『残酷人生論』を読んだ日々の自分の関連所感ついーと

『残酷人生論』を読んだ日々の自分の関連所感ついーとのまとめ。(komisokabot2)

さっきまで考えてたのは、思ってる心って触れない。脳があるから思えるけど、心って「サッカーの試合」みたい。サッカーボールそのものじゃないし、選手でもなくて、「サッカーの試合」っていうもの…なんて、本を読み始めながら午前中は考えてた

あれ読んだりこれ観たりをもっとやりたい。家事は誰かに任せたい。寿命はあと百年欲しい。

いま考えてるこの私って何?そういうの考えるの楽しい。いま楽しいと思ってると思ってる私って何?私とかが何に生かされたり終わらされたりするの?を信じることとは別に、考えるの楽しい。「残酷人生論」は読んでて面白い。「魂は、認識する宇宙の容器」

生きてることや死ぬことについて、これはどういうことかを考えてても考えてなくても、怖がっても覚悟を決めても、いつか死んでしまうんだけど、考えることを味わうことは、この身体があるお蔭だし言葉の教育を受けられたお蔭なので、せっかくだからそれを味わいたい。いつか消えるとしても

なんだろう、なんか気を抜くとすぐ、自分は日本人なのに地球とか銀河とかに生まれたとか思っちゃう。実際は日本の気候に教育に文化に染まるだけ染まってて日本なしでは今の私ではないのに

宇宙のこと想像しようとするといっつも地面のなかの蝉を思い出す。蝉にとって、生きてる間に到達できない地球の裏側のことなんて、無いのも同然なように、私にとって地球の軌道外のことや宇宙の外の宇宙のことは、無いって思ってて構わない。のに、気になるの不思議

続き。「残酷人生論」読了。存在を存在と認める、それ自身がそれ自身のままで幸福と感じられる魂、で居たい。

でも読みながらまた不思議だなあと思ったのは、私、自分、はどの時点から自分になって、(胎児の頃から?)、どの時点まで私でいられて自分でいられるのかなあってことが未知なので、知らなくても生きていけるけど、知ってみたくもあるので