彼岸明けに(愛されたようにしか愛せないなんてことはないと私も)思う

ひとは愛されたようにしか愛せない、という説が存在する。
愛されなかった人間は愛することができないという。

ひとは愛されたようにしか愛せない、という説はある一面では真実かもしれない。
それは自分が誰かを愛するときの自戒教訓、人間を育てようとするときに心に刻む自戒教訓にしておかなくてはならない。
だけど愛されなかったら愛せないのかというとそれはきっと違う、
それを信じまいと頑張っている人がいる。
私もそんなの信じない。というか、私の如く見聞の狭い人間ですら、
虐げられていたけれど(いたからか)愛の深い人、に出会った経験からそう思う。
その人々は、身内だったり、顔も知らない他人だったりするけれど。

愛され方がまずいと愛し方が下手になる、とか、愛され方が歪んでいると愛され方がわからない、ってことは
それはそれで確かにあるはあるけれど、でも
虐げられたからこそ、愛って何だろう・本当にその人のことを愛するってどういうことだろう、という命題に真面目に向き合うようになるんじゃないのかな。

虐げた人間のことまでを理解して受け容れることに心身消耗する必要はないけれど
優しい人は受け入れようとして心身消耗してしまう。
直接受け容れるのは無理無理そう、だったら
自分が自分を受け入れて幸せになったほうが、この負の遺産をきっと、また誰かを幸せにする方向に変換できると思う。


ってことを、ついったらさんにも教わった気がする彼岸明け。

補足:

実話に基づいた昔話。

女の子が誕生日に母親から新品の服を貰いました。
物資の乏しい時代。
女の子は着て遊んでいるうちに少し服を汚してしまいました。
すると母親はとても怒って女の子を鞭でぶち、
帰りが遅くて心配をかけた罰として満水の風呂桶に蓋をして閉じ込めました。

いつもそんな調子なので、その女の子は
初潮をみたことも友達と寄り道したことも好きな人のことも、一切を内緒にしました。
試験は満点でなければ罰を受けました。
県内随一の学校に受からなければ命が危ないと思い、猛勉強して合格しました。

女の子はやがて結婚して二人の女の赤ちゃんを産みました。
彼女は子どもたちの話を聞くときにはまず何もかも言いたいことを全て聞いてあげてから、
何を言うべきかを考えて話をするようなお母さんになりました。
子どもが何を思ってその行動をしたのか、よく考えるお母さんになりました。


そして彼女の母親も歳をとり、孫や曾孫に口癖のようにこう言いました、
「私は子どもを立派に育てることだけに人生を尽くしてきた。子どもは愛して愛して育てなさい」と。
さて私はそれを聞いて、この老婆の「愛」っていうのはいったい何だったんだろうと思いました
この人は幼い頃に全く可愛がられた経験がなかったことを知りました。

あの女の子のことも含めて私は、見たこと聞いたことの全てを覚えていようと思いました。終わり。オチ無し