戦争の世代記憶などについて思ったこと(映画「母と暮せば」を最近観たこともあって)

音楽が好きで、恋人もいて、親を助けたくて医学を学ぶ学生、
長崎に落とされた原爆で命を奪われ、死後三年経ってから母親のもとに亡霊となって現れる、
私が好きな「嵐」のメンバーである二宮和也さんが、その青年の役を演じている。
という映画「母と暮せば」を最近観たということもあり
その関連で山田洋次監督との対談番組を観たということもあり
戦争(主に第二次世界大戦)って戦後世代にどう捉えられているのかなと、改めて考えさせられた。

(この映画への所感はまた別アカウントでまとめてる。随時更新→ http://d.hatena.ne.jp/attt5attt/20151217

幼少の頃から、私は実親や義理の親(いま七十代から八十代)や祖父母たち(故人も、生きていればもう百歳前後)から、
戦争が日常だった頃のことを色々と聞いて育ったけれど、
たとえば祖母が語っていた戦争と、戦後教育で語られる戦争の、そのニュアンスって、なんとなくやっぱり違うように感じる。
誰の主観も入らない史実を史実と受け止めることのむずかしさ。
主観が伴う話からこそ、誰かの心に残り響くものだとは思うけれど。
私が受けた学校教育では戦争はもちろん悲惨かつ無意味なものとして教わった。とにかく日本が無謀、愚か、天皇中心、過ちは繰り返しませぬ、的な論調のものが多く
その反動かもしれない、大人になって、日本だけが悪者にされたり反省させられたりしてるだけでは何も解決しないじゃない?という方向に自分を揺り戻していった。

その揺り戻し、つまり、いわゆる「反日」(この言葉好きじゃないけど)に警戒するものの見方が、今度はインターネットなどで目立つようになると
戦争体験者が身近にいない世代が逆に今度は戦争をどう思うのかな、って、
戦争によって理不尽に人生を踏みにじられた人たちのことを想像する力が年々代々弱くなっていくのじゃないかな、って、心配になった。

その「母と暮せば」パンフレットにアーサー・ビナード氏(詩人)が特別インタビューで映画の感想を語っている。そこに、ウラン爆弾とプルトニウム爆弾についても述べられている。
まずこの二種の原爆は戦争終結目的で落とされたのではないということ。(表向きの大義はそうかもしれないけど)
夥しい数の人の命とその愛する人々達の人生が、核の実験台として犠牲にされたのだと思うと、あまりにも悲し過ぎることだけれど、
人を、一人一人かけがえのない存在としてではなく、単なる群衆として捉えてしまえば、こういう無慈悲なことは今後も
どこかで起こり得ることなだと思う。

ここからは私の、答えも見えないぼんやりとした願望どまりの、戦争なくすにはどうしたらいいんだろうね感↓

人にはその人だけのかけがえのない歴史がある。そのことに思い至り、尊重する、という仕組みが、人の良心だけで支えられているだけでは脆い。
良心を安心して持てる国の仕組み、世界の仕組みが維持されていなければならない。
それで、武力放棄とか憲法九条とか集団的自衛権が問題になるけれど
安心して武器を捨てられるためには、他者も武器を捨てていることが大前提だとつくづく思うんだよね。
平和憲法素晴らしい。だけど日本以外の国も皆がそうして欲しいね。

大戦の起こるちょっと昔には西洋諸国がこぞってアジアやアフリカやアメリカ大陸やオセアニアを、力で腑分けして争奪戦だった、
そこに対抗して小さな国が、やらなきゃやられるとばかりに力をつけてくると
今度は合法的に叩く方法が編み出され、結果、やっぱり小さな国はやられてしまう。
負けた国に軍国主義を捨てさせるなら、勝った側も捨てたらどうかなといつも思う。だけど現状は、負けた国が丸腰じゃさぞ危なかろうっていうんで勝った国が尚のこと当然のように用心棒的なスタンスでいる。
もっと公正な中立な「世界の警察」が在ってくれたら良いのだけれど。難しいな。