ここに居ていいんだと思えることの、なんと/共通項とは/書き直してばかりの日記と自分とは

このひと月あまりの自分の書いたものを読み返すとき、これは本当に自分が書いたのだろうかというほど、今の気分と乖離していることが多々ある。

多々あったので、削ったり追加したりしている。でも全部削除したりはせず、そのとき確かにそう感じた(それが勘違いだったとしても)ことは輪郭を遺しておく。

ついったへの関わり方もかなり短い周期で変わっている。じっと植物のように全てを見守ろうとしたり、でもせっかくここにいるのだからもう少し交流しようと思い直したり、

それを促すスイッチは、ついったの場が自分に「居ていいよ、居ればいいじゃない」と言ってくれている気がするかどうかだと
思った。
というか、居ればいいと言ってくれているのに、自分がそれを受け取れる気がするかしないかだった。

気がするかしないかは、実生活での疲れや体調などに左右されるし、同じ言葉に触れても受け取れるものが時々で変わってくる。

「自分、ここに居ていいんだ」と思えることの、なんと全てを輝かせて見せることだろうか。


で、そんな自分を見て思う、自分って何なの、自分の感覚とか考え方っていったい何なの、と。
一貫しているようでしていないし、瞬間瞬間バラバラなのに結局は自分でしかないし。
何かが共通項としてあって、それが自分の(自分に関わってくれた全ての生物有機物無機物からもらった)歴史に由来している
それが何なのか。

TLに流れてくるのはフォローしている人の(あるいは、その人がRTした)言葉だけれど
フォロワーさんのことも時々見ている。
自分をフォローしてくれている人は人それぞれ立場も考え方も好みも、ついったツールの使い方も、違うけれど
その方々に共通項が少なくともひとつある。目的はそれぞれだと思うけれど「私をフォローしてくれている」という少なくとも一個の共通項が
あるんだなあ、と考えると何か楽しくもなってくる。

なんでふとそんな風に思ったかというと
私がフォローしている人は他にどんな人にフォローされているのかな、って
たまに見に行くことがあって
その方々の言葉を読みながら
人の考え方も好みも本当にその人独自のものなんだなあとしみじみ感じながら
でもこの方々と私に共通項が少なくとも一個はある。それは同じ人をフォローしているということなんだなあと
そこに気づくと何か生きているのが面白くなってくる。