愛とか宗教にまつわるここ最近の

愛とか宗教にまつわるここ最近の自あかの呟きまとめ 
※好きなフォローさん達のツイート読んでて思ったことたち。
個人はいつか大きなあのあれ(愛、本質、って呼んでるあれかな)の海に溶けるのか、そうか、と思ったりもした。 

順不同。


いろんな宗教がある中で、私の好みのタイプを言うね。あのね、あんまりグッズとか本とかをお勧めしてこない系がいいな。っていうかお金出さなくていい系。あと政治に打って出ない系。それと自分と違う人を殺さない系。…嫌いなタイプじゃない系。

青い瓶のことは好きです。ただ、青い瓶にそんなすごい魔法みたいな付加価値を付けることに何か裏にあるんじゃないかって考えてしまうし、何か裏にあるんじゃないかって考えないで済んでる人の気持ちが、よく分からない。ゆえにたぶんそういう集まりに出ても楽しめない

言霊っぽいものを信じてないわけじゃないんだけども、ヒトが個人的に自分のために言ったり思ったりすることで何かがあったりなかったり生まれたり消えたりすることじゃないんじゃないか世界って…私が「みんな幸せであれ!うん、みんな幸せ!よし!」って念じても現に幸せじゃない人が実在してるし

その人からは引き寄せの法則の本も勧められて読んだけど、これもどうにも私には解せないと思ってそれきり。引き寄せようが引き寄せまいが何かがいつもどこかで起こっていたので、その起こっていたことにいちいち「これは私が引き寄せたの?」と理由つけるの心が疲れそうって思っちゃってそれきり

愛していますと思ってないのに愛していますと口にすることでそれでOKなら今頃なんの悩みもなくなってるよ、と突っ込みながらページをめくっていたのを思い出す(ホ・オポノポノの本を)

そうだな私は子供の頃に洗脳されてたあの学会は今ホント嫌いだし、何かこの活動のここがおかしいという声に対して何でも「魔」や「信心足りないこと」のせいにして耳塞ぐ体質も嫌いだし、なのにいまたとえばお腹痛いときとか落ち着きたい時とか脳内で唱えてしまうお題目。そして落ち着く。単なる呪文

「愛そう!愛するぞ〜」みたいなんじゃなくて、自分の身体に起こったことのようにあの子が痛いとき「痛っ」って感じたり、自分の舌以上にあの子が美味しいお乳飲んで美味しそうな顔をすると美味しい気持ちになったりしたのを「もしかしてこれって生まれて初めて私が発動する愛?」って思った…

単に自分から出てきた自分の延長というにはこの生理的な反射のような、自分より我が子優先の感覚が不思議すぎた。けどやはり自己愛に含まれてるんだろうか。これをもっと他の人にも多く広く発揮したいけどできるんだろうか

そういう意味では比較的あんまり夫のことは無条件の愛ではないや。吹けば飛ぶよな希薄なあれ。もし夫が子の人生の妨げになろうものなら完全犯罪で消すのも厭わない(喩え)。なぜ完全犯罪でなければならないかというと、子の親をひとごろしの加害者にも被害者にもしたくないから(朝食中の妄想)

なんだかんだたぶん私は自分が一番大事。子への思いもそこに収束してるのかも。自分が一番好きなのだろう。ところが自分のことは、見ていて一番つまらない。見ていたいのは自分のことじゃなく、自分にないものを持ってる人達のことを見ていたいのだった。そういう人を好きになる

そういう、自分にないものを持っている人を好きになるくせに、その人の中に自分との共通項を見つけたと思うと、異常なくらい喜んでしまうの何?

つまりこれって、あ、私と似ているところがあるあの人も、私にはないものを得ている→私ももしかしたら、その、ないと思ってるものを隠し持ってたりするんじゃないのか(ワクワク)?…みたいな?なのかな?


無きゃ無いでいいんだと思う。私が持ってないものでもその誰かが持っててくれたら結局それでいいんだ。このように安心してヒトは寿命を終えるめでたしめでたし。


ああ、もしかしたら「許してください」は、許せよ〜って要求でもなくてさ、声に敢えて出してみることで「あれ?そうか、私のしていることも誰かによる許すか許さないかの心のもとにやっと許されてるのかもしれないよなあ」っていう気付きを気づかせ自省を促す効果が少しはあるってことかもね