いてるのか分からなくて面倒になる
ブラック・ジャック、手塚治虫さんの原作を読んでると、この人は国家権力を悪者にし過ぎじゃない?とか、その思想って今にして思うとどうよ…ってモヤモヤすることはある。でも当時の作者が世の中に「それってどうよ…」と思いながら描いたものがそこにある
過去、何かにマイナスイメージを持って、今のそれをよく見ない知らないまま、マイナスイメージに同調する言葉を見て、マイナスイメージは人々の中で固定のものになっていく。ひとたびマイナスイメージを持たれたら、覆すのが難しい。そんなことをつくづく思った
TVでの映画放送、重要な場面や凄い場面をカットしなきゃならないなら、最初から「これは宣伝用のダイジェスト版」とか書いておいて欲しい
ピンク・レディー、すんでのところで白い風船って名前になっちゃうところだったんだね~(ドラマ阿久悠物語 2017.8)
接する側は彼女に対する心理カウンセラーのような役割を担わざるを得なかった/でもどうなのかな…彼女の中に、子や孫のこと「生きてくれてるだけで有り難う」という性質の愛もあったんじゃないかな、きっと…。それを覆い隠す主義が強すぎただけで、あるにはあったと思うんだよね
Aを支援する企画に対して「世界にはAだけじゃなくBもCもある、それはどうなんだ(主旨)」と言う人を見る。いやそんなにそれに期待のせちゃう?とりあえずAに支援することには賛同だけど?と思うなどしたこの頃
ハイローザム2。スルーしなくて良かった。うっかりオリンピックを観に行っちゃったような快感。アクションが凄いという言葉では足りない、とんでもないもの観た。もう誰を推していいかわかんない。人間各々面白いし悪役の人々も面白いし。一人一人の背景に注目することで面白さが増す(2017.8)
自分が興味ないものに対して自分の中で興味ないと思ってるのは別にいいけど、ネットで世界に向かってわざわざ「観ない」とか「興味ない」とか叫ぶことで誰が喜ぶんだろうと思う
とうとうXデーが来てしまったのか。遺される人々が彼をどう受け止めてどのように進むのか、今後は彼の気持ちで見続けようと思うし、彼のことを少しでも覚えてる幼い人々がどのように成長するのか見続けようと思う(おんな城主直虎)(2017.8.20)
お茶碗を洗いながら考えてたんだけど、なんでこの世があったり生まれたり死んだりするのかとか、全容を知らせてもらってないまま一生を終わって大丈夫なもんなのかな(2017.8)
脳みそってすごいよね、好きな人の歌声などをちゃんと再現してくれる
辞める意思を店長に伝えることができた!このことを考えると泣きそうだったけど、ちゃんとできた!」良かったね、案ずるより産むが易しだったでしょ。ということで昨夜はおめでとうの気持ちで祝杯(未成年なのでお茶で)だった(2017)
警察が拳銃という飛び道具を持ってることについて「人殺しができる」とかあまり言わないのに、日本が防衛のことを現実的に考えようとすると「戦争ができる国になる」という人がいるけど何だろうね。できるけどやらないやりたくない当たり前。警察だって別に殺したくて拳銃持ってる訳じゃない
とあるレアポケモンが期間限定で出現する、とある場所に行っていたのだけれど、その出現地点に向かって人波が向かう中にいて、ああこの人達みんな頭の中、あのポケモンのこと考えてるんだ、互いに言葉は交わさなくてもあのポケモンのこと考えてるっていう共通項可愛い!って思った。(2017)
そして娘に話したこと。バイトを辞めることが自分の中で決まってるなら、上司に早目にその旨を伝えなさいよと。仕事は申し込むのも経験、続けるのも経験、でも、辞めることも経験だからねと。辞めることにまつわる諸々が億劫、でも頑張って辞める経験って意味があると思う(2017)
理想の結婚相手ってものがあるとしたら、相手のことを全面的に受け入れられる人などではなく、相手のことを全面的に受け入れられなくても気にしない、そして相手に全面的に受け入れられなくても気にならない、水か何かのような人。ってことになる
私のことを何でも肯定して受け入れてくれる人とでなければ、一緒に暮らしたくないんだと思う。本当は。でもそんな人類がこの世にいるわけないし、私だって、この人のことなら何でも肯定して受け入れられるという生身の人間がこの世にいるとは思えない。結婚が幸せであるとは私からは言えない
振り返れば私はまずいことをやってた。訳を言わないと分からないでしょ?と、子供の言葉でとことん説明させようとしていた。あれは今思うと酷いな。説明などできないだろうに。親の私が納得したいだけだったのかも
難しいな。ちっちゃい子のやることに理由が何かしらあっても、自分でも言葉で説明できない、でも大人にも分からない理由が、説明不能なだけで、あるはあると思うんだけどな。あるはあるんだろうなと推測するにとどめる、でも無理にきちんと説明させようとしない、ってことかな
予想以上の反応に、何かつらいことがあるのか、辞めてもいいと思うよ、と、つい言ってしまったけど、ううん!大丈夫!行ってきます!って笑って家を出ていったので、我が子ながら、奉りたくなった(2017)
(バイトにいく娘)これと言って変わった様子はなく、めんどくさいなあ出掛けるの、という風情だけだったので、「本当にいつも頑張ってるよね…私にはできないな。きっとお客さんは、真面目な店員さんだなと内心思ってると思うよ」って言ったら、娘の目にみるみる涙が溜まっていった(2017)
子供には、偉くなってほしいとか私を助けてほしいとか思ってない案外ね。とにかく将来は、遊べるようになればいいねと思ってしまう。これは私の勝手な願望であり
これまでの様々なめんどくさいことは、全て、いつか好きなように遊ぶためだった
好きなTV番組や映画の一幕を、何度も何度も思い浮かべて時間を過ごす。なんてことは、確かに一銭にもならないし、特に目に見える現世の利益にはならないよ。役に立つか立たないかで言えば立たない。楽しいんだからそれでいい。なのに、ただ楽しいだけでは勿体無いように思う人は何故
趣味について、例えば子供や配偶者や親しい人の趣味について、それが役に立つか立たないかでジャッジする人々が世にいるけども。お金にならない、仕事に結び付かない、どうでもいい。役に立とうが立つまいが良い。人生がどのみち役に立たない。役に立つかどうかは人智の及ぶものではないので
自分の頭や心のなかにある感動の記憶が、自分が死ぬと無くなる(断定はできないけど多分無くなる)ということ、これがとてもかなしい。私は最近このことをとても残念に思う
理不尽な目に遭ってる人に言いたいのは「日記や手紙にはポエムじゃなく具体的証拠になる記録を細かく書いて。複数の人の耳に入れるべく早く何でも喋っておいて」と/学校のなかに防犯カメラがあっても良いんじゃないだろうか
昔の人は何故あんなに家の存続や子孫繁栄を強く願ってんのか、やはりそれは今より寿命が短かったからだと思う
天体、遠くで見てるのが好き。あんまり、近寄りたくはない…おやすみ
なぜだろう、私のこの人生で経験のないことって他にたくさんあるのに。たとえばドラクエやったことないしスカイダイビングしたことないし紐パンツ穿いたことないし富士山頂に登ったことない。そんなひとつに過ぎない、恋人の有無。なのにこれだけ何だか忘れ物のような気がしてしまう
昔の思い出話もした。小さい頃に一緒にいった博物館のことなど。「連れてった場所を子供が覚えていないのって、親としてはどうなの?」と娘に訊かれたから「その時その時に子供の脳や心に何かの栄養になればいいんで、いいんだ。たとえば蜜柑食べてビタミン摂ってもその日限りだけど意味あるでしょ」
ところで、もしかしたら私の「好き」「嫌い」の言葉の意味の解釈も、人様のそれとはニュアンス違うかも。私の「好き」には色々な彩があり種類がある、でも私の「嫌い」には黒一色、いや色ですらない。光の無い、拒絶一辺倒、いや拒絶以上に抹消したい対象を意味する。余程のことなのだった。
胸中の何もかもをオープンに見せあう必要はないなあ、と思うとき、私の中に浮かんできてよく喩えに使いたくなるのは「生き物は食べれば出すものと知っているし、その事実を当たり前に受容してはいるが、しかしおトイレのドアは閉めておいて欲しい、そのほうが互いに快いから」ってこと
もしかしたら、人の心を信じていたい陽の光みたいなおとわで居て欲しくて、政次はその分、暗く黒いものを引き受けているのかも、と思った。そんな政次がおとわに「俺を信じろ」っていうのがもう、本当に好き(2017.7おんな城主直虎)
ああどうせ○○なんだろうな、とスルーしているものが多々あるんだと思うまだまだこの世
プリンセスチュチュには、絵柄等の雰囲気で、ああこれはちっちゃい女の子ターゲットのやつか、と騙される人が相当いると思う。正直私も途中までそう思ってたんだけど…想像以上に闇だったし、主人公らが突き付けられる究極の選択が哲学だし、あの選び取った道を「そう来たか!」って涙なしに見られない
何々はこんな風に悪そうなイメージ、だからきっといかにもそんな悪いことをやっていそうだろう…みたいな変な願望?のようなものが、デマも拡げていくのかな。
朝はこの世の儚さを思い出す。なぜなら脳が直前まで見ていた夢の中のことが、起きてみたら全然意味もわからないし、どっかへ消えちゃったからだよ
私の保存したデータが消えることは、体がなくなることくらい寂しい。データが消えると人の作った世界が消えちゃう。そのあと何が残るかっていうと、私が関心を払わなかった勝手に存在する自然とか宇宙とかが勝手に残るけど、それって私と関係ある?…って程には生き物感覚を忘れてる
ありとあらゆる種類の大量の情報をコンパクトな形で世界の隅々にまで届けられるデジタル化と、それを支える電力、私が生きていられるのはこれのお蔭だし、筋肉の弱い人も歳とった人も、電気によって心身ともに生かされる場面が多々ある
電力は命と生き甲斐を支えてる
家族の写真も、家族の作品を収めた画像も、好きな曲や映像コンテンツも、好きな人の言葉も、自分の思いを綴った呟きや日記も、銀行口座残高も、悉くデジタル情報で保存してると、土の上というより電気の上に立ってる気持ち。電気がなくなったら全てお終い感、が強い。地球滅亡の前に電気の消滅が怖い
ネット用語等、今更、人様にに訊くのがなんとなく恥ずかしくて訊けなくて、かといって今すぐ検索で調べたいほどでもないから、そのうち分かるだろうと放置していること、が積もり積もり、それを知らなくてもなんとなく渡れてしまっているネットの海
多分だけど私は、こんな何も成し遂げてない私が、考えたり思ったり感じたりしたことを、言葉にして遺してみることで、私っていう意味のない者でさえ何かしらものを考えているのですよと確認することで、自分や、自分みたいに意味のない存在に「意味のないなりに有意義。お疲れさん」て言いたいんだろう
私は表向き怒られない無難な自分のステイタスを作り、無難な日々を過ごすことを考えて大人になった。やっとその思いから解放された今、自分のなかにほぼ何の蓄積もないような気がして。つまりはっきり「自分の意志で選び勝ち取りました!!」というものがこれまでにない
祖母は「親」という立場を使って誰かを自分の偉さ証明に役立てたくて仕方ない人だったし、それができないと泣いたり嘆いたりする人だったが、それが孫の私に対してもそうだった。当時、祖母の価値観の外で生きることは、いわば祖母に死の宣告をするようなものだった
生きててほしい人が生きてることを知るだけでこんなに嬉しいのに、じゃあ生きててほしい人が生きられるために私に何ができているのかっていうと…分からないし、こんなことを思うこと自体がその人のためになるとも思えなかったりする
私がむちゃくちゃ感動している1997年版の未満都市に、ただひとつ不満があるとしたら、政府や自衛隊の描かれ方があまりにも酷で、現実からかけ離れてるだろそれは!ってことだけなんだけど、そもそもが現実にはありえない微生物に端を発してる話なんだから、パラレルワールド的に思っておく
なんだろ、たとえばリアルタイムでは観てなかった理由って、当時の自分の状況や心境や興味の有る無し諸々あったんだろうけど、こうやって何かの拍子に時間差で出逢うものがはまることある
基本的には、子供には、誰かの幸せを奪うような生き方を選んで欲しくないし、そういう、人を搾取することに喜びを見出だすような子には育って欲しくはない、これ最低限の親の期待。これくらいは言ってもいいでしょ
そうなんだよな、私が(親じゃなくて親戚に対してだったけど)苦しかったのは、私が許可された幸せのあり方が、私の望むものとは関係がなかったことだった。どんな形であれ私の幸せは私のもので良いんだ、と思えたらよかったし、そう思わせたい
それと、どういう形の幸せのあり方なら親を喜ばすことができるか、なんていう気を使わせちゃわないように、どんな形であれ子供の幸せは子供の幸せだ、って当然のように親も子供も思える親子でいるのが理想的かな。これもなかなか難易度高いけど
自分が幸せでいないと親が不幸せに思うんだなと思わせちゃうと、子供は不自由になる…自分が幸せでいないと誰かも不幸せになるの苦しい。けど、っていうか子供の幸せを願わなきゃ、子育てという超絶めんどくさいことはできない。問題は、如何にそれを子供に負担に思わせないようにするか演技力か
彼があのタイミングで永久あばーよ、したのは…、誠の癖に良くやったな!という結果を彼無しで叶えるのを見たかったんじゃないだろうか。この際、彼の中では地球がどうとか自分がどうとかよりも、誠への情が勝っていたように思う(ボク、運命の人です最終回)
明日、学校の帰りにリンホラのライブに行く娘が「何か黒っぽくて危険な感じのカッコ良くて涼しくて講義にも出られる服って、ママは持ってる?持ってたら貸して」と訊いてきた。持ってるわけないし、どんな服なのかさっぱりイメージできないし、なぜ前日に突然言うんだ(2017.7)
Twitter、なんとなく自分のTLが家のように思っちゃって気楽に個人情報呟く人がいるけど、気を付けたほうかいいよ。公開間にという公道のど真ん中と、非公開アカウントという簡単な鍵付きのシェアハウス、このどちらかしかない
他人にされてイヤなことを自分は他人にはすまい、とは思ってるんだ。でも私がされてイヤだと思うことを、こんなにも多くの人間がそれをイヤだと感じてないということに凹む
私にとってイヤなことをする人、理由はいくつか考えられる。一、それが私にはイヤなことだと知らない。二、それは私にはイヤなことだと分かってはいるけどご自分の利益の為に仕方なくやる。三、嫌いな私がイヤがることをやるのが喜びだから。どれか?たいていは最初のやつなんだろう。
願い「私の好きな人達がなるべく痛い思いや苦しい思いをしないでいますように」と「私がなるべく痛い思いや苦しい思いをしないでいますように」と「この二つの願いが両立していますように」三つなので、たいていの魔神には受け付けて貰える
どうやって自殺したら彼女らに事の本質を分からせることができるかと、真剣に策を練っていたあの頃の自分のところへ行って「30年後の私はね、好きなひとつの映画を一人で、一週間に2回でもふらふらと見に行けるような境遇にある」という情報を吹き込みたい
小さい子って案外、親の想像もつかないような面白いこと考えてるかもしれないよ。大人になったら思い出して教えてくれるかもしれないです。ちなみに私は、何もない公園でただ駆け回っていたあの時、地下組織と天上人達との戦いに参加している魔法使いの気持ちで小枝を握り締めて走ってました。
うまく説明できない気持ちを「擬態語+ってなる」で押し通す系
家で黙々と遊んでいた幼い頃の子供が、その時に本当は何を考えていたのか、想像するしかないんだけど、歳月が過ぎて今になって「あの頃、こんなことを考えてた」と子供に言われると、それがまったく予想もつかないことだったりして「ほええ~っ」ってなる
子供のことは、どっかへ巣立ったら、居ないものとして考えたい…いや、居るんだけども、頼りとして宛てにできる存在としてはカウントしないようにしたい(個人の感想)
何かをどうでもいいと思えることって、安全装置のひとつ
意味はないけど面白い、と思えるときと、意味がないことが意味無さすぎて腹立つときと、ある
自然の美しさ素晴らしいけど…自然の美しさを美しいって思えてる人間も素晴らしいし好きです
自分がその人を好きか嫌いか、しか分からなかった。私が好きなこの人と、私が好きなあの人と、その二人の間がどうなのか、よく知らないし知る必要あると思ってなかった
自分がいつも余所者のように感じてたなあ。転校生だったのもあるけど、そもそもあんまり他人がどうしたこうした誰がいま誰と仲良しで誰が誰と喧嘩してて誰は誰と付き合っててとか、そこに興味なくてアンテナなくて、その情報をアップデートしないから、情勢についていけなくて
何が怖いって、来世とかじゃなく、いまこの世がまるごと、ある時点まで時間が来たら記憶をリセットされて、昔のとある時点まで戻されてループしてるかもしれないと想像するとホントやだ
ゆるっとした絵柄の漫画キャラが、二次創作できっちりした絵柄にアレンジされているのを観るの、好き
最の高にも程がある。原作読んでてもこんなに翻弄されて突き落とされて吹き上げられてもうね、死んだ。私は死んだらしい。当分記憶を失いたい。もっかい記憶を消してから観たい(2017.6.26貴族探偵)
あらゆる意味でひっくり返して来た!あの台詞をあの人が?あの役をまさか、あの人が??反転芸術/頭可笑しくて大好き過ぎたわ…。(2017.6.26貴族探偵)
「それはまるでこの人生のようだ」をつけても大体意味が通るの
たかがポケモンGOだと自分を客観視しつつ、あるときは暇潰しに、またあるときには命懸けで、やるからには自分が楽しいようにやってるゲーム。ちょっとネットの調子が良くないだけで、ちょっと公式さんが無茶するだけで、いつでも滅びかねない世界で生きてるので
自分だか他人だかよくわからないくらい何かに没頭するのは気持ちがいいし、気持ちがいいから自分だか他人だかわからない状態になれるんだろうか
歳月が流れ、いま私の両親が私のやることについて何ら責任を感じなくて済むようになった。これにより昔よりも親と気楽に話せるようになった
修行。いや、気楽なゲーム。受け入れよう…あれもこれも。早めに家事を済ませておやつのことも考えよう。出動(2017.6)
感動に慣れきってしまわないようにする技を磨いてゆきたい
圧迫面接という名の弱いもの虐め、滅びて欲しい/圧迫面接という弱いもの虐めに堪えられる人だけいればいいという社風アピール、と解釈
これはアイドルに対してに限らず、公務員とか総理大臣とか、叩いても許されると断じた対象に向かって、現場の努力に想像を到らせずに「どうせ何々だろ」と勝手な中傷をして平気でいる人々のことも、残念だという思いで見る
よく観もせず「どうせアイドルって大した努力もせず事務所の力で美味しいとこ出させてもらえるんでしょ?」みたいな偏見を、私は昔、持ってた。それは大間違いだった。そんな甘いもんではない。あんなに努力。よく見たらすごい高度な総合的な技。ってことを何かの拍子に分かって以来、観るほど楽しい
そんなにアイドルに未婚でいて欲しい人って多いのかなあ。なぜなんだろう。ヒトであって欲しくない?アイドルが見せてくれる「夢」って何だろう。人として素敵な人が素敵なパフォーマンスをしてくれてて彼(彼女)が幸せな様子を見られてたらそれでいい…って思うのは、私が既婚者だからなのかな?
優しい人に「優しいね!」って言うのがためらわれる時がある。その人はそれを優しさだと知られたくないかも知れなくて
親が、自分の楽しみを楽しんでいる、そのことがどれ程、子供の私にとって安心なことか
やっぱり私はね…但馬守政次とかセブルス・スネイプとか…表向き冷たそうなのに好きな人をずっと胸に秘めてる系、に惹かれる。
私が好きになるひと、なぜかとても面白いし。好きなひとがご自分でご自分の面白いところに気付いて面白がってしまうのを見たら、尚のこと好き。だってそれは私の好きなところを、好きなひとも好きになってくれてるってことでしょ。だから自分のボケに自分でも突っ込んで欲しい。それを見るのが好き
「大変だな、しんどいな、越えたい壁だな、」って感じること、人によってそれぞれ違うけど、それをひとつでも一回でも頑張ってみる人を見ると、ああ偉業だ…すごい…って思うし、6億円あげたくなるし、私もちょっとは頑張ってみようと思える
起きたときに頭の中に歌が流れてきたり、見た夢が突拍子もないとき、思うんだけど、脳味噌すごいね。すごくない?すごいや
楽しかったことを考えて電車の中とかで、ふふっと思い出し笑いが出てしまったとき、以前の私はすぐさま他の動作を追加することでごまかそうとしていたけど、よく考えたら別に「あ、何か楽しいことを思い出した人なんだな」って思われてて構わないんだよね。そうだ。その通り(平然とホームに降りる)
私が無事に生きていたら、楽しみなことが続々と控えている。でもそのひとつひとつを思いながら、これらの楽しみなことが終わってしまうのを寂しくなったりする。美味しいものを食べる前に、食べ終わった状態の自分を想像してしまうような生き物、人間の他にいるのかな。我ながら何やってんのって感じ
破格の大金持ちになったら、好きな人や好きなものに向かってだけお金を注いで、旅をして回ってから、テロ集団やテロ国家を莫大な費用で買収して、誰も殺さなくても楽しいような骨抜きな人達に仕上げていく。最終的にそういう雑事は使用人に任せて私は家でテレビ観て漫画読んで生きてく
ブログにはない、Twitterの面白さって、やはりあると思う。読まれることを意識し過ぎず、でも読まれることを前提にして呟かれた短い言葉の連続
地球の表面からちょっと一層凹んだところにいる生き物でさえこんな珍しいんだから、地球外生物なんてどんなに想像を絶する格好してるのかと思う
ところでフォロワーさんが体験した、リアルな「鳶に油揚げをさらわれる」(油揚げの代わりにパン)ってすごく凄い…そんなことあるんだ…なんか普段あまり身近に自分の食べ物を狙う生き物がそばにいないから、そういうの思うと、わあやっぱりこの人生の間に知らない世界有り過ぎ、ってなって面白い
職場で、あのリーダー(※初老男性。なんか前に私の仕事中にやや理不尽な注意をしてきてあんまし好きじゃなかった人)が笑顔を浮かべるところを初めて見たの。すごい可愛かった。もうその人の印象、めっちゃ変わった。好きと言っても過言でない
アンチの言うこと気にしないで、って思う。地面の下の蟻が人間の悪口をいくら喋ってたって、そこに集音機を設置して聴いたりしなければ、何の痛みも痒みも感じないで生きていけたりできますようにと。
エレベーターに小さい男の子と若いママさんと私、三人だった。男の子がママさんに「わあ、いまひとりでにドアしまったね、まほうだね!」って言うしママさんも「すごいね、魔法すごいねー!」って乗るし、とても微笑ましかったけど、私は一緒に笑っていて良いのか空気になってるべきかちょっと迷って
で、それって彼女らにとって何が楽しかったのかなと察してみたんだけど、子供を信用してないから先回りして自分を押し付けることが可能だし、出来ないと決めつけてるから自分が有用なことを証明できるし、ことごとく全てで子供に勝って自分を偉くしたいってことだったのではないかと思った
身内に育児の反面教師がいるんだけど、特徴としては、子供のことを全然信用しようという気がない。何も任せる気がない。何も出来ないと決めつけてるし、子が何を言っても端から間違ってる、悪意だ、反抗だという目でみる。あとは自分の価値観で役に立たないと見なした子供の興味に、すぐ否定から入る
ところであの、嫌いだけど面と向かって嫌いと言えない相手を使い、妄想に耽ってしまった。嫌いなその人に、私の頭の中で架空の台詞を言わせ、私がその人に向かって積年の恨みをバシッと言う、という筋書だった。しかしそれに対してその人がまたイヤな返しをし、落ち込んだ。全部私の頭の中の出来事
それを知らないうちは、それを「どうでもよい」と思う。知ると、途端に「どうでもよくないもの」になる
全然関係ない話するけど、ビュッフエ形式の食事が夢に出てくることが(私は)多いんでもの思うんだけど、結局私は、ある程度歳を取りつつある今から、若い頃には見向きもしなかったあのエリアの料理やその辺のテーブルの料理を、時間内に取ってきて食べる回収の段階に来てるんじゃないだろうか
自分の興味に深く狭く突き進むタイプの息子に、静かに外の世界を見せてくれる心休まる友達、親の私からもありがとう言いたいけど、心のなかからにしておく
自分可愛さがあるし、あの嫌な人と自分とは絶対に同化したくないという気持ち、しないと思いたい気持ち。嫌な人の中に自分と共通項があるなど考えたくない気持ちがある。これがなくなるとしたら、まるで体中の細胞を縫い止めて閉じ込めてるものがほどけて自分が空中分解するかもしれないとまで思った
ウチのおトイレのスリッパ、その位置を私だけが都度きちんと整えていることを家族は知らないおそれがある
分かっちゃいるけど止められないことをやってしまう子供に、それを止めなさいということを、分かっちゃいるけど止められない。私がこの行動を止められない以上に、子供は尚更止められないんだろうなあ(って毎日のように思っていた)
子供の頃のあるあるみたいなもんだけども。それまで真面目に宿題をやってたのに、ちょっとたまたま息抜きに落書きとかしてみたそのタイミングで見つかり「宿題を先にやれば?」みたいな。なぜ、その時に見た状況が全てだと思われなきゃならんのかね
あるあるだと思うんだよね、たとえばAというエリアを一人で担当していても、必要に応じてたまにBというエリアに寄ることがある。それまできちんとAに居たのに、たまたまBにいたところをよりによって見た人により「あんたはBじゃなくてAの担当だから!」みたいな。分かってるってば。みたいな。
面倒くさい、の殻を1ミリでも破ったら今日は良しとしよう。行こう(2017.5)
ずっと動物の可愛さに対してスイッチが入らないままで生きてきて、この数年の間に「え、もしかしてみんながかわいいかわいい言う動物の可愛さって、これなのか!!」というのが分かり、今は猫やウサギを見るときとても幸せを感じるようになり、私にもこの感覚があったと認識して、めっちゃ安心する
距離感がおかしい人・こっちは他人だと思ってるのに向こうは他人だと思ってくれない人・こっちはこの問題を私の問題だと思ってるのに向こうは向こうの問題だと思ってくる人…が、子供の頃から身内にも身内外にもたくさんいて苦しかった。裏を返せば、私は比較的、人を他人と思う気持ちが強いのかも
毎日の暮らしの中で私のしてること、せざるを得ないこと、ほとんどが「あ~私はこれがしたくて生きてる訳じゃないんだよな…」って思うことばかり。これらを無くす方向には現実的に難しいけど、この、しなきゃいけないこと自体を何かのゲームのように面白がれる体質になりたい。なりたいのに…なかなか
道を極めるより道を楽しむほうが幸せっていう言葉に「ああそれだ~!!」って膝を打ってる。私の場合だとなんだろ…プロのような料理を目指すのしんどいからやらないけど、冷蔵庫の中見て気儘に食べたいもの作ってみて、あら失敗したとか、結構美味しくできたとか、楽しくやりたい…みたいな
ナポレオンの一生を池田理代子さんが描いた漫画を読んでて(2017)/人が徐々に初心を忘れたり、嫌いだったのに愛したり、愛してたゆえに本末転倒になったり、信じてたのに背いたり、都合で担ぎ上げたのに都合で追いやったり、悲しいけど面白い。(『栄光のナポレオン エロイカ』)
こないだ「ハゴロモジャスミン」という花の名前を覚えた途端に、帰宅途中の道で見つけるハゴロモジャスミンが爆発的に増えたような錯覚に陥っている(2017.5)
史実をベースに描かれた創作物を見ると、教科書では数行にまとまるあの出来事のあの人達にはもしかしたらこんな涙や笑顔があったのか、って想像させられるし、逆にいま実際生きてる我々の諸々の気持ちも歴史に刻まれるなら淡々と数行なのかという思いで、何とも虚しくなるから好き
やっと勝手に怠けられる時間が来たんだ。私にあれこれ言う親戚はもう年老いて何も言ってこない。やったあ、遊ぼう、遊びたい、遊ばせてくれ。そんな思いばかりで、普通に普通の成熟した中高年のすべきことに目が向かないし心も体も動かせない。という病気を抱えている。それは自覚してる
けど、やっぱり、幼き頃から大人になるまで「自分が何かを決める・自分で自分のために自由に何かを決めて行う」ことについて、あの人に怒られる、あの人に知られたらどんな事態に陥るか恐い、と思って生きてくる羽目になり、その枷が外されても「怒られないための時間が来た」という安堵しか残ってない
毎回毎回なんなんだ私の脳は、架空の設定を自分に現実と思い込ませる為の芸が本当に細かすぎる。で、もう一人の、夢から醒めたいほうの脳内の私、すんでのところでいつも救う
私にとっての乗り物(移動手段)と、息子にとっての乗り物(アイドル)、同じバスなのに全然、気にされかたが違うんだな
とはいえ、体力知力財力があっても、その人々の遺したいものが多くの人々の心に支持されなければ、次世代に遺ってはいかないよね
昔の人が「良い」と思って受け継いだものが色々遺ったのが今の世の中、今の人がそのなかで生きてみて「良い」と思って受け継ぐと将来の世の中ができる。各々が「良い」と感じるものがそれぞれ違い、その「良い」と思ったものを遺せるかどうかは、各人の生きる力や体力知力財力に依る
とある駐輪場の、とある半日の間にも、通行の妨げになる禁止箇所にこっそり置いてく人あり、自分が置きたい場所に置こうと無理に詰めさせる人あり、一方、出しやすいようスタッフが手伝えばニッコリお礼言う人あり、本当に色々な人がいる…私が自転車に乗る人になったら、きっと愛想良くしようと誓った
ぼのぼのに「困るのは絶対にいつか終わるから、安心して困れる」という趣旨の言葉があるのね。素晴らしいや。困るを生きるに置き換えて使ってもいいし
むしろこのポケモンGOにせよ何にせよ、始めたゲームを一時のマイブームで終わらせずにまだ楽しみを見出だし継続してる自分や仲間を誉め称えたい気持ちです。なんなのその、そんなもん流行遅れだ的な嘲笑の空気は…ぽけごーユーザーは気にすることない。ささやかな幸せ、恥ずかしくない。(2017)
困難なことから虎松を遠ざけてやろうとする母親の心、困難に立ち向かう強さを持たせようと厳しくする父親の心、どちらも加減を誤ると、子供の自己肯定感を損ないかねないけど。あの戦国時代、己を恥じずに生き延びることが最優先事項とすれば、父親的なやり方に軍配が上がるんだろうな(2017.4)
眠いので「地球外の知的な生命体にもし逢えても、彼らは我々とは違う空気に適応して生きてきたのだから、彼らの常に放つ凄いニオイに我々はおそらく耐えることができないだろう」という夢を見そうになっているけど、ぐっすりーぷでぐっどりーむ(2017.4)
GW中の接客業(バイト)に今から取り越し苦労的な漠然とした不安を消せないでいたんだけど、好きな人の言葉を思い出して精一杯やって結果はお任せしよう、むしろ楽しもう、って思えてきた。何をそんなに私はいつも…この自分の何を失うのを恐がってるのか、って(2017)
夢から覚めかけて「あ、これ夢だ。じゃあこの夢、もっとこうしてやろう」って思った。これと同じことが死ぬ前に起こるのだろうか。起こったら報告するね(どこにどうやって)(2017)
3月のライオン後編も面白かった。すごく棋士の張り詰めた気持ちになった。ひなちゃんのあのエピも涙腺壊れて観たし、後藤もめっちゃ良い。いっとき激しく閉じ籠ったときの零くんも好き。人間って誰かの心のチカラに助けられる度合いがやっぱりとてつもない
美女と野獣の実写のモーリス(ベルの父)の描かれかたも良いよね。父の思いが泣ける。アニメのぽよぽよしたふっくらさんも良かったけど、病弱イメージを増すためにはあの実写ビジュも良し
でもぽけごージムバトルがうまくいかないと不幸せか?と自分に問うと、別に不幸せじゃないことに気づくので、つまりジムバトルに勝つかどうかは幸せか否かと関係がないのか…分からない…何なんだろう幸せって(2017.4)
そういえば私は、痛いと思う時・悲しいと思う時・苦しいと思う時・楽しいと思う時・美味しいと思う時・幸せだと思う時…等に、痛みとは何か・悲しみとは何か・苦しみとは何か・楽しみとは何か・美味しさとは何か・幸せとは何か…を真面目に考えてみることをしてなかったかもしれない
美女と野獣 実写版、素敵だった!アニメの主要ミュージックシーンも超鮮やかに再現されてるのみならず。新しく加わった歌も好き。ベルの父母のくだりも良い。ベルと野獣が惹かれ合った精神的な点も、より深く描かれてると思った。※意外とルフウが可愛い(2017.4)"
幼稚園児に持たせるお弁当で全ての栄養素を満たそう等とは思わないようにした。ちょっとの偏りなら夕食でリカバリできる。それより完食できる量と味。子供の好みに擦り寄る。ウチの子は当時少食だったせいもあるので、完食できると本人がとても喜んでた
好きから始まる関係性がある。関係性から生まれる好きもある。両方がなんとなく混ざって私の好きがある
太陽からの放射線も、思いっきり自然の恵みなんだけど、程度問題だなあ
何につけても、感情に訴えられたほうが関心が強まるという面はあるけども。偏りなく聞こう観ようとする人がいないと偏りない報道が成り立てない
「国」、人で出来てる。私とか。あの人とか。そういう人の営みの集まり
蘭のようなランカマキリが、綺麗さゆえに狙われるのって、なぜその姿に進化してきたのか意味分からない
ゆりさんが、若いコに言う「自分に呪いをかけないで」も良かった。ひらまささんにかかった呪いもみくりのそばで解け、みくりにかかった呪いがひらまささんのそばで解けてったのも嬉しかった
逃げるは恥だが役に立つ』結婚形体って何がもやもやなのかが分かる。そうそうそれだよ~って叫んで観た。でも、壁の中の平穏から、壁の外へ。ダメなとこもコンプレックスもあるヒト同志が枷を降ろしてお互いを受け入れ合える平穏へ。徐々に壁を越え合う人達が可愛い。好き
最初は、復讐のために自分の肉体を機械(不死身)にしようと思ってた鉄郎、途中からは、人間はいつか死ぬからこそ生を輝かせることができるんだと気づいて、今度はその機械化プロジェクトの親玉を潰しにかかる。それ見て当時の私は大変衝撃を受けた。死ねる世界を目指す主人公をそれまで知らなかった
自分が相手を愛することが、相手の生きる道を邪魔してしまうかもしれない、という懸念は、とても悲しい。愛することが確実に相手の幸せに繋がっていくという、その自信がないと、幸せになれない。そんなことを思って観るのがつらかったドク、特に第9話
「ぼく、強いだけ違います…弱いです…」が最高過ぎる。最後の最後にこんな弱さあったのを見せまいとしてたのに見せてしまうドク最高過ぎる。っていうか、この時点までほとんど弱いとこユキに対して隠し切っていたドクが健気で泣ける
岡田惠和さんの作るストーリーが好きなんだ。登場人物はヒトだから、途中途中本末転倒なこと言ったりしたり、あ~あ、なぜそんなんなってしまうんだよ、っていう酷いことして傷付けあっても、あとで乗り越えて高い次元に行く人々じゃん?心洗われちゃうわ
最終回、ドクが「ユキ先生」じゃなく「ユキ」って呼んだあの場面むちゃくちゃ良い。「いろいろ悩んで迷って煮詰まってたけど、とうとうその境地に到達したんだね(涙)教師というより人としての彼女に、生徒というより人として伝えた言葉なんだね(涙)」って思った。
葉っぱが、効率的に光を受けて光合成しようとして、上に重なる葉っぱと葉っぱの間から伸びて、綺麗に並ぶ。これを上から見ている人間の私が「綺麗に並んでるね」と葉っぱたちに教える手立てがないだろうか。でも教える意味はあるだろうか。っていつも思う
男女7人秋物語の良介が「いま、幸せなんか?」って桃子に訊いたときの桃子の「幸せ」って答えた桃子のなんとも哀しそうなような複雑な表情、それを聞いての良介の寂しそうなようなホッとしたようなつらいような表情、泣ける
偲ぶ、倣う、あるいは倣わない、ということで、遺された者の中に死者が生きる…というようなことを南渓和尚が言ってたの、あれとても良かった
誰がどういう立場で何を根拠に何目的でいつ書いたか分からない情報がいっぱいあるインターネット
優しい人が、自分がいなくなる際の周りの人達の心に生じるさみしさについて責任取らなきゃと思う必要なんてないので、眠るように麻酔にかかったように幸せに消えて行って欲しいと思うし、さみしくなる気持ちは周りがなんとかするから安心してとも言いたい(難しそうだけど)
美味しいものを食べる幸せも、好きな人が美味しいものを食べてるのを知る幸せも、どちらもずっとずっと味わい続けたい。この欲は当分無くならない
娘にお風呂のなかで「自分の命より大切な存在、欲しくない?」って言われ、ああもしかしたら私にはそれがある気がする……とは思ったけど断言は照れるし確信ないから「自分の命も大切だからなあ…大切な存在があるからこそ自分の命が欲しいな」と歯切れよくない答えしかできなかった
佐々木蔵之介さん演じる島田さんの対局時の表情がなんとも深くて素敵で忘れられない。有村架純さんの香子も複雑な心理をすごく上手に出してたし、神木隆之介くんの零はすごい零。天才(映画、3月のライオン)
3月のライオン前編めっちゃ良かったあ…。勝負の世界の人のメンタル痛くて超素敵。零くんに温かいご飯を。将棋を愛とかお金とか得る手段にしなくて済む世界に送ってあげたい。涙出る…実写化に何の非の打ち所ない。いめーじピッタシ
政次に対して視聴者の私の思い入れが深まって政次目線で感情移入すればするほど、しんどくなるに決まってる。井伊を守ることと小野を守ることと友人への思いと今川との関係、それらを政次の頭と心の中に投入するとどんな優先順位でどんな解が出てくるのか、知りたいような知りたくないような気持ち
「一周回って新しい」≒「一周回ってることに気づかず、どこかここではないどこかの別方向にまっすぐ向かってると思っていたら、実は一周回っていて、昔居たところにまるで初めて訪れるような新鮮な気持ちを伴って辿り着いたのだった」だと思う
私の嘘を見抜くのに、私が嘘をつかざるを得なくなる気持ちのほうはまるで全然見抜いてくれなかったのが、とても片手落ち
いつ爆発するか分からない親戚と付き合わざるを得なかった頃、子どもの頃は成すすべもなかったけど。学生時代にようやく編み出したのは、これなら爆発されないだろうっていう架空の私の設定と、架空の予定を作り上げ、完璧な嘘のシナリオを演じることだった。なのにその嘘は見抜かれた
大勢の人が入れ替わり立ち替わり働きに来る職場では、誰が見ても分かるマニュアルを用意してあるのが望ましい。私の頭の中にしかないことだとか、誰々さんにしかこれは分からないことだとか、そういうの困る。誰がいつ急にいなくなっても回るようにしておくのがいい
これは前の前の職場で感じたことなんだけども。リーダーが複数いて、その人らの頭の中にある「これはこうすべき。これは口で言わなくても察せられるべき。」って思い込まれてる事項がその人によって違ってて、我々新米が日替わりの各リーダーに当たる度、やり方を変えなきゃならないの超めんどうだった
私と仕事とどっちが大事?とか言う人、なんでそんなにひとつに決めさせ順位をつけさせたいのか分かんないっていうか私が大事だから仕事を大事にしてるんだなと思えばいいし、私という大事があるから仕事を大事にできるんだなと思っておけば万事丸く収まるだろうし
「生まれてからずっと同じ人間をやって来たのかと思うと自分、凄い!」って子供が言うのを聞いて嬉しいなど。私の場合、これまで自分生きてきて本当にずっと同じ人間をやって来たのか分からなくなることがある(2017)
ところで摩耶雄嵩さんのミステリに脳を掻き乱される快感を知りかけてるこの頃…。人は地道な努力をしようがしまいが良い人であろうがあるまいが、しんどい展開はそんなことお構いなしに来るときは来る、って態度のストーリーに、共感はしにくいけど脳の換気を良くして貰えるの
ホント、そう。だけど私が結婚した頃の世論は今よりももっともっと「結婚しないと一人前ではない」が濃くて苦しかった。私は結婚したくてしたのか?むしろこの、世の中からのプレッシャーから逃れたい、いや、世の中からのプレッシャーから逃れたい親族がかけてくるプレッシャーから逃れたい、が大きく
外出の帰りに久々に満員電車に乗った。通勤通学の頃には慣れてた、他人との物理的距離のなさ。久しぶりに人と人の間に挟まれてみて「ちょっと待てよ…やっぱしこの見ず知らずの人とこんな密着って、おかしいよね」ってなった。慣れてた頃には車内の他人を布団くらいにしか感じてなかったけど
ところでBJ話の続きをせずにいられないんだけど。元々は単発で終わる予定だった漫画だから、謎の外科医の細かい設定はついてなかったのに、好評で連載することになったから彼の子供時代とか親とか諸々が生まれたんだ…って思うと、読者の反応って大事だよね
そうなのよね…贈り物を頂いたときに、ああこれを私にと思って考えてくれて選んでくれたんだ…っていう気持ちがもう既に嬉しいし、そういう人がこの世にいてくれること自体がもうプレゼントなのに、さらにそこに贈り物まで貰ってしまってるんだからすごい…。
池田理代子展も観に行ったし。とても良い/池田理代子さんが高校の時に課題図書でマリー・アントワネットに興味を持ってくださったお蔭で、そしてお父様の反対に負けずに大学の学費の為に漫画書いてくださったお蔭で、今、私も娘もベルばら大好きだし…。音大進学の夢も47歳で叶えて、超絶カッコ良い
世代超えて長く愛されて人の心の中に住み続ける漫画の登場人物って、ホント、人類の宝…などと思いながら一人でお茶を飲んでる(2017.3)
生命ってなんなんだろう、ただ長生きしてるだけでいいのか?って問いかけてる手塚先生ってすごく好き
子が生まれたばかりのときはよその赤ちゃんが目にとまるし、子が就活していればよその就活生が目にとまるし、今後の私にはきっと介護が考え事のシェアを増やすだろうし、高齢者がより一層私の目にとまることになる
誰しも、自分ががっつり経験したり考えたりした分野を過大に感じる傾向があり、そういう点で私はモテテクとかビジネスノウハウとかその辺にただ疎いだけじゃなくて、あんまり興味のアンテナがない
私の場合、親族による精神的な圧迫が子供~独身時代にあって(私に特有なものではなくたぶん多くの人が経験してるであろう種類のもの)、それと自分の感じた「育てられ」と子育てとの比較なんかも常々思ってた人生だった
短時間で自分の良さをアピールするのが苦手な学生を取りこぼさないよう合宿形式の選考をする、って/学生さんて就活生である前に学生なんだし暇ないし短時間で見抜いてあげてよ…って思うの、私だけ?(2017)
むしろ、見かけのスッキリした顔のキャラを使うからこそ、めんどくさい情報に邪魔されず普通に各自勝手に自分に読み替え感情移入できる作品になる、って思うなあ。見かけと中身のギャップを問うテーマはその限りではないけども
でね、少年は、少年漫画に出てくる女子のデフォルメについて実際どう思ってるのかを、想像する。そのとき参考にするのが、少女漫画に出てくる男子のデフォルメに対して自分(女)が思う気持ち、となる
ああ、もしかしたら「許してください」は、許せよ~って要求でもなくてさ、声に敢えて出してみることで「あれ?そうか、私のしていることも誰かによる許すか許さないかの心のもとにやっと許されてるのかもしれないよなあ」っていう気付きを気づかせ自省を促す効果が少しはあるってことかもね
無きゃ無いでいいんだと思う。私が持ってないものでもその誰かが持っててくれたら結局それでいいんだ。このように安心してヒトは寿命を終えるめでたしめでたし。
そういう、自分にないものを持っている人を好きになるくせに、その人の中に自分との共通項を見つけたと思うと、異常なくらい喜んでしまうの何?
なんだかんだたぶん私は自分が一番大事。子への思いもそこに収束してるのかも。自分が一番好きなのだろう。ところが自分のことは、見ていて一番つまらない。見ていたいのは自分のことじゃなく、自分にないものを持ってる人達のことを見ていたいのだった。そういう人を好きになる
単に自分から出てきた自分の延長というにはこの生理的な反射のような、自分より我が子優先の感覚が不思議すぎた。けどやはり自己愛に含まれてるんだろうか。これをもっと他の人にも多く広く発揮したいけどできるんだろうか
「愛そう!愛するぞ~」みたいなんじゃなくて、自分の身体に起こったことのようにあの子が痛いとき「痛っ」って感じたり、自分の舌以上にあの子が美味しいお乳飲んで美味しそうな顔をすると美味しい気持ちになったりしたのを「もしかしてこれって生まれて初めて私が発動する愛?」って思った…
青い瓶のことは好きです。ただ、青い瓶にそんなすごい魔法みたいな付加価値を付けることに何か裏にあるんじゃないかって考えてしまうし、何か裏にあるんじゃないかって考えないで済んでる人の気持ちが、よく分からない。ゆえにたぶんそういう集まりに出ても楽しめない
言霊っぽいものを信じてないわけじゃないんだけども、ヒトが個人的に自分のために言ったり思ったりすることで何かがあったりなかったり生まれたり消えたりすることじゃないんじゃないか世界って…私が「みんな幸せであれ!うん、みんな幸せ!よし!」って念じても現に幸せじゃない人が実在してるし
その人からは引き寄せの法則の本も勧められて読んだけど、これもどうにも私には解せないと思ってそれきり。引き寄せようが引き寄せまいが何かがいつもどこかで起こっていたので、その起こっていたことにいちいち「これは私が引き寄せたの?」と理由つけるの心が疲れそうって思っちゃってそれきり
いろんな宗教がある中で、私の好みのタイプを言うね。あのね、あんまりグッズとか本とかをお勧めしてこない系がいいな。っていうかお金出さなくていい系。あと政治に打って出ない系。それと自分と違う人を殺さない系。…嫌いなタイプじゃない系。
(映身展2017)『憧れ』ネタバレできませんが、二人の女の子のこと観ててこの子達をとことん毛布でくるんであげたくなった。あんまりな親の代わりに。最後の台詞に救われ。そうよ、そうだよ、これから笑ってて欲しい
また違う場面で、私はこうも思っていた。いくら私一人が真面目であろうがあるまいが、何か小さなことで誰か一人を癒そうが、何百人何千人もいる皆にそれをすることはできないし私以外の人にそれを望めないし、自分、無力だな、って言ってた。隣の人もそう言ってた。それでも良い、一人一件担当でいい
認知のゆがみとされる事例を身内にあまりに多く見せつけられ付き合わされてきたなあ。行き過ぎた一般化、レッテル貼り、心の読み過ぎ、等々。私を「こうだ、そうに違いない」と決めつけて見ることで心の平安を得ていたのだろうか。私を分からないことをそんなに不安に思っていたんだろうか
そうなんだよ。夫をすごいな偉いなと思ったからって私が私なりの感じてる大変さが大したことなくなる訳じゃない。それを私が分かってればいいんじゃん。夫に分かって欲しかったのか。そうかそうか。よしよし
目の病気ゆえに二十数年かけて視力を失った全盲の人の話だった。段々に見えなくなる間に、視覚以外の感覚が研がれてったのか、物が見えなくなっても生活があまり変わらないとおっしゃる人。登山が好きという。勿論サポートする人は必要だけど。スキーを愛好してる。怖くないという。人間凄いと思った。
そっか…誰かがやりたくないことを私が好きならお金になる、私がやりたくないことを誰かが好きでやってくれたらお金払う。でも私が好きでやることは皆もだいたい好きだもんなあ。全世界の人が面倒がってしかも必要とすることを私だけが好きで得意なら、いま大金持ちになれてるのに
核反応は使い方に気を付ければ命を支えてくれているし、使い方を誤れば恐ろしいものに変わる。それは何もこのエネルギー資源だけに言えることじゃなく、火もそうだよ、電気も水もガスも太陽も、そうだよ
同じ星の上にある違う政治体制や違う宗教の人々を怖がる割には、宇宙で見つかる別の環境の人々のことあまり警戒してないのって、何なんだろう
でも7つの妹惑星の人達、39光年離れたところに大きな姉がいると知ったらちょっと怖っ、て思ったりしないのかな
ルイ16世さんが民を許すような言葉を残して処刑されてから後、マリー・アントワネットさんが家族に手紙で、信仰心とか、決して復讐なんて考えちゃダメということとか、書いてるの観て、うん…言葉にできないいろいろ。あと、日本の漆器コレクション可愛い(マリー・アントワネット展観た)
近所で同じ種類のポケモンが頻繁に出る時期が続くとき、「いまこの良く出る草ポケモンが成長する頃に備えて、ジムで勝つためにはこちらは対抗して炎や飛行のポケモンを強化しておこう」って考えるのがとても楽しい
娘が新しく始めたバイトもお客様と接する職種で。「接客をやってみると、今度自分がお客になったとき、挨拶してくる店員さんに愛想良くしようって気持ちになるよね」など言ってた。とてもわかる(2017)
「○○の闇に迫る」と銘打つ本を書く人々の思惑にもまた別の闇を感じたりしてる。(2017.2)
そうだよね…、自分、も世界に含まれる。かさぶたができて治る仕組みに私は何の指示も要望も出した覚えもないけど、いつもながらお見事としか言いようがない
羽毛布団のような親になりたい。必要な時に押し入れから出せるやつ。夏は涼しく冬は暖かくて重くないけどしっかりしてる親になりたい、でも、なかなかなれない
毎度思うけど、産む方法で愛着がどうのこうの違いが出るとかの見ると、お父さんが可哀想だなと思う。お父さんには自然分娩も帝王切開も経験不可能だもん
だけどどうしてそうなるか分からないことをいいことに、そこにストーリーを盛ってお金や人心を思いのままに操ろうとする団体があるのは好きじゃない(2017.2)
どうしてそうなるか知らないけどそうらしいよ、で遺り継がれる先人の知恵?迷信?麻酔ってなぜかかるか仕組みが分かってないけど、かかるから使ってる、みたいな感じかな、かからなかったら使えないしデメリット多かったら廃れる  
十二星座による星占いをアバウトに信じてる者だけども。あまり詳しい仕組みは知らない。ただ、生まれたときの天文的な状況、季節、産みの親の体調、諸々の環境条件は、生まれた子にちょっとは何かしらの影響があるかもね程度に思う。あと昔の人の天文学って案外侮れないかも。死活問題だろうから  
人工知能は将来は人間と同じものを食べたり排泄したりするように進化し、生身の人間はレアな存在として天皇家にしかいないほど稀少になるねカッコイイ~とか、そして人工知能は箱庭のような宇宙を作り始めるよねとか、でも実はそれは私らの今いるこの宇宙のことだよ、実は外から観てる誰かいるよねとか
貧乏になろうと薦めてくるひとはまず自分が電気やネットや湯沸し器を使わずに無人島に行って草とか食べてその生活を記録して自費出版して道で配ったらいいかと。
昔は良かったとか、肉を食べるなとか、経済発展いらないとか、そういうこという人は自分だけそうしたらいいと思う
権力者への批判で病気を揶揄するのやってはダメなのは、同病の人を揶揄したことになるから、じゃなくって、病気を揶揄するのは批判にもなってなく単に悪口だから人としてやっちゃダメなんだと私は思うなあ
人は誰しも自分の知らない分野のことを知らずにイメージだけでいろいろ思うものだけれど、それを口に出すか出さないか、出すとしたら思ったことのどういう部分をどういう誰に対して聞かせるか、聞いてる相手がそれをどう思うのか気にするのかしないのか、…そこ無頓着なヒトとは私は付き合えないな
ヒトは自然に含まれるし、ヒトのやることも作ることも自然と呼んでいいと思うけど、ヒトの手におえないような大きい自然と、わりとヒトがなんとかできる範囲の自然とがこのヒトの世には混ざりあってて、その手におえない大きさの自然を特に「大自然」って呼んでみたい感がある
さっき個人的に超絶嬉しいことがあって以来、何を見ても優しい。蜜柑の傷みにさえも、oh~!微生物!神様!みたいな気持ち。いまのこの心の状態を長く続けたいなあ(2017.2.10)
料理、動物性の脂肪に果物の甘味と酸味を取り合わせるのが好き。炭水化物を焦がした香ばしさが好き。あと、煮炊きするとできる隙間に旨味全般を水分と共に染み込ませてできるものが好き。
迷惑かけて欲しいけど迷惑かけたくなかったり。頼られたいけど頼らないで生きていたかったり。甘えて欲しいけど甘えない自分を保ちたかったり。弱いとこ見せて欲しいけど弱いとこ見せたくなかったり。…しちゃうよね、ついつい。
死の価値を生きてる人が解ることは最初から不可能だし、私はもし死にかたを仮に選べるならば、やむなくそれしかないという選び方じゃなく、一番自分の好きな人が傷を負わないように死ねたらいいなと思ってるが、ヒトの分際でそれを選ぶこと自体が超難しい
自分や他人の生の価値を、こうだとは決められないし、自分や他人の死の価値をも、こうだとは決められない。ただ私個人の都合で言えば、私が死ぬときにはなるべく遺族がそれに際して「あ、満足してたらしいな、勿体無くはなかったな、あまり痛く悲しく悔しくはなかったっぽいな」と思わせたい願望はある
女王様は庶民感覚に疎くて浪費家で心がない人っていうイメージでいてくれたほうが革命家にとって都合が良かったんだね
怖いよ、もう住めないよ、終わりだよと煽る商売の人々にとっては、そこはいつまでも怖くて住めなくて終わった場所であって欲しいとおもってるかのよう
幼少時を演じてる子役さんと、大人になってからを演じてる役者さんの、容貌や雰囲気が似ていれば似ているほど、それを観る私がとても嬉しい。
一日だけ等の単発バイトばかりやってた頃、印刷点検の仕事をしたあとは印刷物が目につき、化粧品パッケージの流れ作業をしたあとは化粧品に、通販注文関係の入力仕事のあとは通販サイトに、商品陳列の仕事のあとは店内の棚に…と、日頃あまり気にしないものとその背後の人を意識するようになった
文明が滅して遠い未来に私のiPod本体だけ発見されたとして、その中のデータである音楽を、電気もなければイヤホンもないその未来の社会の人達にどうやって気付いて貰えて聴いて貰えるかを、懸命に考えている…っていう夢を見てるうちに(あ、これ夢だ)と気がついた朝おはよう(2017.2)
体調不良で休むときに代わりの人を探して来いなんて無茶なこと言われたら、代わりを探すの難しいから風邪でも我慢して無理に出勤していそう。そうして風邪を押してでもレジに立ってる店員さんがいる店って…イヤだな、行きたくないな
人文字作成要員の仮に誰かが抜けても埋める人材に全く困らないほど膨大な数のメンバーが、脳の生まれたときから用意されてるのかな。けど、だとしたら、人文字を誰が上から見て作成指示してるの
よく、記憶の引き出しが開くとか例えるけど…先輩から後輩へ記憶の引き継書類を手渡すようなものかと思ってたら、そうじゃないみたい…先輩も後輩も、ともに巨大な人文字を作っていて、大勢いるから仮に誰かが抜けてもまた新しい人がそこを埋められる、その人文字が、記憶ってことなのかな
家族がとあるスポーツ大会に(趣味で)参加したのを応援したんだけど、観る前は興味薄かったのに、応援してたら熱くなってしまった。もしかしたらこういうことかも「興味ないから見ないんじゃなくて、見ないから興味なかった」気がする
地域とか自治会の決まった行事に各小学校のPTAから人員を出さなきゃいけないっていうしきたり、そしてそういうPTA総会やら地区なんとかかんとか定例会やらイベントの多くが、平日の昼間にばかり開催される、となれば専業主婦がやるしかなかった。今の時代に合ってないものはやめればいいのに
頑張りたいと思ってた彼が無事に頑張れたのを見て嬉しかった。折り返し地点で息子と私に気づいて手を振っていた。自己ベストだったとのこと(2017)
あーそうかちょっと分かった。生まれてこのかたこんなに、私のわがままで醜悪なところを見てきた人は、肉親と子供とそしてこの夫なんだけど、それでも「居ていい」と思ってくれてることに理屈じゃなく降参してるからかもしれないや。
自分がその何かをただ知らないってだけなのに、その知らないものを見て「嘘」「くだらない」「無意味」と切り捨てる人にはならないようにしたいと思った。
「嫌われる勇気は幸せになるために必要」は、まあ分かるよ。しかし、「幸せ」のなかには、自分の存在が他人の快さを奪わないで済むことも含んでいる、ってひとも多くいるわけだから、安東蘭子のようなサンプルって、その幸せの参考にはなりにくい。
オモテの公開アカウントで呟いたのが独り言でも、それが私の意図に関わらずに四方八方に漏れていくのは、胃で溶けるカプセルに入った物質が胃で溶けるまでは個体のつもりであるさまと似てる(2017)
地理も時間も年齢も性別も超えて誰かが心の声を読んでくれているという安心感。それを手放せないあまり、誰にも遠慮なく独り言を言える気楽さを確保できないとしたらそれも惜しい
Twitterという、フォロイー・フォロワーがいる環境下で、自分の独り言を書くとき、いちいちフォロワーさんに「それって自分のことだろうか」などと解釈されて勝手に刺さって欲しくはない一方、誰かには聞いてほしい矛盾が私にもある
他人に見られる場所に言葉を書くとき、自分の思ってることのどの範囲を、どういう基準で定めて書くか、それを何目的で発してるのか人それぞれなんだけど、私はそれが気分によって変わるし、このように気分によって定まらない人は他にもたくさんいるだろうと思う
私の場合、自分用のメモ的に特に誰かに有効かどうか考えず呟くことも多々あるけど、そんなときでも心のどこかで「これが誰か知らない人の目に入って、その人の心に何かしらの作用を起こせばいいなあ」っていう欲を持ってる。だけどその知らない誰かのことをどうにかしたいわけでもない
Twitter等のSNSを、自分用のメモとして使っている人と、自分用のメモは別な場に任せてSNSは人に向けてのツールとして使っている人といて、後者が前者を自分と同じ感覚だと誤解すると面倒なことが起きる。人によっては前者と後者を併せ持ってて、時折どちらの気分で呟いてるか変わる
自分でも時々バカみたいと思うよ。思うんだけども。たぶん私は「誤解」を毛虫のように嫌っている。無くせる訳がないのにね。悲しいんだよ。悲しいの。誤解されて悔しかったことが小さい頃からたくさんあったから、他人のことでもなんかなんだか静かな気持ちで見ていられない。
電車、時間通りに来てくれてありがとうって思ってたほうがいい。遅れないのが当たり前、って意識で縛ると事故の元かと。
年齢拒否について私のような高齢者が何を言っても自己弁護に聞こえるところがかなしい。でも外側の年齢を拒否されても中には園児、十代、いろいろな年齢の自分を取り揃えているので、そこを知ってて貰えたらいいんだ。
けど、芸能界の闇とか政界の闇とか経済界の闇とか「○○界の闇」とかの闇って、その半分?くらいは?そこに闇があるということにして人々に「何々?その闇って」と興味を掻き立てガセだろうと何だろうと売れればその場は良しとするマスコミによって作られてることが多々あるんだなって近年つくづく思う
近年、独り言のように言葉を発することが多くて家族に「それ独り言?それとも誰に話してる?」って訊かれても、独り言のようでもありつつ誰にともなく話しかけてるんだけど、これハッキリと決めなきゃダメなのかな?と思う、よく考えたらあれはツイートと似てる
園児の持ち物が親の手作りじゃなければならない理由がよく分からない。既製品にデメリットがあるというならともかく、「手作りのほうが愛がある」とかいう理由なら、それは保護者に対して、愛の形を狭めた押し付けと思う
恋して結婚して…は、分かりやすい幸せのように思われてるからみんなに勧められてしまうのだろうか。分かりやすい幸せを辿った人は、分かりやすくおおっぴらに人に勧めてくる、ということだろうか
人によって食べ物の好き嫌いはあるし、生まれてこのかた食べたことのないものとかあるけど、それでその人の人格を云々されたり人生の幸せと結びつけられたりしないじゃん。恋愛とか性とか結婚とか縁があるかないかなんて納豆食べられるか否かの程度のものじゃないか(納豆は美味しいけど)
人間って他の生物と比べると物凄く特殊だな…って考えてから、あ、でも他の生物も、自分達って他の生物と比べると物凄く特殊だなとそれぞれに思ってるのかもしれなく、ただそれを私が知るよしもないだけなのかもしれない、って思って寂しいような面白いような気がしてる
あと、親っていうのは親自身で自分の人生を楽しんでてくれるのが、子供にとっては一番ありがたい、ってこと再確認
まだ親しくない人と会話を続かせて、あわよくば親しくなれたらいいと思うときは、その人に何か些細な質問してみる。知りたいことを訊くというより、訊くことで相手を知りたい気持ちを自分に興す。その一石を投じて自分の興味をも動かして会話が展開するきっかけ作る。思わぬおまけがついてきたりする
その服、かわいい。どこで普段買い物するの?とか、さして知りたさがなくても、とりあえず訊いてみたのを切っ掛けに、会話は案外いろいろな方面へ転がって拡がって、意外とその人のことの知らない面を知って好きになるかもしれないよね、と
昔の人が作った宗教、とても腑に落ちる時と、ん~それだとこれには効かないな~って時とある。ヒトが、昔から変わらない部分と、昔とは(進化退化とか社会の構造の変化とかで)随分悩みの内容も変わってきた部分とあって、やっぱり昔の人の作ったものは今の人の何にでも使える万能薬じゃないなって思う
ベニスに死す、(ネタバレ)グスタフおじさんの気持ち少し分かる。自分は年寄り、しかも愛する対象は同性で幼い、そんなんただただ見るしかできないし手も足もでない。誰にも説明釈明できない愛で心一杯、でも幸せ。相手はそんなの知るよしもない。アイドルヲタっぽい。哀しくて可笑しい
娘をやめていいですか、も個人的に興味のあるドラマタイトル…。逃げ恥といい、わりとこの頃、今まで家族や夫婦の間で「こうあるべき」って言われて蓋をされてきた感情にスポットがあたるものが人気出てるのかも(2017)
けど、面倒な親族が私の問題に介入してくるのを私が許してたのは私自身の勇気の無さだったのかなと思う。せめて私は私以外の人の問題に介入しないように努力したい
そうなんだよ、小さい頃からよくよく、「自分を守りたい人」達の「正当防衛」っていう飛び道具に怪我させられることしきり
如何に子供のことを尊重しながら躾られるのかを、悩みながら一生懸命育ててる人は、いいよ、それ以上完璧を目指さなくても。迷惑なのは端っから我が子のことを自己実現の為の素材みたいにみなしてて、それを親の愛だと思い込んでる人ね、生き甲斐の捌け口が子孫だけに集中しちゃまずい。分散して欲しい
ざっくり思った。言葉の通じなさは、ものの捉え方の通じなさだし、依って立つ感じかたや思考パターンや人生観が違うのが人だから、七割でも八割でも、それが通じるって本当に奇跡だな
左派の人々や自然派の人々の中に、少なからず、いまここまで来られてここに生きていられてるのは科学や経済や人工のインフラのお蔭だったことをすっかり棚に上げちゃってるような考えの人をよく見かける…。
人類滅亡しても世界に覚えててもらいたいか、それとも人類滅亡しちゃったらもう世界がどうなろうとどうでもいいか、みたいな話を延々してたけど、こんな話ができること自体が幸せなように思った
西部劇に憧れてた子供の頃が井之頭さんにもあった。ということが愛しく思えるし、そんな彼が大きくなって、こうして一人でグルメを楽しんで、一人でできる幸せを誰に遠慮することもなく楽しむ大人になったことに、良かったね…嬉しいよ…と、近所のおばちゃん的な目線で観ている(2017)
美味しいもの以上に、松重さんの演技の可愛さで心が満たされてしまい、彼が何を食べていたかどんどん忘れていく、どうしても私はグルメよりも演者目的で観てしまうのが申し訳ない。だけど、甘いものは別腹なので上海胡麻団子の記憶は強烈に刻まれちゃった。(2017孤独のグルメSP)
子は「祖父母の前でおとなしくなっちゃうひとつの要因としては、特にオチのない話をするのが躊躇われるということがある」でも祖父母にとって孫はアイドル。オチ無かろうが、「だから何?」なんて絶対思わない。アイドルの発するお言葉はどんな単語でも胸に大事にしまうものなんだよ
「何もしないとか、何も考えないとか、そんなの、間が持たないし、何のために生きてるんだ、って気がしない?」いや、しない…生きてるために生きてることでもう既にいっぱいいっぱいで、何も考えない時間が喉から手が出るほど欲しい、それ、あればあっただけ良いし、なにもしなくて済むなら至福
自分のこと他人はきっと勝手に見なしたいように見なすだろうし、なにか理不尽なことを言ってくる人もいるかもしれないし、人の目がないところでズルいことする人もいるかもしれないけど、サボろうとすればサボれるかもしれないけど、自分のことは自分が見てること忘れず行こうと思う
六条御息所のこと全然好きじゃないけど、プライドが邪魔しちゃって拗らせるような部分は自分にもなきにしもあらずだし、形は平安恋愛物でも、自分のなかにもどっかにあるような人間心理のサンプルが何気に種々取り揃えてあって凄い
今にいたっては、子孫を増やせばいいってもんではなくて、少数の子供を一組の夫婦がしっかり育てるのが良いことだとされたから、産めよ増やせよの頃の名残のような人間の自然は抑え込まないと、みんなが各自の自然に従ってたら誰かが不幸になる…って思うと、誰もが心のままに幸せになるの難しいな
どんなに親しい人の言うことでも私には理解できない、感覚からして分からないことって必ずあるんだなあって今日は思った(2016)
娘は、なんか知らないけど、滅びるということに美しさを感じるらしい。私(滅びるとか亡くなるとかダメになる系が苦手)から生まれたとは思えない。クールだ。カッコいい
みんな何かしら小さな不安を超えてそこにいてそこの務めをしていると思うと、道の交通整理の人も、駅の売店の人も、そこここで会う人々みんななんか可愛く思えてくるね、っていう
なんか不安なことでも、自分のやるべきことに対して具体的なイメージがつけば少しは気が安らぐ。あとは、捕って食われる訳じゃなし。死ぬわけじゃないから。なるようになる。おまかせ。好きなひとのこと考えていく(2016)
仕事、そんなに頭を使いそうにないと思ったものも、意外と要領と機転が必要で、この仕事はラクそうだなと思ってもそこまでラクでもないことを知るから、みなさんありがとうの気持ちになる
身体疲れる仕事を始めては、座る接客がいいと思い、座る接客をやってみては、もっと動いてるほうが気楽だと思い、重いもの運ぶのいやだからPC作業がいいと思い、タイピング急かされるとやっぱりアナログな力仕事がしたくなるし、自分、めんどくさい
他の人の長所を気づいて誰かに教えてくれる、そういう心をいつも持ってるような人を、私はとても好きなんだ…と改めてこのごろ思った
でも確かにそのめっちゃ嫌いな人が、その後の私にとって「あの人のするようにはしたくない」とか「あの人のやってることに比べたらその人はずっと優しい」とか。優しさの基準作りに一役かってくれたというね…
毎日のように誰かのすごい技や何かのすごい仕組みを見せてもらってわあすごいって言えてる。テーマパークみたいだ
何かひとつの出来事が出現し、誰かがそれをその人なりに受け取り、その人の中で料理されて吐き出される、それをまた多くの誰かが各々の受け取り方をして各々の料理で発される、その様子を見ては、そこは分かるけどそこは賛同できないそれはそういうことじゃない、ポイントはそれじゃなくてと気を揉む人
愛するほどに自分のことどうでもよくなっていくものなんだと思う。いや、自分がないがしろになるわけじゃなく、犠牲になるってことじゃなくて、もうその人への愛で自分も満ちるから、自分を人に押し付けなくても自分に満足してしまうんじゃないかな
この最近のことに限らず、人が世間に公表したくないと思っているデリケートなプライベート事項を暴露して売る者買う者が存在することにめちゃくちゃ絶望する気分
なんか…お腹が痛かったという過去があったせいで、今のこの内臓の平穏がとんでもなく必要以上に心地よく感じられて…私のお腹は一体何を調子に乗ってるんだって思って、腹立つなあ(2016)
たとえばひみつのアッコちゃんテクマクマヤコンコンパクト玩具なんかも、大人になると「これで変身できる訳じゃないんだよね…」って逆に物悲しくなっちゃうから私は買いたくない派だなあ、と言ったら、その物悲しさを込みで味わえるから大人こそそんなグッズを買う楽しみに目覚めるんだと言われた。
ある人物の振舞いや主義主張を好きになれなくてもその人が作り出した例えば曲、歌、詞、演技、パフォーマンス、絵、小説、漫画などなど、作品を好きでいることは多々ある
赤一面を見ると青を混ぜたくなるし、固いものをみるとばらけるようにしむけたくなる。これしかないと思い込んでる人を見るとあれもあると言いたくなる。
なんかね…分かりやすく「これは怖い」「これは悪い」とみなされたものについて、怖いよねー悪いよねーと煽っておけば視聴率も取れるし売上げ伸びるしアクセス増えるしラクかも/怖いもの、悪いもの、とみなされるととても汚名返上しにくい社会つらい
親とか先生とかの言うことは必ずしも絶対じゃないし正しくないこともある、ってことを、親でも先生でもない人がいつどうやって教えたらいいんだろう。
かなしいことだけど学校の先生も良い先生と悪い先生がいて、悪い先生は子供の教育よりも、その場がまとまり自分が安泰でいることを優先する為なら、それがいじめの加害者側であっても生徒の多数派に媚びたりする
自分にとって良かったことしか子供に勧められないような気がしてしまう。いつもなんだか手探りの気分だった。でも私のこの心許なさを子供の荷物にしちゃいけないってことは、自分がされたらいやなことだったから分かる
ファンタビのね、あの哀しい少年いたでしょ、あの子が何か救われるのかどうなのかが気になってずっと…。映画はスペクタクルみが強い。鳥、綺麗。それとやっぱり魔法って凄い万能なのズルいっしょ(2016.12)
校閲ガール素晴らしい!この回、めっちゃ泣いた…。「当たり前を作ってくれる人」ああもう本当そうなんだよ…。幸人くん良く言った。そして悦子もなんと可愛い。森尾も良い。最近の森尾、特に良い(2016.11.30)
泣かしておきながら、泣いてることを責める人って、自分の否を認めるのがとことん怖いんじゃないだろうか。相手を泣かしてしまったことへのばつの悪さまで、相手を責めることで打ち消そうとする。自分は絶対に悪くない、ってわけね
不安な人、落ち着きたい人、そういう人がすぐターゲットにされるの本当イヤ
ただでさえ世界には私を私の手に負えなくさせるほどのものがいっぱいあるし、それでなくてもいつボケて何するかわからないのに、薬物みたいに自分の見たもの聴いたものを信用できなくさせるような物質にこれ以上自分を弄ばれて、大切な人を殴ったり死なせたりしたくない
美味しさって、噛みごたえや舌触りなど食感からくるもの大きい。表面パリパリ中はぷるぷるとか、サクサクとモチモチの組合せとか、いろいろ楽しみたい
何があっても基本的人権が保障されてさえいれば、仕事を失いたくないために職場の理不尽を堪えることもしなくていいし、お金のために人を騙したりしなくていいし、無駄と断じられそうな学問を諦めたりしなくていいし、そんな世の中が来るためには…ああ、やっぱりたくさんのお金が要るの…?
新しいことを始める前の妙な緊張感がなかなかぬぐえないんだけど、フォローさんの言葉にいつも気持ちを和らげてもらっている。自分の何を後生大事にして恐がってるのか我ながら。はい、お任せしようと思う。そして、未来の悩みを先取りして悩むのやめよう(2016.11)
でもだからこそ、気楽に、それこそ、取って食われるわけじゃなし。始めてみる。何かがきっとある。フォロワーさんを見ててそう思えた。ありがたい(2016.11)
昔に描いて後生大事にとっておいた自作の落書きを、今見るとダメだわこれって思って、一気に捨ててしまうとき、実に昔の自分に対してゴメンねって感じ。その一枚一枚にどれほど時間をかけたと思ってるの、と自分に泣かれそう。でもいま要らないんだから、酷なようだけれど仕方ない
地球の自転軸と公転軌道とのあのズレ、私は好きだよ、ただ、欲を言えばもう少しだけ、ほんの少しだけ垂直に近付くといいなあと思う。夏と冬が少し穏やかになればありがたい(※誤字修正済)
楽しみな気持ちと、しんどい気持ち、嬉しい気持ちと、かなしい気持ちが、セットというよりほどけない結び目みたいに一緒にやってくるんで、参ったなあもう
一人で食べるポッキーの何が楽しいって、人目も憚らずに一束、わしっと手掴みで食べたりできるんだよ。一本ずつ上品にじゃなく。二度寝前に思い出したからこれだけ書いとく(2016)
いろいろな事柄を観たり聴いたりしながら想像している。この今が映画館で、私はたまたま話の途中から入場してきて訳もわからず観始めた。あれはなんだろうこれはどういうことって不思議なんだけど、でもなんか知らんが圧倒されて溜め息ついてるんだ
心と身体の入れ替わりモノを観るのがホント好き。入れ替わったあとの演技に目が見慣れた頃、第一話の最初に戻って、入れ替わり前の通常の様子をまた鑑賞してそのギャップを楽しむのがこれまた好きなんだよ
それにしてもあの車掌さん好き過ぎる…。亡くなった声優さんの声の記憶がいつまでもこの脳内に流れる。声の主はこの世に居ないのに。居ないときと人の、好きな声が、ずっと私や人々の記憶に残り続けているの、泣きたくなる
自滅サービスなるものを想像したことがあるのを思い出した。誰にも全く迷惑をかけないような状況を用意してあげて、スピードに酔いたい人には車、お酒に酔いたい人には強いお酒を、閉鎖空間にその人一人と共に置いておく、けど私の亡骸を片付ける人が誰かしらいるのかと思うとやっぱだめか…ってなった
とても酷いことをした人にちょっと優しい時があったり、嫌いで仕方ない人に関して好きな部分も見つかったりするの、めんどくさいから困る
この頃の夫婦仲の悪くなさ、彼が人として良くなったというより、私が少しは穏やかになったからだと思う。私は彼が一緒に寝てくれないことに焦ったりしなくなったし、彼の古風な考え方を全滅させようと躍起になったりしなくなった。受け流せるようになった。あの頃、早まって離婚しなくて本当に良かった
会いたい欲VS迷惑になりたくない気持ち だいたい後者が勝つ。年に数回、前者が勝つことがある。
友達にご飯とか誘う時、実はとても不安になる。本当は私と過ごす時間がその人にとって無価値なんじゃないかといつも思ってる。だから気力がないとなかなか自分から遊びに誘えないんだ
今の頭と身体を健康なまま保ったままで趣味として寝ていたい。寝てずっと好きな夢を鑑賞していたい。私が監督して私が観るので、脚本やキャスティングに文句付けるような自分はいない。
生まれたときからインターネットあるし生まれたときからSNSあるし生まれたときから無重力空間だし生まれたときから親が人工知能だ、みたいな世代来るのか
自分以外の人の頭の中が何もかも見えてしまったらもう生きていけなくなる気がする
ブラと化粧がとてもめんどくさいのでみんなの記憶からブラと化粧の存在を消したくなることがある。ブラ?何それ?化粧って?何だろう?って最初からない世の中なら化粧直しも要らないしブラのせいで胃が痛くならないし天国なのに
多分だけど、ウチの子らも彼らなりに、幼時の頃しか知らない人から今を見たなら、それなり成長してはいるんだろう。親の私から見ると、少しずつ少しずつ連続して変わって行くアハ体験実感用の映像みたいに良く分からなくなりがちな成長の様子を、途中を伏せて見たらはっきり分かるのかもしれない
私の記憶に幼少時の面影を参照できる状態のまま、大人になってて素敵になってる姿も現している人を見ると、なんかいつもその間の何年間かを想像させられて、きっといろいろなことがそれまであったろうにと思い、涙出そうになる
自分や他人のあれこれが受け入れられない人によって、時に鮮やかな色が世に投入されることもあるので、何でも受け入れられることが良いか悪いかは判断できないけど、何でも受け入れるタイプの人がお隣に座ってくれるほうが私は痛い思いをせずに済むから安心
友達の有無で性格の良さを判定されるような風潮が親の世代から根強くあったと思う。友達がいないのを恥と思わせるような何かがあった。おかしい。変に依存したり束縛したりするような友達ならいっそ、いないほうがいい。結婚さえすれば幸せになれるわけではないのとそれは似てる
電車の中の出来事とか見聞きすると、よくもまあ私はこんなにいろんな何するか何思われるか分からない人間のいる世界でこの歳まで生き延びて来たよなあとつくづく今更おおーあぶなかったなと感じる
ズームで見たらいろんな色と形があるけど遠目に見たら単なる砂にしか見えない、これって「人がゴミのようだ」って言ってる人の目と、そうは感じない人の視線との違いのように思えた
トータルで言えば楽しかったことが圧倒的に多い片想い生活。それを手離すのが本当は怖かったのかもしれない
近年私は、アイドルというお仕事を完璧につとめている人達って、並ならぬ努力でそれをしているんだなあと敬服。歌や踊りや演技は勿論、イメージを保つことが本当に大変。人の夢を壊さず幸せにしてる仕事。私は個人的にはアイドルの私的性的事情全く構わないけど多くの人の需要に応える仕事大変だなあと
なんとなくいま順調に日々を送ってる我が子らも、毎日毎日無数の「もし今これをしたら、これをやめたら」っていう分岐点を通過して来たからそこにいるのかもしれない、って思った
ところで、「あんなに小さかったのにいつの間にかこんなに成長したんだね」っていうものにホント弱いです、うるうる来ます
嘘でも何でも売れればよし、とする商売は、滅びて欲しい
あー、でも覚えてて欲しい自分も所々にあるから困ったな…。私に関しては、何かこう、使えるところだけ夢か何かのように覚えててくれてあとは忘れててもらって…あれ、だんだん眠くなってきた(2016)
子供の頃、見た夢の中で路上に停められた車の下に出来ていた影から地下に降りる階段があったので、目覚めてからも駐車されたよその車を見かける度に車の下を覗き込んでいた時期が私にはあった。あぶない。子供、なにするかわかんない
夢の中でものすごく可笑しい何かに出逢った気がするのに全く思い出せない。これこそ夢の理想なのかもしれない/見てた夢が思い出せないっていうことも不思議だけど…そもそも、自分で見るのに自分の予想しない世界が夢で展開されること自体が本当に不思議
今まで私が最もリピートしたアニメ映画DVDは「ノートルダムの鐘」なんだけど、これも映画館で観たときあのオープニングで朝の光の中で主人公が鐘を撞きながら高いところから降りてくる場面でめっちゃ圧倒される美しさに泣いてしまったもん。また大画面で観たくて堪らない
何が哀しくて綺麗かって、やっぱり、誰をなぜいつからどういう訳で好きなのかという記憶が、いつか消えてしまうのかと思うと怖くてかなしくて、でも、好きっていう気持ちだけ一番遅くまで残ることがもしあれば、それは悲しいけど綺麗すぎる
ずっとずっとサボっていた事項、それに向かって自分は必ずや少しずつ着手するスイッチが入る日が来る。それを信じてこの数年間生きてきて良かった。
君の名は。」二回目観た…。結末が分かってるから安心して細部を楽しめたし神木くんの声の演技も堪能した。彼らのその後の描写、無常な感じに胸締め付けられてまた泣いてしまって気持ちよかった(2016)
また考えてた。もし自分が「部活」で命が「活動中の部員達」または自分が「会社」で命が「現役社員」の持ってる各細胞の活動のまとめとすると、発足以来記憶されてる伝統や引き継ぎ事項は参考でしかなくて、あくまでこの部活なり会社なりの評価は、現時点の構成員がいま何を感じ何やるかで決まるって
君の名は。を思い出して朝から泣いてて、息子に「何を涙流してんの?」と言われる始末。「本当に良かったんだってば。観て。映画館で観て。壮大な風景と人の縁とあれやこれやに絶対泣くから。ていうかなんで観ないの!?」って力説する始末。「いや観たいよ、観たいって言ってるでしょ」言われる始末
自分じゃない身体に入って世界を見る、時間を遡る、こういうことは現実にはできないから、こういうことを夢見させてくれる物語が好き。/他に、抗え難いものとして、薄れゆく記憶を取り戻すっていうのがあるけども。薄れゆく記憶って、ホント、哀しくて優しいよね…
単純な入れ替わりものだと思ってたら違う。反則だー。泣いたよ、もう本当に。ヒトの記憶の消えるものはかなしい。だから言ってるでしょこういうので私が泣かないわけないって。思わずこのあともう一回観て帰ろうかと思って夕食の支度のこと考えて思いとどまった
怒ってるんじゃないんだよね…子供が死んでしまったらやだ、ただただもう、生きててほしい、それを伝えたいだけのことなんだ…怒ること以外に、もっと効果的かつインパクトのある伝えかたをしたいよ、できれば
あの、怒られたくなさから自分が交通事故にあったことを隠してしまう子供たちのこと、かなしい。そんなにも子供って親に怒られるのがいやなのだ。子供が親に怒られたくないという性質を利用し私は「危ない!そんなことしたら死んじゃうよ」と躾した。場合によっては親に怒られても平気でいてほしい
今朝改めて思ったけど、うちの息子って病み上がりのしんどいときでも何かの懸案に悩んでるときでもいつでも、「行ってきます」の時になんであんなに笑顔で行ってくれるんだ?素晴らしすぎてもう何も言うことないんだけど…これで起きるのもう少し早ければ全く非の打ち所無いんだけど
鍵あかの人が呟いたことをリツイートできないのくやしい…コピペ拡散するわけにもいかない。でも、私が忘れないために記憶のよすがを→・朝焼けに美の価値を見出だす人自身に価値がないわけない・「今ここ」・夏だけの世界に夏はない、対立するものがあるからそれがある 等、大切なこと言ってくれてる
3月のライオン12巻。どのお話も楽しかった!ひなちゃんの可愛さにどうしていいかわからない桐山くんが可愛いし、将棋の仕事してる桐山くんも最高にカッコいいし、あと、三日月堂屋台のシロップデザート食べてみたい。雷堂さんも超可笑しい。滑川氏と桐山くんの対局見応え有(2016)
お風呂に入ろうか入るまいか…入るに決まってるんだけど…何かが私を押し留める。ちょっとよく考えてみよう。これまでの入浴経験からどうすべきか決定しよう(2016)
許してもらえなくてもいいや。私が勝手に好きで、私が勝手に私の記憶や心の中に好きな人を残したくて残してしまう、そのことを、好きな人に許可してもらう必要性を感じない
私が勝手に好きになった好きな人からいつも癒しや脳の活性化やその他いろいろ喜びや涙(そんなつらくないやつ)を貰ってるが、このことを私の中に忘れず残ってしまうことについて、許してもらいたい。
難しいよね…子供は親を(心理的に)捨てても良いのだ!と気付ける年齢までに、子供は親に影響されまくってるからなあ…でも気付くことができた人間が私の身内に少なくとも一人は、いる
悪かったほうの記憶を書いた昔の呟きを流してると、悪かった状況がいつまでも変わらず続くわけないことがよくわかる
良かったほうの昔の思い出をBotにして流してると、自分で「ああそうだったそうだった」ってあれこれ思い出しては、生きてて良かったと思う。ずっと良い状況が続くわけないのなら、ずっと悪い状況が続くわけもないんだ、ということを思い出させてもらえる
あの子史上もっとも手探り混沌先が見えない時代を過ごしてるだろうけど、そんな状態なのに家族に当たり散らすでもなく、要所要所で笑顔を見せるの、よく考えたら何気に素晴らしいんじゃないだろか。これよ、こういうところを採用担当者は見抜けばいいんじゃないの?(2014)
心の赴くままに何を喋ってもどこにも傷をつけなくて済むような、運転初心者の練習場のような場所、何を言っても悪意に捉えないで面白がってくれるような人、が欲しい…と、その子供の頃の自分を振り返って思う
子供だった私はどうやら人の話を混ぜっ返したり揚げ足を取ったりしたらしい。悪意はなくただ理屈遊びして言ってみたかっただけだったろう。でも他者がそれでどんなふうに気分を害するかまでを想像する能力が当時の私には備わってなかった。怒られた。反省するより恥ずかしくつまらなく窮屈だと思った
現代の「やばい」の使い方、優れてるなあ。秀逸だと思う。危ないほどに魅了されたり、いろいろ困ったことになりそうなほど素晴らしいことって、あるよね、それを三文字で言えてしまう、こんな便利な使い方を開発してくれてありがとうって思う。
でも急がない。私の好きなドラマの主人公が言った、私の好きな台詞「夢に速さは必要ない」がいつも心によぎってるから
毎日毎日が、「子供にあんな言い方してまずかったかな、キツかったかな、甘かったかな、将来に響いちゃったかな、これで良かったかな、どう感じてるかな、何をどうするのが正解だったろうか」って反省する、そんな手探り育児だった割にはなんとかかんとか育ったように今のところ見える
人が生きてていろいろつらかったり楽しかったりめんどくさかったりした中から感じたことや考えたこと等々が、人の体と脳が消滅したとき墓場に持ってかれて誰の何にも残らない…ってのが「勿体ない」って思う。記録できれば何か誰かに反面教師的にでも響いて繋がる、そういうことが欲しいので
親が転勤族だったので転校生だったんだけど、既にクラスの子達がみんないくつかのグループを形成していた二学期に私は転入。休み時間、どこかのグループに所属することができなかったけど、グループに入れてあげよかどうしようかと他人を悩ませている自分、というものを晒すことなくおトイレで過ごした
(鍵あか)(前略)悲しみにくれていたあの昔の自分に、28年後にはスマホというもので遊べるポケモンGOというものがあってだな…その人とその話を割と楽しくする羽目になってるからみててご覧と言いたい(2016)
文句いうヒト、優しくないよね…サービスが無人で自動的に当たり前に通常通りに提供されてると思ってるの?人がやってるよ…眠いけどやっと起きた人が。なかなか覚えられないのをやっと覚えた人が。何度も試験に落ちて受かった人が。お腹が痛いけどお薬飲んだ人が。子供の寝顔をもっと見ていたい人が
昔の自分のに比べたら私は他人に甘えられるようになったと思う。むしろ近年の私は「お?私、ひとに結構甘えられるようになったぞ、よし、どうだほら!こんなに甘えられる!昔の私よ、見てみろ、ほら今の私を!」…的な気持ちで甘えている
うん、「歩いて大丈夫だよ」って声かけることはできるし、倒れかけてどこかに掴まりたそうにしてたら捕まっていいよっていう近くに居ようとすることはできそう(親が子に)
いままでに面白かったドラマや映画をリピート視聴するためだけのもうひとつの人生が欲しい
やっぱり高齢者が子孫に自分の存在価値を確認するようなことを言い過ぎるのは却って子孫に好かれないタイプ
いいなあ無痛分娩。もっともっと普及すべき。無駄な痛みは一刻も早く無くなればいい。「苦労してこそ一人前に成れる」説と「痛い思いしてこそ親に成れる」説は全く誤りだということが世に広まれば広まるほどいい
私も、すっごく好きなマカダミアナッツアイスを食べようとするときに毎回思う…これ食べたら食べ終わる時にめっちゃ食べ終わりが悲しく惜しくなるの分かってるからいっそここにアイスがあるという事実を記憶から消そうかな、って…でもやっぱり食べてしまうんだ毎回(2016.9)
多くの人の分析や努力によって安全が確かめられたものについても、ちょっと怖そうだからって思って汚染だ猛毒だと騒がれてしまうことによって、多くの人の生活に影響が出てしまう。そういうことを想像できない雑な感性の政治団体っていうのは人に好かれない
いや、大人になってからの自分が「あんな人のことまでも傷付けまいとしなくったっていいんだな。」と思うことでかなりラクに生きられるようになったからね
誰をも傷付けないで生きてくって無理だし、傷付けてしまうことを必要以上に避けることで自分が追い込まれるのはしんどいことなんだけれども、「人を傷付けるのイヤだな」「人を傷付けないほうが快い」って感覚は子供のうちに備わって欲しい。その為には何が育児の決め手なんだろうか。
物事には、程度とか一長一短とか色々な面から計算して評価しないとならないものがほとんどなのに、自分の好みやイメージとか、その時その時で何が怖い気がするのかとかに拠って勝手に何かを悪者にしてしまって逆に何かを損なう。自然派ママとかもそうだし放射能わずかでも毛嫌いする人もそうだと思うし
インターネットで人の心身に甚大な被害を与えるような捏造や妄想や偽情報を発した人をもっと厳罰に処すようになってほしい
輪廻転生してるの説、疲れる。本当は命が人間コーナーの部屋にたまたま入室して、そこに展示したあの有名な「生き物は輪廻転生してる説」を見てヒト生活してる状態なんだが、部屋を出たら記憶なくなり、次のどの部屋に入るかどうかは気紛れに任されてるんじゃない?じゃない?って言われても回答無理
自分だけじゃなくて全体で成り立ってるんだ…って思えるので気楽になれるってとこある。
昭和初期位までの生まれの人々の中にまだ「妻が実家を離れて夫の家に入る」という意識を持ってて何事にも嫁には夫側の家に従わせるべきと考える人がいるよね
一人一人にくっついてくる親とか親族のそれぞれの持っている、家という制度に関する考え方や風習や感覚、これが統一されてないからいまこの時代の結婚が一層めんどくさい
そうなんだよね、あの狭い世界でイジメと片付けられていることの多くが、外から見ると法律を犯してるケース
ひとに長生きを薦めてしまうんだ…私は。子供の頃に自分で自分を不自由にしていたものから、いまかなり解き放たれてると思ってるので。まだまだ縛られてたり縛ってたりもするんだけど、長生きしてるとこれも弛む日が来るかなあ、って期待してしまうんだ
(子が夏休みの宿題に追われる歳ではなくなったし、また当時も内申点が受験に響く環境ではなかったので、こんなこと呟けるんだけど)ドリル系はむしろ8月下旬に切羽詰まって取り掛かるほうが、なんなら9月に入ってから提出日までに慌てて片付けるほうが、新学期からの勉強への助走がついて良い位だ
そーですね。インフラとか医療とかネットとか文明のお蔭で生命維持してこうしていられてるのでね。なにがなんでも自然っていってる人は未開の土地で自然だけの中で頑張ってみたらいいよね。
宇治十帖は、なんなら本編より好きかもしれない!浮舟の悩みかたが、なんか…そんなに思い詰めなくたっていいのにと傍目には思われるけど、なんか分かるよ、自分さえいなくなればって思っちゃうの。ああいうの平安時代から既にあるんだ、って思えて好きかも(あさきゆめみし)
このゲームでレベルアップすることが無益なら、生まれてからこれまでのことだってそんなに意味ないとも言える
毎日のようにポケモンをジムに置いたりポケストップを回したりする活動を通して着々とトレーナーのXPを貯め、レベルを上げていた私、振り返ると何のため何の役に立つのかと自分に問う自分が側にいる。だから答えてる、面白いため。楽しむことに役立つ。…いや違う、ただこれが面白いし楽しいから。
神様のようになにもかも見通す目を持てたら、その使い途は、幸せに生きやすくするために使いたいんだけど…知らないから幸せ、分からないから楽しい、ってこともあるのかなあ。でも自分だけが楽しい、ってことが本当に幸せだろうか?とかもやもや考えてると眠くなる
支援を必要とする人が支援を受けるために、人に他人事じゃなく我が事と感じてもらう工夫も必要になってしまうという現実があるように思う
普段の私が知り得ない・知ろうともしていなかった人の生き方について思いを馳せるのは、もしかしたらそれが他人事か他人事じゃないかのフィルターにかけて他人事じゃないと感じたからこその偽善なのかもしれない。我が事だと感じるために心に響くストーリーを求めてしまうことがあるかもしれない
座ってるときに脚を組んでしまう自分をなんとかしたい。何かの筋肉が弱ってるからなんだろうけど。脚を組もうとすると警告音が出るように進化したい
四光年位の距離に仮に地球に似た星があり生命が居て、彼らと互いに接触できたとして、知的水準に関わらず対等に交流できるのか疑問。餌にしたりされたりするんじゃないだろか。地球外生命ともしも地上の外国同志のように付き合えるのなら、蜜蜂や蟻の王国とも国交が成立できてる筈だよねー、っていう
GPSの信号を探されて運ばれるたびに瞬間移動したような気分を味わえるのがもう病みつき
これは目標とする項目が私には多過ぎるからいけない。そこで最少でもひとつだけ達成できたら良し、あとはおまけ、と今、決めた。決めようが決めまいが時間はいつもと同じ速さで流れるし世の中に何の影響も与えないけど。気は楽になったし、ゆっくり行くなう
若い頃の頃の夢は、夢っていうのかな…自分が好きな服を自分で勝手に選んで買ったり、自分が好きな番組を自分で勝手に選んで見たり、自分の好きなことを誰に一挙手一投足を否定的に見られることなくできる平穏な毎日を手に入れる、…それが私の考える幸せだった。そしてそれはいま手に入ったから幸せ
芸能人の逮捕のニュースを見るたび思うんだけど。ドラマや映画にワンカットでも出てその作品の世界を作る一員となった人間は、もっともっと責任持って生きて欲しい。その後の振る舞いでその作品に傷が付きかねないし、その作品を愛した人のことを悲しませることはやめて欲しい
源氏物語や、それをベースにした創作を読んでると、身も蓋もないようなことに意味を持たせて文学的に綺麗に見せてくれているものに対して一人の自分がすごく酔えるし、もう一人の自分が一周回ってくすくす笑ってしまうことが、わかった
そうだよ結局私は自分が大切だと思う数人さえ痛いつらい思いをしてなければそれでもういいんだ。でもそれが成り立つためには色々と間接的にこれがこうなってあれがこうなってる必要があるのを知ってはいる
どこかのリンクの残酷なものを読んでしまって、急に悲しくて、もしウチの子ら(人類が、とかじゃなくて、ウチの子ら)があんな酷い痛い目にあったら生きていけない…おそらく復讐鬼になるかブラックホールになるかしないと居られない…あってはいけない!って感情にとらわれて何もしたくなかった
つまりいま置いておきたい事項。もし親族等が子育てに理不尽な干渉をして、自分のみならず、子にまで支配を及ぼそうとしてくるときは、せめて子供に「彼ら彼女らは世界の夥しい数の人類の内のたかだか数名でしかないんだ」と教えてあげて欲しいってことです。
あの人が亡くなっても、あの人にされた悪いことも良いことも、私の中にあって、反面教師的に私の色々なこととなって現れるし、その影響を私と関わる全ての人は何パーセントか受けているから、あの人凄いなあ、ってなる。悔しいが。
私が好きなひとは、私から好かれてるんだから、それだけでめっちゃ価値があるよ!って言いたいけど、私なんかから好かれてるってだけじゃ、論拠として弱いかな…とも思ってしまい、この点において私に莫大な価値が欲しい
好きなものを眺めて夢中になってるうちに死にたいって思うけど、好きなものを眺めて夢中になってるうちは永遠に生きていたい
歳とっていくにつれ、割と何でも多くのものにまあ嫌いじゃなくなっていったんだけど、このことを喜んでいいのかは分からない。若い頃の、あの嫌いなものに対するあの嫌いという気持ちが、今はもう手に入らないかと思うと
たまごの形ってかわいいなあ、って気付いたらずっとぽけごーのたまごのことを数十分は見つめてた先程。どうしてあんなに可愛いと思う仕組みになってるんだろう卵形(2016)
先輩に敬意を払うことと、価値観や感覚が世代によって異なることで生じる感想を伝え認識してもらおうとすることとはまた別なんだ
この掃除片付け問題は、自分の内なる声が「いくらなんでもこれじゃだめだ」といってくるそのある線を越えたとき、やっと一ヶ所二ヶ所、七割くらい手を付けて、それで軽く自分に満足してしまい、次回の自らの「これじゃだめだ」衝動が湧いてくるのをただ待ってしまう
家族やリア友やTwitterフォロワーさんに、さも私はそれなり訳の分かった風な大人を装えていても、本当は、家の隅や奥やあの底のほうに、掃除すべきだが長らく放置したためにもはや直視がこわくてスルーしてる場所があるという闇を抱えてるという後ろめたさがある
そんなつもりでされたんじゃないかもしれないことで怒る癖に、自分は、こんなつもりで言ったんじゃないことぐらい察して分かってて欲しいと思ってる…それが、子供の頃の私を泣かせた人々のパターン
夫に私を異性として意識して欲しいと焦ったことももう遠い日になって、シンプルに同居してる人であるのが既定になってから、気分的にとてもラク
自分のなかに、人と熱く結び付きたい気持ちと、さっぱりあっさりしたい気持ちと、両方あって、日によって時によって変わる
ちっちゃなやらかしを色々積み重ねて、それが全て自分のものの見方を複雑に豊かにしていく、その道中に、みんないる。ひっかかりもつまづきも寄り道も何もない平坦な道をするする進んでいくのはつまらないからね
国とか世の中とか本当はどうでもいいしあれだけど、「好きな人」と私が心の中で定めている人が喜んでいる状況の方が自分にとって気持ちがいいから、そのためには平和な世の中であればいいし、好きな人が幸せであるかどうか結果だけあとで知らせてくれれば途中経過は見てなくてもいい気がしてる
日本、っていうだけで応援したり、多少なりとも知り合い繋がりあるだけで応援したり、してる。でもメダルっていうより、ミスとかバッドコンディションとかの不本意なことが起こらなければいいなって思う
私が脳内で作った不愉快なシナリオを脳内の嫌いな人物が演じ、勝手に悲しくなって目覚めるの、脳はいったい何やってるの馬鹿らしい
子供の頃から何をするのも何を考えるにも「祖母がどう思うか、祖母に何を言われるか、祖母にどれ程泣かれるのか喚かれるのか」など考えては恐れていた。でも今の私は祖母無しには無い
めんどくさいというか、娘が気にする部分を他人は気にしないという現実、に慣れることも、彼女にとってひとつのラクな選択肢じゃないかな、と示したかった。貶したわけじゃなく。うん、そうなんだ。ここに書きながらまとまってきた。後で伝えよう(2016)
伝えたいことを伝えようとして何度も推敲しては不安がる彼女に、人はそこまで気にしないと思うなあって言ったら「そうだよね…そんなのみんな気にしないよね…私、めんどくさいよね」って言うんで私は正直に、めんどくさいと言ってしまった。娘に対しもっと良い答えかたがあったかもしれない
自分の感謝や感情だけ伝えて終わるのがどうも気が引ける、かといって、これからも宜しくというのも押し付けがましい気がする、これからもツイートを読ませてもらいたい気持ちがあるけどプレッシャーはかけたくない、等々、かれこれ一時間は書きあぐねてたっていうんだ
親って、自分に馴染みのある、わかっている幸せを、子供に勧めて安心したくなっちゃう…つい。でも、親の安心を成立させるために子が生きようとするのは本意じゃない。幸せに生きて欲しいのが本当の願いだから
ってことは私の知識も、孫が生まれる頃にはかなり更新を余儀無くされるんだろうし、その頃には人々の結婚観、人生観、幸福観、も今とはかなり違うのかもしれないし。昔と今とが違うように
私の親の世代だと、離乳食もオムツ外しも早いほうが良いみたいな風潮だったようだ。私の代には、離乳食が早すぎてもアレルギーの原因になるからやめよう、オムツ外しも子供の身体機能が適応する年齢にならないと急かしてもうまくいかない、と知られるようになった。子育て常識、世代によって変わる
カロチンなんかは身体に貯めておけるから、必ずしもその一日でキッチリとバランスとる必要はなく、数日~一週間の中のトータルで偏りがなければいいって聞いてからは、献立考えるのが気楽になったことある
脳でもなんでも長年の間にすっかり細胞入れ替わってても、同一人物なのって、サークルのメンバーが入れ替わってもサークルは存続してるようなもんじゃないかな。
元々はただ子孫を残すための本能から来てることなのに、その欲からどんどん発展して絵画や歌や恋愛小説や服のデザインや色々な文化になっていってるの、ヒトってすごいな。そういうところが好きだ。ヒト好き。さて、まず洗濯干す(2016.7)
さも世の中の為みたいに言ってテロ行為したのに自分自身の安全は確保したい、他人の事情や弱さは酌まないのに自分の事情や弱さは思いやってほしい、心神喪失での無罪で勘弁してほしい、っていう虫の良さがすごい(2016.7)
役に立つか立たないかで存在意義を問う考え方が好きじゃないけど、それはそうと、役に立たない他人を自分の勝手な基準で粛清して亡きものにしたくせに、自分だけは同じように人から裁かれるのを嫌がるのが、おかしいと思った。(2016.7)
大人になった人間にだって、逃げ込む拠り所が必要だし、甘えられる人が必要だし、逃げ込めて甘えられる存在が自分にはあるんだと思うだけで立って前を向ける力が出るんだなあ、って改めて(2016.7)
昔の自分は今より恥ずかしい。昔の私を「変わってる人だ」と思ったままの同窓生さん方に言いたいのは、それ変わってる人だったんじゃなくて、物心がついてなかったか無知だったかのいずれかだから。
プレゼン試験のあの上役達がインターン生に質疑する内容、いくら篩にかける為とはいえ、聴きながら私ゃ思う「本業は学生なのにそんなこと知るか。貴重な学業の時間を削ってお宅の業界を見てやったのに、そんな細かいことは入社してやってから教わってやるし、ここまで働いてやったこと感謝しろ」と
ところで私は子供の頃は、まだ子供なんだから大目に見て欲しかったし、学生の頃は学生なんだから大目に見て欲しかったし、その後は新人なんだから大目に見て欲しかったし、新米主婦なんだから大目に見て欲しかったし、子育て中なんだから大目に見て欲しかったし、今はもう歳だから大目に見て欲しい
新製品開発製造の過程で繋がっていく人達とは、最初ピジネスが切っ掛けだったとしても、この人の為に役に立ちたいという気持ちが結局金儲けより勝ってしまう、宮沢も村野も飯山も坂本も大地もあけみも。みんなが。その様子。いやあ、良いよ~。おすすめだよ~。(「陸王」の件)
陸王」は、銀行についても、その社会貢献、っていうか、人の夢を支える面について、気づかせてくれてる。いつも悪役のように描かれがちな職業だけど、それは、その行員の仕事のやりかた、その人、に因るんだと思った
この年齢に達するのが生まれて初めてなのでよく分からないことがたくさんある
洗濯の合間に物思い中、頭の中にこんなに世界の不思議なことだとか昔の好きだった人の声だとか、そのときの自分の気持ちとか、いろいろ浮かんでるのに、いま脳みそスキャンしても第三者には脳を作ってる物質しか見えないんだろうってことが、どうしても変だし寂しい。洗濯に戻るわ
和訳、我が輩じゃなくて僕ってなってたと思う。そこが好き/すごい勝手な感想だけど、このとき彼は子供の頃の自分に戻っていて、若い彼女に向かって言ってたと思う。私も、いまわのきわのときに、ただの子供のときの記憶のなかで逝くのかなあ、ってことまで想像して泣いたので
めんどくさがりなので、人生の目標を「めんどくさいことを一切しなくていい身分になる」にしてるのに、全く叶う気配がない。あと、めんどくさがりなので、子供に何か宿題やノルマが課されてると親の私までめんどくさい気分になる。これはやめたい
私の好きな食事のシチュエーション第二位、好きなひとと一緒に食べる。第一位、独りで好きなものを自分のペースで食べる。
急に色褪せて見えてしまったり、また、その逆、なにこれ本当は凄い良いじゃない!ってなったりする
同じ何かを、同じ人であるはずの自分が、それを楽しく思えたり楽しく思えなかったりするけど、その差は何だろう、楽しく思えるときの鍵はどこにあるのか
生まれたときから決まっている職業をすごく頑張って努めてくれてる人達のおかげで成り立っていることって、かなりある
オーガニックなら何でも安全とか、自然由来なら安心とか、そんな簡単なもんじゃないです。/危なくて仕方がない自然、をヒトにとって安全なものに変えてくれてる科学産業があるから、こうして生きてこられたんじゃないの。
農業だけじゃなく、自分の意識してない色々な分野で働く人とその今まで積み重ねてきた仕組みが存在するからこの生活が成り立ってる、ってことも軽視して欲しくない。政治をしようという人にはね
これまでの仲良し度合い<考え方が合うか否か なんだけども私は、そこを超えてきて欲しいと内心では思っていて、でも私自身からは超える努力をしたくないっていう、とてもずるいし怠慢なんだ。
「経済」と「防衛」を真面目に考えてくれる政治家の人が良いな…。人の命と尊厳はそれらがなければ守れないと思うから
気分の落ち込みによって片付けを山のように溜め、そこに全く手を付ける気になれずにいたけど。ここ数日、また少し頑張ってみようかと思えてきて、やらなきゃならない全体を100とすると、今日は12~13くらい片付けられた。まだ先は遠いが嬉しい。少しでも始めたことで進む気持ち(2016.7)
家の中と外で、片付けやら買い物やら懸案事項を今日はかなり終わらせたのに、誰かが今、家の中を見ると、一体どこが変わったのか?って思うだろうね。相当頑張ったんだけどな…。だからね子供が「頑張ったよ」って言ったらそれは本当に頑張ったんだよ。目に見えての成果が分からなくても頑張ってたんだ
しかしこれだけちょっと言わせて…あのセカムズ最終回のあの、立ち上がってからのハグ直前の美咲さんの表情、あの波瑠さん、目で頷いているような表情の演技とか、素晴らしかったよね?素晴らしくなかった?素晴らしいね?かと思えば「自分でやれ」の程よい冷たさ、俯いてる顔でも分かる、上手い塩梅!
好きな役者さんのドラマを私が観ると、声の出しかたから表情の一瞬の変化から何から何まで何度でも繰り返し味わって焼き付けるように観て覚えるくらいで、心の中に役を実在させ、その人の未来のことまで考え、私と一緒に生きて貰う。我ながら気持ち悪い。その役者さんの別の役をすぐには受け入れ難いの
寝てる間にしんどい夢を見てたとき、それが夢と思わないでしんどくて、夢から覚めて初めて「なんだ夢か。とりあえず良かった」って思うのと、…夢を見てる段階で既に「これ夢でしょ、知ってる。早く覚めないかな」って思いながらしんどい夢を見続けてるのと、どっちがしんどいか分からない。おやすみ
なんで相容れない人達が互いに相容れないかというと、信じ依っている情報がそもそも同じものを見てないのでは、って気がするし、同じものを見てたとしても、脳で変換して外に出すときはもうその人の変換の仕方で別物になるからだろうか
光って結局何なのか私にはよく分かってない。色んな色の光が混ざれば混ざるほど白くなっていくというのも、妙なことだ。何なんだろう、おやすみなさい(2016)
浮気防止にGPSで彼の居場所を知る、みたいなの、すごくイヤ。別に陰で悪いことしなくたって、どこの本屋に何時間いたでしょみたいなの、いちいち知りたくも知られたくもないって。
ネットで(あ、この人は嫌いだ)と思った誰かがもし私のリアルの知り合いで、私がそれと気づかないでいたらどうしよう、逆に、あ、この人は好きだなと思ってる人が、実はリアルで私が疎ましく思ってる人だったらどうしよう、みたいなこと考えて歩いてた
幸せでいよう、笑っていよう、と思っているひとのことが、とても好き
なんとなく呟きたいことが頭にあって、先にタイムラインとかリストとか遡って読んでいるうち、何を呟こうとしてたのかすっかり忘れてしまうし、その程度のことだったんだなあと思う
なんでもかんでも私より子供のほうが上手になっていったこの年月…幸せなことだと思う
目、ってあんなに小さいパーツなのに、何を思っているのか出てしまうし、こんなに小さいところから外のほとんどの情報をここから得たりして凄い
スネイプ先生がハリーの瞳を見るところ、原作読んだときに「もしかしたら私はこの箇所の為にこのシリーズを読んだのかもしれない」とまで思ったくらいにはスネイプ先生に惚れているし…スネイプ先生に何か美味しいもの食べさせてあげたいけど、どうすればいいんだ
観たら泣くと分かってる母と暮せば映画DVDを、やっぱり観て泣いてた。明日出掛けるのに…。それと相変わらず私の手の甲と腕の血管が、泣かせる場面にくるとちょっと熱くなるので、ヒトの体って面白いと思った(2016.6)
娘とお風呂で「ヒトは体毛が退化したから服を着たのか、服を着たから体毛が退化したのか」「どっちだろ」「わかんないわかんない。理科の時間に教わった覚えがない」「教わって覚えてないだけかもしれない」とか喋り合っていた(ド文系)
可笑しい。ヒトって可笑しい。どこのお墓に入るかでそんな熱くなってるのヒトっていう生き物可笑しいいい
よく分かりもしないで人気のあるものを叩くようなネット記事なんか、アクセス稼ぎが目的なんだから、見に行きたくない…けど、何をどう書かれているのか知りたい…だけど本当に良いものは、それを分かって、良いと思う人達によって、ずっと残ると思うから。がんばって。
基本、一人でいるほうがなんかなんとなく幸せでいられる率が高い。子供と一緒の時はまた一緒の時で楽しいが、それは「一人でいることを子供が楽しむまでになってよかったな」という確認に幸せを感じるんで、結局私は一人が好きなんだ
巨人とか、私のこと踏んでも良心が痛まなくなるには、どれくらい巨大になる必要あるんだろ。相対的に、どれくらい私が小さかったら、こいつにも五分の魂があるって思われなくなるんだろか
どちらかというと、結婚当初にあれがキライこれが困るのと言われたことより、ずっと後になってから、実はこれがダメだった、我慢してた、とか言われたのが、よりショックが大きかったな…
たまに夢想することある。この大人ならではの図々しさのまま、見た目だけ小学生になって、いじめられている児童のそばに転校し、誰を敵に回してもその子の味方になって事態を解決して去っていく役をやりたい。小学生に何を思われ言われても、中身が大人だからきっと平気なのに
子供時代に感じてたあらゆる不自由がキライだった。見える範囲や動ける範囲が広がって、自分で自分のことを決められる身分に、大人になればなれるから、自由になれる、とか思ってた。大人になってみたら、それ少しは叶った。でもまだというか尚更、何かに自分から縛られたくて縛られてるところある
結果的に、あ、あの日以来、あの子とは二度と逢うことが不可能だったんだ。あの日が最後だったんだ。って後で気付くねえ。うーん、泣ける(2016)
それは私にとってもヒトにとっても恐ろしい考え方だと思う。有意義なことができなくなったら無価値だという。どうやって意義と価値を決めるかに左右される。自分で自分の価値くらい決めたい気持ちと、他人に無価値と思われた自分には自分でも価値を感じられないだろうというおそれとが、同時にある
「こういうのって普通、子供の頃に憧れて、だんだん懐かしさに変わるものでしょ?私みたいに18歳にして急にセーラー戦士になりたくて堪らなくなっちゃう人っているのかな、つらいんだけど!」とか言ってるけど、そういう人、たくさんいると思う
突然の体調不良というもののことを考えてる。正味の物理的な苦痛の他、加えて、いつ収まるのかという不安とか、なぜ今このタイミングでこんな目に遭うのの理不尽さへの怒りとか、これがもっと大事な人の大事な時に起こったことじゃなくて良かったという安堵とか、諸々思う。思った。
スカートを穿くと、スカートの裾が自分の一部のように感じられることがある。どうしてだかよく分からない。
数学の計算作業がめんどくさくて、考え方を楽しむどころじゃない私。昔から算数数学の点が取れなかった。時間内に正確に答えを出すスキルに欠けていた。もし電卓を使って良いなら、もっとイケたと思うし、ひょっとしたら数学のこと好きになったか…いやそもそも数学のこと好きなら、計算も得意だろうな
別に老後を寂しくしないために産んだり生まれたりする訳じゃないし、老後なんてだいたい寂しいもんだし、老後でなくとも人はもともと寂しいんだし
私の知らない感情や生き方を描いたフィクションとか読むと、私の知らない感情や生き方がこの世にあるんだね、そうかそうかい…でもそれを知らないままでいてやる!って変に燃えてくることってない?あるんだよー
あと右と左を均等に飲んで欲しくてテンパってたときにエンヤの曲で気を鎮めたりね…
あの子と家にべったり閉じ籠っていた頃は、外との繋がりを持ちたくて仕方なかったし、あの子が昼寝した隙に、外に行かないでお金を稼ぐ道ばかり検索して過ごしてたし、でも今更思う。もっと寝顔をイヤというほど眺めて過ごしても良かった。それこそ今はもう出来ないこと
献立をキッチリ決めてないで売場で考えながら買いたいので、とにかくお店に行ってしまおう、そんなとき、何が必要だったか覚えておく為に冷蔵庫の中身をスマホで撮影しておく。ってのを思いついた/けれど実際撮ってみるとなんだか寂寥感があるので消した。いいや。これくらいの短期の記憶が保持
非公開リストに入れて読んでいるあの人とあの人が、同じ方向に向かっているのに、行き違いで揉めているのを見て、はがゆい気持ちで見守っていると、胃が痛い(2016)
というのを踏まえてもう一回産むところからやり直してきていいですか、ってたまにおもうときある。子供に不満はないけど、私があの時もこの時ももっと優しくできたのに、という。あの場面だけ撮り直したい、あの時の台詞は差し替えたい、そういう、自分への後悔のことを言ってる。子供は今のままでいい
私は大人だから、ここにこんなふうに気持ちを書いて吐き出せる。小さい子にも、こんなふうに気持ちを吐き出す場をあげたい。吐き出す場が主に「お母さん聞いて聞いて」なんだと思ったら、やはり聞いてあげてほしい。私だってもしTwitterアプリにいちいち咎められてたら、こんなこと書けないもん
謎で面白い。同じ家に住んでるし、血も繋がってるのに、頭のなかが見えなくて可笑しい
あまり親しくない人に会うような用事、出掛けるまでがめちゃ億劫で、いざ行って帰ってくると、なんか行って良かったなあってなる。これ、なにかに似てると思った。お風呂だ。お風呂って入る前に激しく億劫だけど、お風呂から出たときに「お風呂なんて入るんじゃなかった」とは微塵も思わないんで。
早く一人になりたい欲が募る。一方で、子供との関係は私にとっては大切過ぎてもはや言葉に尽くせない。だけど、一人になりたい自由になりたいとずっと思ってそれを待っていた。どの自分が本来なんだ。もうわけわかんないや
私の人生結局ただ、そのときそのとき何か好きな人好きなもののことで頭一杯にしてただけ
出先からの帰り道、またおトイレについてあれこれ考えてる自分がいた。駅にはおトイレがある。しかしバス停にはない。バスより電車で通いたいというのはそういうわけさ(2016)
いくら顔がいけてなくても頭の回転悪くても何のスキルもなくても体力無くても根性無くても胸が無くても若く無くてもあれもこれも下手でも、こういう私がお布団の中で考えたり思ったりしたことを呟いた言葉だけを受け止めてくれたらそれが一番嬉しい
あーわかった。私、何々を誰々風にやるとこうなる、とか、誰々が何をやってみたらこうなる、っての大好きなんだ…。
好きな連ドラのことばかり思って今日も過ごしそうだ。家事を早めに片付けて前週のおさらいしよう。毎日こんな風にテレビなどが楽しみで生きてる。こうして過ごせることがすごく幸せだなって、自分でも笑っちゃうくらい簡単に幸せになっちゃうのに我が身を振り返ると何も進んでないし後退してるのに
晩ごはんでお酒を飲んだときに、食器洗いを代行してくれる業者さんを雇いたい
身体とか脳とかの返却期限がいつなのか何の説明もされてないの、どうかと思う。まあ、明日ですって言われてもなすすべもないし
ところで、「これだから○○という人種は」「○○な人々はみんなおかしい」みたいな、主語の異常に大きい言い方ってあるでしょ。私、あれが苦手
食べたい、って目と口が思っても、胃腸の方では別にいま要らないと言っている。この人たちの連携がいつもうまくいかないからこまる
人間の顔に対しては、十人十色でさまざまだと思えて判別できるのに、天道虫の一匹一匹の顔が見分けられない。みんな同じに見えちゃう。でも天道虫はそれを見分けてるんだね。…と考えるたびにまた気が遠くなって軽く虚しくなって気持ちいいんだ
初めて出逢う感情を前に戸惑ったりときめいたり恥ずかしがったり悩んだり怖がったり思い切ったり挑んだり落ち込んだり舞い上がったり目から鱗落ちたり優しくなったり…そういう人の様子を見られるから初恋の物語は特に好き
でもね、毎日落ち込むの少しやめよう。落ち込んだところで何も変わっちゃいない。今日はあれが出来なかった、より、今日はこれができた、のほうを数えよう。
怒られないこと・誰かに迷惑かけないこと・恥ずかしい事態にならないこと…さえ叶えば、たちどころにサボるそれが私という人間
心の中から一切の負荷を除去してしまいたいけど、その取り除いた負担がどこかへ蒸発するならともかく、親しい誰かが代わりに背負うことになるなら、自分で保持し続けざるをえない
鮫島くんが愛を知っていくさまを観るのがとてもうれしい。欠点も含めて誰かを好きになっていく様子が。そこに到るまでの、臆病になったり調子に乗ったり嫉妬したりいじけたり、でもまた気をとり直したりの色んな心理が、大野さんの演技でかわいく面白く観られるから応援しちゃうんだ
あやうい均衡で成り立ってるメンタル、ちょっとしたことですぐバランスがこわれてしまう。いつも楽しいことと憂鬱なことの境目にある平均台を歩いてるような気持ち
食欲を増すという薬より、私には、その時に何が心を支配しているのかが、より消化機能に影響があるようだ
こうやってふりかえると私がこの世に生まれてきて何を楽しいと思ってるかいくつか見えてくる。その中で相反するものがある。好きで大事な存在との関係の中で生きたいという欲と、誰にも何にも遠慮なく自由に一人で味わっていたい欲と
そしてこれは私の場合だけど、子供が生まれたとき、生まれてはじめてかな。自分より大切と思える存在があらわれた。それがものすごく嬉しくて。だからこの喜びを無邪気に子孫にも伝えたいなんて思ってしまうんだ。でも自分より大切な存在があることでしんどいことも本当
て言うか子供からすると、親が親自身より自分のことを重視してるのって、時に嬉しいだろうけど時に重い。
でも子供が私の知らないエリアに旅立つと、なんだか心配になっちゃうという気持ちは、やっぱりあるんだ…。でも、親を安心させようとして親の視界から抜けられないなんて思われるくらいなら、どっか行って人生を楽しんでもらったほうがいい、これも本心
親は子に、自分のよく知っている幸福、馴染みのある幸福、想像のできる幸福、を与えたいと思っちゃうところがある。でも、自分が安心したいんじゃなくて、幸せになるのを願ってるのなら、子には子のオリジナルな幸せがあることを忘れちゃいけないや、って思った
生き物としての自分をまるごと投げ出し受け入れるような間柄になるために、心から好きになりたい、なってほしい、とは思ってた。けど、そんな心から好きになっちゃった人が仮に現れたら、ますます、この先の親族との葛藤などとは遠いところにその人のことを置きたいと思ったろう
めんどくさいことをする気力体力がない上、それを解決しようともしない自分、ところが身内などに心配されて、自分だけの問題が他者の懸案事項にもなってしまうのも心苦しいから、へたに相談もできない。どうしようもない。やはり自分で何とかしたい。いや、めんどくさい、(エンドレスリピート)
時々、気を抜くとすぐ「え?この世界、どうしてあるの?」とか考えちゃって、めんどくさいことを何もしたくなくなる
私を使って自分を叶えたいと思うような親戚が居ることが主な悩みだった頃、母は私を私として生かしてくれてた。それだけが心の命綱だった
そんでもって、あんまり早くから「就活準備大事大事」言われ過ぎて、本来、学問に専念できる環境を得るため入学した学校なのに、一年生の時から就活に有利か否かばかり意識させられて堪ったもんじゃないじゃん。
まあ、私の考えは甘いんだろうね…だけど、普通に常識も持ってて勤勉でイイ感じの若い人が、そのままどこの会社に入っても、研修や実務を通して伸ばしてあげたらちゃんと働けそうな人達が、入り口であまりにも過酷なことを強いられ弾かれ過ぎてる気がした。
企業研究とか就活のための就活に時間を割いた学生が欲しいんなら大学で何をやってたか問わなくてもいいし、大学卒に拘って採用しなくてもいいんじゃないの。ウチの会社のことどんだけ知ってるのクイズとかで決めちゃえばいいのでは
生まれ変わるなら身体の丈夫な人になりたい。このことに思い至るまでに長い年月を要した。頭の中だけでなんとかなると思ってたから
ところで前世で私のこと好きだった人って、仮にいたとして、いま何してる?まさかここに?
「僕の記憶がすべて消えても生まれ変わったらまた君を探す」(歌詞引用)ところまでは娘と私は大好き。しかし、その、生まれ変わったところが未来であれ平行世界であれ、探したならまた愛して欲しいのが私、必ずしも同じ思いじゃなく別な縁でもいいじゃんと言うのが娘
思い合っている人間同士が、未来あるいは過去、あるいは平行世界、に転生して、前世での関係性の記憶がない系の話のとき、その、記憶がない二人なり三人なりが、記憶がないまま、だけど深層心理で惹かれる…切なくて好きという
なんかいまの自分、些細なことにめっちゃ面白さを感じられる状態にこの瞬間はなっていて、こんなときに将来の不安とかは折角だから一切考えたくないのに、気を抜くと、まるでバランスをとろうとするかのように、先々の心配を自ら心の棚の上から降ろしてくる私、我ながら愚か
僅かに明るくなった頭でいま思ったことを書いとく。例えば3日後に、めっちゃ憂鬱なイベントがあるとする、私はそこまでの3日間、その憂鬱なイベントのことで頭も心も埋め尽くしてしまうのが常だけど、憂鬱イベントのことを考えるのを、当日だけにしよう。3日後が到来するまで忘れよう
結局、いま私が自ら死なない理由として主なものは、私が自殺とか仮にすると、親や夫や子供が自責の念に苛まれてそれを一生背負うようなことになるわけじゃん。そんな犠牲まで出して自分は死にたいのかっていったら、まあそこまでじゃないな、と。私が生きていることで未然に防げるものってあると思う
どうにもならなくなったように見える自分のメンタル、でもまだ息を吹き返す力がきっとあると信じていたい。ちょっとずつ、まず、できそうなことからちょっとずつ、何かひとつでも、現状維持でもいい
別に親の生き甲斐や存在価値を奪おうなんて思ってない、ただ、いまはその類いの助けがなくても大丈夫になったというだけなんだ。親のことは好きなことに変わりないって思う
親がやってくれることや、くれようとするものに対し、いや大丈夫だよ子供じゃないんだから要らないよ、って言って返したとき、悲しそうな寂しそうな泣きそうな顔とか親にされると、子供のほうはつらい。もっといつまでも子供でいなければならないような気がしちゃう
こんな穏やかで誰とも争う気持ちの端から無いような人だからあの義父と連れ添えたんだろうな…ってつくづく思う。そして私もこういうおばあちゃんになれば、お世話になる人の負担を格段に減らすことが出来るだろうなと
分かったぞ…私は、自分の好きなものを詳細に伝えてくれるものを見ると嬉しいんだ。
五分くらい泣いたら全ての懸案事項が全部初期化するような仕組みが待たれる
人間関係が私のキャパを越えている、というか…自分が原因で誰かを不快にさせたり悲しませたりしていたかと思うととても落ち込むし、どんな楽しいことを思い浮かべようとしても心ここにあらず
おトイレにいくたびに実は思い出してる。毎日。いちいち言わないけど毎日のように毎回、秋庭智彦を思い出してる
シェアハウス感覚なんだと思う、我ながら。これは私の育ちが関係している。私のプライバシーをあまりにも何でも親や親戚が把握して干渉してくることにうんざりすることが多々あったから
この歳で、若い人の好きになるようなものを好きになったメリットって自分ではあると思っている。それは我が子が何を好きでも「そんなものにハマるべきじゃない」なんて思わなくて済むこと。それがたとえ私の理解の外にあるものだったとしても
私の趣味は理解されない。理解されようと必死で戦って互いに疲れるくらいなら言わなきゃいい。逆もあると思う。私にいちいち言わないでいい。人に迷惑かけないものであれば、なんでもかんでも私に分からせようとしないで勝手に内緒で楽しめばいい。但し人に迷惑かけないように
法律的な裏切り行為とか浮気とかそういうのは私は絶対しない。そうじゃなくて、心の中の秘密はあるし、彼にもあるだろうし、見せ合わないほうが互いに平和に暮らせるならそれでいい
家族同志なんだから思っていることの何もかもを打ち明け合い理解し合うべき、とは私は思わない。実際、人って、分かり合えない部分がどうしてもあるのにそうしなきゃいけないと互いに戦う羽目になるより、分からないとこは分からないまま目をつぶり合いたい
なにもしたくない病の発作が出ていた。だけどまさか、この病状のまま自分がなにもしないで極端な話、一生このままでいくとは思えない。いつ何をきっかけに私は何をしたくなるかな、自分を観察してみる(2016.4)
この気持ちを例えば家族とか友達とかに直接言うと、何かと要らない心配とか気遣いとかさせそうでしょ。ネットに書けば、誰宛でもなくなる。素晴らしいよね
でも、一緒に居て楽しい人と一緒にいる楽しみとは別に、だけど私がとても好きなのは、好きなことを一人で自由にすること。一人で好きなことして遊んでていい、この世にこんな幸せなことってある?お金と体が許せば一生この楽しみを味わい尽くしたい
他人の思考を名指しで無理に変えたいわけじゃなく、ただ、こういうことに私はこう思ったよ、という、エッセンスだけ遺しておいて、それを見ず知らずの誰かが見て反面教師にするなり気を楽にするなりしてほしいだけ。実際のリアル人間関係には波風たてずいたい
人がなんとなく自分のイメージでだけ誰かを誤解し貶めると、それがまた人々に広まるでしょ。そういうの見ると、いやそれは違うよっていう声を探して、そのほうが適切だなと思うとそれを広めたいという気持ちになる
被災地に何かしてあげたい人の思いと実際のニーズが噛み合ってない事例を見ながら、これ様々なことに通じると思った。たとえば親の思いと子供の求めるものが違うとか、友達に良かれと思ってしたことが良くなかったとか。何かすることに臆病になる必要はないけど、できるだけ情報収集して察するほかない
抗えない力に翻弄されている様子を観るのが好きというのは、保護欲が湧くからでもなくてただそれを観たいのだという。分かる。人にはそういう欲が大なり小なりあるんだと思う。それを全開にしちゃうと人間社会ではいろいろまずいけど
自分の身分をきちんと名乗り、技の名称も伝え、変身も時間をかけて見せる、その間に相手が攻撃を待ってくれている。様式美だよね。そんな話をしていた
タキシード仮面って自称ですか。ガラスの仮面に出てくる紫の薔薇の人は、自分で「紫の薔薇の者です」とか名乗らないのに、タキシード仮面は、自分で自分をタキシード仮面って言っちゃってるんだね。
アキと一緒に東京に行くはずだったユイ。チャンスはいつも自分の予期せぬ出来事で失ってた。振り返って、それが良かったのかどうかもわからない。後で振り返ったときに、それで良かったと思える生き方をしたから、良いものに変わったんだろう
危なそうなイメージで見られるものも、安全確認検証されて使用されることによって、それは人の命や生活を支える大事なものだったりするから。防腐剤だって農薬だって抗がん剤だってそうだし。
お金で頂くと誰のどんな好意も無駄にしない。趣味が合わないこともないし、サイズや体質やタイミングに合わないこともなく、こちら都合で使わせてもらえるから、ありがたいお金…次にありがたいのがたくさんあっても困らないもの、小さいもの、日持ちするもの、自分では買わなさそうなもの
余震ご注意。上から落ちてくるものに注意して、避難のときはブレーカー落として。落ち着いたら水を汲んでおいて、モバイル電池温存で。こちらへのご連絡は落ち着いたらで/枕元に眼鏡、靴、着替え、常用薬などもね
授業である音楽を聴いたというんだけど、なんか眠るための曲で、一時間くらいのが8曲で組曲になってる、それはヒトが8時間の睡眠を取る間に寝ながら聴くために作られたもので、コンサートでは客席が椅子じゃなくてベッドなんで、寝ても大丈夫だそうな。演奏者どういう気持ち
私の結婚事例だけを子供には参考にして欲しくない。とはいえ私が身をもって例示できるものはこれだけ。試行錯誤してみたくてもできない。色々な人と色々な結婚生活をして見せたくても、てか、親が結婚に関して試行錯誤したら子供に良くない影響出そうだからできないんだけど
今頑張れば将来楽になる、とかいう論調であれば、いや、いまこの瞬間も人生のうちなんだから、今もらくで楽しいことは大切だ、と論破してやる。でも彼みたいに、いつも挑戦して上を上を見てなきゃ人生の意味がないみたいに固く信じてるような人に、それは違うというのは、彼の人生を否定することになる
酸いも甘いも味わっての、まるごとの、人生の醍醐味を、生きてる間に知って欲しい/だけどその時その時に痛い思いをして欲しくない、痛そうなの見ると早く痛くなくなって欲しいと思っちゃう。お腹痛いの早く治れ、だけど美味しく食べられる幸せを実感できたら嬉しいだろう、の思いが同時に有る
タイムラインに流れてくる文字のひとつひとつが、人が入力して送信したものなんだよ、しかもただ入力したんじゃなくて、何か考えたり思ったりしてそうなったんだ…すごいね、すごくない?なんか気が遠くなるよ…。私以外に人類がたくさんいて、私の脳に浮かんでることと全然違うことを各々思ってる
怖い目に遭わないように気を付けよう、はいいけど、気を付けなかったから怖い目に遭ったんだろう、はダメだと思う
めっちゃ良い夢を見た。良い夢過ぎて。私、知らない間に夢と寿命の半分を引き換えにする取引とかしたかなとおもった(2016)
トイレットペーパーの袋の上部に、このミシン目からお開けください。って書いてあるけど、たいてい「どの?どこにミシン目があるの?」と思うし。これ定期的に言ってるかな私。おやすみ
だから途中から来た新入りさんが好きなんだ。まずは私と繋がってくれ。そして私を足掛かりに集団に溶け込むがいい。それを見届けたら私の役目は果たされる。…みたいな気持ち。
現実世界でも私はおかしいところある。その集合の中に、なんか友達になりたいような人を見つけても、その人に既に仲間がたくさんいるの見ると、もう私なんかが別に友達になんなくたって支障ないだろう。って遠巻きにしちゃうような感じ
好きな一つを延々と堪能したい自分が、好きなものの数だけ分身すればいいのに、ってわりと真剣に考える
好きな曲とか好きな場面とか、それだけを何十回でも百回でも繰り返して味わって一日が終わってしまうことがある。そんなときこの、私の手元にあるこれだけ抱いて一生暮らしたいから新しいコンテンツはむしろ出ないで!と思うことある。だけどまたもう一人の私が新しいのを聴きたい観たいと言い出す
ここではないどこか…それは、誰かよその人が作ってくれたご飯が出てきて、片付けも誰かがしてくれて、服もいつのまにかきれいになってて、掃除も誰かがしてくれるが、私はそれに対して何の申し訳なさも感じなくて良いという、どこか
私は心に固く誓うのだった。覚えてなければならないIDとパスワードが私の頭のなかにしかないうちは、絶対絶対にボケないようにしたい。
「自分の必要とされていなさ、好かれていなさ、価値のなさ、を勝手に自分の脳内で作り上げては落ち込んだり寂しくなったりする人」それこそ私が長年悩まされてきた人の特性なんだ。だから私はそうなるまいとしている。私はいまのところそうなるまいと頑張っていると思う
他者から思われた分しか、私からもその人への思いが出てこない、ってのは、お金を入れた分しか商品を出せない自動販売機と似ている
なぜ彼は私とだったのか、なぜ私は彼とだったのか、これについて疑問におもうたびに「異文化交流を通じた修行」と自分に言い聞かせてきたけど、本当は、自分に言い聞かせる修行なのかもしれない
なんでも保存できコピーできて繰返し再生できてしまうことに慣れてるから、尚更、「時間が後戻りできない」「いまこの瞬間は今しか噛み締められない」ことが不思議で悲しくて綺麗で仕方がないように感じる
大変な思いをしてた過去の、その時にしか味わえなかったあの味だけを、また味わってみたいだけ
子供が幼かったときの、子育てしてた時代を、めっちゃ懐かしく思って…戻ってみたいと思ったり、でも、また戻るなんてとんでもないよ折角ここまでやってきたのに!と思ったりする。
急に無性に、子供らの乳児期だったころに戻りたくなるけど、そうですか。ではそれを叶えましょう。なんてもし言われたら、いややっぱり断りたい
昔の私も今の私もこれといった価値がないのは変わんないけど、当時と今と違うのは、今の私は自分にこれといった価値がなくても生きていられるってことかな。(図々しくなっただけかもしれない)
子供や孫にでなくとも、私を知ってるひとや、私を知らない人、私が知ってる人、私が知らない人、のなかに、何らかの形で、直接的または間接的に、私の生きてきたことが遺ることを思ってるので、大丈夫です
何処にも居ない人となったその人は、だけどずっと私の中から消えないどころか、私が関わる全ての人々との関係において何割か何%か分からないけどその人の影響がずっと遺っていき世界全体に拡がっていく、希釈してもきっとゼロにならない。そんな気がする
子供の私にとって、世の中で初めて出逢った壁にして、初めて自分で乗り越えなきゃならないと思った壁にして、とても大きな壁は、親族だった
子供にとって(大人にとっても)、自分の言うこと考えること思ったことを、そうなんだねと受け止めてくれる人の気持ちが、どれ程に心をほぐしてくれて頭の枷を外してくれるのか…。これを時折思い出す、そのたびに、私も人にそうしたいと思うんだった
バイトの面接を前に緊張している娘のその緊張は彼女のものだから、彼女がそれを財産にするのを離れて見ていればよい私(2016.3)
たとえば何を言っても頭ごなしに否定したりするような親には、四六時中同じ部屋で顔をつきあわせていたって、もうなにも報告するものかと思って黙ったまま食事を済ませるだろうし、変に干渉や支配はしてこないけどちゃんと肯定応援してくれる家族には、洗面所でちょっとしか合えなても会話弾むのでは
一人でゆっくりできる時間空間が必要なのは主婦も同じ。一緒の空間にいても何も話す気にならない場合もある。家族に付かず離れずの関心を持ち合える安心感があって家族に話しやすい空気があれば、僅かな時間共有場面でも和やかに過ごせる。一日のうち必ず誰かに顔を合わせる間取りは良いと思うけど
身体って、何のウィルスにやられなくたって、気持ちで勝手にどんどん壊れたりするから、逆もきっとあるかな。優しくされると身体も軽くなるもんね。
保育料を高いと思う感覚と、育児全般仕事に対する世の過小評価とは、何かしら関係がありそう
虐待されてたけど自分は虐待加害者にならずに頑張ってくれた人を実際知っている
昔から私はこうなんだ。集団にいまひとつ馴染み切れない。いきなり距離を狭めてお近づきになると相手に重たがられるかなとか、あんまり自分を出しても何だかなとか思って適度な距離を保ってる気でいたら、年度末には他の皆が私の知らないところでどんどん輪を作っていて、知らないうちに私はぼっち
親の介護への不安もありつつ、自分の家事片付け先延ばしに関してのどうにかしなきゃ感もありつつ、常に燻る夫との価値観の相違からくる落ち着かなさもありつつ、いま幸せな要素を、過去や未来にとらわれず味わっていたいとも思う
尊敬されなくていいから、邪魔者にだけはなりたくない
バイト説明会に自ら行ってきたというのは、もしかしたらそんな自分を少し変えたいと思ってるのかな…。私ならあのバイト絶対申し込めないな。だから、あの子、偉いな。アクセスする時点ですごい。私には無理だ(2016)
誰かや何かを好きになる、好きでいる。自分のこの気持ち自体がとても好きで、好きな気持ち自体がとても大切に思えて、とても悲しいくらい嬉しくて、絶対に死にたくない。またはこのままこの気持ちだけの存在に今すぐなりたい。
空に雲が全く見当たらなかった。こういう天気では娘は上機嫌になる。歩きながら何回も「ふふっ」とかいって笑うから、どうしたの?と訊くと「思い出し笑いだよ」そのうちまたふふっと笑ってたから、また思い出し笑いかと訊けば「いや何でもない」(2016.3)
子供には、何かつらいことがあったら私にどんどん弱音をはいてほしいし泣いて欲しいと思ってる。何をどうすることができるわけじゃなくても。…と思ういっぽうで私は親には心配をかけたくないって思ってしまう
ベビーカーが邪魔だからどっか行って欲しいと書ける大学生、自分が赤ん坊のときどうだったんだろ。そしていつまでも今の若さで誰の邪魔にもならずに車椅子なども使わずに街を歩けると思ってるんだろうな
あんな現世利益とかで幸不幸を測られたくないし。広布基金の額で信心深さなんか決まるわけない。折伏のセンス無さすぎ。電話すれば投票してくれると思ってる振り。都合の悪い批判や出来事は何でも「魔」の仕業だといって片付けて誰も疑問に思うことすらできなく
子供の時を思い出すとちょっと悲しい。そもそも「子供であること」がもうある程度悲しい
分かったよ…分かったんだ。いままで真面目にいろいろがんばってきたのは、誰にも気兼ねない自由な身分と、自由を支えるお金とか環境を手にするためだった。寿命がくるよりも一年でも先にこれを叶えたい。もしかしたらもう叶ってるのかもしれない。そういう身分と環境は既にあって、使えてないだけか
このたびの娘の入試見守りを通して、子には子の人生があるのだということを、頭だけでなく実感としてわかりかけてくれたのではないかと思う。人は、変われないようでも少しずつ変われる。そんな気がした(2016)
子供にゲームは不要、っていうなら大人にも不要なんだろうけど。だけどそんなこと言い出したらもう何だって不要…。音楽だって不要でしょう
大体さ…「子供には約束させた。だから約束を守らせる」っていっても、その約束は本当に対等な立場の人との間のものならそれはそうだろうけど、子供なんて親に生存権を握られてるから理不尽な「約束」でも受け入れざるを得ないよなあ
でもね…ふと、いまになって思った。あの彼も考えてみれば、いまの私の息子と対して変わらない歳の、若い子供だったんだ。ちょっと魔が差して?わざと強げな様子を装ってみただけの、そんなに暴君でもない、未熟な男の子だったのかもしれない。もしかしたら今は穏やかなパパにどこかでなっているかも
私がこの世で一番嫌いな男性(に限らない)のタイプ、それは束縛支配する人。なので
学生の時、一度告白されて、一日か二日だけ彼氏?だった男子のこと思い出してる。私が交際をお断りした理由は主に…初デートの約束の時に彼が私の服装にリクエストをしてきたその口調が割と命令っぽいニュアンスだったことによる。なあ、あれ着て来いよ。それで私は嫌いになった。私は着たいものを着る
無意味に思える全てに自分にはわからない意味が実はあるんだ、と思い直して人生ゲームを束の間で楽しめるように私もなりたいと思ってはいるのだけれど。楽しみは悲しみとか不安とかいろいろ込みでの楽しみだからねえ…
とても頑張ったことや願ったことが、思ったように実を結ぶかどうかはわからない。わからないけど、嬉しいまたは悔しいの気持ちも含めて、頑張ったことや願ったことはその後の人生を作っていく大切な何かになった。と私は自分の経験から言う
つくづく思ったのは、ヒトって体内の有事に立ち向かうとき、とにかく食べ物なんか本当に邪魔なんだなって。
脳の中、不思議。また子供とこのことが話題になったんだけど。脳の細胞入れ替わっても何年も記憶あるの何故と。頭の中の新人細胞が先輩細胞にその都度口頭で情報を引き継ぎされてるんじゃね?ってなった。でもその口伝えする情報を各々細胞自体はどうやって覚えてんの?ってなった文系母娘
なんか私だけが分かって感じている私の好きな人やモノ、これを他の人が知らないことについて、これを知らない人は人生損してるって思っちゃって、幾千もの人の頭のなかに直に宣伝したくなることがある。だけど私の知らない何かの魅力も誰かにとって「これ知らないなんて損してる」のかも。キリがない
いつか太陽系ごと地球も人類もなくなってしまうのに、生きてても、子孫繁栄しても、世の中を良くしたいと思っても、何もかも無意味じゃないのか?…いや違う。口のなかですぐに溶けてなくなってしまうアイスクリーム、一瞬光って消えてく花火、なくなるからって無駄な存在ではなかったでしょうと。
ホントそう。自分の狭い「これは善い。これは悪い。」の範囲に子供の世界が収まらないのに、それも認めようとしてない…。うん、とてもあらゆる教育上の反面教師的な件だと思った
お薦めは、子供にキツいこと言いそうになったら、押し入れとか布団の中に頭突っ込んでしばらくじっとして時間をおくと、だいぶクールダウン出来るのでお試しください。
思い出したくもないけどそんなどうにももて余してしまう自分の不満を子供に八つ当たりなどした。本当に嫌だ。言ってしまったこともやってしまったことも消せない。
でもね…なんか子供が小さい頃に私、ああこの子に私のこのイライラとかを分かって貰いたい、分からせたい、とか思っちゃう瞬間がたくさんあった。我ながら迷惑極まりない親だなと思うけど、無駄で有害無益と知りながら「ねえ、ママはね、つらいのっ!」とか叫んで、子供は尚更泣き止まない不毛な時間
子供の気持ちを分かろうとしてくれない親の気持ちを、子供に分かって欲しいとか無茶。子供相手にそんなに甘えてしまうのダメ。相手は子供なんだから子供が親に甘えるのが本来だよね…
それにしても親って理不尽な存在だな…。子供だというだけで子供はかわいそう。だって親に逆らうと生きていけないから
どんな躾だとしても子供の持ち物を親が壊すとか暴虐でしょ。子の記憶に残るのは、どうしてこうなったとかの経緯じゃなく、ただ、親にゲーム機を壊されたという思い。言うことを聞かせるために暴力的な方法を使ってもいいんだという見本。
お財布ならちゃんと持っててあげてるよ、大丈夫、っていうと「ああ良かった」そして昔の唱歌を聴かせる、歌うとめちゃ上手い。笑うと可愛いかったです。ボケる前は、私のこといろいろ干渉して恐かったけど、ボケてからは面倒なかわりに可愛くなってた(回想)
自分の身体の中の一番優先して守るものだ、という生理的な感覚でまずは我が子を守ってきた親が、だけどこの子は、自分とは全く違う個人なのだから、自分の知らないところで幸せになってほしい、というところに到達したら、そこで初めて、無条件の愛は成立すると思う
でも、自分の身を守るように息をするように子供のことを守ろうとすること=子供を人として尊重すること、ではないかも。イコールじゃない。むしろ、これを同一視してしまうと子供を自分とは違う人間として大切に離す、ということができなくなる
それは今までに知らなかった気持ちだった。自分の身体でたとえれば、自分の身体は考えるまでもなく反射的に守るが、転ぶときに咄嗟に地面に手を付く、その「手」が自分で、手が守ろうとした「頭や胴体」が子供、みたいな。理屈とか意志とか無関係に
私は自分のこと愛してる、つまり、風邪を引けば早く治りたいと思うし、自分がつらければ、つらくない状態にしたいと思う。それを子供に対してもそういう思いが出てくるが、優先順位が自分の風邪より子供の風邪快癒に、より意識が向かうっていう生まれて初めて感覚
産まれた子供に対して自分のなかに生じた感情、それまでに経験したことの無かったものだった。好きとかそういうのじゃないし、ただ可愛いだけとかじゃない。なんというか、自分自身のように当然守る気持ちに自然となるけれど、自分自身よりも優先して守る気持ちに自然となってしまう
はじめて小学生の子供が入試に挑戦した時、入試会場の保護者控室にいたんだけど、いままで応援させてもらってありがとうの気持ちと、いま子供と一緒にあの教室にいるすべての受験生の子たちがみんな何のアクシデントもなく熱も出ずおなかもこわさずにこの部屋に来ますようにの気持ちだったのを思い出す
フォローさんの流してくれた記事読んでて、古代の西と東の交流についておもいをはせていた。イスラエルの修行の格好と日本の天狗像、似てる、ホントだ。そういえば私、学生時代に民族舞踊とか民族音楽に接する機会があったけど、イスラエル民謡ことごとく日本の童歌と雰囲気が似てるなあと思った
白紙の紙の上辺と下辺から数センチの幅を取った部分を区切り、各々自分の陣地とし、間を川とし、所々に置き石や橋を書き、一対一で交互にプレイ、最初は自陣からスタート、芯を紙に突き立てて押し付けた鉛筆を弾いて先端が止まった箇所が一歩、川に落ちず先に敵地に侵入したら勝ち、この遊びの名称は何
産まれる。不思議だ。どんな民族の、どんな文化の、どんな思想の、どんな生い立ちの、どんな性格の、どんな体質の、どんな生活をしている人のところに、どんなタイミングで、どんな順番で、どんな状況下で、産まれてくるのか、わからない。
ところで腸を動かすのに上下動がいいっていう話、普通に歩く時間を増やすだけでもいいらしいよ。以前、お腹いたくて某所のおトイレに落ち着いたとき、十数分ほど座っても進展なかったのが、ふと一度個室を出て諦めて歩き出したら再び動いたもん
私に対して何かしてくれる人の真意は、日頃の言動から推測される。私を下に見て支配しようとしている人のことはわかるし、そんな人から何をしてもらってもいやだ。けど、そうでなくて本当に私を尊重してくれてることがわかってる人がしてくれたことは、それが多少お節介でも、その気持ちに癒される
本当の本当は子供や孫を束縛なんてしたくなかったのだろうとおもう。きっと彼女も。ただ幸せを願いたかったのに寂しさがそれを覆ってわからなくしてしまったんじゃないかな、いまはそう思える
もうすぐ世が滅亡するよ、このままでは地獄におちるよ、って宣伝しておいてから何かを信じ込ませて操る手法、割といろんなところに見つかるね
我が子から「そうやって親から可愛い可愛い言われて育ったせいで、自分でも自分のこと若干可愛いかと思ってしまうのがイヤ」と言われたから、私の「可愛い」は世間標準による偏差値とは無関係で、愛したくなる・抱き締めたくなる・癒される・いつまでも見ていたい、の意味だと再度伝えておいた。
寂しい状態に妙に安心してる時があるかもしれない。
ものの捉え方は誰が絶対正しいとか間違いだとかないので、各自、言いたいことを言うってことでいいんだけども。何か書いたら自分の望まない反応もあること込みで、それで受け入れたくない考えを拒絶するのも勝手だと思う。どのみち人間のすることなんてどれもおかしいから
楽に死にたいと同時に、私は、遺った人に「ああ、彼女は楽に逝ったようだな」とアピールしたい…何のためかよくわかんないけど
神田川の、赤い手拭いマフラーにして横丁の風呂屋に行ってた二人、その後のいまはどうしてるんだろうね、とお風呂のなかで娘と喋った。今はお金持ちなのか貧乏なのか、別れたのか、今も続いてるのか…それとあの彼が長風呂なのか、それとも彼女のほうが彼を好きで早目にお風呂から出てしまうのか
恋愛事情になんて全く興味もないし、善いとか悪いとかどちらも思わないけど、個人の秘匿していた事情を公表されてお金に替えられてしまうケースについて怖いなと思っている
そして眺めて「どれがファイナルアンサーなんだろう?私は誰のことを内心で信じていればいいんだろう?ホントにそれが結論?オセロの駒のようにひっくり返ったりしない説なの?」と思いながらそのうちに興味が薄れていく
捏造ソースを信じこんで妄想全開で誰かを貶す言葉を見てしまった時に、それが貶す対象の、その通りの実態のものは、はたしてこの世に実在するのかと/私もそうかもしれない。私の頭のなかで作り上げた像に対して嫌いになったり好きになったりしている
ふと読みたくなった過去の文章なんだけど…、誰かが何かを思ってその思いを書いておいてくれるというのは、読者の心の故郷的なものにもなっていくし、世界に遺されていくということを改めて感じてる
鉄拳さんのパラパラ漫画が原作のドラマ、振り子。録画やっと観たのよ。泣きすぎて頭痛してきた。出掛ける前とかに観ちゃだめなやつだった。すっごく良い。中村獅童さんもすっごくよかったし(2016.1)
思い出したら娘は私と湯船に入ると、必ず絶対100%、私の二の腕の柔らかいところを触っている。さっきもそうだった。いつもなされるがままにしてるけど今日は訊いてみた、どうしてなのかと。そしたら「触ることって人間にとって必要だよね…」って、あんまり答になってないことを返してきた
(被災地の)ボランティアに、少しだけ参加させてもらった家族が報告してたことがあるけど、どんな作業もとにかく簡単そうに見えても簡単じゃないし一日では終わらないし一人では終わらないし一つの考え方一つの方向を定めること自体が大変。ほんのちょっと垣間見ただけでも感じたという
そうだな…幼少時の子供の何がかわいそうって、ここより外に違う世界がある!ということを分かりようがない、ってことかも。親にせよ、学校の狭い人間関係にせよ…。注ぎ込みたいわ、いきなりの広い俯瞰の世界観
私が神様ならね、物理的にも精神的にも、子供にしたことが即時に自分の身にも同じことを受けるような仕組みにする。叩いたら自分の身体も叩かれた痛みが生じて、撫でたら自分も撫でられる感覚を覚える、とか…
十把一絡げっていう言葉から受ける強い鶏の唐揚げ感
ウルスラの声が好きだ。それと、とんぼを助けたくて夢中でデッキブラシにまたがるキキの表情も好き
人間関係トラブルなんて外から分かりようがないし。Aから見ればBのせい。Bから見ればAのせい。Cから見ればどっちもどっち。Dから見ればどれも良し。誰かだけの罪でもないし誰かだけの手柄でもないし。そんなことを考えさせられた(2016)
自分が経験してきて、これは良かった!っていうものを子供に薦めたくなる気持ちが、あるよね。しょうがない。悪いことじゃないかもしれないけど、友達からの推薦と、親からの推薦とでは、子供の受ける心理的な縛られ感が違うと思うんで、それをフラットな条件にできなさそうなら迂闊に薦められない
何か誰かを好評価して褒めるツイートは拡散したくなる(私の好きな人や作品なら尚更)だけど、そこに誰と比べてとか、それにひきかえ誰はダメとか彼は下手だとかの貶し文言が入ってるとイヤ。誰にも刺さらず傷つけなさそうな称賛ならリツイートしやすい
でも好きなひとが大切に思っているだろうものを貶されて気分の良い人はいない。私は個人的には「なんかあの世界は怖いらしいよ」という風評が膨らむことはいやだと思っている。
一人のファンの主観でしかない願望を、ファンの総意のように押し付けるのも、アイドルの気持ちを代弁していると思い込むのも、いずれもアイドルの応援なってない。勿論、ファンだからこそ見える、一般の方々には知られざるアイドルの姿というものを知ってほしいという気持ちはあるけど
私が直接誰に何をされたわけでもないことなのに、私が目を向けなくてもいい対象に目を向け過ぎて心が振り回されて泣いたりするのやめたい。くたくたになっちゃう
いわゆる女性週刊誌にむかついてしまうのはネーミングが原因かも。女性?女性はこういうのを喜んで読むのだろう、って言われてる?それがいやなんだ。どこらへんが女性なんだろうか?
結局、利害関係なくずっと愛情を持って見ていた人達が見ていた景色、を総合したものが信じられる。だけど贔屓目や盲目にも陥りやすい、そこは要注意かも。
悪いだけの人もいないし良いだけの人もいないとは分かるんだけど、憧れの世界にはなるべく暗い部分がないといいなあと願ってしまう。もやもやするよね。目の前を通りすぎるいろいろのことに「ああそれは違う…そうじゃないよ…」を飲み込みながら生きてくしかないんだろうと少し悲しくなる
Twitterの「お気に入り」も、人に断りもなく「いいね」に変わったとき、いや「いいね」じゃ「それは悲しかったよね…」の気持ちをこれからどう込めたらいいんだろうとは思った。私は構わず「いいね」に込めちゃってるけどね
覚えててもらうなら、いま生きてる時の私を知ってる人間にだけ覚えててもらえたらいいと思う。
お墓を選ぶときに、お参りにくる子孫も老いるということを忘れがち。だけど私自身、寝るところはお墓じゃなくても別にいい。クラウド的なところにメモリーがあるとか将来は遠出の必要もないような形態になってくだろうし、好きにして欲しい
「お釈迦様は本当は輪廻なんて言ってないんだよ、死んだら終わりなんだって。だから解脱するならいま生きてる間しかチャンスないってよ!」とバーゲンセールに誘うように言う娘。でも別にさ解脱ってしなきゃいけないの?
そっか…。飲み方食べ方でまたもっと美味しくなったりするんだね。ご飯もよく噛むと甘いように
こういうなんでも「政権の陰謀に違いない」とされたニュースたちを考えると政権ってそんなすごいことができるんだね!ってなるけど?
面白いからって娘が見せてくれた「とはずがたり」(鎌倉時代日記文学)で著者が彼氏(家族に内緒)と自宅密会中に乳母が想定外の帰宅、で慌てたり恥ずかしかったり、なんだか今時の女子と通じる心理描写面白いな。古文の教科書も、大人になって読むときっとより一層笑えるんだな(2016)
喋る言葉が自分宛なのか、それとも独り言なのか、それが分からないのがスッキリしないんだという。ツイートみたいなものなんだよ。独り言でもあるし聞いてほしくもあるんだよ。そんなに厳密に分けようとしないで欲しいよ
認知症の親族を見ていた近年、つくづく思ったのは、若い頃に覚えた歌って一生ものなんだなあ、ってこと。綺麗な声で正確に歌ってたよ、あんなにわけわかんなくなっても、歌詞もすらすら出ていた
好きなひとが死んじゃう、という経験を極力したくないから先に逝きたいけど、ずっと好きなひとのことを思って生きていたいから、私の好きなひとは必然的にとてつもなく長生きを願われることになってしまう。申し訳ない
ねーもしかして神様を愛するってことは、自分のなかの嫌なところとか他人の嫌なところとかも愛することになっちゃう?悔しいんだけど…。それとも、嫌なところは嫌だなあ、って思うままでいいって思うことなのかなあ
もっとああすればこうすれば良かった、そんな思いが湧いてしまうけど、でもあの頃の、子供の生存を確保することだけでも全精力消耗し、そしてこの先の子供の心身の成長に関わる責任感とそこからくる不安、日常の不便、一人時間に没頭できないストレスと孤独感、喉元過ぎても忘れまいと改めて思ったよ
そうなんですよね…。これ前にも呟いたかもしれないけど、私がお店に入ってどのメニューにするか迷うときって、大抵は「このお店にまた何回も来られるなら今どれに決めても後悔しないし隣の芝生も青くないけど、ここに二度と来られないなら、選ばなかったほうも食べたかったと思ってしまいそう」=人生
うん。死後、裁きにあう、なんて思わない。私も。天国に行くための準備段階なんて設定しなくても、自分の人生を生ききったらそれで既に合格だと思った。そのあとは遺った人の人生の中に融合していく(はっきりと誰と形跡も判らない形で融けて生きてく)のであればそれ、楽しみだ、
神様、好きなひとが幸せを感じられる状態をありがとうございます。この調子でこれからも宜しくお願いいたします
お金がたくさんあったら何もかも解決しそうなのでお金降ってきてほしい。そう考えるそばから、お金で解決するような問題には惹かれないような自分も同時に居る
どう生きるのが正解、とかそういうの無い。こういうふうに生きたい、という気持ちがある。こう生きたら気が楽だろうな、というのはある。こう生きたら生きた意味があるような気がする、というのがある。それらでなければ間違いというわけではなく
何かするたび、思うたび、「これを彼女が知ったらどう思う?」と、真っ先に脳裏に浮かぶ、そんな存在だった。私にとって彼女はそういう存在だった。ということとは別に、彼女には彼女の人生がこの世に歴然と存在していた。
私にとって(よい意味でもそうでない意味でも)めちゃめちゃ存在感と影響力の大きかった故人を偲んだ今日この頃なんだけども。人ってホント生きて死ぬ間に関わる人々の(心のなかっていうより命、生の)中にもガッツリ増殖しているんだ。(2016.1)
唐突だけど、身近に妊婦さんや新米ママさんがいる人(特に、奥様やお嫁さんや親戚の方)は、普段の百倍、優しくしてあげてね。出産~乳児育ての時期、心が千々にみだれたり世界一孤独だったり生きるの辞めたくなったりするガラスのハートどころかパリパリ海苔ほど脆い精神だからこの時刺さった刺は一生
私の言動に揺れて心すごく悩んでくれちゃう人より、私が何をどうしようが悩まない人、のほうが私は一緒にいて気楽なのかもしれない
好きなことをやるためのお金と時間を手にいれて好きなことをやりたいし、好きなひとが好きなことをできてしている様子をみて安らぎたい。幸せを見て幸せでいたい。毎日毎年、主な抱負がこれしかない
皇帝から一般市民になるまでのあの主人公の、寂しがりで病んでる少年の、可哀想で酷くて切ない場面がたくさんあるのに。鼠を叩きつけるとこなんか最高に萌えなのに。と、お薦めしておいた
昔、私と観たラストエンペラーのDVDについて覚えてるか訊いたら「緑のインクを飲まされてる人のことだけは覚えてる」そこなんだ…。小さいときに映画を観ると、脳裏に刻み込む場面、そこなんだ。
お互いの異文化に接するうちに、自分にない視点を取り入れて中和に近くはなっていった。案外良いところも見つかってきた。だから定期的に繰り返す「もうやだ、別れたい」の気持ちと、「やはりこの人で良かったんだ」の気持ちが、どちらも真
しばらく笑っちゃっててなかなか言葉にならないようだったけど、息子が言うには「同期の奴に、メリークリスマスバカヤロウ!ってメッセージを送る計画を思い付いたんだ。そしたら自分で可笑しくなって笑ってた」とのこと。それを娘に報告したら、(2015.12)
家庭事情が人並みと違うと、人付き合いに諸々差し障る。人に説明しようとしたら、それこそ生まれたときからの環境や親族の精神構造やらいちから説明しなきゃと思う、面倒過ぎる
オタクじゃない人生ってあるの?ずっと若いときからオタクなんだけど。
でも大人になってないけど、子供の時よりずっと気が楽。結婚しなきゃならないというプレッシャーからも、誰かに好きになってもらわなきゃ(しかもその人のことを親族にも好きになってもらわなきゃ)という不安からも、解放されてるのはとても大きい。
だからもういまこういう、生きていて血の通った子に実際に触れることの、今しかできなさに(いつもわかっていたはずなのに)打ちのめされてる気分だから、育児の大変さを思い出すことが今日は難しい(2015.12母と暮せばの映画観た日)
「母と暮せば」開始数分から、ああこの子が今は笑ってる生きてる、って思って泣けてから最後までずっと泣いて観てたけど、死んでからの成長が著しくてホントよくぞここまで頑張って好きな人の幸せのことを思って辿り着いたよね、ってぎゅーっとしたい。運命の受け入れってあんなつらいのによくぞ
でも、ヒトってしょうもないけど、一人一人が生きている人生のことは十把ひとからげにできるようなどうでもいいことではないんだ
なんかね…あんな昔の人が書いた随筆にまで、今の世にあるあるな、ヒトのしょうもないところ、が記録されてるので、ヒトってホントしょうもないってことがよくわかる
少しの躓きも許さない人って、躓いても起き上がる力があることを信じていない。目の前の子が自分の思い通りに動いていれば満足で。子が子自身の人生を歩めるかよりも自分が満たされるかどうかが大事な視聴者、消費者、支配者。痛みも悩みも全部、横取り。なのに子にはそれを愛と偽り恩着せる人、いる
ひと欠片分でも取り掛かってみると、あと雪崩を打ったようにどんどん解決する、そんなことをする自分、をいつか観られるのではないかな…、いま、連ドラで言えば、最終回の一週手前くらい(2015.12)
真面目になったりふざけたりしたくなるし、このネットのなかで、我ながら何をどうしたいのだろう。って思いながら私がここにずっといられるのも、みんなが優しいから
「ああ、あの人の呟き、分かる気がする、私にも似た状況に覚えがある…だけどきっと私のよりずっとつらいんだと思う」っていう呟きがどこにもひとつも見つからない日なんて一日もない。
なんか私…ひとつの方向を見過ぎている人に「こういうのもあるよ!こういう考え方もどう?」って言って目線を動かしてもらえると、なんか妙に嬉しい体質なのかもしれない。だから夫の話をちょっと混ぜっ返すようなこと言っちゃう。やり過ぎるとよくない
苦手だという食べ物を聞いて、それが私の好きなものだったため、単に好奇心で、どうして嫌いなの?どういうところがダメなの?としつこく訊いてしまい怒られた。嫌いなものの嫌いなところを訊かれると、嫌いなもののことを思い出してしまうから、思い出すだけでも不愉快だからやめろと
若い頃に悩んでいたことが過去のことになる。これだから歳を取るのってやめられないなー。やめようと思ってもやめられないけどね!
他者を理解しないのに依存や支配はしようとする、という人間が近親(実親ではないが)に居て避けられない、という環境に生まれ置かれたことが、私の場合は結婚や恋愛への消極性に繋がったと思っている。誰かを好きになっても、結婚を反対されるのでは?結婚できても、あの親戚と関わらせるのつらい
とても気性激しくて時々独裁者みたいになるような人でも、すごく歳をとって赤ちゃんのようになってしまったりするし、そんな人がまだ若い頃に時には見せていた優しいところとか案外可愛いところとか初恋の思い出語りとかもう聞けない話なんかを思い出すと、それらは私らの記憶の中以外にどこに行くの
おトイレに並んでる親子を見てて思い出した。子供らが小さい頃は、自分の他に子供らのおトイレ回数も私の脳味噌に記録されていた。何処に居ても気になっていたのは「いまリクエストがあったらここから最短のおトイレはどこなんだ!」常にこれ
人を恨みに思う気持ち、我ながら邪魔だな。自分のこういう感情が貴重な時間を費やす
人の好みはそれぞれだけども「私が好きだと思ってるものは世界中みんなが好きである。私がきらいなものは世界中みんなが嫌っている」と言い切って何でもそういう前提で考える人、あぶないと思う
お風呂での議題のひとつ:なんかさ、…生まれてからずっと、この自分の身体から見る自分の目線で、誰かと入れ替わったりもしないで一生この自分の視界、これってどうして何でどんな仕組みなんだろう
いまこの、大人になって「なんだ結構平気なんだ一人でもカラオケ行って好きな歌のサビだけ歌って、しかもそれをキー変えて立て続けに歌ったりしてもいいんだね!」っていう平気さを、子供の頃の自分に伝えたいものだ
一人で居たきゃ一人で居ていいってことを子供に教えたほうがいいのにな…
実の親とかでなくたって「この人に逆らうと生きていけない」という状況で何か言い込められ人格や自由を否定されると、手も足も出ない。そういう、抵抗できない相手に対してパワハラ的に感情をぶつける人って、とてもずるいよ…言い返されないって分かってるからやるんでしょ
すごいなあと思うのは、いやなことをされた事実をネタに私の頭はその人のことを、何年でも何十年でも夢にキャスティングするんだな、って。だから私も、知らないけど気付かないけど誰かの夢の中に何年でも何十年でも宜しくない役で出てるかも。こわい
どんなふうに片付けるべきか、ずっと考えてるけど思い付かない。いっそ捨てる…のは忍びないものが含まれている。ではどれを取っておくべきか、選別ややこしい。…片付けって、この、何をどうするかを思い付くまでが大変なんだ。思い付かなくて溜まる一方…(2015)
お風呂脱衣時の議題その二、ネットで買った徳用洗濯洗剤の詰め替え用パックが、届いてみたら思いのほか大きいサイズで、それ見たら二人で笑いだして止まらなくなった。これデカくない?バカみたいにデカくない?ツボに入ったらしい、しばらく笑い転げる等
お風呂脱衣時の議題その一、宗教対立で戦争して死んだりするの意味分からない、って言ったら娘、でも命が一番大切だっていうのも一種の宗教だよねと。だけど命より大切な何かを思うことができるのは、命があるからじゃない?…等
誰かを傷つけるくらいならば自分を、と思ってしまう人を責められない。ただ、大切な人には、あなたを大切にしてよと言いたい。自分を優先していいんだ、と思って欲しい、「やられるくらいならやってしまっていいんだ」と考えられるような状態を、生きてる間に差し出してあげられたらどんなに良いかと
学校の虐めではなかったけど若い頃、いっそしにたい時があった。あの人がいたのでは私はもう生きられないと思ってたことがあった。あの人を消すことができないゆえの絶望から抜けるためには自分が消えるしかないと思ってた。これを過去の話として話せる今の自分を知ってるので、生きてほしいって思うが
すごく拡散されているツイート、前後に訂正が入ってても、それは知られないってことがよくあるよね。書き直すほどじゃないって時は、元のツイートに返信の形で訂正を書き添えておくのがいいのかも
でも私がイケメンと感じる人と、他の人のそれは違ったりするから、美醜ってなんだろ…他の人にモテてる人の外見を私は嫌いだったりもするし、嫌いな顔だと思ってたのにその人を好きになると好みが変わったりするし不思議
ただ、私だって、好みのルックスの人に対しては、見るのが快いから、自然と笑顔になっちゃったりはする。おそらくそれは相手も感じるだろう、笑顔には笑顔で反射し合い、互いに好きになるかもしれない。好まない容姿の人とはその逆が起こって互いに嫌い合う傾向にはなりそう。これが全てではないけど
容姿に自信がないと、他人からの不遇を、自分の容姿のせいだと思ってしまう、ってこともあるかな、私はある
同じものを見ても聴いても味わっても同じものじゃないことに寂しさを感じる仕組みについてちょっと考え込むと、すーぐ時間が経ってしまう
パクチーを美味しいと思いたい。美味しいと感じて食べる人の味覚を私は決して体験することができない。ビールを旨いと思って飲んでみたい。これもなかなか私には難しい。こんなことは、どうでもいいことなのに、何かの拍子に急に寂しく感じる
私は相対音感なので、聴いた曲を移動ド音階で歌うのは割とできるんだけど、たとえばカラオケで歌のきーを上げたり下げたりしても全部同じドレミにしか変換できないんだけど…これ絶対音感の人には全然違う歌として感じるってことなのかな、どんな感覚なんだろう
忘れたような気になっていても、何かの拍子にふと数々の悲しいことを思い出し泣きたくなるの、「子供の時のあの頃の私は可哀想だった」っていうのとはまた違って、何だろう…「あんな悲しい思いを私でさえ味わったってことは、ひょっとしてこの世界ってダメなんじゃないの?」という悲しさ(私の場合)
目を伏せたときの睫毛とかかなりかわいいです。産後に親戚から受けたいろいろ有り難いことや有り難くなかったことなど思い出してちょっと涙腺かなりきてしまうけど息子がかわいいからヒトでいられた(第一子の誕生日回想呟き、2015)
無関心も過干渉も、子供(に限らないけど、対象)を見てないし受け入れてもない。ちゃんと見られてないし、受け入れられてない状況で、自主性とか自分らしさの発揮とか、そんなの出ない
だけど、何をしてもどこに誰と行っても、何でも報告しなきゃ許されないような、知らせないことに罪悪感を感じるような過干渉も、これもまるで自分では何か決めてはいけないように思い込まされてるうちに何もできなくなって、行動の基準が自分じゃなくなるんだよね
https://twitter.com/komisokabot2/status/671187596215631872と似たことで、これぞ会心の作品、っていうのを表に出しても、良い評価が貰えない、ってことに傷つくのが嫌で、敢えてあんまり思い入れのないものしか表に出せないということも
親(に限らない人)に誉められたいという気持ちで頑張っても一向に誉められないでいると、頑張って誉められないということに傷つくの嫌だから、頑張らない…ということは有り得る
どこから手をつけていいか分からないくらい溜め込んでしまって、いま分かってるのは、何かやることがたくさんあるという事実。それてすっかりやる気を失いかけている。0か100かと思うからダメだな私。2でも3でも0よりマシ
見られていると意識していると案外見られてないし、見られてないだろうと油断していると世界のどこからでも見られている
行政機関とか国とかのこと、悪の組織のように思ってる人が世の中にいるみたいだけど違うから。確かに、法律は万能じゃないけど、法律を守ろうとしないテロ的な反社会的集団なんかよりはるかに安全だと思う
なぜか増えていく片方しかない靴下の溜まり場がある…だけど、忘れた頃奇跡的に片割れに再会できる子もいるのであった/また、靴下洗ったあと雑なしまいかたしてたら、色が同じなだけでサイズ違いの相手と、めあわせられた、哀しみに堪えていたカップルを発見して正しく組み直すことも多々
産むときくらい、楽であればあるほどいいと思う。ただでさえ産んだあといろいろ大変なんだし。お腹を痛めるから愛情が湧くっていうわけじゃないよ。大切だと思って育ててるうちにどんどん大切になっていくんだから
自然か不自然かに拘るなら、日没とともに寝て、電気もネットも使わず、なんでも生のまま食べて、殺菌もせず害虫もころさず加工品使わず服も家も要らないし、人間もいないほうがいいかもね、ってことになる
トイレットペーパー12ロールを開封するときの、ここからお開けください、は、ここからどう開けるのか方向をちゃんと書いて欲しい
もっともっと世の中におトイレがふんだんにあるべき。
好きなアイドルのこと、ずっと観てると、親ばかのように何もかも可愛くカッコよく、愛しく思えるから、我が子が一番可愛いのに世間で一位じゃないのなぜだ!と憤りたくなるけど、みんなにそれぞれ各々の可愛い我が子的な存在があるんだから落ち着けって思うよ。
でも育児してみてわかったけど、あのとき親はお世辞を言ってたんじゃなくて本気で私を見て可愛いと思って言ってたんだ。世間からの可愛いとは違う意味でもそれは本当だった。私は子供に可愛いと思ったり言ったりするとき、世間から見た客観的な可愛さと違うこと伝わってるだろうと思うけどどうだろか
母からは幼少時よりいまに至るまで「可愛いかわいい」と言われて育った私、いつから「この可愛いは母が言ってくれる可愛いであり、親が子を見る可愛いであるから、世間が私をみて可愛いと感じるかどうかとはまた別なんだな」と知ったのだろう、いつ、何をきっかけに知ったのだろう、思い出せない
自分が子供の時に何考えてたか時々思い出すの良い。できたこと、できなかったこと、悲しかったこと、嬉しかったことなど。
誰かを理不尽に貶しておいて、その同じ口で好きな彼を褒めあげたら、彼の評判はどうなりますかと。そこまで頭が回らないんだろうね…。そしてそんな困った消費者のことまでお客様として対応しなきゃならないアイドルに頭が下がる
自分の我が儘でしかないことを、さも、大きな集団の代弁者のようなていで言う、そんなオタク(に限らないけど)の心ない振る舞いは誰得にもならない
負の感情も表していいんだ、という見本に親がなるのはいいとは思う。でも、子って親の全てを受け入れなきゃと思ってしまう傾向があるんで、親の負の感情を重く感じてつらくなってしまうことも/親の気持ち=子(自分)が全面的に受容すべき気持ち、じゃないんだよ、って思っていけるような雰囲気が前提
何の話題でも、ある出来事に関心深く詳しい層と、それほどでもない層とがあり、その中間もあり、そのどの物の見方も垣間見ることができるのは良いことと思う。必ずしも、ある対象について熟知しなければそれを語るべきでない、とは思わない。一般からはそう見えるんだと知るのも意味がある
学生のとき世界情勢研究サークルと称してカルト教の集まりに連れてく人に私はまんまと騙されて話を聞きに行ってしまったことがあったが。まあホント怖がらせ話のオンパレードだった。あと、差別、選民思想。そこで怒って私は立ち上がって踵を返して去れば良かったのに恐くてその場では黙って聞いてた
良い夢だったので目覚めたくはなかったけど、これを良い夢だと実感する度合いが、夢のなかでよりも起きてからのほうが強いので、よしとする
その人と一緒にいることが何よりも幸せで片時も離れたくない同志、っていうのはなかなか現実にない。ので、互いに別なことしても相手が楽しく過ごしていられて、それを互いに善しと思える同志というのが私にとっては理想
夫と妻の間に上下関係なんてないと当たり前に思っていても、その親の世代に、少なからず、夫が上司で妻が部下、みたいな意識を持ってる人というのはいて、そのような親と、目の前の配偶者との、板挟みになったとき、どちらの意向を優先するかでその旦那さんの夫婦観って出ちゃうのなあ
必要だから好きになるんじゃなくて、好きになったから、その人を必要としてしまう
私の話をろくに聞かず曲解して勝手に僻んで私を酷いヒトみたいに/そんで私がそれを悔しくって涙堪えられないで泣くと「泣くなんて失礼だ。泣くというのは抗議だから泣くのを止めなさい」って言う
自分一人の食事の為に贅沢や手間暇を費やしたくない、勿体無い、という、自分への欲のなさ…と、家族とのご飯のときには出来なかった、自分一人の為の楽しみ…を、両立させつつ、自分の時間を最大限有効活用したいと思うと、やはり、余り物で実験冒険するお昼ご飯となってしまう。
「先生のこと大好きだから来春以降もこの予備校にまた通ってこの先生の授業を受けたい。浪人しようかな?」って激しい本末転倒感あるよ娘(2015.11)
なくて済むならなくしたい努力や、困難や、苦痛、を、なくそうとすることを良しとしない考え方というのが、昔から世にあるけど、何だろう。親知らずは麻酔かけて抜いたほうが絶対良いし、お産の痛みが軽く出来るなら軽いほうがいいし、紙おむつ使って心身に余裕出るなら使えばいい
部活とか職場とかで理不尽な目に遭っても先輩から「これが伝統、これがうちの精神、決まってはいないけど察しろ」なんていうのは、そんな人それぞれのものの見方を、察しろという雑な感性に腹立つし、あんたこそ察しろと言いたくなるね
ホント最初の頃はあんなぼやぼやしたオタク少年だったのに、いつの間にか悟ってて成長すごいです(泣)断頭台シーンのときも惚れ惚れしました/ルイ16世現代日本の草食な大学生として生まれ変わっててくれてたらいいな…
歌にしても何かの作品に出逢う時の自分の状況、環境心境、そこでどれが心の宝物になっていくのか縁、その人その人の中にそれぞれ涙出るほど抱えられているんだなと思うとなんだかいますごく幸せに思えてしまった
こんなふうにあんなふうに何も言わなくても察してくれる子に育ってくれてるだろうという期待をしてしまう。してしまいました。なるようになる。ならないようにならない
映画観て味わってるとき、確かにスクリーンの存在なんて気にしてないし興味ない。スクリーン無かったら映画もない。映画の展開を楽しめるときはスクリーンがどうとか考えない。なんだこの話は!つらい怖い嫌だ、ってなったときに、あ、これスクリーンに映ってるだけだね、って思うと気が楽、うん
いや、もう少し詳しく考えたい。スキップって、ステップ(片足に体重移動)してからすぐさまホップして、その滞空時間が2~3拍、で、同じ足に着地してからもう片方の足に体重移動するまでを1拍、という、滞空八割の着地二割くらいの感じではないのかな
身体、ホント、要らないなと思うことが多々あり過ぎるんだけど、たまに、やっぱり身体があったからこういうこと感じることができたんだな…って沁々するので、いまどちらかというと身体賛成派です
ところで「ばちが当たる」ってことを言って脅かす風習、あれも変だ…。仏様ならばちなんて当てたりしないだろう、仮に当てる気ならもっと当たるべきひとが当たってる筈じゃん、って思う。ていうか当たってたとしてそんな目に見える形では当たってないじゃん多分。
お腹は痛いところが(原因不明)あるのに、おやつを食べたくてしかたない。こういう、部署同士で連携がうまくいってないの困るし、私としては食欲の言い分を聞き入れたくなる
星占い、よく考えたら、生まれたそのときその季節、地球と天体がどういう位置関係にあった時期だったかで人や世の中から受ける影響の傾向とかを、めっちゃ細かく研究した昔の人達、ホント、お疲れ様って思った
夫と私は互いに、異文化コミュニケーションのために結婚するよう仕組まれたとしか思えないときがある
そうなんだよね…膝枕とか腕枕とか頬っぺたむにむにとかし合いたいだけなんだ…
そうなんだよね…特定の教祖さま的な誰かに委ねたい訳じゃないのにね…。
いま、なんでもかんでも面倒なことを私は先延ばしにしてるから、今を真剣に生きようとしている人のことが眩しい。そうなりたい
人と一緒に居るときでも、なんかやっぱり私は一人だと思ったりする。だけど、一人でいるときに、一人じゃないな、やっぱり一人じゃないから生存していられるなあ、とも思う
だからって昔の出来事や昔の思いを思い出して今に活かそうってことでもない。なんだろう。今やるべきことは今の現実からしか導き出せないわけだし。だけど自分のこと「こういう場面でこういうことを過去に思ったことのある人」っていうのを思い出したいことがある
ドローンに関する対策も進んでないのに、どこでもドアを実用化するのは良くないね、っていう話題。目的地に突然人が飛び出してくることを予測し、またこちらがそこへ現れることを告知出来なければ惨事になる、大変難しい。そして悪用を防ぎきれるか等
自分が興味を持てないものに対して、それは無駄だ、要らない、って言うのは、想像力がないからだと思う。今を成り立たせているあらゆるもののなかには自分では意識できないものが多数含まれているんだし
さっきまでお腹が痛かったけどいま治った。家族がいま現在体調不良。これどうにもできない。身を任せてるのみ。終わるまでこのことだけ。でも終わるということが予想つく(2015.11)
逆にもし好きな対象が仮になくなってしまったらもう私の命は二秒も持たないと思う。今まで私が生きてこられたのはひとを好きになってたお蔭だ。好きは命の恩人なの。返しきれない有り難さ。だからありがとう
だからこんなに自分の好きを噛み締める時間が本当に永遠に続けばいいのにと思ってしまうんで私は絶対に永遠に死にたくないしずっとずっとずーー、っと、好きだ好きだと思って、生きていたい
人が、傍目からみたら小さいことでくよくよしているのを、それ大したことじゃないじゃん、もっと大きい視点で見てみなよ、気にするなよ、って思うのは自由だけど、そういう声掛けに意味があるだろか?気にしたくないのに気にしてしまうことを「気にするな」と言われたからってなかなか止められない
他を下げてみせることでしか顕せない優位性なんて脆いし虚しいってこと。比較じゃなくたって絶対の唯一無二の価値があるんだから、それを思ってるほうが幸せ大きい
中学生くらいだった子達の、…あれから何年後…って大人になったところを見せてくれるの、時間の経つのって誰の身にも平等なことなんだけど、その間にいろいろあったんだろうにこうして人生を送ってると思うだけでなんか泣きそうになる
かっこいい曲を聴いているときに脳内にいろいろな3D映像が浮かんで、自分が何者かわからなくなって漂う感じ、夢の中で自分のこと忘れてる時と似てる
確かに扶養してる間は責任あるので連絡不通にはしないで欲しい。でも恩を返さなきゃって思わないでいてくれたほうが結果恩返しになると思う。親の言うこと絶対正しい、なんて思わないで欲しい。でも何かしら参考にして欲しい気持ちはある。親だと思わず身近な年上のサンプルの一つとして見られれば
だけどインターネットによって、生き方のモデルを多種多様に目にすることができるようになった。とらわれて狭い状態から抜けられる可能性だけは昔より広がった。あとは、感じ方がどう出るか、何を幸せと感じるか、そもそも幸せを感じたい欲があるかないかに左右されちゃうけど。
親との距離感、子との距離感、答えもちゃんと出ないままで、そして幸せとは何ということも答えが見えないままで、でも自分がされて嫌なことはすまいと思いながら生きてる人々
介護、家族だけではできないこともあることに罪悪感を感じなくてよくなってほしい。身内なら看て当然、って感覚自体を疑っていい。優しい親だったから恩返しできるとか酷い親だったから関わりたくないとかギブアンドテイクの話にしたいわけじゃなく、理屈じゃなく精神的な事情もそれぞれ
知られざるその道の達人の流れるような動き観た、すごいなあ。私が以前ちょっとだけ働いた現場にいた、段ボール箱を速く綺麗に組み立てる人のことを思い出した
何もかも無に帰すってことが、悲しいのか、それとも、だからこそ良いのか。自分でもわからなくなる。トランプで遊んだあとに、負けても勝っても、全部リセットしてカードを片付ける、だから良い。負けても、遊んで面白かったと思えたらいい。でも夢から覚めてその夢を振り返る自分、は残るのかどうか
フォロワーさんが呟いてた、宇宙がシャボン玉みたいに膨らんだ末には弾けて消えるか、の件、あれからずっと心にある。弾けても、石鹸膜の成分は何処かに存在しているその存在を許す空間が、あって欲しいか欲しくないのか私は、あるとすると気が遠くなり怖いし、ないとするとこれも怖い
中島義道さんの本を読みかけている。肉親や他人からの情を無下にできない優しさ故に苦しむ気持ちはわかる気がする。だからといってそれを断ち切るための処方は極端なこと書いてる。そうせざるを得ないほど優しいならもう優しいままでも居たいところだが、加減次第で(2015)
帰宅。何を見ても驚いて「これなあに?あれなあに?」って大人に訊いていた頃を少しでも思い出して生きようと思いました(2015.10)
ネット上で好きなひとについて、何から何まで知りたい訳でもないし、無関心な部分もあるけど、でも好きだと思っている人のことは夢のなかでも好き
諸々の楽しい出来事を思い浮かべていると時間ってあっという間に過ぎるんだなあ…こんなときの気持ちを保存しておいて何かの時に少しずつ食べたいな。
私はね…、登場人物が本当はこんなに良い人なのに誤解されてしまって話が拗れる、っていう筋書きをみるのがつらい。で、誤解の原因が、言葉足らずだとか、思ってることちゃんと言わなかったせい、だとか、そういうの嫌なの。そういうことでハラハラさせるパターンが嫌いなの
人に迷惑かけちゃいけないって思って生きてる人に「迷惑かけてもいいんだよ」って言ってもなかなかむずかしい。一番適切な迷惑のかけ方を探して悩みそう。迷惑かけてる自分のことを好きになれなくて却って苦しみそうな気もする。何をもって迷惑とするかの解釈の仕方も人に依りけりな主観だし…
就活生が身近にいると、つくづく思う。ESや適正試験の合否を何月何日までに知らせます、そのあとは何日頃に一次面接です、その合否はいつまでに知らせます、二次は三次はそれぞれ何日頃です、内々定はいつまでに出します、と明確に表明してる会社のほうがステキだ(2014)
ドラマなど見直しながら、「好き」って何なんだろうなーとも思った。好き過ぎて相手のこと見てない。むしろ見るのが怖い、みたいな。
良かれと思う気持ちだけあれば良いわけじゃなく。相手のことをわかろうとするけれども、でも自分には全てをわかることはきっとできないことも知りつつ、本当の良かれに近づきたいという気持ちは持ちたい。
だけど自分の書いたこんな呟きがネット上に存在するのって改めて考えると「えええ?」ってびっくりする
子供を褒めると調子に乗って子供の為にならないから、って言う人もいるけど、いま調子に乗らせないでいつ乗らせるんだろう
お風呂での議題。お兄ちゃんが初めは小さくて段々大人になってくの見てるから、アハ体験で使われるあの少しずつ変化する絵みたいにずっと可愛いと思ってるのか、それとも普通の同世代の男子と比べて本当に可愛いと思っちゃってるのか、どうなんだろう、な件
他人のこと解りたいけど全部じゃなくていい。ただ私が善かれと思うことが他人にも通用するかを信じられないから、私の善かれが迷惑になるかならないのか、遠慮しがちなのか本当に要らないのか、強がりなのか素直なのか、酢豚にはパイナップルを入れるのか等、一人につき一冊の取説が欲しい
気恥ずかしい呟きの後で、もっと軽い呟きを重ねて妙な空気を上書きしたくなること多々あり…
相手が自分に対して「これが快であろう」と想定して提供してくれることに、こちらは、いやそうでもないな…ってなったとき、とてもそれを表明し難いだろうし、もしかして私が悪いのかも、と思って偽ってしまいそうだ。とか考えると体の繋がりはとても面倒なものに思えた。(回想)
これは呟く私の属性を一旦忘れて読まれたいことだけど。人が恥じらう様子を見たい、ってことと、人が気持ち良さそうなところを見て嬉しい、ってことと、人から自分自身があれこれしてもらいたい、ってこととは、必ずしも伴わないし、全部同じ性欲で説明がつくとも思えない。
理解しあえなくて苛々したり、同じ感覚の人を見つけると嬉しかったりするのに、自分にはないものを見ると楽しかったり。白色に安心するけど虹も綺麗。でもその各色が、自分のほうが他の色より綺麗だとか汚いとか言って泣いたり争ったりするんなら、つまらなくはなるけど、混ざって太陽光になれと思う
谷山浩子の「鳥は鳥に」の歌詞が好きで。「抱きしめるあなたの手が私の手ではないということ」っていう寂しさ。「いつの日かみんなひとつになれるまで」でも一方で、私はひとつになりたいのかどうか。絵の具の寄せ集めを綺麗だなと思う。混ぜてしまうより。但し各色の価値が等しいという前提でなら
私は新幹線は観るものじゃなく乗るものだと思ってるよ、と乗り物好きな男の子に言って驚かれること多々あり…
息子は社内の球技大会に、スポーツ苦手にもかかわらず若手だから駆り出されることになったのかと思いきや、自分からやりたいと言ったという。昔の息子からしたら考えられない。すごいね、変わったね、変わったよ!って思わず握手してしまった(2015)
時々祖母や伯母の夢を見て起きては思うんだけど、過去に戻って、祖母に泣かされていた小さい頃の母のことを、私が引き取って育てたいって思っちゃう。でもあの母の生い立ちが変わると私も変わっちゃうからこんな風に思うこともないのかな
うん、実は私、常日頃から「てこの原理って凄いな」って思ってる
あんまり妙に自分にこだわっていない時のほうが、嫌なことすぐ忘れられて楽しいことや有り難いことを覚えていられる気がする。
子どもが、自信をなくしかけてる場面と、取り戻す場面とを、最近は短いサイクルで至近距離で目の当たりにしてる。はやく春が来てほしい。そうすれば冬は、あとで振り返るためのエンターテイメントに変わってくれる。それを期待。(2014.3)
ついったで、自分や子どものもう少し小さい頃や若い頃のことを思い出させてもらえたりする。忘れていたいろいろな思いを思い出させてもらえて、そういえばあの時、頑張っていたなーとか、あの時あれが楽しかったなーとか。生きてたことの裏付けを取れる気持ちになる。
嫌いな人のこと以上に、好きなひとの幸せのことを考えるだけで幸せになる幸せが心の中を一杯にできたらいいなあ。
束の間の平和が訪れたと思ったのに、頭のなかにいる小さい人、私に定期的に釘を刺しにくる。調子にのってはだめだと
全ての経験は無駄にはならないよね、たとえ結果が出なくっても…って/そうだ、私は跳び箱の前の踏み切り板でいなきゃ。これ昔、自分にいって聞かせたんだった。/息子の頬にえくぼがまた戻るまでと思って励ましてたけど、無理にえくぼを出されてもそれもかなしいから、ゆっくり寝てもらいたい
そういえばウチの子達にもあんなこんなの可愛くて泣けるようなシーンがあったはず。とか思い出してまた泣けてくる
ブラックジャックみたいに自分の愛と信念を貫いてるキャラとかめちゃめちゃカッコいいし、それなのにあのリボンタイとか可愛いし、左右非対称だし、私のために生まれたんじゃないの?
自分の一部が産まれてきたような風で、実は自分とまったく違う宇宙を持つ別なひとが、おまたから出てきておっぱい飲むの面白不思議だったので、この経験ができたことに本当に今回の人生はグッジョブな夢でした。ありがと
自分だけじゃこの世界は完成しないし、自分がいないとこの世界は完成しない、らしい。私はとりたてて人の目を引く欠片じゃないけど、目を引く欠片達は私がいないと存在できないのかもしれない。そんな世界を俯瞰で観て喜びたい
自分ばかり不当な扱いを受けたような気持ちに突然なる。でもそれ多分、錯覚。考えすぎ。
この数年間、何度かジョージ・マクフライの可愛らしさについて呟いているけど/part1でマーティとの会話シーンの全てがもうキュート過ぎるし終盤でのロレインへの接し方とかに惚れなくてどうするの。なんなの。何を観てるんだ世の人々は…。
可視化されてる否定的な声というのは態々書いてやろうと言う意思に支えられているから目立たせられるけど、その影に隠れて見えない肯定賛美の声はおもてに現れてこないものがたくさんある。好きだと言ってくれてる人々に好かれればいいんだと言いたい。
SNSで、何らかのコンテンツを提供してくれてる有名な人達が身近に感じられるようになったし、自分の感想ももしかしたらネット時代になったことで見られている可能性が高まって敷居が低く感じるからか、大勢の人々に支持されてる芸術の提供者に、気楽に勝手な思いをぶつけてしまう人々もまた増えた
きっとヒーローが外国に出動して戦った事例もあったんだろうけれど、日本語しか分からない子供たちには日本国内のケースしか紹介してなかったんだろう
子供の頃、不思議だと感じながらテレビ観てたんだけど、宇宙からの侵略者から地球を守るなどの活動をしているヒーローが、事件解決の為に駆け付ける現場は、なぜかいつも日本国内なのどうしてだろう、って…。たまには外国に行かないのかなと思ってた
何も素晴らしいことなんか持ってないけれど痛い思いをしたくないし、されたくないし、させたくない、だけ
居てもいいよという空気の有り難さを感じるたび、居るなとか消えろとか言われるつらさを思う。
学校制服は冬でも暖かいデザインにして欲しいし、更に、アイロン不要な素材でつくって欲しい。ジャージ生地とかポロ生地で。体操服とは別に。スタイリッシュと速乾性とアイロン不要は全て成立できるのでは。
だから連続ドラマも、第10話まで続けて観てもらうなら、第1話からとても面白い必要があるし、初回で救いがないなら、この先救われるような予感をどこかに匂わせる必要がある。これだけ娯楽選択肢が豊富にあってネットも録画機器もある世で、ひとつのドラマ番組に最後まで付き合わせるなら
ネットで発信することも、出逢いのタイミングとか、受け取る側のその時の時間的心理的な余裕の有無、それ次第でどこまで深く読まれるかどうか左右される。そんななかでたまたまその時「この人の発言、遡って読んでみようか?」と関心を持ち賛同される、これは大きな縁を感じる
私が好きな作品たちの中には、序盤が取っ付きにくかったり、中盤まではあまり面白さを感じなかったり、そういう、最後まで見てて本当に良かった物語が多々ある。同じ作品に触れた人々の中には、途中で止めた人もまたたくさんいる。表現を伝えることは、人に選んで貰い時間を費やして貰うことなんだなと
子供らが、それぞれ新たに学んだことや興味を持ったことを、話してくれる、それがさっぱり私には意味わからないことが増えてくると、凄く快感を覚えるんだよと。再度言いたい。
ところで、それにしても、ネット上での成り済ましって金銭的被害がなくても法律で罰して欲しいな…。私も昔、とある匿名の場で文体を似せるやりかたで成り済まされたことがあるけど、下手したらネット人格攻撃だし、ネット人生に対する傷害致死だと思う
何か可愛いものやカッコいいものに夢中になってるとき、私は自分の実年齢を忘れてるし、中学生くらいのつもりでいるし、自分の外見を忘れてるし、心だけの存在のつもりでいる。モニターの向こうに憧れてる時間に、何かの拍子に鏡面に映る自分の実際の風貌を見てしまうとギャップにとまどうことある。
女子力、とか、オトナ女子、ってドラマタイトルとか、何々男子、って言葉見て、なんとなくいつも思うんだけど、大人の男性でも女性でも、男子や女子の気持ちがあるし要素がある。外側が歳を重ねても、内側に子供の頃から変わってない自分がある。それを出すことが恥ずかしくなくなった時代がきたのかな
誰かを知らずに傷付けない為に気付きたい。このことと、自分は容易に傷付かないようにしたい。ということを、両立したい
彼女が子供らに目的至上主義を強いたのはきっと、彼女が誰かから認められたくて仕方なくて子供をその手段にしてたのだろう。いつも自分が認められたくて必死だった様子。なにかというと「私なんて居なければいいと思ってるでしょ!」とキレて人を試すようなことを言って部屋を飛び出す面倒な人だった
受験勉強時代という名の人生があるんじゃなくて、人生の途中でひとつの出来事として受験勉強があるだけなんだからさ、受験生なのにそんなものにうつつを抜かすなんてという顔をしないで見てやって欲しい
でも、ごくごくたまに、本当に稀に、何かの好みが一緒になったとき、それはそれは驚くよ。嬉しい。だってもともと違うところで違う年代に生まれて違う家で育ったのにね
一人の人間が世界の人々の運命を握ってしまう図は怖いなあ。それと、自分達には歴史も思い出もある、と信じてる歴史や思い出が、誰かの手によって俄に拵えられた創作物、っていう想像も、虚しくなるから、したくないし。
最終回の最後の最後、ドロッセルマイヤーさんは既にふぁきあの書く物語に支配されてるまでになっちゃったかも、って想像したりもしたんだけど、ん、よく考えたらそこまでできる程にふぁきあがパワーアップしたんなら私ならドロッセルマイヤーを眠らせちゃうなあ、永遠に
カジモドのことセクシーキュートだと思ってる私に共感してくれる人、きっとどこか遠くにひっそり存在してるだろうと信じて生きていこう…
このツールの使い方、感覚、私は気にしないけどこれ気にする人がいるんだ、とか、あの人たちはこういうの気にしないみたいだけど私には気になる、とか。…の文化の違いに出逢うたびに、面白かったりもやもやしたり、した。
ついったを始めてから半年くらいたった頃のこと、思い出すと。いろいろな人の呟きを読んでて「あ、あんなに言葉で遊んで良いんだ、自由で無意味なの楽しいなあ」と思った。それまでは知らない感覚だった。
そして泣きながらその友達と向かい合って、私はこの感動を、学校を卒業しても決して忘れない、貴女のことは一生守っていく、そう誓ったりした。目覚めて、あれは一体誰なんだよ!ってなった。
最終回を観終わって爽やかな涙…プリンセスチュチュ、別れるの惜しくて特典映像が終わってもしばらくそのまま画面見つめてた。あの卵の章の頃に頑張って見続けた自分がいたからここに辿り着けたので自分を褒めたい。ふぁきあに実質求婚されたも同然なアヒルのあひるにおめでとうの気を送るよ。
ていうか産後じゃなくても私は片付けができないから人に来られるのがしんどくて、ママ友にお呼ばれすると、嬉しいより恐縮してしまう。ウチにも今度はお呼びしなきゃならない気がしちゃう。もっと気楽に上がり込みたいけど
出産後、外出ままならないからむしろ友達が家に来てくれたら嬉しい、って思うタイプの人は、善かれと思って産後の友人を訪ねるだろうし、産後はお客に構うことできないから気を遣うのつらい、って思う人は、自分も産後の友人宅に行くのを遠慮する。私は後者のタイプかなあ。
すごい悪いやつと信じられてた人間が実はあんな目線から見たらそうでなくて、優しいと思われてた人がこっちから見たらこんなご無体なことやっていた、…みたいに、割り切れない感じのストーリー、オセロみたいに白黒変わるの面白いけど疲れるから、予め誰を憎んでおけばいいのかガイド欲しい
国のありかた、国の教育のしかた、その国の仕組み、そういうものに対して私は好き嫌いがある。何人だからどう、という個人レベルでは特にないけど。隣の国を嫌うように教育したりする国は嫌だし、逆に自国を嫌うように仕向けるのも論外。そういう意味ではいまの日本は私の若い頃よりは良くなってる
善意だけじゃダメだ。物事を正確に「知らない」ということによって誰かを苦しめることがあるんだよね
染まりやすくて利用されやすい愛の危うさ、だけど本当の愛の持つ蘇生の力、そして本当の自分とは!!?…プリンセスチュチュ視聴もいよいよ最終回目前、だけど観終わってしまうのが勿体無くて(2015)
学が進んで、人生を好きなところで楽に終わらせる方法を人類が見つけてしまうところまで発明されたら、むしろ安心して私なんか長生きしそう
宇宙とかの始まりも終わりもなくて、もし循環してるんなら、その輪のことを遠くから眺めてる誰かがいるのか、始まりと終わりのある直線なら、それを割り箸みたいな短さに感じて見てる誰かがどこから見てるのか、わからないの怖いね。という話をした
私の好きな、どんなに素敵な有名人や作品にも、必ずアンチが見つかることから、ましてや私のことを嫌いな人々もたくさんいるだろうなと推測できる。その多様性に怖くなったり諦めたり、開き直ったりしちゃう。全人類に好かれてる人なんていない
教室でも出来うる限りの快適な空調を整えたら良いのに。根性とか要らない。ただでさえ学校生活は勉強にせよ部活にせよ人間関係にせよ大変なんだから、余計な負荷をこれ以上かける必要ない
昔に作られて今に継承されている学校文化のなかには、子供の教育の為よりも学校側や親の満足の為にあるようなものも混じってる。見直して欲しい。ただ毎年やるからといって無批判に受け継がれてるものをよく検証して欲しい
昔は、男の人の性徴について一切良いと思ってなかったんだけど、それが作られてく様子を零歳児から段々順を追って見せられると、なんだ可愛いんじゃん!ってなって面白かった
私の好きなひとのことを、生きとし生ける人々みんなが好きでいればいいのに、って思ってつい寂しくなってしまうなあ…。個人的には、いなくなって欲しくないって思ってしまうし、もっと平静で凪のようになりたい。まだまだ修行中につき精進します。お休みなさい
ひとこと多いタイプの口喧嘩、若い頃にはよく夫との間に発生した。どうしても我を通したくなっちゃうんだよね、甘えだったのかもしれない。
性欲を人生の中で特に必要としない時代がとても長すぎる。寿命に比して5%くらいの時間じゃないかな、必要な時って
ところでヒーローが突然、なにそれそんな凄い技をもってたんなら最初から出せば良いのに的な凄いのを出すときあるよね、って言ったら娘が「それは火事場の馬鹿力ってもんでしょ」と纏めたのが面白かった。(2015)
理不尽な悪と戦うときのパターンとして、暴力には暴力を、は残念だし、魔法使いの魔法は非現実だからやっぱり説得?がいいかなとも思ったけど、改心されるの難しいし、話してもわかりあえない場合があるということ知るのも必要だし、「愛の心で改心させるが三度に一回は失敗して正当防衛するヒーロー」
人生とお別れするとき、「もっと味わっていたかったな、帰りたくない(死後の世界に)」って寂しく思えるのがいいのか、「ああ、もーうお腹一杯、ていうかもう飽きた、早く帰りたい(死後の世界に)」って思えるのがいいのか、どっちなんだろ
記憶は消えても魂は残る、みたいな物語をいま私が信じていたいのは、有限だからこそ輝くものもある一方で、今回失敗したって無駄じゃなく蓄積する何かもあると思ってみることによって気を楽に生きていける気分も欲しいっていう…
(自分や他人のこと可愛く思えるなあ、って気がして)って思うそばから、うっわーこの人キライだなあって感じるシーンがやってくるので、簡単じゃないなー
子供にしてみれば、ただでさえ自分らしさや自分なりの幸せと、選別する社会との間で悩んでいくのに、そこに、身内から心配されるという問題まで加わるもんだから、余計重くややこしい荷を背負うことになる。
子が小さき頃は、子が見せるいろいろな表情、興味、全てに感動し、喜んで、この子らしさがいとおしい、この子なりに幸せなら嬉しい、って思ってても、いつか、この子は他人に選ばれるか就職できるのか結婚できるか食べていけるのかと、選別されることや生存できることを気にして見るようになってしまい
脳と目と指があれば好きな人達と繋がっていられるの楽しいんだけど、本当に脳と目と指しかなかったら今の私の経験も性格も考え方もきっとなかったから、他の機能も無駄ではなかった。
本当は家事全般、特に片付け、嫌いというより興味が湧かない。自分の見た目をかわいく保つことも、下手というより興味が湧かないからうまくいかない。ネットではこんな私の酷いところをこのままに放置したままで、思ったことを書いたり読んだり読んでもらったりできるから楽。
脳や身体が元気か不調かに、私の生き方が思いっきり左右される。不健康に陥ると、これを改善するための活動に着手する気力もなくなってく。待ってても這い上がりが難しい、自分で気力体力維持するしかない。好きなひとたちを見ていたい、は生きる理由。でもそのうえ更に、生命維持自体を楽しめたらなあ
どんどん闇っぽくなってく。これ絶対子供向けじゃないだろうっていう。怖い。おそういう意味では迂闊に手をださないほうが良かったかもしれない(プリンセスチュチュ
Twitterは文字数制限があるからこその文化の土壌となっていると思うので、文字数制限万歳。
フォローの際に挨拶を交わす必要性を私は感じないなあ。無言でいいと思う。そのほうが気楽にリムーブしたりされたりできる
そこで見つけた、とあるアカウントの呟きがすごくおかしくて笑い転げてて、いやあ、この人はこんな知らないうちにこんな知らない母娘にここまで笑われているとは、全く知る由もないよな…って思うと本当にごめんなさいの世界
娘が見たという予知夢の存在を深く考えると怖いから、気を紛らわすために、全く見ず知らずのアカウントのプロフを二人で読んで、そのフォロワーのツイートを延々と読んで、知らないアカウントの中の人がどういう身分か歳か性別か推測する遊びをしてたんだけど
娘と会話していて突如「あ!この場面、この話の流れ、この間、夢で見たのと同じだ!」って言われて思わずやってしまうのは、その過去からやってきて現在を覗いている彼女の目が、この辺かそこら辺にあるのかなと、後ろとか横とか探してしまうことなんだなと気付いた。
母乳神話か…。なんでどうしてこういう、どうにも母乳が与えられないっていう人を不必要に落ち込ませるような迷信があとを断つたないんだろう…
今夜の月がどうとかこうとか名前つけて遊んでた昔の人達のこと考えると楽しくなってくる