使っていたbot(自動投稿予約)サービスに、twitterのAPI使用がタダではできなくなるっぽいので、botに登録していた言葉を仮に置いておくその4

世にある様々な色が三原色と明暗の配合率の違いだけで表せるなんて、ちょっとおかしい気がする
うん、美味しいもの食べてる様子見ると幸せになるし、好きなひとが美味しいもの食べてるの見ると食べられたいって思いますね…
とにかく第一子が乳児の時に私がベビーカーに子供を乗せて片腕にオムツやら着替えやら哺乳瓶やらのたっぷり荷物を提げて片腕に買い出し食料を提げて、めちゃめちゃ坂の多い町を歩いていたら「あらあ、おんぶが一番なのにかわいそうね」って台詞を通りすがりに投げつけたおばちゃんのこと、忘れまじ
それとも、息子がクルマクルマ言って車種を覚えだした時に「わあ、男の子っぽいなあ」と我々親が喜んで見てしまったのかな。娘がなんだかピンク色を欲しがった場面で「うわーやっぱり女の子だから似合うよ」って思ったのが顔に出てしまったので余計に当時のあの子のピンク好きに拍車をかけてたかも。
3月のライオン11最高でした!零くんの愛が素晴らしくてその戦いかたが超絶頭よくて、対雷堂戦も、対妻子捨て男戦も、小気味良かったです。川本姉妹のきっぱりした台詞にも喝采でした。巻末のファイターも泣けました!繰返し読みたいです(2015.9)
どうしても憎い対象ってあるし、これを赦せるようになると本当に楽になるのか、楽にならないけどそれが正しいのか、楽にもならないなら赦さないままが正しいのか、どうでもいいのか、考えるだけ無駄なのか、分からなくても生きるのが正しいのか、分からない
何かこれたぶん私の寿命尽きる前にスッキリ解る気がしないんだけど、ヒトの色々な綺麗なところとかきたないところとか弱いとことか強いとことか馬鹿なとことか賢いとことか諸々あるのを、それ全部自分のなかにも他人のなかにも潜在していつか出るだろうから受け容れ…、って、したくても無理な時ばかり
火祭りの踊りの作曲家、ファリャって、名前がいかにも火祭りの踊りって感じだし、剣の舞を作曲したハチャトゥリアンの名前は凄く剣の舞って感じがする
そうそう、夫婦長続きのポイントはお互いがお互いのこと適度にどうでも良いと思って暮らすことだと、経験上も思う
ウチの子が、そういえば、ゆずのお二人は人として最高の理想の形…、と言い出したので、どういうことかと問うと「この先、何度か人生を繰り返して、最終ステージで最後の人生では、ゆずになりたい」とのことだった
まあ、やはり私が世界制服した暁にでも、三分歩けば必ず清潔な公衆トイレ(全個室車椅子対応、オムツ替え台付き、ウォシュレット付き、ラバーカップ常備)のある社会を作れたら幸い
好きな人たちが幸せなのを見ると幸せな一方、心のどこかで常に、その人がどう生きようとそれは私の関知するところではない、って思う。なぜかと思ったら、されて嬉しかったことを他人にしたいし、されて嫌だったことを他人にしたくないから、私は、必要以上に干渉されて嫌だった思いが強いからだと思う
お肉の漬け込み液も、結構なんでもいける。飲み残しのビールだったり、カクテルだったり、野菜ジュースだったり、加減しながらお醤油や胡椒と合わせればなんとかなるし、餃子のタレも少々、など。でも焼いてしまうと結局何を漬け汁に入れたのかよくわからなくなって、正確な分量レシピ思い出せず
なんか…自分一人の人生だけだと何のことやら意味も分からないし何も成してないけど、大勢の人生が集まって大勢の時間が積み重なったら、それを俯瞰で長い目で見たら、ジグソーパズル的に、あーあー、、なるほど、こういうのができるのかー、と分かる。で、なるほどと分かる人って誰、みたいな…
また別な話だけど、一人とか数人とかの、めっちゃ好きな人類のことだけ見て思って幸せになってる、いまのこの私の幸せの形、良いとおもうけど時おり、その好きの対象の人々の命が有限だということに、ものすごく、哀しく虚しくいったい何なの何の意味あるの感に襲われてしまい、よくない
若い頃の私に似たところがあるから。あんまり周りが意識に入ってこないで、常に脳内に何らかの音楽を流していて、それが無意識に口から出たりしていた。物心付くの遅かった。諸々覚えていないことばかり。だけど何かの番組のテーマ曲とか、覚えていることだけ覚えてい過ぎる。それでメモリ埋まってる
お風呂に入る前から独り大きな声で歌っていて、お風呂に入りながらも引き続きやはり歌っている男子(成人)の声を聴きながら、歌いたくなる状態にいるんだなあと安心すると同時に、でも少し心配になる。大丈夫なんだろうかあの歳で、脳内の大事な大部分の面積が歌で覆われているんじゃないかウチの子
飛行機に乗るの大好きなんだけど、離陸してしまってからはちょっと退屈して寝てしまう。離陸時と着陸時が一番好き。非日常な感じにわくわくする
このアカウントとあのアカウントのTLがまるで別世界なのが凄い…
民王の原作も読んだ。これも面白いけど、ドラマは更に面白かったな…武藤翔を女子力男子に設定変えたのは大正解だったと思う/もはや貝原さんのファンになりつつある
昔の記憶でめちゃめちゃ曖昧なのある。記憶かどうかも定かでない/可能性として、一、自分が体験した事実。二、家族か誰かから聞いた事実を自分の体験だと思ってる。三、夢かなにかを自分の体験だと思ってる。の三つのうちどれか
どこへいくにも、幼児を飽きさせないためにはどうするを考え、おトイレの場所やタイミングを気にし、あらゆる事態に備えて荷物も半端なく多く、あの頃、出掛けるったって楽しいより責任感とか、無事にレジャー遂行できるかのことで頭いっぱいだった。勿体無いな。呑気に楽しむ自分がもう一人欲しかった
2次元や2.5次元へ寄せる思いの何が気楽かって、完全な一方通行であることが明白だから。リアルだと、なまじ自分が相手に知られてるから、知られているのに自分に興味を持ってもらえない、という切なさが余計な悩みを産み出す
思い入れのある人や作品等に関して、ああなってほしい、こうなってほしい、と、どうしても思ってしまうものだなあ…人々って。自分も含めて。
マイナージャンルをモチーフに青春ドラマが作られた際、ちょっとその方面に馴染みのある視聴者からすると、もっとコアなところを出してほしいという気持ちになってしまう。つまり「本当はもっとああなのに、あのくらいのことだと思われたら残念」などという気持ちがどこかにある
世の中への、いや、自分の見ているTwitterのタイムラインやリストという狭い狭い世間の縮図への、違和感、さらにいえば自分と同じ感覚を持ってそうな人が見当たらないという孤独感?みたいなものを、私は私のなかに勝手に拵えて、泣きそうになってた
いろいろな感覚がある、いろいろな考え方がある、それを頭ではわかっているつもりだけど、スッキリしない。そんなとき、こういうもやもやの思いだけで、まるで当たり前のように胃も痛くなったり食欲も減退したりする、身体の仕組みがおかしくてならない
椎間板ヘルニアで入院してたことを知った。突然の激痛だったそうな。主な原因は、腰回りの筋肉が衰えたことで、支えきれなくなった肉が神経を挟んでしまったことらしい。予防のため腹筋運動を薦められた。少しでも身体を鍛えようと思いました(日記)。(2015)
フランス革命暦、どんだけやりたい放題だったんだろうって感じ
誰かが病欠すると途端に仕事が回らなくなるような職場は、病欠する社員が悪いのではなくて、そういう病欠を想定してない職場が悪いんだもん。無理をしないで働くことは、そういった職場の改善のため、世のため人のためにもなると思うわー。ご自愛のほど
なんかもう面倒くさい世界があるね。小姑っぽい意見を見るの、もやもやする。本人が付き合ったりやめたりすることに関して、交際相手の人柄や振る舞いについて、ファンがとやかく言う権限ない。相手がどのような人だろうと。親でさえ子供の選ぶ人について権限ないのに
急なお片付けを迫られたら即死。
プリンセスチュチュに出てくるプリンセスクレールなる黒い女子の衣装が超絶ツボにはまった。/黒い羽根、プラス妙にセクシーな胸元、なんなのあのコスチューム、堪らんではないかね
相手の身体が小さく力も弱く心も脳も経験もまだ未熟、そういう相手に対しての、適切な愛情のあり方とか、自分のエゴとの付き合い方、幸福観、人生観などなど、こんなに大切且つ難しい問が問われるのに、それを会得しようがしまいが、妊娠すれば(されれば)親になっちゃうのがね…。
昔の社会では、養育者がどんなに理不尽であろうと、それに疑問を抱いたり逆らったりすることは許されなかったけど、こうして精神的ならびに肉体的な被虐待児について考えられる世の中になって、いつかそんな悲しい事態をなくすことができたなら、人間もそんなに馬鹿じゃないな、と思えそうだけど。
でもまた別の虐待のケースとして、親が自己承認欲を充たしたいが為に子供を使う場合もある。子供の人生を横取りして自分の人生を補完しようとする人々。私の身近にもそういう感覚の人間がいて、少なからず悩まされていた。もっと、幸せを自給自足して、子に依存するのをやめられれば、あるいは。
育児のモチベは別に見返り期待とか自己実現なんかじゃなく、ただ可愛いから育てちゃうし、育ててると一層可愛く愛しくなってくるからだったけど、でも自分の気力に余裕がないと、その可愛いと思う気持ちが枯渇しそうな時はあった。被虐待児を出さない為には親の心身が癒されること必要だなあと思った
この身体で生きていかなきゃいけないと思う気持ち、我ながら不可解。死にたくなっても、…死ぬくらいならこの人生をやめて別な人生を生き直してまでも、死ぬより良いと思ってしまう。なんでかな、分からないが
結局、デスノート最後まで観ちゃった。原作とは違うところ、あれはあれで面白かった。窪田くん、思ってた以上に夜神月だった。凄かった。忍成さんはもっと壊れるかと思ってたら控えめだった。窪田くん怖いくらい壊れ切ってた
つまり、ごく一部の、歪んだ無理なサンプルでしかないのだろう。そうして無理なことをやって届いた事例を見て。届かなかった人や、届かなかった人を見てきた家族が、ほら、あそこはやっぱり無理な場所なんだ。と安堵する、みたいな
何もかもが無駄だけど、何もかもが繋がってて無駄にはならない。無駄にならないようにできる可能性があることに子供が気付く暇を与えたらいいのに、と他人事ながら思った。(感想)
ジョークじゃなく本気なのか。「受験に恋愛は無駄です」確かにそうだね。だけど無駄なものは恋愛だけじゃないや。受験にはもう何もかもが無駄。で、無駄を排して受験に勝つことだけを考えて生きた時間も、ある意味、大きな無駄のひとつかもね
そのジャンルをよく知りもしない人から自分の推し作品とか自分の好きな人とかを蔑まれるイヤさは、ヲタクならみんな分かってると思ってたが…人にされていやなことはしたくない。自分の価値基準では測れない何かの魅力があるから、その人やその作品は誰かの推しなんだろうから
ウメッシュとか梅酒とか梅の素晴らしさを知ることができてホントに本当にこの国この時代に生まれて良かった。この状況でそれを飲むことのできる巡り合わせで本当に超良い。ありがたい。だけど酔ってしまうからたくさんは飲めない。ノンアル梅酒、年がら年中飲めるようにしてください。以上
自分や家族の「何月何日は大切なイベント」というその何月何日は、遠いみたいに思ってもいつか今週になって明日になって今日の予定になって、あと数時間になり、あと数分になり、今になり、先程のことになり、今日のことになり、昨日のことになり、…っていうのを経験するたび諸々にありがとうって思う
ずっと男子にしか恋しないでもなく、ずっと女子にしか惹かれないわけじゃなく、こうして時折、同性の誰かのことで頭がいっぱいになってしまうことがたまにある、っていう…デフォルトでは概ね異性に向かうんだけどもね
なんか涙が出る。自分の届かないこと、ものなど、全てのことを思うと
戦争できるような国にしたくない、って言ってるデモンストレーションを見るたび思うんだけど。人殺しできるような武器を警察には持っててほしくない、って言える人ってあんまりいないよね(2015)
大人になった息子に私が何か言う場合、それはもう、「親としてではなくて同居のメンバーとして思ったことを言わせてもらう」の文言が略されていることをいちいちいわなくてもわかってもらう必要が出てきた。
仕事だと、どの程度の病状の時に休むべきとか出勤するべきとか、私にはそういうの分からないし、彼にしかその状況判断はできないが、私にはもう「熱あるなら欠勤して一日寝てしまえ」としか思えない。そのほうが風邪を撒き散らさなくて世のためにもなるし。だけどあんまりもうそういうこと言えない
て言うか、こんな頻繁にお腹の痛みを送り込んでは、治ったときに健康の有り難みを実感させるようなカリキュラムを組まなくたって、もういい加減よくよく解ったからもう、もうね、いいから。って言いたいの
息子にとって納豆は間食なんだな…。プリンと並列
誰かの役に立ってれば良しとか役立たなければダメとか思う必要ないんだけど、まず誰の役にも立たないように生きるって逆に難しいのでは。あの嫌いな人でさえ、生きてると知らないうちに誰かの役に立ってしまっていて、誰のためのどういう役に立っちゃったのかは人智及ばないから考えても分かんない
心が傷ついたり癒えたりしたときにそれが外からも見えると良いのに。でも優しい人達はうっかり道も歩けなくなるかも。人々の心の傷みが一層、目に入ってしまうだろうから。本当は、優しい人に訴えたい訳じゃない。優しくない人にこそ知ってもらいたい
こうして私は、若い頃には恥ずかしくて躊躇うようなことを恥じなくなって、そんな自分を発見する度に、何かに勝ったような、でも寂しいような、泣けるような不思議な気持ちになる。というか昔のような調子で恥ずかしがってたら、ついったーであんなこともこんなことも書けない
いつか誰かが何かのキーワードで私を見つけるがいい。するとその誰かは、そのうち私の好きなひとたちに辿り着いて、何かを感じて幸せになるやもしれない。風が吹けば桶屋が儲かる的なこともある。
人の格好をしておきながら、よその人の血を吸わないと生きていけない生き物、なかなか可笑しいよね、って私は思ったんだが…ここに可笑しみを感じる人ってあんまりいないのかな
男性の人魚について魅力を感じるのかどうかが今夜のお風呂での議題でした。私は、男の人の脚の動き、蹴ったり駈けたりする躍動感が、お魚になってしまうことには、残念さを感じてしまいます。(2015.9)
知るひとぞ知る、私のオーロラ好きについて。オーロラ、何が良いかというと、色も姿も綺麗だけど、ここから見えないってとこ
時々考える。結婚を親族にせっつかれなかったら、はたして自分は結婚したり出産したりしただろうか。って。私は、結婚をせっつかれたことには怒っているのに、その結果生じた、結婚や出産や子育ての歴史には満足している。どんだけ自分に都合の良い思考だろう
経営も人工知能に考えてもらう件について新聞で読んだの思い出したんだけども。痛いとか、痒いとか、喉渇いて炭酸美味しいとか、人工知能に解られるだろうか。そのうちいつか人間のことを「有限の身体があるなんて儚い、尊い、羨ましい!」って人工知能が憧れてくるんじゃないかと思った
カルト的な集団の中に一時的に居た経験からも実感してることとして…、「自分達は、真実を知ってるから、世の中の人々が自分達を騙そうとしてくるけれど、絶対に騙されまいぞ。」などとカルトの内部のメンバーが思い込むような仕組みがそこにある
子供が小さい頃は今より忙しかったのに、何処を這っても舐めてもいいように毎日掃除をさぼることなくやってたのになあ。アトピーの子のために一日二回のお風呂汲んで、洗濯も今より多くて、…どうやってたんだろう、本当にあれは私だったのかもはや疑う
物に居場所を作ってやるのが苦手。どれもこれも手を伸ばせば届くところに置いておきたい。要るか要らないか分別するの苦手。どれも何かしらの思い出や、くれた人の思いやなんやらあって、要らなくても捨てたくない。きれいにするの苦手。一ヶ所取り組んだら全部やらなきゃという気持ちになるのイヤ。
スパイダーマンウルトラマン仮面ライダーもそうだけど、前髪が見えて襟の付いた服を着てシュッと細いスラックスを穿いてたら、もしかしたら私に「カッコイイ!!」って思わせることができたかも知れないね。せめてトランクスみたいなもの穿いてたら良かったかも。
子供が大きくなってどんどん親の知らない分野のことを喋るようになるのって、えも言われぬ快感なんだよーっ/当たり前っちゃ当たり前のように、大人になったウチの子供らが、なんか私の知らないことを、喋ってる、あの口から知らない単語がどんどん出てくる、そういうの聞くの楽しくてねえ…(ぽやーん
もうこの先、子孫が水中で暮らせるように進化したり羽がはえて飛べるようになったりなんて、しないんだろうな…。そういう道具を作ればいいだけなんだから
最初の最初に二足歩行をやってみた人類ってさ、親とかに「うっわ!なに、この子、後ろ足だけで歩いたりするの?なんでこんなことすんの?」って思われたんだろうか…、そしていつのまにかそんな「今時流行りの二足歩行奴」たちのほうが長生きしたりモテたり子孫繁栄したりで増えたのかな(子との語り)
「心配の先取り、横取り」私が身内にされていたときにとてもいやだったこと。なのに、ともすると今度は私が自分の子供に対してこれをやってしまいがちで、自戒しなきゃ。子供の人生は子供のものであって、親のものじゃないってことを。
入試過去問赤本には、各年度各学部の合格最低点が記載されているが、それは素点じゃなくて、成績標準化を施したあとの数字なのである。素点で「わあい!合格最低点を超えた!」と思っても、標準化数値を出してみると糠喜びになることが多々ある
(愛を叫べ)って、ウェディングソングによくある、幸せにしてやる的なのじゃなくて、…憧れてた人が人妻になっちゃう状況で「幸せになれよ」な歌詞なのがちょっと胸が痛くて好きなんだよなー
何年も前からずっと彼女のことを秘かに見守っていて、だけど何も言わなくて、さりげなく助けて、彼女の幸せ願って諦めて、だけど諦めきれずにいて、そんな彼女も彼の心を知って、やっと思いが通じあって、の、涙湛えながらのキスシーン、アングルは真横、これを好きな役者さんに演じてもらいたいです
知らない分野のことは知らない。知らないことを解った気になることはできない。でも一生知り得ないことに関しては、想像してみるしかない。
睫毛美容液が何かの拍子に眉毛と目の間周辺を濃くする。無駄毛を薄くする化粧水を塗ってそれを阻止しようとする。無駄毛を薄くする化粧水が何かの拍子に睫毛に影響して睫毛の発育を阻害する。どうすりゃいいのかお手上げ(2015)
非常時に備えてエレベーター内に簡易トイレを備える動き、もっと全国的に広まれ。車椅子用のおトイレもっと増やすべし。商業施設のおトイレなど、女性用にも男性用にも赤ちゃんを寝かせたり座らせたりオムツ替えたりできる仕様にしてね。
でも私も知らず知らず自分の考え方を子供にものすごく推してしまってるかもしれないなあ。/親が良かれと信じて薦めてくるものを子供が判断して距離を置くっていうの、かなり難しいこと(自戒込め)
親とか周りに何を言われようが、自分で決め、自分でやってみて、自分で納得してからじゃないと、方向転換なんてできないものなんだな。息子は特にそんな感じ。娘もまあそうだけど、息子の事例を見てるからあんまり無謀なことは言い出さない。二番目の子は先例を見てそれなりに学んでしまう
やっぱり外見の美醜の感覚って人それぞれだなあ…(ストライクゾーンが広すぎるんだ私は)
そのジャンルをよく知る前と相当知ったあとでの「自分は一体何を見ていたんだ!」っていう、イメージの激変を経験したのでね、何事も決めつけることはつまらないことだと思った(****年)
夢のなかで、いきなり大音量で驚かされたから、目が覚めてしまった。こういう驚かしってのは、夢の外のつまり現実世界の役目なんじゃないの!?夢のほうで夢から追い出してどうすんの。何がしたいんだ夢(2015)
が、少なくともリアル人間関係からは距離を置いてるからこそ呟けることは多々ある。なのでTwitter社さんが何かというと知り合いと繋がらせようとする方向とは、私は相容れない。でもツールを使わせて貰う以上は個人的に細かい設定変更で現状対応していく
他者の痛みを我が事のように感じ(ている気持ちにな)るということと、本当に他者を尊重するということとは、別というか、時に矛盾するのではないだろうか。他人は他人、自分は自分、ってどこかで思っていないと侵食してしまう
子供の泣き声、聴くと居ても立ってもいられないし、子供が不機嫌だと、なんとかしなきゃと思う。…ある意味で、子供のこと自分と同一視、子供だか自分だか区別がついてない状態、この状態になるから乳幼児を死なせずに育てられる。でも子供が成長してからもこの感覚でいると、親子共々いろいろとまずい
明子のこと高校生の頃から、体型雰囲気なんとなく可愛らしくって親戚目線で見てしまってた。なお日高先生のことは、やることは好きになれないけど、凄い人だと思う。明子の中に確実に活きてる人だと思った。また気に入った場面を読み返してみよう(かくかくしかじか)(2015)
かくかくしかじか読了、超面白かった(涙)!明子可愛い。突っ込み所は多々ある、ああすればこうすれば良かったのに等と。漫画描きたいと最初に先生に言っとけばいいのに?とか。でもその時々の明子の気持ちや選択、否定できない。うんうん、そうか。って思えた。こんな形の恩返しもあると思った
若い頃の自分と今の自分、確かに経験の記憶は共有してるけど、別の人間かもしれない。一時間前の自分とも、一秒前の自分とも、別人かも。一応、引き継ぎはできてるけど、前例に縛られる必要もないんだし
"以前、フォローさんが、人ってそれまでの人生において軽んじていたものに復讐される…的なことを言っていて、それと似てるかな的なことがらを最近しみじみ思う。 これまで興味なかったり、避けてきたり、嫌いだったり、…そういう色々なものと、人生の後半でうまいこと向き合う羽目になり帳尻合う"
見ていた夢、私にしては珍しくあまり具体的な筋書きがなくて、どこかの国のどこかの街のような場所をただ歩いていた。綺麗な階段がどこまでも続き、一足踏み出すごとに違う色と音が生じた。これを映像化して取り出せるサービス、将来は発明されないかなあ。待ってる
親類からの、私自身への理不尽はまあまだ私が我慢すりゃいいけど、ウチの子にまで何だかんだ支配が及びそうだなって虞が生じたら、それは離れるが一番
親戚一同が集う習慣、昔はそこに疑問を挟むことすら発想できなかったが、考えてみたら子供心にもどれ程苦しかったイベントであったかと。大体、血の繋がりがあるってだけで価値観も感覚も違う人々を一緒にするっていうのが無理でしょってな人達と過ごすアレ
ネットの情報収拾でもリアルの繋がりでも、全世界を把握することは無理で、その時に見ようとしたこと興味をもったことに限られる。これでいいんだと思う一方、その、こっからここまで、と自分が区切らざるを得ない範囲の中でまでも、あちら立てればこちら立たずの矛盾の存在にヤキモキしたりする。
私のたかだか五十年ぽっちの間に、見ようとして見たこと、味わおうとして味わったこと、それらの事項が、脳のなかでこんな感じそんな感じに結び付いてその時その時の結論を出し、自分を動かし人を傷付けたり癒したりするかもしれない。…何に意識を向けるのかは、その時時の体調や気分や縁による
他人は自分じゃないんだから変えてあげることができないんだ
私(を始め子供や孫や曾孫のことまでも)のことを自分の気が済むようにしておきたいと型を強制してきた彼女も、子や孫や曾孫と自分が「別の人間だ」という感覚がなかったようだ。そして自分の投影である子や孫や曾孫が世に認められ褒められなければ、自分は満たされない。そう態度で語っていた彼女
ていうか、普通の、一見そんなかっこいいと思ってなかった人が実はかっこいい瞬間を、発見するたびに、生きてて良かった位の嬉しさで転げまわってそこから何年もそれが好きになったりするからこわいんだ
突然の体調不良をテロにたとえることが多い私だけど、むしろ地震噴火台風竜巻といった災害のような気がした。終わるまでなすすべもなくて全ての予定を諦めなきゃならないあたり
あと、今まで何だかんだ、私に期待する親族の為に生きてきたようなところがあるから、子育ても一段落してる今から、誰かの為じゃない自分の為に残り時間を使いたいという気分がある。
そういった、今世では全く掠りもしてない無縁の経験を来世に期待するのはあてにならないから、いまこの時代にそういうのを味わってる人達を、実は自分の分身だ、と見なす、そしたら、別の私がやってくれてる、ああ、良かった。宜しく。って思えるだろうと。
他者のための一つの大きな使命に、その一生を捧げるってことは、なかなか私のような凡人には能力的にも人間関係の柵的にも実際は出来かねることで、そこに心身を尽くしきるヒーローやヒロインの生き方をフィクションの世界で疑似体験できるエンタメは面白いな
そうなんです…いま若い頃にもっとも蔑ろにしてた体育に仕返しされてるところ。
この半月ほどの自分のついーとを遡るだけでも、本当に同一人物か?ありとあらゆる気持ちがこの私という容れ物を通過していったんだなあ…と思う
テスト開始時間の三時間前には目覚めておくと、脳の立ち上がりが間に合うらしいよ、っていったら、うん、それ踏まえて七時には実は起きてゴロゴロしていたんだ。と言う。どんなふうにゴロゴロ回転運動したのか冗談半分で訊いたら、ただゴロゴロしてただけと真顔で答えた後笑い転げてた
解答用紙を私がいつも作らされるのは、大問小問、何個あるか数えて解答欄作成するときに予めネタバレしてしまうのを良しとしないため。赤本を作る人に、解答用紙も付けてと言いたい声を大にして。
好きなひとがこの世にただいるっていうだけで、信じられないくらいの贅沢をさせてもらってる気持ちになって、え?マジ?って改めて思って涙が出ることない?ないの?あるでしょ…いやあ、あるんだよあったんだよ、覚えてないだけだよそれは。
人類、もっと頭よくなってなんでもかんでも解決しておいて下さいね
大切な我が子や友達や恋人には、幸せになってて欲しいと思う、ところがその思いが往々にして逆の結果をもたらしてしまうことがあるのが人間関係のむずいとこ。そこで待たれる発明。好きだ、幸せになって!と祈ると、その思いが適切な何かに変換されダイレクトに腸まで届いて本当に幸せにできる。これだ
荷物を片手に持ちながらベビーカー押しながら上の子を抱っこして歩く気力体力さえあれば育児はもっとうまくいったと思うけども。親の気力体力に余裕があるか否かで愛が左右されるの、物悲しい
脳には身体のほうの寿命と歩調を合わせて生きて欲しい
人間はさあ、ある程度の精神的な修養、人生経験を積んで、人心に関して理解とか寛容とか忍耐とかできるようになって、我欲も手放せるようになって、自分のことも他人のことも優しく見られるようになっ……て、から、初めて生殖機能が機能するような仕組みになればいいのに。
おトイレって、もっと社会にふんだんに潤沢にあるべきだと思うんです。一家にひとつしか便座がないのが当たり前だと思ってる?家族の胃腸のリズムがちょうど重なったら?誰か我慢するでしょ。我慢してると身体に悪いでしょ。
生きなきゃなんない人を生きやすく、死ななきゃなんない人を楽に死にやすく、するのが良い教えだと思うの。まあ生き物全部が、生きたり死んだりしなきゃいけないんだけど。あとやっぱり、人殺しを正当化するような教義はおかしいって。自分が殺されても文句言えないってこと
宗教活動してる人が大人相手に勧誘するのはまあそういう仕事なの分かるけど、自分んちの子供を染まらせるのはやめてあげて…。と言っても、良いと思ってることだからまっさきに我が子に教え込みたいんだろう。気持ちは分かるけど、虐待だと思う
だから、どんなに素敵な、幸せな答えを掲げたって、それしかないんだこれだけしかだめなんだと自他に強いる縛りに縛られて不幸な精神状態
異性の子供の成長を長年にわたって見て来ると、世の中の異性に対する見る目がどんどん変わってくる。ああいうところもそういうところも可愛らしく思えてくるのだった。
生物学的に産みやすい年齢のときに、社会的には産み育てにくい状況になっているという、このズレについて、知っておく必要はあるだろうし、ズレを知らずに産めと煽るのもおかしいし、ズレを修正すべく社会か身体のどちらかが変わったらいいのにな。
息子があまりにも歌い続けているものだから、つい聴いてしまって腰が重い。それにしてもなんの躊躇いもなく独りで大声で歌い続けていて/今度はものすごく物音を立てながら何か台詞を発し(****年
ってな感じで昔、友人にドラマ話を熱く語った際。私がそういったコンテンツに関して財布の紐が緩くなるように彼女はハンドバッグに対してお金に糸目をつけないで買ってしまうと。それぞれ何に心をときめかすか色々だなあとおもった。
そのジャンルをよく知る前と相当知ったあとでの「自分は一体何を見ていたんだ!」っていう、イメージの激変を経験したのでね、何事も決めつけることはつまらないことだと思った(****年)
楽しい思いをするまでは生きてて欲しいって思ってしまい、忝ない。
「生きてるうちに地獄も天国もあるんだから、死んだあとはもう何にも無さそうだよね?」「いや分からないよ、それどころじゃないような何かがあるかもしれないよ」って娘に言われた件、それどころじゃないような何かって何だろ
そうは言っても「我が身よりも子のことを心配してしまう」気持ちが、出産すると確実に生じてしまう。これを消すのではなく、害にならないようにコントロールできるようでありたい
他者の痛みを我が事のように感じ(ている気持ちにな)るということと、本当に他者を尊重するということとは、別というか、時に矛盾するのではないだろうか。他人は他人、自分は自分、ってどこかで思っていないと侵食してしまう
若い頃の自分と今の自分、確かに経験の記憶は共有してるけど、別の人間かもしれない。一時間前の自分とも、一秒前の自分とも、別人かも。一応、引き継ぎはできてるけど、前例に縛られる必要もないんだし
この人のこの部分は好きだがこの点はなんとかならんかね、とか、そういう考え方には賛同できないがその行動パターンは可愛い、とか、割りきれない思いを対一人に感じるのだけでもしんどいのに、まして集団で、あの人と仲良くしたらこの人から疎まれるだとかあの人を庇うとこの人が怒るとかもうヤダっ。
昼食時の話題:あどけなさとか色っぽさとか多種の要素をうまいこと絶妙配合されたひとが素晴らしく、このキャラデザは誰の手によるものか?神様?って話が最終的には「モロ出しよりもチラ見せが良いよね!」って所に落ち着いた。(2015)
家族マネージャー業、炊事、洗濯、掃除、片付け、…主婦仕事のなかでもっとも後回しにしてしまうものは私は掃除と片付けである。いつか私以外の人間に任せたってなんとかなりそうな、ある意味、やらなくたって死ななさそうなイメージ。それより明日死ぬと仮定したら果たしてそれ私の優先事項なのか?
若い頃にもっともっといろいろな種類のパンツを穿いておけば良かったけど、おへそが隠れないとお腹の調子がよくない体質だからきっと穿けなかったかも
とにかくとにかく好きなひとが歌っているところを観たい。聴きたいだけじゃなく目でも観られたら凄く良い。だがしかし聴けば歌う姿が想像できるってもんよ
プラナリアっていう生き物がこの世にいると思うと、そこはかとなく可笑しい
就活に苦労した家族を見ていたので、就活生の気持ちは少しは汲めるけども。敢えて忘れずにいてほしいのは、就活って選ばれることと同時に、選んでることでもある。合否に関わらず結果をきちんと伝えてくれる会社もあれば不必要な圧迫面接で傷つける会社もあり、それを選ぶか否かは就活生次第
たこ焼きの具で好きなのは…私はね…紅生姜もロールケーキもいいんだけど、やっぱりタコかな。だけど好きなひとが作ってくれるんならどんなタコ無したこ焼きでも美味しい。ソースがマヨでもプリンでもいい。あっちに行ってる間に焼いておいてくれたら気絶する
期待に応えることだけがモチベーションで動いてきた結果、期待されなくなればあとは怠けるしかなくなり、期待もされないのに面倒なことなんかしたくない。…みたいな。私のなかの「やりたくてやる」「よくなりたくて、よくなろうとする」気持ちは、対・親族という緊張を外してから発見されるものだった
他人は自分じゃないんだから変えてあげることができないんだ
変身後のスーツ姿でおトイレに行く時って面倒くさいだろうなとかそういう諸事を気にしてしまう現実脳に、色々な懸案事項を全部「お約束」で取っ払ってくれるフィクションが癒やし
この半月ほどの自分のついーとを遡るだけでも、本当に同一人物か?ありとあらゆる気持ちがこの私という容れ物を通過していったんだなあ…と思う
それで思ったのは、ゴロゴロするという擬態語の通りに、本当にゴロゴロと回転してる状態ってあんまり無いし、フラフラ歩き回るという擬態語の通りに実際に身体揺らしてフラフラしてる人をあんまり見ないよね
人類、もっと頭よくなってなんでもかんでも解決しておいて下さいね
そもそも私がTwitterで呟く目的は、親でも子でも妻でも近所の人でも仕事する人でもない自分、が頭に浮かんだことを誰に配慮することなく一般化して書き留めたいってことが主だったんだけど、やはり親や子や妻や近所の人や仕事する人としての目線から自分の思考を切り離すのは難しい
荷物を片手に持ちながらベビーカー押しながら上の子を抱っこして歩く気力体力さえあれば育児はもっとうまくいったと思うけども。親の気力体力に余裕があるか否かで愛が左右されるの、物悲しい
小さい子供って理屈で訴えてるわけじゃないものね。愛して欲しい、を色んなバージョンでアピってるのを察してほしいんだろうし
サンダルと足裏の間に挟まった小石粒を、サンダルを脱がずに逃がそうとして駅ホームで謎のステップを踏んだ主婦を見かけたら私
そんな祖母を「よしよし、我慢したんだね、戦争中の厳しい時期にも子供を死なせず頑張って子育てしたんだね」と、私が他人なら温かく思ってあげられたかもしれない。そんな存在が彼女には必要だったのに居なかった
例えば祖母なんかは「あたしゃ子供や孫のために生きるのが優先で、遊びや趣味など一切我慢してきた」ってなことをアピールしてた。あれは嫌だった。こっちも遊んじゃいけないんだという気分にさせられた。勝手に我慢して恩に着せたり子を縛ったりせず、自分の楽しみを持って遊んでて貰いたかった
ラーフラって名前、やっぱりすごい。お釈迦様が出家して修行できたのも解脱したり説教したりできたのも、生まれたばかりの子供を放って奥さんに任せてどっか行った夫を、奥さんが探し出して首根っこ捕まえて引き戻したりしなかったからだと思う。奥さん次第では仏教、今頃無いかも
例の、自分が贈ったものを着ないと不機嫌になる親戚のことだけど。私が自分の服を自分で選んで買って来たらそれを扱き下ろす。そこに私が文句なんか言おうものなら大変なことになる。だから私が真に自分の服を自由に着たのは、結婚して遠方に転居してからのこと。その時、嬉しかった
過ちは繰り返しませぬ。は、あっても、過ちは繰り返さないで下さい、は、なかった。そんなこと言える立場ではなかった。負けるってそういうこと。平和教育自体は別にいいけど、全世界的に、戦勝国も、敗戦国並みに反省して核兵器根絶してみたら。でも、抑止力がどうこう言うんだ、きっと
戦時中の若者が、立派な死にかたをしたいと願ってた話、死ぬならせめて人の役に立ちたい、人を守って死にたい、と願ってた話があった。これ戦時中じゃなくても今もいつでも、人ってなにか意味のあることの為に死にたいんじゃないだろか
知らない分野、一生経験しないもの、がたくさんあり、寂しいけど、うんうん、よしよし、佳きかな、っていって逝きたい
全く違う話をするけど、ユースケ版のアルジャーノンのドラマで、妹を見つけたときのユースケさん(ハルくん)の対応が素晴らしすぎて泣いた人、私と握手してください。
もしかして、私の脳味噌含む、この身体っていうオフィスで、新入社員や退職間際の社員が入れ替わり立ち替わり、様々な業務、プロジェクト、在庫管理、などを引き継ぎ引き継ぎ行っているせいで、二十年前どころかつい昨日の自分の中でのことも今日の私からすれば別人の仕業、でも創業五十年みたいな?
カジモドって大聖堂から刑場に飛び降りてきてエスメラルダをかっさらってまた壁を登ってくところカッコ良すぎて私も抱いてほしいって思わない人とかこの世にいますか?
やばい。私、色即是空のこと好きかも
社会で男性は斯くあるべき、とされていることに当てはまりたいというわけではなくて、ただ、男の子になってみたいだけ。それも少し格好いい男の子になってみたい。常にそう思いながら歩道を歩いてる
相手を変えるとか無理だし、変えるべきとも思えないし、自分が合わせるのも難しいし、合わせるべきとも思わない。ぶつかりたくないので/まあでも、変わってくれない人をその人のままで良しとし、変われない自分をこのままで良しとしてるから四半世紀以上の同居もなんとかなったりしてる
で、少女漫画では読者が少女だから、ああいう身も蓋もない本能由来の行動を、いかに美しく描くのかっていうのが腕の見せどころだったと思うの。昔は特に。だけどいま、逆に、あんまりに美化されるとワザと笑わして来てるのかと思っちゃう
恋で死にたくない。私のことなんて別に知らない誰か、そういう人々への愛のため等で死にたいです。
面白い連続ドラマを観始めた気分。ピース又吉さんの『火花』を読みながら、同時通訳的に、私の脳内で架空の役者さんによるドラマが放送され始めたの。全五話くらいでまだ第一話を観終わったとこ。面白い。徳永さんから見た神谷さんが優しくて素敵。続きは後日(2015.8)
生理痛ってどう考えても要らない。お腹を壊したときの痛みならまだ解るよ、毒を早く外に捨てたい故に痛いんだろうから非常事態だから。でも生理痛?毎月毎月、自分が勝手に子供の寝床を用意して無駄だから片付けるの繰返して痛いとは?馬鹿?
車を運転してるときに余所見したり注意が逸れたり体調悪くなったり判断力が鈍ったり、ってことが、生き物ならあり得るとおもうので、そのとたんに命に関わったりするのがこわいから、自分で運転しなくても行きたいところに時速50キロ程で自分一人を運べる仕組み確立されるの待つ。あと何年か
自己はない、けれど、自分がいるということは、確かなの、かな。
俳優さんが面白い演技をしてる場面に戻って何回も再生してしまう。何度も観ておきながら、こんなに同じ動作をさせてしまって疲れるでしょ、ゴメンねって思ってしまう
人生で最も「ああこれどうなるんだろう、もうお手上げだ、お任せだ、お願いします」ってことが集中豪雨のように連続して起こった、それが妊娠出産時代/そんな自分を凄い!って思っていたが…出てきてくれた子を見たら、あ、子の凄さの足許にも及ばないや……ってなるから
短期目標を定めては、それをクリアするため寸暇を惜しんで全力努力…っていうのもいいんだけど、それだけで寿命を使ってしまうのも、なんだか勿体無くて。
そうだよ…。停車駅に着くまでの途中の景色に目もくれずに、早く着かなきゃと焦るだけの道程、つまらないもの
それとか、歌詞も意味のわからない(例えば知らない国の言葉の)歌とかが、人の肉声のみでアカペラで歌われてるの聴くと、訳もわからないのに涙出てくるのとか、一体全体何が起こってんの。…ましてや、そこにもし、なんか切ない、意味の分かる歌詞が加わって、格好いい伴奏まであったらもうね…
不思議っていえば、歌が入ってない、楽器の音だけの音楽を聴いたときに、いつも不思議に思うんだけど。歌詞が無いのに、音の強弱高低音色のいろいろの組み合わせだけで、なんでこんなにヒトの心に諸々のことを思わせて楽しくさせたり哀しくさせたりできるのか
夢って不思議。あんなに夢のなかではリアルなのに、目が覚めるとそれはどこにもない。それとも何処かにあるんだろうか?あって、それを、寝てる間だけ覗けるようになってんの?だとしたら、夢を見ることのできる生き物の、見た回数の、総合計以上、そんな数々の異世界がある?めんどくさいなー
体育こそ習熟度別の授業にすればいい。体格も運動能力も違うのに一緒のチームで球技させられると、他の子の足を引っ張りそうで気兼ねこの上ない。集団行動いやだ。あと球技こわい。ボール、当たったら痛い。ドッジボールは痛くないボールでやるわけにいかないのか?跳び箱も股を打ちそうで怖い。
頭だけ動けば良いと思ってた。苦手な体育、克服なんてしたくなかった。高校までは部活もずっと文化系で、運動の楽しさ知らず。でもこの世に身体を持たずに居ることができない以上、何をするにも考えるにもまずは身体次第な以上、体育は必要不可欠重要な科目なんだと今更わかった
それにしても、身体のどこも痛くならなかったお蔭で楽しい時間を過ごせたということを振り返るたびに、身体のメンテナンスをしなきゃなーって思う。この身体をどこまで有効に使って色々なことを味わえるか。PCなら買い換えられるけど、このツールは、そうもいかない
好きになるひとはいつも、時に聖だったり時に俗だったりする。そういうところがめっちゃ可愛いしカッコイイのだった。ポイントは、聖だけじゃないし俗だけじゃないってところ。そして、面白いところ。
超絶佳き日だったから、なんなら記憶を消して全く同じ一日をリピートして同じひとに逢って同じもの食べて同じ話して同じ歌歌ったりしても良い気がする(2015.7.28)
あ、ここインターネット?ちょうどいいので訊きます。部屋にいて、玄関の外でインターホンが押されピンポン鳴るその瞬間わずか少し前に、いまピンポンって鳴るね、って気付く感覚、あれはどういう仕組みで感知できるのか、分かるかたは教えてください。
いまなら大人だから、あの幼時の気持ちに、辛うじて何かしらそれらしい説明がつくけど、これだってたぶん翻訳しきれてないし、ましてその当時、自分が本当は何を考えてそんなことしたのか、自分にも誰にもうまく言えなかった。
いっもいっつも脳内では、あらゆるジャンルの冒険ドラマ、ファンタジー、サスペンス、いろんな想像妄想でゴッコ遊び、独りで。小さい頃。大人から見たらただ部屋でぼーっとしてるようにしか見えなかったろうし、そんなん、言われなきゃわかんないよってなっただろうし。
可愛がってた人形にわざと傷付けたことがあったけど、親が血相変えて叱ったけど、私のその時の気分はそんなバイオレンスじゃなくて、ただ、なんていうかね、脳内の壮大なゴッコ遊びの配役に、ストーリー上で少し怪我する役作りをしてもらっただけ。でも残酷少女と思われたくなくて何か嘘の言い訳した
子供の頃、何が困ったかというと、自分の気持ちをうまく説明する能力がなかったこと。今もないけどさ
ところで40歳50歳なんて、そこに到達してしまえば、なんてことないように、きっと、80歳90歳100歳も、そんな歳になってしまえばどうということはないのかな。そうだろうか、これ脳や身体の衰えをどの程度勘案しないとならないのか、自分の場合がどうなるのかその未知数確認のために生きたい
太陽っぽい恒星の周りを回ってる、地球っぽい星で、海っぽいものもありそうなんだって。じゃあ生物っぽいものもいるかも。パラレルワールドっぽい世界があって、私っぽい人がいるかも(「地球のいとこ」発見のニュースに)
出産適齢になる前の生理と生理痛、出産前の悪阻などの苦痛、出産の痛み、出産適齢を過ぎたあとの生理と生理痛、これらは進化によっていつかなくなってくれるのか。なくなるといいよねえ
固まった箇所を伸ばしたい欲、使ってないところを使いたい欲、歌いたい、歌を聴きたい、考えて楽しいことを考えたい、それと、好きなドラマやアニメの好きなシーンを延々繰り返し観たい、などの欲、これ食欲に勝る気がする。でも睡眠欲には敵わないや。
ちょっとお兄ちゃんが赤ちゃん返りしちゃうってことあるかもだけど、ぎゅっってしてあげたらきっと大丈夫/そして妊婦さんも、ぎゅってしてもらいたい。してあげたい(おめでたのフォロワーさんに。2015.7)
小学生の時、教師が給食完食主義だったために私ゃ不登校になりかけた…。不登校という選択肢を知らなかったから絶望しながら仕方なく登校してたけど
睫毛美容液による育毛が少しずつ結果を見せ始めて喜んでた件だけど、よく見たらそれよりも、眉毛と目の間の産毛が産毛レベルじゃないくらいすくすくと育ってきていて、これは要らない毛なので!睫毛だけ育って欲しいし、眉毛の下の余計な人達は本当に要らないから!
だからって夫婦で、生きるとは!人生の目的は!とか意見の一致しないことを討論して消耗する気にはなれない。言わなくていいことは言わない。ひゃくぱー理解しあえる人と結婚しようとしたら永遠に無理。そんな人、探してもこの世にいない。全部出してわかりあったりしなくても夫婦でいられる
娘が「もう疲れてるからお風呂は面倒、幽体離脱したい、身体は着脱式にしたい」って言ったの思い出したのね。けど、幽体離脱したらお風呂が余計に面倒な作業になるよねっつって笑うしかなくてね…。
いや、なんか…珍しいものや素敵なことを考えてる時間がたっぷり欲しいんだけど、そのために面倒なことをたくさんしなきゃならないから、どうしたもんかと。剥いても剥いても硬いところばっかりで美味しい果肉部分が少ない何かみたいな感じ。もっと、どこもかしこも可食なのないの。
食べなくても働かなくても洗わなくても出さなくても生きていけて、身体も外せて、楽しいことや面白いことだけ考えて過ごしてても死ななくて。でも食べたり動いたりも楽しいから気が向いた時だけ健康な身体を装着できる。そういうものに皆で進化したらどうなるんだろ、やりたい放題で我儘になるのかな。
フォローさんの呟き見て、 抜隊得勝和尚さんってどんな人だっけ、ってぐぐってるうち、紅炉上一点雪、って言葉を知ったのよ。これ好き。融けちゃって蒸発しちゃうの跡形もなく、でも水蒸気、どっかでまた川になって山を下り谷を走る~ってところが"
誰かが私を動かし私が誰かを動かししていくの楽しい
レモンより、レモン味の効いた甘いもの、が好きなんだと気付いた。たぶんレモン単体のほうが絶対に身体に良いことは分かってるけど、レモン風味のスイーツが「幸せとはこれだ」と言ってくるからしかたない。貴女と心中しても良いんだ
ってなぜ夢で考えたことを現実に持ち込んでみると、こんなにしょうもなくどうでもいいんだろう。あんなに真剣に検討してたことなのに
夢の中で真剣に考えてたこと思い出したんだけど、何か誰も思い付いてない固有名詞を考えた上で、こうついーとする…今流行りの「何とかかんとか(誰も知らない固有名詞)」をやってみたい!…って。そのついーとを目にした人がもし「何とかかんとか」を検索で知ろうとするも、該当0件
以前にちょっと絵の練習をしていたピクシヴの自作品を全消去した。恥ずかしいから。他人のを見てるほうが楽しいし。ただ、あれらの絵を一生懸命時間をかけて描いていた当時の私がそれを知ったら、怒るかな?無駄とは思わない。その時はその時で楽しかったんだから
結婚して良かったと思ったこと、それは、結婚しなさいと二度と言われなくて済んだこと/結婚して良かったこと、もうひとつ。結婚すべきか否か、を二度と悩まなくて済む状況になったこと。
お風呂の温度、私には37から43度くらいが苦労せず入れる許容範囲かなあ。それより低かったり高かったりすると、身体を慣らすため足先から少しずつ少しずつ入っては出て入っては出てを何十回何百回繰り返す、そんな自分を客観視すると可笑しくて堪らなくなる
ていうかこういう「フォロワーさんは知らないでしょ」的なのがいろいろ出せるくらい私が先に生まれてるっていう、世代ギャップに頼る勝負、本当は不本意ではあるのだ
コンテンツを通して2.5次元の人達に逢う楽しみが、今後の私の余生の主成分となっていく
気の持ちよう、思いようなんだな…目が覚めてからの一時間程度のこの間にも私の心は落ち込んだり楽しくなったりと、かなりの移動距離
息子が隣の自室で延々と歌い続け、それを壁越しに聴いている娘がぽつりと「お兄ちゃん高音きれいだよね…」とつぶやき、私が頷く、そんな感じの夜
どうして外でやったら警察沙汰な犯罪が、校内で行われるといじめとして片付けられるのかおかしいよ
イジメっていうか犯罪の被害に遭う場面、自分の努力で見返してやるなんてことを美談として印象付けないで欲しい。人のものを勝手に毀損するとか、高いところから泥水被せるとか、犯罪だから各所に訴えるべき、訴えるのが当たり前だという世の中になれ。
大抵、ドラマの中での役が好きになってタレントさんを好きになる。ピュアハートな役を観て好きになったのに、今度はその役者さんの悪役も観てみたくなったりする
何を幸せと感じるか?私の場合は、死ぬ間際まで何かや誰かに対して可愛いー!素敵ー!かっこいいー!素晴らしいー!って心の底から思って叫んでいられたらそれが私の幸せだし、私の好きと思うひとたちがそんな風に過ごせたらそれも私の幸せ。きっと私はこの為に生まれた(頭痛が酷いから遺言書いた)
好きな事やひとのこと考えたり思ったり、この世界って不思議だなってもの思ったり、そういう楽しい時間…を稼ぐための雑用でしかないと日常家事を捉えてるからいけない。シャツのシワを伸ばせば、これを着る家族は素敵に見える、それが嬉しいとは思ってるのに。好きな世界は地道な家事によって輝くのに
何だろ。若いうちに将来の役に立つようなことばかりを優先的にやっておいて、そのお蔭で老後の趣味が充実できる、みたいなのって。人生ゲームで最初のうちコツコツ貯めて後半でぱーっと使うのを夢見てるその時代も既にゲームの内なのにゲームにカウントしてないっぽい感。
"こんなことしていったい何になるというんだ…ということばかりで人生ができている、…ってことをついーとした/続きだけども。 大学のサークルを決めようとしてるときに親戚が口を挟んできて、それは将来役に立つの立たないのと色々言うのが煩かったし、縁談に有利だからテニス部に入れとかウケる"
ひとの頬っぺたを斜め後ろから見るの大好き。大して好きとも思ってなかった人のことでさえ、斜め後ろからのアングルで頬っぺたを見ると、この人の幼児の頃からその頬っぺはあるんだなって思えてクスッとなる、好きなひとのことなら尚更だし
生きてる間、「こんなの一生懸命やったからって、これが何だっていうんだ?」の積み重ねばっかり。「これが何だっていうんだ?」の集まりこれが人生これが世界なのか。楽しいな
めんどくさい家事などをやっているときに、すぐ私は「これって本質的なことじゃないからこんなことに時間を費やしたくない」とか思ってしまい、笑える。だって、そんなこと言い出したら人生の何もかもが全部、本質的なことなんて何もないじゃない(笑)
常に右側を下にし、右腕を下に敷き、左手でスマートフォンを操作しながら画面を斜めに見つめ、布団を頭まで被る姿勢…これを毎日続けることによる人体への影響は、数年後を観察してみなければ判明しない
映画「天地明察」すっっごく良かった!安井算哲すばらしい。宇宙に向かって手を伸ばし続けた人。最初は、溢れるような探究心が見ていて楽しいなって思ってたんだけど、途中、ひどく挫折して壁にぶつかってて、でも諦めなかった!より良い暦を作り命懸けてた。ラストはスッキリ喝采、観て損は無し
そんなこんなで診察券入れを漁っていると、家族の二十数年分のいろいろな病院の診察券が出てきて、いろいろな局面が走馬灯のように蘇った。旅行先で子供を診てもらった時の他県の診療所のまであった。忘れてたし…懐かしい
これ毎日のように不思議に思ってるんだけど、脳味噌の細胞だって何回も入れ替わってるだろうに、なぜ十年も何十年もの昔の記憶が思い出せるの?頭の良い方、誰か教えてくださいませ。(2015)
違いにいらいらすることもある。似てると思ったのにやっぱり違う、ということに哀しくなったり寂しくなったりすることもある。だけど自分が自分しかいないんで、違うみんながたまに似たとこあると微笑ましい
ひとってそれぞれ、考えてることも感じてることも違ってる。そこに到るまでの育ちも経験も体質も違う、歴史も違う。違いが愛しいけど、それぞれ違うのに、そのなかで数少ない共通項が稀に見い出されたりもする。奇跡だ、と思ってまたそれも愛しくなる
そんなね、意地悪言う人、いま何かあってここで終わったらそれが最期の言葉になるんだよ…人生それでいいの?…って思うけどそれでいいとかどうとか考えたことも、ないんだろうなあ
谷山浩子さんの「うさぎ」を聴くといつも貰い泣きする
Twitter って何なんだろう、ふと考えるとわからなくなる。ひらがなをじっと見つめてるとそれが何なのか急にわからなくなるのと似てる。でもいま読んでて確実にこれを楽しんでいる。夢でも見てるのかな"
依存じゃない愛を実行できるようになるまでに色々なこと体験して味わって泣いたりなんだりして、ようやっと、引き留め繋ぐ愛もどきじゃなくて離す愛を実行できるようになる、子離れ、私もまだ修行途中。私がその境涯に到達し完成するまで子供の歳を止めて待ってもらうわけにもいかないし
病院での検査が終わったから、晩ごはんに久々蛋白質食べて、美味しさに倒れそうになってた。鶏のスープ、青紫蘇タレ冷奴、の味に神様が宿っていました(2015)
それでなんかその曲がってる箇所を内視鏡が通されたとき、私は痛いって言ったらしいんだけど、点滴で眠ってたから全く覚えてない。おそるべき麻酔/検査の時の話を娘にしたら「無意識なのに、そんな、痛いとか日本語をヒトって口にできるなんてヤバくない?」って言われた。確かに。(2015)
三リットルほどの水が体を駆け抜けていって、水しか入れない、水しか入ってない、水しか出ないお腹となって午後の検査の準備万端。入れれば出るので大人用オムツを穿いてる、これ何ともいえない安心感。乳児の気持ち。うたたねの間に砂漠のように喉乾いた(2015)
蜩ノ記、観終わって泣いてる。戸田秋谷、清く生きて清く死に過ぎ。あんたそんな理不尽な目にあってもどうしてそんな美しく死ねるんだといいたい。恥じない生き方のために名誉さえポンと捨てちゃう、爽やか過ぎる。家族も覚悟あり過ぎる。庄三郎も、この人に出逢えて良かったね本当に
カラオケ屋さんでうまく歌えるようになりたい、って話をしたら「カラオケ屋さんwwwwww 屋さんってwwwwwwwww言わないよ、言わない」などと笑われた。いまどき美容室をパーマ屋さんとは言わないのと同様、言わないのだそうだ。言わないの?カラオケ屋さん、って
そしてラジオ体操をすると緩い眼鏡がどんどん下がって、とうとう顎の下まで来たことを、買い物前にご報告。
他にもたくさん怖いものありすぎて忙しくて、怖いものさえなければむちゃくちゃ暇だったに違いない幼少時
見てた夢が怖い系だったんで思ったけど、幼い頃から私は、黒っていう色が特別に恐ろしかった。黒という色に襲われる、自分が黒と同化する、そのどちらも怖かった。今なら黒なんてただただ光が吸収されて外に出てない状態だから何も怖がる対象でもないって分かるけど、あの頃毎晩、黒を怖がることに忙し
個人特定されたくない場合の私は敢えて出来事の起こった時間をずらして呟くことがあったり、数日前にあったことを今あったことのように呟くこともあったりした。最近では、鍵あかでリアルタイム感想を書いてからBotにていつか時間差で表のアカウントに流してたり
人がそれぞれ各々最初に出逢った「あ、これが本当なんだ!」って思ったものを、覆すの難しい
越後屋と言えば悪いやつ、みたいなイメージの、悪いやつイメージをフィクションのなかで固定される団体や企業や機関は、実在していて世の中でそれなりに大事な役割を果たしているそれらを想起させてしまうと、なんか困る(国語力低くてうまく言えないや)
特定の業界が腐ってるんじゃなくて、どこの会社にも腐ってる組織がありがちなだけだと思うんだ(花咲舞のドラマへの感想)
悔しい。この世の宝みたいな頭のいいあれとかこれとかの宇宙みたいな色々なのが、好きなひとの有限の身体の脳にあるなんて。絶対滅びないどこかそういうところに置いておきたい/って思いながら毎朝のように別あか本あかから遡り読んでいるのでたぶん私は長生きできるとおもう
ハリーポッターで長々と逃げてる場面なんかも、観ながらそろそろおトイレに行きたくなるんじゃないかとか考えてしまう。そんな自分の脳が結構邪魔。
カッコいい主人公を見ると性欲ないのかなと思ってしまう、とフォローさんが言ってましたが、私は緊迫したシーンや長いこと対峙するシーンなど見るたびに、このひとたちおトイレに行かなくて大丈夫かな?って常に思ってる
好きなひとというのは、いるだけで(いたというだけで)私を生かしていたし、これからも生かしてくれる/これ、よく考えたら謎過ぎる仕組み/生かしてもらえてることを実感したいがために生きてる
私の心のなかにアイドルがいなかったことがない、いなくなったら私は生命維持できないと思う/心のなかにアイドルがいない状態で生きるってことが、もはや想像もできない
そうかといって、ずっと次の金曜の心配だけして過ごすのもおかしい。今日だって明日だって明後日だって唯一無二の人生だから楽しみに気付きたい。そろそろ出動(2015.7)
映画のLの松山ケンイチさん、あれすごく良かった。/松山ケンイチさんの役であと好きなのは、銭ゲバ蒲郡風太郎。というか原作以上に蒲郡松山ケンイチさんが好き過ぎて、ドラマ最終回のあとしばらくお風呂のなかで泣いてた日々を思い出す
原作の記憶を一旦消してから観たら、案外これはこれで面白いかも知れない気がしてきた。窪田正孝くん上手いと思う。こういう設定になってるから、夜神に感情移入してしまう
TOKIO、本来の姿を説明されてしまうグループ/リリック聴くと間違いなく越前さんとはらちゃんが浮かぶ者です
綾小路翔さんの素顔、片方一重で片方二重と聞いて、心のなかの誰かがガタタッと椅子から慌てて立ち上がったりした。
なんか女の人たち集まってご飯などを共同作業で作るシチュエーションが、苦手。料理段取りが下手なのでコンプレックスなんだと思う
あの人らは私のこと何も理解しようとしないのに、あの人らの満足を埋めるために私を使って使いきってまだ使い足りなかったろうけども、そのからくりに気付かずなんだかいつも応えよう応えなきゃと腐心していた私も大概愚かだった。かくなるうえは反面教師にさせてもらいます
ねえ、家事ってやってもやってもどうして切りがないの/家に帰ると何も変わってないように見えるでしょ?何も片付けてないみたいに見えるでしょ?違うんだってば。ずっと何かしら細々と片付けた結果がこれなんだってば。
でもそのいっぽうで、というか、それだからこそなのか、一人でいる気楽さが大好き。私だけが楽しいことを、私一人でして過ごす。この時間を百年くれるっていうなら何でもする。
考えてみるとつくづく、旅行してもなかなか出逢うことが本来まれな距離(物理的な意味だけじゃなく) に隔たっているひとたちと、こうやってネットで出逢えているというのが、不思議。縁"
お子さんが大きくなった親御さんにお薦め事項。母子手帳の「保護者の記録」1か月頃、3~4か月頃、6~7か月頃、…何が出来るようになったかの項目だけでも時折眺めると、思い出急に溢れて楽しいですよ。
"久々に母子手帳を開いた。 泣ける。1歳半の記録、好きな遊びはお人形、積み木、楽器、お絵描き。後ろから名前を呼ぶと振り向く。自分でコップを持って水を飲める。
私には叱咤激励の叱咤とか要らないから。とことん甘くしてほしい。そのほうが上達するだろうし、上達しなくたってどのみちプロになろうなんて思ってない。残り寿命を穏やかに暮らしたいだけ。
突然の天国来た、って言っても腹痛開始前の自分となんら変わってないわけだが。こういうドラマチックなイベントはね、もうね、要らないです
身体を前傾する度に後頭部が痛む現象があったのに、この腹痛が始まった途端に頭痛がどうでもよくなってしまった。頭痛どころか全てがどうでもいいかも。今の一番の願いは腹痛が消滅することだけ。面白い。いや面白くない(2015)
ジャックは基本的に自由で、権威などに媚びず縛られず、余計なものを持たず、差別せず、相手がどんな身分であろうと親切。スケッチブックひとつだけを持って旅する。人間を見通す目をもってる。ポーカーに勝ったことで豪華客船の三等室に滑り込む。そのデッキで、自殺しようとしてるローズを目撃
私の母、ものっすごく綺麗好きで掃除も整理整頓も完璧にやってて、子供のころの私は部屋が汚れるという状態をあまりにも知らずに育った。結婚して知った。掃除しないとこんなに汚くなるんだ!って。驚いたのなんのって。私のもとで育った子はいつか知るかな?掃除すると綺麗になるということ。なるよ。
こないだあの職場でご無体な態度をとったあの人のこと、少なくとも勤務先と名前は把握してるから、五年くらい経って私のこと全く覚えられてないタイミングで、何らかの仕返し倍返ししたい、なんて考える自分に嫌気がさした。考えるだけで、実行はしない。でも考える自分、というものが嫌過ぎる
赤い夕焼けとか碧色の海とか見ると、色覚が人と違う子になんとかこの通りに見せてあげることはできないだろうかって、つい考えてしまう。我ながら本当に傲慢だね
初心者OKという触れ込みで集められて就業先に放り込まれ、先方では経験者のスキルと感覚を当然のように求められるなんてことはよくある。あっちとあっちの連絡不行き届きのとばっちりがこっちに来ることもある。いちいち気にしないでいることが私にはできなかっただけ、子供並だから
子供らが乳幼児だった頃は、昼間には自分だけの時間なんてほぼ皆無だったから、いまよりももっと早起きして暗い早朝にネットを読んだり書いたり録画番組を観たりしてた。自分の時間が欲しい、というモチベで早く起きられるような身体だった。若かったから
今世紀の初めくらいからインターネットで人の文章を読むということを覚えたんだけど、それまでの私は、自分が寝ている間に起きている人がいるってことを実感できてなかった。/私が寝てる間は世界も寝てると思ってた時代が私にはあった。狭い
こんな時間にすぐ、人生をビュッフェランチに喩えて考えてしまう。食べて回るのが不可能なほどの種類と量の料理がある。でもお腹の容量と制限時間によって、メニューの極一部しか食べられないまま会場を後にする。お皿に取ったおかず、取らなかったおかず、のこと、タイムリミットが迫ると振り返る
成り済まされたことがある。というか、成り済まされたと思った出来事があった。誰が私を演じていたのかは分からない。でも、どこのだれだか分からない人間になんらかの悪意を持たれていたようだった。気分は良くなかった。それが一度だけなのか、続くのかも、わからなかった。怖いと思った
美容室、近眼だから眼鏡外して目の近くに思いっきり雑誌記事を持ってきて読んでたんだけど、顔を近付けるまでそれが何の話題かわからないんだから、お、めっちゃ食い付いてるなあこの人そういうのが好きなのか、とか思わないでほしいよ美容師さん
好きなひとのことなどを考えてるとき「あ、いま自分がすごいゆるゆるした顔になってる」って感じて、それをすかさず鏡に映してみても、その瞬間に鏡に映る顔はもう既に「自分を鏡で見てやろうと思ってる顔」になってしまっているので、どうしようね。(どうしようもない)
他人から傷つけられるくらいなら先ず自分で自分のことを。知らない人に背中から刺されるくらいなら自分で自分の胸を手加減しながら刺しておきたい。そう思ってしまうんだー
何に夢中になってるかを保護者会であった程度のママ友などに言えないのは、アンタはその歳でその顔でそんなこと考えてんのか笑っちゃうね、って思われるのがイヤだからなの
十代二十代の頃、親族などから要求される「世間向きに恥ずかしくない娘」像になれない、なりたくない、でもならないことは許されない…という状況から、まず女をやめて男性になりたくて仕方がなかったことがある。まずは男性になった上でそれから初めて自由を求めたい、なんて思ってた
エヴァでいう2015年も、バックトゥザフューチャーでいう2015年も、実際に私が知ってるこの2015年とはそうとう違うけど、あの頃の私が想像してた今の私ってどんなんだと思ってたんだかもう思い出せない
その人にしか分からない、言葉の定義ってあるかも。しかも同じ単語を、同じ意味で使ってると思い込んでいるのかもしれない。
好きで、相手が喜んでると嬉しいというモチベで生きていて、それが結果的に相手も自分も幸せになってく、それは好きだから、ってことかな。幸せにする、っていうより、いま既に幸せ、だろうから、なんかね、幸せにするよという文言にちょっと違和感がある。
よくプロポーズで、君のこと幸せにします、的な約束するけど、幸せにします、って何だろう。幸せでいることを希望します、それを手伝うのが私の幸せです、くらいかなあ私が言えるのは。幸せにする…うーん、どゆこと?
幸せにする自信なんかなくても、別に構わないのに。ていうか、幸せにする、って何だ?私が勝手に考えた幸せと、彼の感じる幸せが、合致するかどうかもわからないのに。
好きだから一緒にいられなかった。特に、対・異性で、そう思ってた。昔、私が好きになった男の子のこと、私ではあんまし幸せにできないと思って、幸せになってほしいイコールそれは私となど関わらせないこと、と考えたら自ずと答えはひとつだった
人を妬む人間は、人の幸せを自分の幸せだと感じる人間には負けている
ピアノ協奏曲や、シェエラザードを聴き流しながら、下着や靴下などをたたんでいたんだけど。ラフマニノフリムスキー・コルサコフさんもまさか自分の曲がそんな風に聴かれるとは想定してなかったよね、こんな時代のこんな東洋のこんな主婦にさ
でも心のどこかで、この宇宙のもっと向こうに一旦区切りがあって、その外側には遠すぎて巨大すぎて見えない、誰かの部屋の水槽の内部があって、いまこの瞬間にその誰かが「やっぱり面倒だからもう観察は、いいや。」とか言いながらこの世を軽く潰しちゃったらどうしよう、って心配してる時ある。
私にとってドラマの登場人物は既にその世界で実在する人々であり、その人々の人生まるごと私に愛された場合、最終回ってのはその人々がきちんとその人々らしく生きてる結果、そうなっているのか、私に確かに見届けられる必要がある
私が身体を借りて心になっているのかと思いきや、私の心を何かに貸して生かされてるのかも。
音楽を聴ける、電気とか演奏者とか、それを知ることのできる境遇、ここに自分がいまいること、すごい
まあ、どのみち何万年も経てばなにもかも消えゆくとしても、いまは遺って欲しいものが遺ることを考えるのしあわせ。
家族には、「またそうやってすぐ、いいと思うと呼吸するように買ってしまうの?」と思われてるかもしれないけど、これはこの諸行無常な世の中に、私がこれ良いと思ったものの存在の痕跡を少しでも遺していきたいからなんだから。
息子がまた甲高い声で笑い出したから何だと思ったら、友人に自分が送ったスタンプで、送る予定だったものじゃないのを間違えて送ったらメッセージ文面とのミスマッチが絶妙だったということ。ソファに斜めに頭から突っ込んで痙攣してたからなにか救急案件かと思った。こわい。(2015)
愛されるための条件として完璧であることを大人から強いられる子供、という事例がこの世からなくなったらいいのに/条件が付いてる段階で全然それ愛でもなんでもないし
好きな宇宙は私の認識でもあり、誰かの認識でもあるなあ、など思った。
自分の身体からテロ仕掛けられると、またこんな仕打ちに遭ったら困るなあという恐れから行動が消極的にならざるを得ない。このテロ、根絶したい。泣きながら心に誓うのであった。
ここ数年間で息子はもっとも精神安定してる時期なんじゃないかと推測している。だってもう家でご飯食べてるときの表情とか喋りかたとか以前と全然違うもん/なーんて…細かい悩みは家族に見せてないだろうけどね…でも概ね自他を肯定できてる様子で、そこは安心してる(2015)
もう、なににもはまりたくない、なんのファンにもなりたくない、って時々、できもしないのに考えてしまう。ひとつの何かにはまっている間は他のことができない。お店でAランチを選ぶとBランチは同時に食べられないから、それがこわくて
ひとつの物語が終わる度に、一回離婚したみたいに喪失感でいっぱいになっちゃう
分かりやすい絶対悪なんて、フィクションの中にだけしかないし、だからフィクションにスッキリさせてもらえるんだ
ドラマ、私は初回を観始めたら、たいてい第五回あたりから「途中つらくてやめようかとおもったけど面白くなってきた、見続けて良かった」ってなるから観ることにしてるんだ。だから初回どれを観るかは賭け。
昔の私は添加物が少なければ少ないほどいいとか思い込んでいたけどそんなことはない。よくわからなくてイメージだけで推測していた。風評被害だとか、被災者に対する余計なお世話的な外野の押し付けなども、そんな延長からくる。誠実で地道な努力をしている人をイメージだけで邪魔しちゃだめだね。
最近の朗報は、震災に備えてエレベーター内に簡易トイレグッズを設置する動きがようやく出てきたということです。私がかねてからそうあれかしと願っていたことなので素晴らしいです
パワハラとか、職場の力関係で強いやつの不条理が通るとか、そういうのを壊していきたいときに、正そうとするひとがいつも自分の立場を危うくする覚悟を強いられるのって本当にかなしい
小さいうちだけじゃなく中学生になっても高校生になっても大学生になっても成人してもいつまでも子供可愛さは手を替え品を替え繰り出される。ただ、可愛さにぎゅーっと抱き締めたくなって抱き締めるのは小さいうちは受け入れて貰えるけど、子が大人になるとあんまりそういうことさせて貰えない
ところで、子供の頃の集合写真を見て驚くことある。なんか、当時のいじめっ子も、苦手だった子も、巨人のように自分に立ちはだかってた大きな壁みたいに感じていたけど、何十年も経ってから彼らの写真を見ると、なんだ、こんな子供だったんだ、こんな小さく他愛ない子達にビビってたんだ…って笑える
PTA活動の時に作った各種のマニュアルとかお便りテンプレとかまとめて捨てる。なんだか捨てられずにいたのは、問い合わせに備えてじゃなくて、なんか私のやってきたことに対する愛着、未練、みたいな。それ捨てちゃったらあの時代の私は?みたいな。でももう捨てる(2015)
人生っていう夢から目が覚めたときに、それをネタに語り合って盛り上がれる場ってあるのかな、ないのかなー?あればいいのに。なんて思ったよ
アルジャーノン関連ドラマ、岡田さん脚本のも野島さん脚本のも好きだし原作も好き。知能高まって、一度は過去の自分を嫌いになったり好きだった友達を嫌いになったりするけど、でもやがてこんな自分の歩いた道を受け入れられるようになって有り難いものに気づいて、やっぱりヒトが好き!ってなる辺り
記憶よりも心や身体に蓄積されてるのかもしれない。どこからどこまで自分なのか知らないけど。恐い声で何か言われたら言葉は忘れても恐かった思いが残るし、ヨシヨシされて言われたら言葉は忘れても安心した気持ちが残るとか
ところで、私のこれまでの人生の色々な記憶は断片的で、印象に残ったことの前後の経緯が思い出せずにいることが多々ある。でも覚えていないような事柄も、確かに私を作ってきたんだと改めて思った。主に、その時覚えた知識以上に、感じた気持ちが
しりとり終わったあと兄妹が鉄道路線図を挟んで語り合う、そんな子供らの姿を見たので今日は良かったです(2015)
そういえば娘がドラマの悪役に憤って「ああいう不条理な人間が、実際にこの世にいると思うと、絶望しちゃう、生きていきたくない」って言う。そうなんだよ、本当にね、生きていきたくないよ。いるんだもん。酷い人々が。でも素敵なひとや好きなひともこの世にいるんだ、それでなんとかかんとか生きてる
子供の子育てにも、孫にも、「私の思うとおりにしなさい、思うとおりにしないなんて私を何だと思ってるのか、だったらいっそ心中だ」みたいな思考にもとづいて口を出さずにいられない人、っているよね…。何がしたかったのか
上の子供が二歳くらいのときに旅先で一度この幼児用のリードを使ったことある。走り回りたくてたまらない年頃の子供にひっきりなしに叱ることも無意味だったし、かといって事故や事件に巻き込まれたら怖いから。ところがあんまりあの子が走るから行く先行く先でリードに多数の人を巻き込んでしまい
自分の力では脱ぎ着できないとかふざけたブラだな…ロマンチックだな…/なんか想像したら笑いが止まらなくなってきた。人間面白過ぎる
失せ物を探すとき、最後に使ったのがいつなのかも思い出せないってときは、自分というキャラであればそれをどういうときに使い、どういう風にとりあえず置くだろう…っていう自己に対する分析で解決しようとした。結局なんとなく目線を別なところに泳がせたら見つかった。
イヤホンを着けて自転車に乗る人って、音声以外の方法で周囲の様子、近付いてくる他の車とか、を認識できるんだろうか?自転車にはバックミラーやウィンカーがなかったりするでしょ。あと、歩いてて側を走り抜ける自転車が急に予想外の動きをしたときホント心臓止まる。だからもっと自転車専用道下さい
哀しくなっちゃうね。他人を生かしたり活かしたりすることが喜びになるという感情が確かに存在するのに、そこに気づける境遇になるためにまずは食べて生き延びるという段階を踏まなきゃならないとか。
人を蹴落とさなきゃ維持できない命なら要らないや私は…って思うそばから、だけど例えば我が子が沈み中のタイタニックに乗ってたとする。他人のこと構わないから自分だけ助かることだけ考えて帰還しておくれよ、ってやっぱり思ってしまいそうなそんな気がする
私の好きなひと、宇宙。どうして私は宇宙なひとのことを好きになってしまうんだろう。ていうか宇宙って何
例えばあの漫画の二次創作を別なあの漫画の画風で描かれたものとか、ひとつの原作が様々な解釈でいろんな形で舞台化映画化されるのを観たりとか、好きな詞が他の言語に訳されてるのを見たりとか、そういうの大好きなんだ!!って話を
私、今までの人生で、誰かを見返したいって思った経験ってあんまり記憶ない。私を否定してきた人物は多々いるけど、そんな彼ら彼女らには私のこと理解されないんだな、哀しいな寂しいな、でも彼ら彼女らの価値観をもう変えようがないから離れよう、どこまでも離れて平和に暮らしたい、って思ってた
観に行った映画で思ったけど、人が何かに挑戦するきっかけとして、誰かに自分を否定されてその人を見返したいという気持ちというのもあるんだなあ、って
好きなひとたちと私自身が、痛くなく熱くなく寒くなく苦しくなく怖くなく哀しくなく逝けると私は嬉しい
昔から、どんなに好きなひとのことでも、片時も物理的に離れたくないとは思わない気質だった。私の知らないところで知らないことをしているだろうことを寂しいとはあまり思わないけど、幸せにしてるといいなあ、は考えてたし今もそう。ただ、好きなひとのこと好き過ぎて価値が尊過ぎて爆発したい時々
睡眠や食事やトイレは、人生。他のことはオマケ。(過言)
同じ作業台で働いてた我々のなかで、音量小さめとはいえ歌を歌いながら検品作業してる人はその人だけで、よっぽど私も一緒に鼻歌うたってみようかなと思ったけど、しなかった。ただ「案外自由だな、世の中って。」とは思った。(2015)
インターネット。人って様々だよね、自分の想像もつかない考え方や感じかたがあるよね、…ということをよく表すツールだし、自分のタイムラインと他人のタイムラインは違うことを時々思い出す練習が、人って様々だよねを更に裏付けてくれる。
会社で同僚と可笑しな渾名を付け合って喜んだり休憩中に駄菓子的なものを交換したりしてる息子、研修中だからのんびりしてるのか、それともそういう社風なのか。娘からはお兄ちゃん小学生みたいだと思われてる様子、二十代男性のサンプルとして、参考にして大丈夫?(2015)
解決法を考えるのに忙しいから悩んでる暇とかない状態
「今この瞬間は常に未知!一瞬一瞬が、常に変化と未知の連続!なのに、僕たちは頭で勝手にそれをわかりきった退屈な既知に変えてしまう」って私の大好きな鍵あかのフォローさんが呟いていて、鍵付きだからrt できないし後でツイログからも読めないの勿体無く私の心にだけじゃなく宇宙に遺したい
ヒトである以上、健康管理に努めていても体調が宜しくない事態も起こりうる。そういうのが人間なんだという前提で職場環境が整えば、働くひとにのみならずサービスを受けるほうも安心できる。一人しかいない自分の身体に何か起きたら即座に人々に迷惑かかるなんて困る。
右の脇腹がずっと痛いんだけど、これは愛する誰かを庇って刺されたが奇跡的に致命傷には到らずに頑張って回復しつつある傷なんだという妄想をすることでなんとか乗り越えようとしている(2015)
小六の息子と小一の娘を連れて小児科にインフル予防接種に連れてったとき、息子はとてもビビってて、痛いかな、痛いかなー、っていってたのに、もっと小さい娘はただ黙って不安を隠していたのを思い出したよ…。なんだろうそのそれぞれな様子可愛い
だから今度からおトイレ目的でコーヒーショップに入るときは、なりふり構わずまずはおトイレを使ってからあとで注文すべし。
思い付いたギャグを思い出したら笑いが止まらなくなったとのこと/幸せそうで何よりなんだが、今夜はお茶碗を早く片付けたいので困るなあ。ひとくち噛むごとに笑いを再燃させてるのでなかなかご馳走さまに辿り着かない様子。こういうのどうしたらいいんだろう…なすすべがない(2015)
って心がかきみだされて、その日ずっとあれ。でも、別の人が私の持ち物をなんか褒めてくれて、言葉を発するきっかけを作ってくれたとき、これでやっと息ができるって思った(2015)
例えば同じ派遣元から来た、自分を含めたほんの数人が、小さいテーブルに着いて十五分くらい待機しているとするよ。その時に、目が合っても全く何の愛想もなく無言で恐い顔などされていると、この人はどうしてこういう表情をしているんだろう、できるんだろう、私はどういう態度で受けるべきか
もしかすると私は。何かに夢中になるために生まれてきた、という説
原作者(主人公、実話に基づく)が世界をまたにかけた壮大な詐欺の果てにとうとう服役した、そのフランスの刑務所の描写が凄まじくて。で、その時点で稀代の詐欺師はまだ21歳だったり、経験を活かしてその後でコンサル会社を作ったとか、ホント人生いろいろだなあ。
お給料日からあまり経たない今だからこそ、給料日直前の如くに節約しよう。
子供のために善かれと思うこと、それが、親となった私の行動の主な動機であることは間違いないんだけど、善かれと思っているのがあくまでも私の主観でしかないってことを同時に自覚していることは大事で、しかも善かれと思ってる気持ちを相手に認められたい欲を無くすため、自己承認を人に頼らないこと
その時にどうしてもどうしても観たいもの聴きたいものがあったんだよなあ、理屈で言えば大学の授業のほうが大切だったろうけど。当時は映画を観逃してもあとでレンタルとか買えばいいとかそんな考え方は存在しなかった。昭和。
ちょっときつい口調を聞くとすぐ世界が真っ暗になってしまうし、優しい言葉をかけられると地面から浮く。あと、仕事など丁寧に説明してくれる人のためには時給以上に尽くすタイプですから宜しくです
って思う一方で、心無い言葉をどこかで目にしてしまうと気が沈む。背の立つところでしか泳げないって思う。
真面目なツイートを見ると真面目なツイートをしたいと思ったり、冗談ツイートを見ると冗談ツイートをしたいと思ったり、自分のスタンスというものが定まらないけど、なんかツィッターで遊び尽くしたいという願望は常に心の底に流れてる私は。
帰宅するなりスマホを充電器に繋ぐと、陸に上がった魚が水に戻れたような気分になる。
子供と同世代の男子の声を眺めることで、ある程度は、ああ男子ってそうなのかな?とか推測したりする。で、謎は謎なままに、同居の異性の家族としてプライバシー尊重しつつ、私は私で異性のサンプルのひとつを提供しながら生きていたいと思いました
インターネット、好きなジャンルを通してレアな意見を世界に見つけられるけど逆に、好きなものを貶す声まで拾って目に入ってしまう。気にしない。私が好きならそれでいい
この振る舞いは家族に見せてもいいや、これは恥ずかしいから伏せておこう、の境界線を決めるものは何だろ。ひとそれぞれだろうけど。私はオモテのアカウント、息子と夫には絶対見せないな。どうして娘にだと大丈夫なんだろ?一緒にお風呂に入ってるから?お風呂で喋ってることとほぼ同じだから?
何か見たとき連想するイメージが歳の差によっていろいろ違う二人なのに、あと千年もすればこんな二人の歳の差のことなんてまるでなかったことに後世の人々にはひとまとめにされちゃうのかと思うともうねー
ヨコハマ買い出し紀行にせよ銀河鉄道999にせよソラノヲトにせよ未来少年コナンにせよ風の谷のナウシカにせよ、きっと私は、滅びたor滅びゆく世界のなかで生き残ってる人々のドラマが何だか好きなんだかもしれない。
ところどころに在りし日の文化の遺跡が残るような茫漠とした平原の上を、もう二度と着陸できない飛行機みたいなものの機内から眺めてる人の夢をみたんだけど、これたぶんヨコハマ買い出し紀行の記憶が影響してるっぽい。哀し楽しかった(2015)
下に乳児がいて大変だからと上の子をバス登園の幼稚園に入れたら、そこでできる友達が大抵遠いところ住みなので、友達の家に送り迎えするとき結局大変。保護者参加のときに園バスは出ないし。という思い出
はい…特に子供の愚痴を聴くとき、子供がつらいという事実がつらいものだから、なんとか収束させてやりたいという気持ちが勝ってしまって、そのまま受け止めるということを疎かにしていまいがち。自戒したい。
作る人、作る人を支える人、案を出す人、具体化する人、まとめる人、運ぶ人、売る人、募る人、点検する人、伝える人、エネルギー、システム、土、木、紙、布、化学、植物、動物、なんかいろんなものが私を普通に生かしてくれてることを全部可視化できたら細かくて気が遠くなりそう。
自分に対して、システムの復元をしてみる。調子の良かったときの状態まで戻す。いまから温かいお風呂に入ってから消化の良いものを適量食べて、さあどうにでもなれと思う。どのみち千年先には私も派遣先も存在しないんだもんね。(2015)
私はもしかしたら何かしら強迫症めいてるなあと思った。たくさんご飯を食べるとその行方が心配になって、はやくこれを消化器から無事に追い出さなきゃと考えるようになってしまった。カラになったことが実感できると安心する。このせいで一日空腹
ただ古代よりも現代はそんな自然の存在感が薄れてしまってはいるね。食べ物も旬のもの以外がたくさん出回ってるし冷暖房完備だったり月明かりに頼らなくても24時間明るいし。
人が生まれたときの星座の配置でその人の性質や人生を占うというのは、非科学的だとは言い切れないものがあると思う。その季節ならではの自然が醸し出す社会環境に何かしら影響されるものが。
そんな観たい聴きたい読みたい何かに釣られてまんまと長生きしてしまうこともあり得る。/そうこうしてるうちに、夢の止め時がわからなくなって、そのうち子供のようになってくのかな
根本的に自分を嫌いにはならずに済んでいるこの性分は私の場合は実家の母から授けられたものだと思う。ただ、自分のやることにあまり自信を持てない気持ちが常にある、これはその他の大人の親族からの影響が強いかも
例えばランチ、例えば懇親会、例えば世の中、に居るときに、私って居てもいいのかぶっちゃけどう思われてるのか疎まれてないのか…など時に心配になるときもあるけど、概ね「まあいっか!実際に居ることができてるってことは、居ていいから居られてるんだろう!」って思っておくことができる体質
時短の仕事の応募は振られた。そしたらまた「代わりにこれはどうですか」的な紹介が来たけど、だから家族を送ったあとに自分が家をゆっくり出られるのじゃないといやだっつってんの。あの仕事が良かったの。それじゃないのよ。それと帰宅が遅いとこれまた炊事に響くからヤなの!って叫びそうに(2015)
気構え過ぎなんだよ、遅刻したっていいし、休憩時間以外にもいよいよになったら席を立っておトイレにでも行けばいいんだ。それで非難されようが首になろうが私なんか一人怠けたくらいでどうにかなるような職場でもあるまい、もっともっと何にも考えずいればいい
そんな、十二時十五時などの五分か十分のタイミングのことに気をもんで朝のリズムやら前日からの食事の内容まで気にして気にしていること自体も既に仕事の内に含まれてしまうから、その割に収入が少ないとなると、もう仕事なんか入るの止めようと思っちゃうし、もっと気楽にしていたい
時給派遣仕事、他のひとにはなんてことのない問題だけど私にはストレスになることのひとつに、決められた時間に仕事して決められた時間にしかおトイレに行けない環境に身を置く、というのがある。これを心配するだけで腸が緊張してスッキリしなくなったり痛くなったりするからもはやどうにもこうにも
トータル・リコール、数十年前にTVで観たとき、自分の記憶が改竄されてて気づかないでいるんだとしたら私ゃもうお手上げだなということと、宇宙空間って酸素がないとお手上げだなということを強く感じた覚えがある
顔が見えないからこそ、顔を見せる必要のない言葉と、時間空間やツイ主の属性を超えて出逢えるし見つけてもらえるんだから、そういうところが気に入って何年もTwitterにいるんだから
いつも困っちゃうのはこの、煩わされたくない欲やスッキリしたい欲と、見たい聴きたい欲や誰かの幸せに役立てられたい欲と、が時に両立しないこと。これは美味しいものを食べたいのとお腹を空っぽにしたいのとを同時にできないのと似てる
幸せと欲について考える…私の場合は、なんだろう。美味しいものを食べること以外に何を充たしたとき幸せを感じるか振り返ってみると、やっぱり、知りたい欲、知られたい欲、見たい聴きたい欲、誰かの幸せに役立てられたい欲、煩わされたくない欲、スッキリしたい欲、等々かな
「事情も知らないのに自分の狭い視野だけで推し量ってお節介を言う」迷惑行為を人の心の中にまで「善かれと思って、為を思って」毎日のように仕掛けてくる親族と顔を突き合わせて暮らしていた二十代の私、マジでホント可哀想でしょと
親の代の感覚が子供世代に通用しない、それは考え方の違いの前に、生きてる社会環境の違いが歴然とあるから。なので細かい注意や指示は的外れになることも。今の世代の諸事情に添って、命大事にと伝えることは務めたい。
そして昔は今よりも、夜遅くなると人出が少なくなるというか、夜に出歩いているカタギな人の目があまりない時代だった。そうなると門限設定も致し方無かったのかも。ただ、我々の親の世代の感覚で門限時刻を設定されても、私や友人の生活感覚とズレがあったから窮屈ではあった。
それにつけても若い頃、友人付き合いで遅くなっても家への連絡をサボったとき怒られた、あのとき「公衆電話見つける暇がなかったんだから大目に見てよね」と思ったけど、家族からしてみれば携帯電話も当時存在しなくてただ娘からの一方通行な報告を待つだけだったのだから、そりゃあ心配したろうなあ。
大きくなった子供の行動をいちいち把握したいということじゃなくて(そういうことはされたくないししたくない)、ただ、事故や事件に巻き込まれずに命落とさず恙無く帰ってくることを、同居家族として確認して安心したいだけ。
Sound Horizon を娘から布教され。「Roman 」聴いてて、泣いてしまわないように頑張った。なんだか複数の映画を一度に観て、それが全部ひとつの夢に収まってまた一本の映画みたいな、最終話が第一話の前奏にもまたなって命巡ってく、みたいな。
五拍子や七拍子といった変則拍子がかなり好きかもしれない。あと、水玉が跳ねるような音や、星が瞬いてるような音とか、それと焔がドンドコドンしてるような音、絹がサラサラしてるような音とかさ…。
息子。会社のイベントで新入社員同期男子の写った写真を「こいつが結構かわいい」てなことをコメントしながら家族に見せる。なんかね…なんだろね…私の若い頃にはこういうタイプの男子があんまり周囲に居なかったから、とても癒されてる(2015)
飛行機に乗りたいなあ。あのアナウンスが高まるんだよね…自分がアニメの登場人物になったような妄想に浸ることができるんだ。(っていうか私、電車でもエレベーターでもエスカレーターでも乗り物内ではいつもそんな妄想してるじゃん)
誰かの脳に直接、見せたい夢を送り込めるとなったら、悪用されそうだけど、例えば好きなひとたちに楽しい夢を送ることもできるんならいいな、本人の同意を得てだな。そこにちゃっかり、私の魅力を誇大広告で混ぜ込む、なんてことはしないよ。したいけども
残酷な殺人犯には、被害者が受けたことをそっくりそのまま体感できる夢を見せる刑なら、死刑よりも抑止力強いんじゃないだろうか
単発派遣仕事、やったことのある仕事に入るのは、初めてのことへの不安はない代わりに、今度は飽きたりする。思い出そう、初めてバーコードに赤い光線を当てて鳴かせた時の「なんだこれ、カッコイイ!」と思ったあの気持ちを
生涯で只一人だけに自分の気持ちを注いで注がれて生きる、ってのは私は心の底では望んでいないのだと思う。だから仮に恋愛結婚できるような状況であっても、結局は避けてしまっただろう。
世の中に「こうでなきゃいけない」「こう生きなければ幸せとはいえない」「これしか正義じゃない」みたいな何かに拘る事例を見聞きすると、まずはそれをほぐしたい、っていう欲が湧いてくる。私のこの、ほぐしたい欲は、何のためにあるんだろう。焼そば麺をフライパン上でほぐしたいのと凄く似てる。
ありのまま、を他人に押し付けたらダメよ、っていうことだわね
愛は、相手のことを受け容れることなので、自分が「ありのまま」のままでは愛せない。「ありのまま」は自分に拘る頑固さだから、そんな拘りを捨てなきゃ愛せないから。…っていう考え方か。なるほど。私は「自分のありのままを愛せることが他人のありのままを愛せる前提条件だ」と思ってた。
お腹が空くって幸せなことだ。痛いときは空かないから。
よし、なんとなくだけど私も生きてる間にもっと普段着で冒険して既成概念を打破していこうと思いました!
めぞん一刻で好きなのは、九条明日菜さんと三鷹さんとの結婚にまつわる経緯である。
一目惚れって、したことはないけど、同じクラスで今まで話したことなかった男子に何かの用事で話しかけられたその四日後に恋を発症したことならある
手足の指がもし六本ずつだったら、数字もあと二つ多く発明されて世の中は十二進法が幅を利かすようになっていたかもしれないね、って喋ってた
見ていた夢のなかで私は、今までに描けたこともないようなすごい美しい絵を描いている途中だった。あの絵をどうやっても現実のここにプリントアウトできないことに切なくなったり
息子が、スマホにたくさん同期の人達を撮った写真を持ち帰って我々に見せながらなんかまあ楽しそうだったので安堵した/そんな子のことをいつまでも見ていたい気持ちと、さっさとお金貯めて独り暮らしして欲しいような気持ちと、が同時に存在している(2015)
男にも女にも時々自由に、成りたいです
ホームの一番端にしかお手洗いがないのって何を考えて設計したのかね。最後尾車両に例えぱ乗っていて催した人が降りておトイレ探したら先頭のほうにやっと見つけるっていう事例を想像しなかったのかね君は/全駅のホームの両端と真ん中と改札付近の改札内外に、ふんだんにトイレを用意してくれ給え
人間が一年間に見たり聴いたりした情報量を何バイト単位で表すと天文学的な桁の数になっちゃうらしい。そんなのこの脳に、本当に収まってるのか信じられないけど、見る夢を振り返るとそうなんだね
誰かが作ってくれたすごいものを鑑賞して堪能するだけの人生がもう一本欲しい。そこではお腹が痛くもならないし嫌な人に煩わされることもなく掃除や洗濯も必要なくお風呂さえ不要。あ、お風呂は入ってやってもいいな。
私を悩ませていた親族も、私より先に老いて影響力を縮小しフェードアウトしつつあり、なのでこっちは長生きして良かったから、誰かに悩まされている方々に長生きをついつい勧めてしまいそうになる。きっとそういう問題じゃなくて今がつらいのよね
我が家の新入社員、研修を通して、今まで分かってなかったことが分かってきて面白い!と報告してくれた。そんなのを聴くといまだに私はあの子が幼稚園から帰ってきて新たな発見を報告するのを聴いていた時の楽しさを思い出す。今も昔も基本的にそれは変わらない(2015)
お金を払って何かを学ぶ立場から、お金を貰って何かを学んでそれを人のために還元する責任を負うのだから、意識も変わらざるを得ない新入社員
早出の仕事が舞い込むと、いかに家族と水回り使用場所ラッシュ時に被らないようにするかが鍵
食べ物が身体に合うか合わないか、って人によってまちまちなんだなあ…グルテン不耐性の人もいる。いっぽうジャムサンドイッチしか受け付けず、それだけ食べ続けて元気な人ってどこかの国にいたよね…。
親って、自分自身が生きてきた生き方がそれなりに良かった場合、それを子供に勧めるのはいいけど、それしか許さないとか、それ以外に寄り道しちゃだめとかいうのは、幸せのバリエーションを知らなさ過ぎるし愚行だなあって思った。
まあ、こうして過去を振り返ることが今出来て、これを活かそうと思えるのは良かった。生きてて良かった。子供らにとって私が彼らの生きるに際しての足枷にはならないようにしたいって改めて思える
我ながら、つまらない考え方だったと思うけど、波風立ててしまったらもう修復は不可能なんだと思い込んでた。波風立ってからそれを乗り越えて、あなたはそれでいいんだよと言われた経験には乏しかった。
そうなんだ、希望なんてないほうがいいって独身時に思ってた。好きになった人達と仮にお付き合いとか結婚とかの進展が見えたところで、我が親族との様々な葛藤に巻き込んだり、そんなふうに親族に見えない鎖で心を縛られて出ようとしない私にいつか愛想尽かされ捨てられり、するくらいなら、って
人生で何を優先するかとか、人付き合いのスタンスとか、そういう価値観が相当違うんだ夫とは。まあ、お互いがお互いの脳味噌をシャッフルして補完するために敢えて神は巡り合わせたもうたんだろうからせいぜい面白がるしかないんだけどもね。ただ時折ひょんな好みが一致すると希少価値で喜べるお得感
月曜日って、私のなかで「家族や、好きなひとたちが休暇を終えてまた忙しく頑張るスタート」と「やっと私が私だけのために時間を使える日」という二つの性質を持ってる
心身に無理なく専業主婦に徹して節約やりくりするor 気忙しさやプレッシャーに堪えて日中のほとんどを時給稼ぎに費やしてお金を増やす、この二つのちょうど中間のが欲しいんだよ
学生時代の知人とそっくりだが全くの別人、他人の空似な人を見かけると…、手塚さんの漫画みたいにこの世は限られたキャストが場面場面でいろんな役を兼ねて演じているのかと本気で思ってしまいそうになる
ところで久々に歩く時間が長かったせいか、腰が少し痛い。腰が痛いことにいつも以上に恐怖を感じてる。こうして機能が失われ衰えていくのかと思うと。あ、でも、いま「恐怖を感じてる」って書いたら他人事みたいに、ああ、そう感じてる自分が居たとさ、って気楽になっちゃった(2015)
私が逢った友人は一人だけど、その一人の友人を通して何人も何十人もの人に間接的に逢った気がした。
花を見つめてると世界ってすごいなって思う。根は下に、茎は上に、それを誰にも教わってもないのに間違えない植物の、良くできてるぶりに癒され
時間が過ぎ去っていくのみで逆に戻ったりしないのって、考えてみたらうわあすごい。本当にいつもそうなのかな?脳内回想は過去にしばしば戻ってるけど。この脳も、考えてみたらすごいなあ。
でも、ちょっとした自分の修行として、そういった苦手なシチュエーションに慣れようと挑んでみるってことを、また心の体力がみなぎってきたら再開しよう。(といいながら今日はずっとオーディオヴィジュアルコンテンツ三昧で過ごした!!)(2015)
なんていうか、恩のある親族に何か言われたときに、そこに何となくああ、私のことを使って自分を満たそうとしてるんでしょう、って下心っぽいものを感じてしまった。するとやっぱり素直には聞けない。ってことが多々あったので、反面教師にして気をつけたい。
何々でなければいけない、こうでなければならない、って私はむしろ子供の頃に強く思っていた。この思い込みを手放しても別にいいかも、と思えるようになったから、昔の自分よりも今のほうが居心地良くなってる。
私が十代二十代の頃、いまの私くらいの中年期の人々のことは、もっとすごい大人であると思っていた。とんでもないです。/ちょっと長く生きるたびに、好きの許容範囲が拡がって来たと思うので、そこは面白い。
生きてるとイヤなことや怖いこともたくさんあるけど完璧に除去なんてできないけど、それも全部、ここに起こるのを、ここにある通りに見る、そうだねえ(ジョーイ・ロット「これのこと」感想)
「これのこと」(ジョーイ・ロット)/誰とも切り離された個人なんてない、境界なんてない。今すでに起こっていることに注意を向ける、そこにラベル貼ったり観念として理解しようと頑張ったりせず見るっていう
自分に掛けられた言葉は何でもかんでも自分がどうにかしなければと思ってたから、当時私は相当しんどかった。
人間が怖い、って思っては、あ、違った、怖い人間もいる、だった。って思って、あ、これも違う、怖い状態になることもある人間が怖い、だった。って思っては、そのうちこんなこと忘れて、なんとなくだいたいいつもは人間というものが好き。根拠がよくわからないけど自分のことが好きだからか。
些細な、とるに足らない、と思い込んでいることにも、面白さは隠れてるし、面白くすることもできるんだなあ…、って思う
学校時代に専攻で学んだこととは直接関係ない分野のことを、仕事で沢山覚えなきゃならないっていう、でも却ってそれってお得な人生なんじゃないか。知ってることが結果的に増えるんだし。…など
先生は昔、出来の良いお兄さんと比べられたときとても傷付いた、っていう体験があって、どうかお子さんを比べないで下さいと言ってた。私、最近そんなことあの子に言ってしまってなかったかな。ちょっと振り返りながら(2015)
死んでしまった人達、私や他の人が時々心のなかで思い出したり、何か見たときあああの人ならこれを好きかなと思ったり、あの人はこんな風に言ってたなと思ったり、少なからず跡を遺してったことを考えると、死んでその人自体はそこで終わるけどその人の影響が終わらない
そんなこんなでジャンケン必勝法をぐぐったら、グーを出される確率が高いからパーを出そうと思う。しかしこの説が広く知られてるなら裏をかいてチョキを出そうとも思う。って考えてる人が多いならやはりグーを出そうかな。なーんて考えてる人って私だけだったらこわいからやはりパーを出すかな…。
小学校の頃はあんなに、卒業までにみんな一度は引き受けてくれたらいいのになあとか思ってたのに、自分がそんな側になると、この無償奉仕は普段の親の繋がりが稀薄になればなるほど途中参加にとてつもない勇気が要るのでハードル高いと感じる。そうか、そうなんだ…
自閉症で会話ができないんだけど書く文章は素敵。挨拶ができないのは、目に写る情報が全部入ってくるなかで人だけを区別はできないからなのね。など、このかただけの世界を垣間見せてもらってる(東田直樹さんの『跳びはねる思考』感想)
比較的ラクとされている単発の仕事あり。ラクなはずなのに初めてだから不安が一杯な自分のこと、客観的に見て嫌いではないよ。こういうのが私だからしょうがないんだ
母は自分のかなしい体験を私にさせまいと、私を認めてくれていたけど、母の背後にいてまだ彼女を縛り付けていた親族の影に私は、怯えていて、その影がおもてにまで出てきたときには逃げたくて逃げられなくて、でもいま大人になって思う。逃げていいんだ全然いいんだ。逃げるが勝ち。何も遠慮要らない
いま住んでるこの世界が、誰かの耳のなかの細胞の一個に内包されるような小さいものだったらどうしよう、ってどうしようもないけど。終わりが無さすぎて気が遠くなる。どこから来て、どこまでいくのかわからないままで在るのって、どう考えてもおかしいでしょって話
どうして毎日小さなことで心配したり落ち込んだり喜んだりしてしまうのに、宇宙とかから見たらそんなの肉眼で見えない一瞬なんだろうか
睫毛のことなんか諦めてしまいたい。小さい。くだらない。だけどもし、もしも伸びたら、些細なことなのに、誰に気付かれるわけでもないのに、きっと嬉しいに違いない。そんな自分が可笑しく哀しくてまた泣ける
ご飯食べてるとき、明日は入社式だねえと話してたら、娘が突然笑いだして「うわあマジか、っておもった!お兄ちゃんが高校卒業したときも、成人したときも、うわあマジか!って思ったんだ!」って言うから。貴女が高校生になったときも私はうわあマジかと思ったよと答えた…(2015)
好きなひとたちの書くこと話すこと、別にためになるとかならないとかじゃなく、ああ、このひとらしいなあ、っていとおしくなるから好きなんだなー
好きなひととか親しくなれたひとに対しても私は、いまだに、相手のかたが私をリクエストしてくれるという形を確認しないとなかなか自分からお声かけできない。勇気がないというか、誘われてから約束することによって、もし私がそのひとにとってつまらなくても、その時間は私の責任ではないっていう逃げ
絵本バッグ、お弁当袋、コップ袋、体操着袋、割烹着袋、ピアニカの吹き口袋、生き物のお世話時のマスク用の袋/転園で来たときだったのに急にそんなに袋物の手作りを求められ、しかも下の子が生まれたばかりで裁縫どころじゃなかったから、やむを得ず実家の助けを借りた。もはや意味が分からない
どうなるか分からない感じのところへ飛び込む前に、案ずるより産むが易しを自分に言い聞かせるとき、脳内映像が千と千尋千尋がいきなり働くはめになった湯屋。あれに比べれば分かりやすいだろうし、これもゲームだ。行こう
ピノコピノコに作られる前の時代のことを考えてみたら、気が遠くなりそう。姉のお腹にいたときのこと。
かぐや姫は他の人間とそんなに違うだろうか?生をしっかり生きるために降ろされ、時に虚無感に悩んで、でも急な終わりを宣告されてやっと大切なものに気付き、惜しみ、そんな葛藤も夢の覚めるように有無を言わされずに消えてしまう。私だって誰だってそんな課題を辿って歩いてると思う。
かぐや姫の物語、観た。こんな誰でも知ってるあらすじなのにここまで泣かされ。絵がとても好き。素朴なのに。乳児の愛しさとかひとつ取っても涙止まらない。翁と媼、各々なりの愛情。翁は彼女に栄誉の幸せを与えようとしたけど媼はもっと彼女の心の向かうところに添おうとしてた、視点と性格の違い
古本整理、家族の使用済みの各種受験用参考書など見ていると、彼らの歴史を思い出してしみじみする
皆を幸せにしたい→皆を幸せにできるような霊性目指してる我々偉い→我々の仲間が増えればユートピア、そうでない人々ダメ可哀想、一度死なせてあげよう→これを悪事とみなす俗世間が攻撃してくる、我々が滅ぼしてあげて守ってあげる…みたいなことになりかねない
なんでイクオまで帰ってきちゃうの馬鹿ね、うん、こいつは馬鹿なんだよ、って言われながらあの家でオムライス食べてるのならまあいいか。しかし美月が振られたってことでしょ、私は美月目線で見てたので悔しい涙なわけなんです。
好きで観ていた連ドラや、好きで読んでいた漫画や小説、完結するたびに私の心のなかにいろいろな人達の人生が増えていって、ふと気を抜くとその人達のことを延々と考えてしまう。これって幸せなことなのかな、もしかして。
フィクションの中の好きな人たちが幸せかどうかに我ながら気分を左右され過ぎるとは思うんだけど…画面の向こうに行って一言二言叫んで来たいし来週はもう会えないのか。詠嘆
息子と一緒にするはめになった遊び、同じ部首の漢字をたくさん書き出すゲーム/記憶を搾り出し搾り出しして増えていくの楽しいよ(2015)
好きなひと、私が生きてる間はこの世から消えちゃならないことになっているので、そこのところ強く宜しくです。/好きなひと、思い出すだけで私を幸せにしてくれていることを忘れてはいけないことに決まってるので、そこのところ絶対に宜しくでーす。
風立ちぬ』映画DVDを、観た。なんだか最初の方から涙をつらつら流しながら観ていた。私の知っているお年寄りたちも、ああ、こういう風景や人々や空気を記憶しているんだろうなあ、って思うとそれだけで泣くようになってしまった。菜穂子かわいい
好きな気持ち、好きな記憶、楽しかったこととか、幸せを感じたこととか、そういうことが。身体を失ったときにそれごとなくなっちゃったりするのか?マジですか?信じられない、抗いたい
私など些細なことですぐ子供に小言を言いたくなる。でもそこを堪えてみよう、寛容のほうがずっと効果があるんじゃないか。親に言われなくたって伸びる力を持っていることを信じることで、伸びる力は本当に出現するんだと思った。存在を信じるっていうより信じたから存在する
そして母に逢うと、思い出すのだった。そうだ、前に進む気になるのは、怒られるからじゃなくて、叱られるからでもなくて、ただ、認めてて貰えるからなんだ、だから私も子供らにそのように接したいんだった。これを思い出せる
母と話していると安心できる。決して私や、私の夫や子供のことを、批判しないからである。そうかといって、関心がないとか、どうでもいいとか、そういうことではなく、常に気にかけてくれているのに且つ、自分のものの見方を押し付けることなく尊重してくれてる、長い目で見てくれているからである。
お留守番お願いね。その時は頷いたのにあとで号泣する/冬のさなか熱を出した子のことは置いていくしかないのに用事を済ませて素早く帰ってきたら幼子が自分を求めて外にまで迷い出ていたのを見たときの母の気持ちを考えると胸が締め付けられる
当時の流行語なんかを呟いたのをBot登録してしまうと何年か周期で我ながら気恥ずかしくなるのだな
なにはさておき、ぎゅっと抱き締めてもらいたい、話はそれからだ。…みたいな。(子供も大人も)
何かしら嬉しく過ごせた日に、これを将来はどんな思いで回想するのか…となんとなく感傷に浸ってしまう
私も考えなきゃならない。自分の孫や曾孫の世代には私の感覚が通じないだろう時、いかに毒にならずに自己満足だけして譲って消えられるか
祖母あたりの世代、目上に目下が逆らうなんて許されないことなのかもしれない。だったら、逆らえない目下のことをもっと思いやってくれなきゃ片手落ちだろう。有無を言わせない強迫で下のものが従っていたのはその時の社会のお蔭なんだから今は通用しない
両想いのひとたちは折角の両想いを何も自分から手放すことないのに。/好きな相手から、はい私のことを好きでいるのはやめて下さいって、迷惑ですって、言われてないのなら、好きでいることをやめる必要ないと思うけど?
始まりも分からないし終わりも分からないこの時間の流れ、始まりと終わりが同じ地点で丸かったらホントにうわーっってなるよね、っていうのが今日のお風呂の議題だった。/ご飯の前には息子とも久しぶりに長々と抽象的なことを喋りあってすっきりした(2015)
遠出してて無事に帰宅した子が楽しそうに諸々の報告をするのを見てて嬉しかったからといって、夢にまでみてしまってた
迎えに行って結局一緒に泊まった子と、運行再開した始発に乗って帰路に。帰宅して、久しぶりの家族の寝顔を見てホッとして、パンをかじったりしつつも、緊張は続いてた。関東ですら、あの混乱(2011回想)
以前、東北の物産コーナーにて入手した、秋刀魚煮の缶詰、あれも素晴らしく美味しかったのさ…。/それとウニを食べたいな…。(うわ、しまった、ウニのことを思い出すと自動的に、ドラマあまちゃんの主題歌が流れ出して止まらなくなるんだった。また観たい)
初めてのことばかりだった。初めて、学校の床で寝た(銀色の保温シートにくるまり、非常食をもそもそ食べながら)。それからまもなく、こういう何かのときに便利なようにと身内からツイッターを進められアカウント開設。そこから色々なことが展開し色々な目から色々うろこ落ち今の自分
思えば全く違う環境で育ってきた人と家族になるって、すごい試練だよな…この修行の意味、あると思いたい
割と独りを楽しめるタイプの私も、ふと我にかえると、寂しさに叫びたくなることあったり。好きなひとがひとりぼっちとか考えると胸がきゅーっと泣く。この、きゅーっをお届けしたい
何にでも全力で可能な限りの努力をすべきかどうかそれは各人の選択だと思うし、一個も一見無駄のないコースを走って自己の最速タイムを出し続ける人生って何が面白いのか、いつか寿命くるのに
親類と配偶者との板挟みになっちゃうと結婚生活は苦行。そういうしがらみからだんだん解放されてからは夫婦仲が穏やかになっていった気がする
来るもの拒まず去るもの追わず、が結局は最もラクで自分が痛くない生き方なのかもしれない。
誰でもない時間開始。
朝、それにしても目覚める度に思う。これだけ当てにならない意識なのにいつもいつでもこの同じ体、同じ脳みそから目が覚めて、誰かと入れ替わったりしてはいないこと、不思議。一生、こうなんだと思うと。
食卓に同席してても上っ面だけ分かった気になられて内面受け入れてもらえず支配されてたら却って病むし/食事のスタイルがどうっていうより、放任無関心とか逆に過干渉とか、心をないがしろにしてないかどうかなんだと思った/顔合わせてるからって安心しちゃってないか自戒
一人ご飯がダメってわけじゃないと思う。必ずしも食事時に一緒じゃなくても、存在肯定して話を聞いてくれて大切に思ってくれる人がいれば、他人を傷つけたいとは思わずに済みそうだけどケースバイケース。
及川ミッチーさんテレビで、土星の輪っかの薄さ(あの大きさの割に厚さは最大でも数百メートルしかない) をロマンだと言ったけど、わかるよ!!
半世紀くらい前の人々、キャラもいまより老けてるから。だいたい15歳から20歳くらい増して変換して考えないと。大人になるのも老人になるのも遅い現代人から見ると
根拠のない、一人っ子我儘説、こういう迷信は兄弟と歳の離れた子のこともディスってて、は?ってなる。私も妹が生まれるまでの六年間は一人っ子だったけども
家族が独りで遠出するとき、その交通機関が無事故で無事に運行したかどうかなどが気になってしまうのって別に過保護とかじゃないよねえ…(と、自分に言い聞かせる)
復讐して気が済みましためでたしめでたしでは終わらない、深く知るほど割り切れない思い、っていうドラマが好きだけど見ていてつらい。ウロボロスの展開は哀しい予感がする
次はこの作業をやってねと言われた瞬間から闘志が湧いて、その要領を如何に早く会得するか燃えすぎて燃え尽きて喉カラカラでへとへとスポーツ/私じゃなくても勤まるし、私じゃないほうが効率が良くなりそう、でもいいんだ!
生存に必要なさげなこんな恋とも興味とも分類しかねる思いって何故あるんだろう。
いつも今の自分は昨日の自分より先輩だけど明日の自分からみたら新米なのか。さあ出動
好きなひとが今、どうしてるかな、心穏やかに過ごせてるかな、それとも大冒険中なのかな、想像する時間の楽しみ、いつか知ることになるでしょう
ウチの子、悲しいときやしんどいときにはあまり表情を変えてないけど、嬉しいときにめっちゃ嬉しそうだから、ああ、あのときは落ち込んでたんだなって逆にあとで判明する
誕生から成長を傍で見ていた思い、子供の性別に関わらずそれぞれに万感ある。なにも恥ずかしいことなんてない
自分を生かしているものに対する有り難さに気づかせるのも大切だけど、だから誰のどんな親でもいつも有り難いかというと違う、どんな人でも何でも食べるべきだ、というのも違う、という、人にはひとそれぞれの事情があることも教えないと。/一般論を万能薬のように押し付けるの良くない
ただでさえ天災、事故、病気、何で命を落とすかわからないっていうのに。そのうえどうして人間に傷つけられたり殺されたりしなきゃならないのか全くおかしい
ウチの台所で、誰に供するわけじゃなく自分の実験的にココアに胡椒を入れたりコーヒー牛乳に味醂入れたりしてひとくちずつ試して見る楽しみも面白いんだけど、それを飲むのを自宅じゃない椅子とテーブルで飲みたいって言う欲を
自分や家族や好きなひとが、生きている限り痛い思いをしたり困ったことになったりするおそれを思うと、もろとも消えたくなる、我ながら愚かし
ちょっと体調不良があると、外での責任ある用事を入れることに躊躇してしまう。休憩時間以外に休憩できないという状況に恐怖を抱いてしまう。実際は、いざとなればトイレにこもって何時間も過ごしたあとで事後報告で具合悪かったからですと言って首になればいいだけなのに
私が、それイイねと思ったこと、いつまでもいつまでもあればいいのに/この世が特に理由もなく意味もなくあってそれがいつかなくなってしまうんなら、じゃあさ、どうしてあるの、誰かを何かをイイね!と思う気持ちは
つらいこと苦しいことがいつか流れ去るのは大歓迎なんだが、楽しい時間や好きな記憶や愛しい気持ちが流れ去ってしまうのは納得いかない。意味がわからない
仕事してる間は余計なこと考えずに無になっていられたから…帰宅後も無でいよう…
布団圧縮機みたいな急行電車で人に挟まれながら上を見て思った。うる星のらむちゃんなら吊革より上に浮いていられるのにって/らむちゃんなら電車に乗らないな。
好きなひと、あ、居てくれたんだ、っていう安心感って、あれに似てる。小さいとき、勝手に遊んでても、ふと親の姿が見えないと、ママどこー、ってべそかきモードになって、居ると分かるとまた安心して遊ぶ、みたいな
美容院で髪を切られながら料理雑誌を読んでると帰りの買い物覚えが増えていって、でも覚えきれないから思わず美容院の人にメモ用紙と筆記用具を借りたくてでも借りるのためらって頭いっぱいになって会話が上の空に
よくない見本しか提供していない私だけど、ひとつ自信あること。それは、こんなんでも案外生きていけるんだな大丈夫なんだなという例になっていること
生きるのが上手ではないひとのこと好きになる傾向ある…なぜだろう/上手に生きることよりも大切にしている何かがあるって思うからかな、上手に生きられないひとのこと好きになったりしちゃう
私の子供時代、自分をすごく不自由だと思ってた。どうしてよその多くの人達みたいに自由に自分の人生を生きられないんだろうって、自分の臆病さを親戚身内達のせいにしていた。ほかの人達だって何かしら大変だったんだなあ、そして私の人生にはあれらの不自由が必要だったのかも、って、今頃は思える
お腹が空いた状態の自分をもう少し楽しみたいけど食欲に勝てない。たまには自動的に朝ごはんが降ってきても構わないの。
そういえば世界滅亡の瞬間は家でじっとして子供に触れていたいとか、好きな歌を歌いまくって記憶のなかの歌の歌詞を全て歌い上げながら滅びたいとか、そんなことをあの子と話してた。何を歌おうか
安心して叩けそうな燃料になる材料を求めてる人々いる。/誰も気づいてない悪事に気づいてそれを華麗に暴いて公表してそれが集中攻撃を受ける様子を見たい、…みたいな気持ち、ともすると出てくる。
ゼロリスクにこだわらせて不安を煽る人と、完璧な境遇でなければ不幸だと断じてしまう人と、は似ている気がする。
若い頃、とある成りゆきで某教団の会合に出席してた。信仰体験談を聴きながら、彼らがとても幸せそうな空気を醸し出しているので私の感じる違和感を敢えて口に出せやしなかった。でもかならずしも病気が完治したり商売がうまくいったりしなくたって実は幸せでいられるはず、って思ったのだ
セロリが嫌いな我が子は一方でミネストローネが好き。そんな子供に「ミネストローネの味のポイントは実はセロリなんだよ」って教えたら驚いてたのでなんだか嬉しい。
二十歳の頃の自分がいまの私と同一人物なのか疑わしい。一部の記憶と感覚だけを共有している別人のような気がしてならない。
男性が誰かや何かを「かわいい」と言っている場面に出くわすのが好きだし、そう書いてあるものを読むのが好きだ。女の私からすると、男の人も誰かをかわいいと思うんだなあ、それは実際にあることなんだなあ、って確認できるから
何かやってみる、誰かと会ってみる、思い切って乗ってみる、そこからまた見えてくるもの楽しみ。
見ない前からくだらないとなぜ言えるのか私はその背景がわからないからわからないので/いや、つまらなそうとかくだらなそうとか思うことは思っていいけど、見たり読んだりしない段階でのネガティブな感想については私は好きじゃないなっていう。
相手の思い遣りのなさをなじって嘆く私のこれのほうこそ思い遣りのないことなんだ、そしてこういうことは地獄から天国の境地に辿り着いてからやっと言える/忘れて水に流したもん勝ち。犬も喰わないあれに対しては今後もこの線でいこう
なに不自由なく衣食住が足りているお蔭さまの今日この頃を送ってるんだけど、ちょっと家族との気まずいやりとりなどで、心のなかは急転直下地獄に変容/ちょっと他愛ないことで笑いあっただけで雪融けのように天国にかわる心の世界
高校時代、きっと私は実際以上に無神経なヒトだと思われてたように自覚してる。けど、時効だろうから言うけど、無神経っぽくしていることが時に誰かをそれ以上傷付けずに済んだ部分もあったと思うんだああ眠い
聖人と呼ばれたひとって、すごく喩え話が上手っていうイメージある。
ウォシュレットのリモコンの効きがあまりよくないと思ったら、可及的速やかに新しい電池を入れておきましょう。作動している途中でお水が止まらなくなったら、ずっと動けないまま便座に座ることになります。なりました。しばらく動けないまま、自然に止まるまで、何もできませんよ
ひとを好きになれるひとのことが好き。誰かに、ありがとうって思えるひとのことが好き。
私にとって何が誰がイヤで嫌いか。それを考えさせられる日々の積み重ねで、まわりまわって優しくなったりしてるのかもしれない。イヤだなつらいな嫌いだなあってことにも何か意味が、あるんだろうなー。そう簡単には分からない意味が
力が強い者が勝って弱いものは負けて淘汰されてしまう…っていうのが仮に自然の法則なんだとしても(納得いかないけど)でも折角人間なんだから弱くても生きていける世界を目指すんでなければ、じゃあ今までに歴史や政治や哲学を学んだのは何だったのかってことになる。原始人じゃないんだからさ…。
呟き、専門的な知識とかそれまでの経緯とかまだよくわからないままに現時点で思ったこと感じたことをポンと呟くのも良いと思う。それが誤解やデマや風評被害を引き起こすものでなければ。そういう初心者視点も存在主張したっていいと思う
間違いない。普段なんだか弱っちい雰囲気の男子が何かのいざというときに愛ゆえ渾身の勇気を振り絞る姿なんて見せられたら、すぐ好きになっちゃうんだたぶん私は
客観的な事実、…これがそう簡単にはわからないから懸命に研究解明してくれてる人がいるんだろうな…。/ああ…誰の損得にも利用されない歴史の記録、世界に早く出現しないかな。
やっぱり歴史の教科書は全世界が、極力主観混じえずに淡々と客観的な事実を記して、陥りやすいことに気を付けるため教訓を得ておけばいいと思う。ただしこの姿勢、日本だけが持つのじゃダメ
いやあ、だけど、嫌いな人に嫌いっていえるくらいならとっくに言ってるような気がする。言えないから悩むんだよね…/ていうか、嫌いとか言えなくさせられてる故に、嫌いなんだろうとおもう。
体も、頭も、感情も、今までにまるで出逢ったことのないものだった。出産。
当たり前に思えることは当たり前じゃないね
頂いた柚子ビネガードリンク、お湯で割って爽やか且つ、あったまるー。こんなときたいてい、体があって本当に良かったって思うね…。
私の中の「色々な色が集まっているもの崇拝癖」がふつふつとたぎって来た!
へたするとヒト(もちろん自分含む)の持ってる酷さにいつ堕ちるかわかんないけど、でもまた、人の持ってる凄い、何それ天使?神?仏様かと思う優しさとか美しさに気づかされる瞬間があって、それでああ、捨てなくて良かったって思う日もあるし。
あの日、そこら辺にあるもの手当たり次第に家族に向かって投げ付けて泣きわめいた私自身のこと、いまこの境遇で振り返れば、えっ、誰?私?何を思ってそんなこと…信じられないがしかし、あれも私の姿のひとつだったの。
ところで、脳内で大地讚頌を歌ってる間にいつのまにか筑後川の歌になって終わることがよくある。
ドラマを観終わったあとで酸欠になりそうになる、いつも。息を止めて観る癖をやめたい。全身全霊で観過ぎる。
卑怯な匿名の悪意になんか潰されたりしないで、好きなひとには幸せにいてもらいたいと思ってます。少女と傷とあっためミルク、好きです
誰からも要らなくても私が私を要るから幸せ
子供が大きくなって、私の乳とか私からの承認などを必要としなくなった今は、私は誰の一番でもないけど、誰かの一番はもしかしたら私がいなければ成り立たないかもしれないので私は要る(と思いたい)
そんなこと思いながら晩ごはんを食べてた時にじゃあ私は、たとえば今年一杯しか生きられないって言われたら、どうするか考えてた。旅に出ちゃう?家事なんかやめる?いや、やっぱりいつもと同じ過ごし方をしてしまいそうな気もする
ただ、それにしても欧米の高校生って「高校生ともなればセックスパートナーがいて当たり前」的な空気が私にはどうも怖いっていうか、別世界だと思っていたいというか苦手なんだ。(ドラマ、glee)
"世の中の複雑さにぶち当たるにつれて、守りたいものを守るためにはどうしたらいいか大人になると結論を早く出したくなる(忙しいし、疲れるし、いろんな立場の人のことを考えてしまうし) だけど諦めない道を歩く人を凄いなと思い、応援こそすれ、邪魔はしたくないって思った。"
人をいじめて嬉しがるような人間のせいで、優しいひとが心身ともに不自由になるなんて、あり得てほしくない。この気持ち。全くもってこの気持ち。
頬っぺた、とか、ほっぺ、って言葉を考えた人に「よくやった」と言いたい(可愛いにもほどがあるから)
いま出逢えている方々と私は生きていたから逢えたんだけど、それまでの一瞬一瞬の積み重ねを思うと気が遠くなってきて
ついったーや日記に書くとき私はいつも、読んでるひとの存在を気にしたりしなかったり、意識することが楽しかったり意識しないから書けたりする/時々、なんでこんなこと呟いてるんだろう我ながら…って思うし、なんでネット上である必要があったのか、自分のことながらうまく、説明することができない
時間を気のすむまで止めて、その間にしばらくの間、消えたいんだ。霧とか、靄とか、になりたい。(2014秋)
家族が勤めている業種がなぜか一部の人々にたいへん敵視されることがある。だけどその人々を含め、この現代社会でこの業種の会社に一度たりとも頼らずに生活を営んでいる人を見たことがない。それは繋がり支えている仕組みの構成要素(2014)
毎日学校やお仕事に行く、毎日小さいお子さんのお世話、お年寄りの見守り、毎日目の前のことを頑張るかたがた、それがどれほど偉業だか。すごいんだよ、お疲れさま。
思い返せば奇跡的な縁の積み重ねで変わってきた自分を好きなのに、いま落ち着いてるからもうあんまり変わりたくないかもしれない。じゃあ百パー満足かと言うとそんなことはなくて
良かったね、こうやって30年近く経ってやっと、こんな風に思えてるよ。こんな風に思える日が来てるよ。
変わったことをしてはいけない。あの人からみてまずいことは選んではいけない。よそ見して夢見てあとで覆される悔しさを味わうくらいなら、最初から見ない。そう思ってた
親は私を尊重してくれてたけど、親の親が私の自由を無自覚に否定していたもんだから、私との間で親も板挟みになるのが目に見えてた…何を選んでも最後に許されなくなるんなら最初から望まないでいよう、って思ってた。私には、勇気がなかった
今なら赤ちゃんの泣き声も穏やかに聴ける。何とかしなきゃと思わなくて済むから
だいたいポッキー食べるとき最後に手に残ったチョコのない部分を「塩気だー!この塩気が素晴らしいんだー!」と思いながら惜しみます
東日本は住めないからとか、日本はもうダメだから危ないからとか、そういうデマを流してきたアカウントというのは私のなかのブラックリストに載ってしまっているので、RTで回ってきても「今度は本当のことを言ってるのかもしれない」って思えないし検証する気も起こらない(2014)
つらいおもいなんて好きなひとたちにしてほしくないけどでもそれぞれの旅の舵をとるのはそれぞれのひと。祈ってます
つらかったとき、この時間を早送りしたいと昔は思ってた。今はそういうときスキップしたいと思う。この違いはつまりVHSの頃とDVDの今の違い
1000年前のひととツイッターで相互フォローしたい
髪や顔を洗うように脳も毎日洗えたらいいね。潤いは残したまま不純物をさっぱり洗い流す
誰にとっても時間は限られてて、だから何かを味わいたくて観たくて聴きたくて読みたくてそこに時間を使う、使わせる、使ってもらう、お金を出してでも触れたい何か、その表現者、それを支える多くの人達、それはかけがえのないもの
余命を教えてもらえたら、その逝く日の一ヶ月くらい前からはそれまでの自分のキャラからは思いもよらない格好をして行ったこともない所にいって別人になる体験に半月くらい使いたい
どうして綺麗な丸い天体を見てて私がヘタすると涙流したりするかというと、生きている間には触れなさそうなものだからかな
だけど穏やかに振り返ることができるように辛うじてなってきただけで、感謝とまではいかないなあ。これでいいんだと思う。ありがとうは言えないけどいまの私のこの要素を作ったあの親戚、あの環境。もっと欲しいとは思わないけどこれが私であることは受け入れ/そして私は同じ轍を踏まなければいい。
暦の調整、閏年や閏月など思うと、地球の自転と公転と月と太陽との関係の間で微妙にもやもやしながら生きてきた人達って気がする
この世、この時に、この身体で、生まれて生きてることには何かしら意味があるようなないような。なるべく楽しいことを自他にもたらす存在でいたいと思うけど、そうでなければ無意味だとも今は思わない。毎晩あの月を見るだけの存在でも
ただ、やはり誰かに頼ったり助けを求めたり迷惑をかけたりするのを苦手とする。情けなさを晒すのを恐れる。昔ほどではなくなったけど。
自分にとって悩ましいことなのかどうか諮るその自分、も年々変わってきたことも生きてる理由に含まれるかも知れない。
好きなひとや好きなものを思い出すとすぐ、何を悩んでいたのか忘れてしまう。だから何だかんだ生きてこられたように思う
急に哀しくなってきた(自分に対して)/どうして何につけても理由を考えてしまうんだろう、どうせ解らないし当たらないのに
ところで、ここ一番の時の勝負下着とは、きれいに整える機能がありながら締め付け感がなく、胃や腸を圧迫せず、着けていることを忘れさせてくれ、ご飯をたくさん頂くことを可能にするもののこと。私にはそんなとっておきの外食用の勝負ブラがあるのだった。主にお正月などに使う
好きでいることの幸せを思わせてくれる、好きなひとたちにありがとうね
今年の干支が何なのか覚えてるのは1月の間、思い出すのは11月。
でも遠くで光ってる天体の、光さえ何万年もかかる距離にあるそれの存在のことを思うとき、そこに物理的にヒトが到達できるわけないような遠くのもののことを想像できるヒトの脳のすごさは感じる。生きてる間に宇宙旅行に行けないどころか人の中だけでも未踏の地があるのが気の遠くなる
そんなおまじないみたいな特別グッズを宣伝さえしなければ私をごまかせたかもしれないのに惜しいね/どうしたってヒトには限界があるし人知の及ばない世界があるからって、人知の及ばない世界のことだから何でもありではないと思ったよ
異性に恋しても、気持ちは惹かれてときめいていても、体的にはどうにもこうにもなりたくはなかったんだよね…そんな自分がなんだか何か欠けてるような気がして一時期とても悩んだことある…。でも自分なりの想いかたで良かったんだよと、今ならあの頃の自分に言う。
昔、同性に恋してたことがあった。身体的にどうなりたいという欲は全くなかったけど、見かけるだけで心臓がドキドキしてあれは恋だったと自分では断言可。この話を同性の友に言いにくいのは、「自分のことも恋愛対象にされちゃうんじゃないか?」と思わせてしまうんじゃないか?ってことを恐れるから。
こういった、色々なご縁で色々なものが心に浮かぶこれ自体ドラマ、これを宇宙には録画しておいて欲しいって思っちゃう
粗ばかり見つけてしまう人よりも、良いところを発掘できて楽しめる人のほうがきっと幸せだろうと思うし、そういう人のほうが好きというか安心して接することができる
悪口には乗れない以上に悲しくなる。そういうことを言うのが趣味な人間がたくさんいるのがこの世界なんだと、私も人間なんだと、知らされて凹む、みたいな
批判と悪口って違うと私は思う。自分が考える正しさに基づいて、何かを守りたいとか善をなしたいとかの動機で行われるのが(独善的だとしても)批判、ただただ誰かの気に入らないところを主観でもって探して叩くことによって快楽を得ようとするのが悪口、だと思った。
他人にとって何が不快で快なのかを想像し察する時に、よすがにするのは自分の中にある体験と感情の記憶、自分がそこから導き出した「幸せとはなにか」だから、参照する自分のなかが多様かどうかに左右される。そして限界も、どうしようもなくある。限界を自覚しつつ多様性を持っていたい。
いやなこと言われたひとに第三者がスルースキルをすすめて、いやなこと言う人に対しては、そんなこと止めなさいとは言わないのは、ただ、言いやすいことを言いやすい人に言ってるだけのようにも思える。
ところで芥川龍之介蜘蛛の糸、あれのお釈迦様は優しくない。救う気になったんならもっとしっかりした梯子を下ろしてくれたらいいのに。あんな頼りなさげな糸、結果ああなってああなるの目に見えてる。救う気があったのかな本当に
足場の半端なく不安定なおトイレ、鍵の壊れたおトイレ、壁がなくプライバシーが全く守れないおトイレ、流れないおトイレ、豪華絢爛過ぎるおトイレ、空中浮遊のおトイレ、あったりなかったりするおトイレ等(夢で)
好きなひとたちや、好きなひとを思うための自分に、たくさんの時間を買ってプレゼントしたいのに、お金が必要なのに、そのお金を得るためには時間を売らなければならない。ではその、時間を売っている活動の間、それをも幸せと感じられたらどんなに良いか。
好きなひとたちに、たくさんの時間があって欲しいの。時間はお金で生み出せるなら、好きなひとたちにお金がたくさん降ってきて欲しい。あればあっただけ良い。
「人間は自然界でなら淘汰されてしまう個体でも、みんなで助け合って生き延びる優しさを持っている」「象には象の、アリにはアリに適した水の量を見極め、それぞれに与え、それぞれが健康でいられるようにすることが「真の平等」」(少女と傷とあっためミルク)これ好き。
だけど人生は有限。「井戸の底」からの悪意の言葉から自分自身を守ることと、人善かれの気持ちとの折り合いをつけたい。いじめは麻薬とたとえられている。「ラクして人の上に立つ気持ちよさ」そんな幻に溺れる人々に殺されてはいられない。(はるかぜちゃんの本)
(はるかぜちゃんの本)誤解や悪意や脅迫の書き込みに対し著者がネットでスルーしなかったのは、大切な人を守りたい気持ちのほかに、悪意に悩まされる人々の悩みを少しでも解消したいから事例を知ってもらいたい、ということだと思う。そんな彼女にありがとうと言いたい
「人は」「日本人は」「男は」「女は」っていうような括りの大きい話はなるべくしないようにしようと思ったのでした。
たとえば自分の知っている親子関係で他人様のそれを推測して、こうだからこうであるはずと決めつけたり、自分の知っている子供イメージで、だからこの年代ならこうであるはずだと思い込んだり、ってのはだめだと思う
井の中しか知らなかった蛙が大海を知った時に、その先の宇宙に思いを到らせられず、大海の中でたまたま得たものを宇宙だと思ってしまう、という危なさについて番組で取り上げられてた。そして、「みんな」の捉え方。「みんな」を下に見て、それとは違う自分を特別だと思い込みたい人の集まり。
こんなにリアルな夢を見てて、それが、起きたあとの世界となんの関係もないなんて/本を読んだか映画を観たかのように、頁を閉じたか停止ボタンを押したかのように、パタッと、中断してしまう
大人は子供よりも進んでいるとは一概に言えない。ある部分では衰えていってる。ある部分では変わっていってる。経験と学習で変わっていく。変化の前後の優劣を単純に比べることはできない。無理にじゃなくどちらも好きになれたらなれたで良い
我が子や自分の小さいときのことを思い出して感じるのは、おもてに現れる言動が子供っぽくても、考えてることは大人よりも時に凄い高度や深度を瞬間的に出してたという。それを表現する術やタイミングが掴めてなかったけど
アイドルの顔がみんな同じに見えるのはそれはね、まだ好きになっていない場合なのです。好きになった人と好きになっていない人との見分けは、簡単につくのです
ひょんなことから普段やらないことをやってみたとき自分で想定してなかった自分を見つけて得した気分になったりするから、これからも時々は、目標が明確でもない気紛れをやってみたいと思う。
嫌いじゃない家族相手でさえ、賛同しあえる部分が四割もあれば御の字、まして様々な歴史を抱えた他人と何かひとつでも「ああ、それ分かる!」って瞬間が訪れたらミラクルな事件なんだよね、ってつくづく思う
人と逢うとき、逢ったとき、私が相手に何か迷惑や不快を与えてしまったかなあと考えすぎることそれ自体が迷惑になるおそれがある。このことに近年気づかせて貰えた。だから私のできる善のひとつは、もっと構えを気楽にすること。
学生時代、今よりもっと無知で今よりもっと輪をかけて痛い人間だったのに、時々、久々に逢いましょうのお呼びがかかることあり。これは、昔を忘れてくれてるのか、許してくれてるのか、義理なのか、そもそもそれほど気にされてなかったのか、…ってあれこれ考えるの無益だし面倒だし悩みたくない
とても男の子(美少年)になりたかった若い頃。そしたら門限も厳しく言われないし早く嫁に行きなさいとも言われないし家庭科苦手でも蔑まれないし夜の公園を散歩できるし女の子にモテるし…成りたい…って思ってた。
浮気をしないわけがないなんて言ってる人。主語を間違えてる。それは自分のことであって男性全般じゃないから。
色彩の見えかたが人によって違うことを深く考えさせられたとき、最初はとても寂しくなって悲しくなってたけど、世界がその人独自の見えかたで見えるのは何にせよ自然のことだし素敵なことだと思い直せるようになった。と思う
専業主婦と働くママの対立、みたいな図が浮かび上がる番組を観るともやもやする。単に、別なライフスタイルの人に対して想像力のあるかないかという個人の問題。そしてなぜいつもママだけ?パパは?
あの子の背中を見送りながら思った、つくづく、いってらっしゃいが言えること当たり前なんかじゃない
よそのお宅にお邪魔すると、同じ人間の住まいなのにどうしてこうもウチと違って綺麗なのかと思う。天国と地獄ほど違う
あんなに油を入れて熱してても茄子を炒めると魔法のように油が吸い込まれて、それでもまだ茄子が油を欲してて油を追加せざるを得なくて1ついーとに油って言い過ぎる
「本を読んだりネットを見たりしている子が、親にその様子を眺められていることを意識せずに何かに反応して一人で無言のままにやっと笑ったときに盛り上がる頬っぺた」を、斜め後ろから見つけて喜ぶのがマイブーム
ああいうタイムスリップ入れ替わりものって好きなんだー。いまの時代の感覚で違う時代を見るとか楽しいから(信長協奏曲)
会社が社員研修をのんびりじっくりしてる余裕がなくなっちゃったから卒業即使える人しかとらなくなって大学時代が就職予備校みたいになってくのもなんだか残念。
勉強って勉強したことがそのまま役立つことを期待しないでするのも楽しいし充分意味はあると思うんだけど、就職の入口で、即戦力が業界研究がスキルがコミュ力がバイトがサークルが人脈がインターンシップがと言われてしまうから勉強だけに没頭してられなくなる文系
お蔭さまで今いる自分、のことを大事にしていくことを、ありがとうのかわりにして生きます。
この歳になってもまだ私は発展途上です。アバウト半世紀生きてても最近の気づきは、自分がされて平気なことでも他人にはそうではない、だとか、思い込みを捨てなきゃ、だとか、そんな基本の基本。だけど諦めたくない。捨ててしまうのはいつでもできる。まだ善くなれると思う。
(子供に逃げ道を作ってあげたほうが、心を開いてくれるみたい。)
ずっと小さい頃の嘘の理由の主なものは、怒られたくなかったから、とか、自分を良く見せたかったから、とかかな。嘘がバレたら結局もっと怒られるのにね。私はよく親にちょっと嘘を言ってた。
ちゃんと謝る…大人でさえ大変なことだったから。許してから、ゆっくり、ちゃんと謝れるようになるのを待っても良かったかなあ、って今は思う。
昔、私が、幼かった子に対して間違ってたなあと思うのは、あの子がちゃんと謝ったら許そう、とか思ってた件。自分と対等な大人のようにとらえてしまってたこと。私でさえなかなかできない我慢を子にさせようとしてた。できるだろうと思ってしまった。
この頃沁々と思う。おうちで、お外で、有償無償に関わらず、お仕事を頑張ってる人達のお仕事が、直接目に見えて私に関係がないように見えても、私の大切な人達を、そのまた大切な人達を、きっと支えてくれてる。必ず役に立ってくれてる。ありがとう
ああ、ヒトだなあ。と何か感動することが多い。とどめておきたい。でも時の流れでどこかへ流れてしまう。少しでも覚えておこうとする。無駄かもしれない。人生は無駄の集積、それを味わいたい。
自分がこうだから他人も皆こうだと思っちゃダメだし思わないでいるようにしている。色々な考え方と感覚があるのが世界の良いところ、いや良し悪しでなく、それが世界か。と分かっていても、寂しさが付いて回る。たぶん、いつまででも
ここまでは分かるだけどそこからは同意できない、ここまでは伝わるだけどここからは賛同してもらえない、そういうもどかしさがいつもあるのが当たり前なんだけど、未だに慣れてしまえずにいる
体罰の通報窓口が私の生まれる前にもあれば…って思う
それまで私はミックスジュースというのは果汁オンリーまたは果汁と野菜汁のブレンドを指すと思ってたら、大阪のミックスジュースっていうのはなんかそういう名前の、牛乳と桃とみかん缶詰などで作られたものでその地域ではどこでも飲め美味。びっくりした。いま思えばあれはフルーツ牛乳に似てる
優しい人に理不尽なことをする者には、パジャマのウエストのゴムが布の内部で捻れて直らない呪いがかかる予定です
息子がまだ歩けないけどもう、買い物荷物やオムツや飲み物その他の子連れ外出用品とともに抱えてあげるのは過酷な体重の頃。ベビーカーを押して歩いてたら、どこかの年配の人が「可哀想、おぶってあげたら?」と擦れ違いざまに。刺したくなった。あなたの時代と違って家に留守番させておけない
雨の音は、不思議とそんなにあれじゃなく心穏やかに聴ける。聴いてる。なんか、どこか諦め。もうどうにでもなれ的な。なんにせよ自然に逆らえないけど遣り過ごしてたらいつか晴れるパターンでしょ的な。
雷ってどうしてあんなに不安を掻き立てる音で鳴るの。って思ったけど、雷の音を聴くと不安に思うように出来ているんだろう。そういう作りじゃないと危ないから
メールの、自分の気持ちを説明した文章を、意図しない方向に解釈されてしまったかも知れないとき、そんな行き違いがずっと胃のなかにとどまってお腹も空かない。そんなつもりで言ったんじゃないのに。だけどそんなつもりに受け取られたのは自分が悪かったんだ
ところで長生きはしてみるものだとつくづく思う。ずっと前には夢のようだと思っていたことが、今、目の前で具体化するのを見たりすると。また、ずっと前には興味のなかった事項について、今、夢中になれるいくつかのことを思うと。人の可能性
だからデマや偏見や思い込みを、独り言のように呟いたつもりでもそれは今と未来の世界中の人々を惑わせ迷惑をかけることになるので、気を付けたい
独り言のように呟いたことを、フォロワー数の多いひとに取り上げられたことについて、文句を言ってる人が時々いる。だけど鍵あかでもない限り、インターネットに書き込むということは世界中の人々に向けて喋ること。また、いまネットを見てる人にだけじゃなく未来の閲覧者に向けて喋ることと同じ。
少しのことで自分も他人もどんどん成長していく、目に見えて前に進んでるようになど見えなくても。
やめる前に、お金を貰える学校だと思って修行と社会貢献をしてから貯金が目標額に達したら、そこで得た経験値とスキルを売りに、また別な世界にトライしてもいいよね、ってことで寝た。(2014.10)
一巻から七巻の間に、悪人が善人に善人が悪人にくるくる変わってもう面白いったらないよ手塚さんのブッダ
自分や家族や好きな人たちの敵を、愛するなんて無理そうだし、果たしてそういう境地になりたいだろうか、なれないし、なりたいと思えないまだまだ。だけど、そういう人になれる可能性を思うと、少しずつ優しくなれるかもしれない
サンホラのシングルCDデラックス版をフラゲした娘の幸せそうな顔に見覚えあると思ったら、かつて彼女が、ちゃおだかなかよしだかりぼんの新刊を買ってもらったときの顔のほぼほぼ相似形なんだなあ。
数年前の自分から見たら想像できないようなことに今が成っていることに、ふと気づく。小さな思い切りの積み重ねで今が成っている
新しいステージへ跳び移らんとするひとを見ているとき思う。挑戦する気持ちが素敵だ
結局、ぬるいか冷たいか美味しいか否か、より、儀式なのかも。ビール
梅ゼリーで青梅が残りそうならあらかじめ私に下さい。/茶碗蒸しの銀杏も喜んで引き受けます
twitterを検索」っていう欄に、たまにやってみるのは、自分の好きなものについて検索してみること。マイナーかと思っていた対象について案外たくさんの人が言及してるとき、嬉しい。
いろんなことは、過ぎてしまえば、ああ、あれも良い経験になったねとか、勉強になったねとか、思える。だから過去にいってそれをネタバレして安心させてやりたいけどできないけど、逆に、いま面倒なことをしてるときに、未来から自分がそれを言いに来たくて来られないでいると仮定して生きる
いまだにネットのなかでイデオロギーや商売のために発生した特定産物特定地域を怖がらせる系のデマが、信じられ拡散され差別がなくなってないことが
自分以上に子供の、出来なかったことができるようになる、知らなかったことを知るようになる、瞬間に立ち合える幸せ、思い出してる。
中には批判するためにしか呟かないようなアカウントも存在するし、そこまでではなくても、嫌いな有名人について粗を拾うことばかり呟いてる人もいる。それが彼らの生き甲斐なのかもしれない。その一つ一つに反論することはきりがないし、楽しくはない
どんなジャンルにおいても、有名になった人というのは、その人の何かが多くの人の心を動かし、求められるから有名になった。でも一方、全ての人の考え方や好みに合致する一人の人間なんていないから、批判もアンチもまたたくさん生じてくる。
「国」とか「経済界」とか「資本主義」とかをまるで憎んでいるかのようなついーとを見かけたんだけど、国も経済界も資本主義も自分達と繋がってるっていうか自分も構成要員なんだからねと言いたい。別世界じゃないんだから。
なにか悪意の曲解が生じてそれが拡散されるたびにどこかで誰かが、それは違うのにと悔しく泣き寝入りするとか、もうそんなの無くなってほしいけど、なかなか無くならない。どうしてだろう
先行きが少しだけ明るく見えただけでこんなに気持ちに余裕が出るなんて。他愛ない。たあいないよ心。
そうなんです…やるだけのことやってそれであとはもう本当に計り知れない神様(って呼ぶ)お任せ超それ良いと思った!
趣味のカテゴリは同じとはいえ、同じアイドルを好きとはいえ、それでも各々のお気に入りの曲やシーンや作品解釈はきっと違う。全く同じなんてことはない。そこに一抹の寂しさも常につきまといつつも、奇跡的に重なる共通項を楽しみたい。
幸せになってほしいひとがいる。ありがとう、幸せでいて欲しいと思わせてくれて。
なんか、特定の物質を量や程度を考えずにただただ恐れるのって、雨垂れが石を穿ってるのを見て雨粒を怖がるのと似てるかも。
他人が気にしないことを私が気にしたり、私が気にしないことを他人が気にしたりする。これがいつも困りごと。
ただいま、を聞くとホッとする。この感覚を人生の前半ではあまり感じないで育っちゃった私。携帯電話もなかった頃。寄り道して呑気に帰宅すると、捜索願いを出そうかと思ったとか言われて当時はうるさいなーって思ってた
出掛ける直前の家族には優しい物言いをしなくてはいけないってあれほど自戒したのに何回私は繰り返すんだろうこの過ち。馬鹿だ/生きて帰ってきて欲しい。謝るから。
苦しいことや不安なことの存在感すごい大きい。ホントは嬉しいことも有り難いことも同じくらいあるかもしれないけど心配事のほうが頭のなかで妙に目立って来ちゃってる
怖い人々から遠く離れられたらどんなにか楽。だけど簡単には離れられないから怖い人になるんだよね…。
好きな気持ちとか、楽しいこととか、って、これ将来的に何に役立つのなんて考える必要もないし考える暇もないものだよね。
何かについて考えるとき「結局それは何のため、究極、誰のため?」って考えてみて、辿って辿って、ひとの幸せのため、になりそうなものが好きで、ならなさそうなものは嫌い。見極め難しいけど。
こういう、宗教とか哲学のこととか思うの好き。どうにもなんないことのことを、どうにもなんないことだなあって認めるとちょっと可愛く思えたりするから。
実家の親と電話で話してて、安心させるようなことを私が何も言えなかった。でも、安心させることを言わなきゃという気持ちが不思議となくて喋れたのは、ある意味、進歩した?ような?気もする
食べる遅さでは昔から誰にも負けない。
血筋を辿って、その線上だけでなく横も、誰がいなくてもたぶんいまのこの私の考え方は変わっていたと思う。有難うと思うべきか。単純に有難うと言えないけどこれも、縁なのだろう
身内で一番長生きな祖母のこと。私は常に忘れたことない。彼女のこと見つめて、逃れたくて、避けて、でも気に入られたくて、怖れて、分析して、憎んで、徐々に許して、対策を考えて、懐かしんで…忘れたことない。離れてるけど。あの人の歴史がなければいまの私もいない(2014)
しかしそれにしても、来られないお兄のために、自分は興味もない鉄道研究会のパンフを入手してたあの子を想像すると萌えしぬ
好きなひとや大切なひとたちのこと思うときに依るものが、脳のなかの記憶、って心細い。溶けて混ざってしまわないならバーチャル彼岸は要らないって前に呟いたけど、やっぱり記憶のデータだけは、バックアップしておけたらいいのにって思った。/でも自分の意識が永遠に生き続けるとかは勘弁して欲しい
作りたい服、着たい服、着せたい服と、売れる服、採算の合う服、とが一致していない間は苦しそう。(海月姫)
ところでお気に入りの漫画を読んでて、もしこれをあの別な漫画家さんがリメイクしたらどうなるかなあと想像して遊ぶ人ってこの国で私だけってことはないと思うんだけど。
何だか世の中が広くてどうしていいか分からない気持ちになる
私を作ってくれてるひとがたくさんいるし、部分的に私でできているひともたくさんいる…
私の身体を通って出てきた子の頭のなかに、私の知らない世界があるのが不思議で面白くて、その中に一泊二日だけでいいから住んでみたいと常々思ってる。
何がさっきから言いたいかと言うと、私が好きになるひとたちってのは私が好きになるだけあって超絶素敵だということを私だけが胸にしまっておけますか、無理でしょ。
万一のことを考えて備えて…っていう思考がなぜ我が子ながら育ってないのかという現実に不思議な感じがする。案外、人生ってどうにかなるものなのかもしれない。いやどうなんだろう…先の見える展開を容易には見せてくれない。ある意味、エンタメ
修正液の使用は許されないんでしょ…書き損じたらそれまで何百字書いてても最初から書き直し。全神経集中させてやっと何枚目かで完成させるのを何回見たことか。ただでさえ忙しい彼らに手書きESを指定する会社に言いたいことは募る
誰も聞いてやしないけど私の好みの外見はマッチョでないこと。儚い可愛らしさ。目はなるべく切れ長一重か、さりげない奧二重か、左右で少しだけ違うのも良い。鼻は、あまり、丸くないほうが好き。など。だからそれがどうしたという。その人の内面と無関係。それがどうした本当に
気になる添加物、気になる放射性物質、なんでこうも「全か無か」で考えてしまう人達が多いんでしょうかね。ゼロにしようとしたら地上のどこにも棲めない。でもずっと前から住んでるし生きてるよ
男女7人秋物語大竹しのぶさんのあの歩道橋の回での涙が本当に好きでVHSビデオを何回リピートしたかわからない。
なんかね、何がどうなってそういう行動に出ちゃったのだか本当に親の私からすると理解不能だったんだけど、あの頃のあれは何を考えてたのか聞いても本人も記憶があやふや。私は無力感、本人はたぶん、伝え方もわからないもどかしさ(推測)
もうだめだ、おしまいかもしれない、きっと私もマスコミに取り上げられるような事件の当事者の親になっちゃうんだ…みたいなことがあったけど、おしまいじゃなかったよ。道の途中だった
室温30度を超えたらお昼ごはんが自動的に空から降ってきてもいいんじゃないの?
いろいろ模索して志望業種から振り出しに戻ってるっぽい。あの回り道にもきっと後々、意味が付いてくるんだろうなあ。(家族の就活見守り時代のツイートコピー)
味醂(みりん風調味料じゃなくて)をバニラアイスに少しかけて食べると美味しいって思ってる人、きっといる。この世に私だけじゃないと思う。
毎日、いろいろな分野でいろいろな場所で様々なお仕事をそれぞれの方々が各々の頑張りで担ってくれているので、今日も私はこんな風に生きていられるの、どうもありがとう。/今日も、唯一無二のひとたちのことを思い浮かべながら唯一無二の日を過ごす
蚊はなぜ刺すのだろう、刺さないように説得できないのが心苦しい、とか考えてる時間も勿体ない、次元が違うときはとことん違うし。
おもてに現れていないけれどもわかってくれるひとがきっと居るよ。/おもてに現れていないけれどもわかってくれるひとがよくよく見てて知ってくれて、そういう心のあるひとの心にそっとしまわれる宝物があるなあと思いながら
そういえば何を言っても全部の事実をねじ曲げてこっちが悪いことにされちゃうような人に、あの頃は悩まされていたんだった…もう、何をどう言い返しても無駄だったし、丁寧に説明しようとなにか言えばいうほど益々こっちが悪者にされちゃって傷がどんどん拡がってった
ブラック企業に引っ掛かりさえしなければ、ある意味、あの笑みさえ時々浮かぶのを見られさえすれば、なんとかかんとか生きていってくれさえすれば、あと、遅刻癖さえ治れば、あと、適度にモテてくれてもいいし、あと
知能をどこかへアップロードして永久に遺せる時代が来ても、どんな人間の脳なら遺すべきとか消すべきとかでどうせ争ったりするんならもう無記名で良いとこ取りで混ざってしまってもいいかも。とか考えてた。
そんな人工知能時代になったらもう、自分だろうが誰だろうが区別も意味がなくなりそう。あと、この記事にもあったけど、ヒトのすることで残されてるのはヒトにしか味わえないことを通して遊ぶことだけhttp://t.co/O5F74IYRhS
っていう孤独系とはまた別に、生命力溢れて真っ直ぐ一途系も好きだった。未来少年コナンとか星野鉄郎とか。で、最近のカジモド萌えにはそのどちらにも共通する何かがあるし、道明寺司にもまた違う形でその要素が含まれている
子供の頃に漫画で好きだった男のひと。タイプが。ブラックジャック、サイボーグ004、そしてはいからさんに出てくる鬼島、って並べると、いかに「過去に悲しいことがあって一見冷たいけど本当は愛情深い、女性には慣れてなくツンなのに実は慕われてる」系が好きかわかる
そういう、妬んで降ろすしか自分を満足させる方法を知らない人に、いつまでたっても平和は訪れそうもない/好きなひとの悪口みたいなの目にしたとき、なんでそういう物の見方しか出来ないんだろう本当に残念っていうかこの人、人生楽しめてないよね…って思う。
男女問わず、出る杭を打とうとする人、自分の劣等感から他人を降ろそうとする人、それも誰かを巻き込んで集団でやろうとする人、…が嫌い
食べ物にこだわるよりもっと食事中に楽しい雰囲気でいたほうが免疫あがるのに。
誰かが新参で入ってくる、その人をなんとなく放っておけなくて輪に入れるか気にして取り持つ、その人がそこに馴染んだらもう私のことはきっと必要ない、むしろ輪の中心に近い人々と仲良くなってくれればいいや。って思ってすーっと離れる。そんな感じで若い頃は過ごしてた
競争心とか物欲、完璧になくさなくても、うまく付き合ってたら涙もあるけど喜びもある、っていう起伏も味のひとつだと思うから、ある程度あればいいかなあって。
そうね…国家という仕組みは無ければないほうがいいとも思う…でもヒトが徒歩で到着できる距離がこれな以上は、物理的に国家がまとめざるを得ないかも。
ていうのはこの人の言うのを全部実現したときに、人間生活をやめたほうがいい、ってなりそうな気がする。そうすると、人間として生まれ考え生きることの無意味さが残ってそれはなんか私はすっきりしない。でも面白い本だった
けど、三年保育の入園前などに、それまでにオムツが外れて欲しいって思ってしまうんだろうなあ。ウチのは入園式直前に何となく外れたけど、その後もよくもらしてたけど、怒っちゃだめなんだよね不可抗力だから。社会生活を送らせていればいつかうまくいくから
まだ二歳になったばかりぐらいなのに、オムツが外れないと焦ってる人には、焦らなくていいと言いたい。おしっこを我慢できる機能が完成するのは個人差があるし三歳四歳くらいまで生理的にこらえられない不可抗力なのに、親が怒ったりしたらトレーニングもデメリットのほうが大きいと思う
音も映像もデジタルに変換できるのなら、いつか人間や生き物ごと地球のコピーを作って、公転軌道のちょうど対面に配置するなんてこともできたりしないかな。誰がどうやって何のためにか分からないけど/って思って私が生かされてるこの宇宙がコピー版であり、原本は別のところに既にあるのかもしれない
電話の仕組みは科学、でもよりによってこのタイミングで電話が来るのかその不思議な縁の仕組みとか、そもそもなぜ電話を発明するような生き物がこのタイミングで存在してるかの仕組みとか、は神って呼んで愛でる。自分で神と呼んだ存在に縛られたい訳じゃなく愛でたい
あ、そういえばインターホンや電話が鳴る一瞬前に、「いま鳴るよ、きっと」という予感がするときがある。
その状況になってから考えればいい。まだ起こってもいないことを心配して過ごすの勿体無い
幸せも、怖いことも何でも作れる脳がそもそもなぜあるのか
「なぜ、脳は神を創ったのか?」ってタイトル見て、眠い頭で思い浮かんでるのは、私は、こういうことを考えたり思ったりする脳の仕組みを作った存在のことを、何と呼ぼうか、そうだ、神と呼ぼうか。っていうのが神だと思ってる。こんな自分がここにいる仕組みのことを名付けてその名も、神。ぐっじょぶ
夏から急に寒くなるのはなるべくやめて欲しい。暑くも寒くもない過ごしやすい秋というものはどうしたの
彼氏(いたことないけど、いたとして)からどれくらい電話やメールがないと寂しくなるものなんだろう。どれくらいが限度なんだろう。想像してみる…十日くらい?二週間かな。状況によっては一ヶ月くらいかな
生きてることが有り難いと思えて、且つ、死ぬこともそんなに怖くなくなって、自分や他人に優しくなれて、幸せが自分で作れる…そういう教えであれば、それが何教でも何宗でも私は好き。これがファイナルアンサーかはわからないけど
折り畳み傘を畳むとき、柄を上にして布を時計回りに畳んでしまうと面ファスナーが逆だったことに気づいて、また反時計回りに畳んでいくときちんと留められる。ていうのを毎回繰り返してしまうんだ
家族に優しくできないみっともない自分を見ていた。誰かに向かって優しくできないとき、鏡のように自分自身に優しくできてない。でもいまは、人間っていいなあ好きなひとたちいてよかったなあと思ってる私が発掘されてる
それでいまになって、あーあ、まともに恋愛したことないの寂しいなあなんて思うけど、人生で経験できずに死んでくこと他にもいろいろあるのに、たとえばオーロラ見るとか深海に潜るとかテレビに出て歌うとか。それは諦めがつくのになんでこれだけそんな特別扱いなんだろ
恋愛とは何か、に到ってはこれもう私の場合、世間で言われるそういうのやってないから語れない。体なんていらないなあという恋慕の感情を一方的に持っていた歴史しかないの
友達とは何か。ってことを考えるのが面倒なので考える習慣がない。何ヵ月も何年も会わなくても、そのひとのこと好きだったりすると私からすれば友達だがしかし相手からすると違うんだろうけど別にいいや…
とにかく痛い思いはしたくない、させたくない。/割り箸の刺を指にさしただけであんなに痛いのによく切ったり撃ったりできるよ本当に。
宇宙人が攻めてきたりしませんように。って時々思ってみるたびに何のためになぜ宇宙がどうやっていつからあるのかわかんなくてもうたまらない
善いことを成したい、愛したい、そんな気持ちが人類からなくなるようなことがあればいっそ滅んだらいいと思う。けど、自分の手の届く範囲の愛や善を守りたいために、その外側の人々を傷つけたり消そうとしたりする人間のかなしさ悲しい
家同士が戦争してる世の中にうまれちゃったら、私一人ならもう、成されるがままになるやも。でも子供を守りたいから、逃げ切れなければ戦うんだろう私も…
ひとつの悩みがボーンってのしかかってるとき、これさえ解決すれば、心が解放されてどんどん興味も外に向かい、受け入れられるキャパも拡がり、やる気のなかったあれもこれもと芋づる式にやる気になる。…という日が、きっと来る気がしてる
桃、切ってお皿に並べる途中で我慢できなくなってまな板からも食べてしまうもののひとつ。
ネットで討論、まず相手の過去ログ全部読んでから時系列把握してから考え方や感覚の違いを自覚してからそのうえで受け入れるってことを、忙しい日々の隙間時間のなかでタイミング逃さずやってのける人とか、いたら偉い
ネットの嫌がらせで何がいやかって、顔出してては言わないような酷い言葉を投げ捨ててったり、成り済ましたり、パクツイしたり、デマ撒いたりを、匿名をいいことにやってる人々がいるということ
何をきっかけに、自分がそれをどうとらえたか、そしてその根拠は調べたら真ではなく偽ではなかったのか、精査してからでないと、嫌いと言いたくない/嫌いと思ってたひとが私の誤解だった場合、あとから訂正しようにもその言葉はネットで多数の人々の目に触れてしまっているから
何もかも面倒になってしまった日のお薦め遊び 今、自分が見ている色かたちと、触っている香、音、味、全部が1000年の時間差でどこの誰とも分からない異次元の自分に中継送信されてその脳内の奥深くに降り注いでいるのだと、想像すること。
あの子の希望の星がひとつついえて振り出しに戻り、でも泣いたりしてなかった。泣きたいのに泣いてないのかと思ったら、話してみると案外というか思ったより「まあ、なるようになるだろー」的なことを言ってて、見てるこちらとしてはそれもまた安心だか不安だかわからなくて(2014夏)
自分で呟いた言葉で自分の情緒が振り動かされる。変なの。
こんなに心臓とか血液とか脳とか凄く絶妙ハイスペック命の仕組みで動いてくれてるのに、考えてることと言えばあんなことやこんなことだよね、と
十割わかり合えたり歩み寄りきることを即時は叶えられなくても、とりあえず六割七割を目指して、残りは自然に埋まっていくのを自分や他者に対して待つ、そんな変化が自分にも他者にもきっとあると期待するこのごろ。
世代や身分や性別で、あ、この年頃ならこの程度のことしか考えてないだろう、などと決めつけることはできないよ
精一杯、善かれと思ってやった人を責めるな!という人が責めている対象の人もまた、善かれとおもって精一杯やってると思うんですよ。
アナと雪の女王のエルサにあんなに引きこもらせのは親の対応が行き過ぎだったと思うけど、親も親で、子供の幸せのために善かれと思ってたんだろうし、それを考えると、なんかつらい。他人に出逢うことで呪縛から救われて良かった。あれアナがグッジョブだった。
信者と言いたくなるようなほどにファンを集められるひとが、どうしてそういう魅力を放っているのか、それを考えてみてごらんと言いたい
人との関係のなかでの自分のことをあれこれ考える時間、たいてい疲れるばかりで
昔から、人の行動の意味をいちいち考えすぎてしまう。そして、私が不快感をあたえてしまっているおそれや迷惑をかけてしまっているおそれを心配しては悶々とする。そういう時間は楽しくない
有り難いことや楽しいことが七割あっても、心のなかが残り三割の寂しいことで全割埋め尽くされるの我ながらばかみたい
私の人生の後半では冷蔵庫の中身を見つめる夢を見てる回数が尋常でなく沢山あるし、たいていは、どうしてこれしか食材がないのかと煩悶するストーリー
私が逝ったら骨よりも何よりも、私が誰や何を好きだったかの記録を保ってもらうほうが嬉しいな
年寄りの記憶の引出しの取っ手が、夏は来ぬという唱歌だった。終戦直後の思い出を語り出して、おおお、って思った。歌、あなどれない
同じ家に生まれても何番目で生まれてくるか、その時の親の経験値とか精神状態とか色々で、兄弟姉妹はそこから受ける影響も変わってくるなあと思いながら長女です
ディズニーのミュージカル映画の劇中歌が、日本語版や各国版でどんなふうに訳され歌われているのか、そこにすごく興味があるとウチの男子は言うのだった。そこは、私にちょっと似たのかな
顔やなまえが知られている人がネットで思いを発信することの苦労を想像してる。家族や仕事で関わる人達を守りながら意見を言うのってとても大変だろうと想像してる
後悔しないように全力を出し切ったと言って晴れやかな表情の家族を見てると、それだからこそ結果が思うようにいかなかったときの、じゃあ次回これ以上どうすればいいんだろうっていう手詰まり感?に襲われないかと、それを考えたときにとても心重くなってきている。
万全のコンディションであの子は行ったので結果がどうであれ悔いはないと思われる。それにしても、これ、毎回言ってるけど、行ってきますのあの笑顔、あれこそ人事の担当の人達に送って見せたい…。笑顔枠の特別採用とか設けてほしいね。
好きなひとが、好きなひとのままで幸せになれますように。
面接に臨むときは、その応募先に恋したつもりで行けばいいと思うんだが…。ストーカー的な?御社のことならどんなことでも気になる、どんな御社も見ている、自分こそが御社を幸せにできる、御社と一緒に幸せになる、なりましょう!むしろ私こそが御社です!みたいな?
眠る薬を注射されることによる眠りが、どれほど強力なものかを知る体験ができてそれはそれなり楽しかった(胃カメラ検査)
そういえば、三食きちんと食べさせようとする気迫が息子に伝わりすぎてしまって、ご飯だよーって呼ぶと逆に逃げられちゃった日々もあったなあ。あの頃は、焼きそば数本でも食べてくれたら万々歳だった…(涙)
どこにも繋がっていない、なにとも関係のない、切り離されたことなんて、きっと存在しないんだと思う。
瞬間移動が可能になるとして、それって身体や脳の組成から体質から記憶から経験から全て現地で組み立て再現コピーを出現させることが可能ってことなら、好きなひとのコピーも嫌いなひとのコピーも有り得る時代なら、怖いと思った。
…たとえばもうどうしようもなくなったら、消えたつもりで失踪して逃げて逃げまくりなさいよ、でもその前に私に連絡を頂戴ね、楽に逝ける薬をあげるからね。みたいなことを子供に言ったことがあるけどあのとき何を思ってそんな話をしたんだったか思い出せないなど。
家族が起きる前、PCに向かってこんなことを入力してる時間がとてもとても自分だっていう気がする。だけど何年も片づけをサボっている家の中のあの箇所やその辺りのことを思い出すとうんざりする。毎日せっせと欠かさない家事はあるのに、あの辺やその件は先延ばしにしてて自分は何なんだと。
今まで経過してきたどの時も、どの日のどの事象も、それがなかったら今のこの今じゃないことを考えると、それを思うだけで、今日これから見たり聞いたりすることの重みっていうか、どうでもよくなさを感じる。
たとえば十年ほど遅く生まれていま幼児育てまっさかりで汗だくな自分だったらきっとあのころの私は、ネットで目を向ける方向が今とは違うだろうし発するものも違うだろうし、言葉の受け取り方も受け取られ方もまた違っていただろうと思う
宮沢賢治よだかの星っていえば私が小学生の時に、これでもかと胸を締め付けられた何とも悲しいけどかっこいいお話ではないか…
友達、ってどういうことかはわからないけど、少しでも縁があると友達だと思えてしまう。でも必ずしも一緒に行動しなくても平気だったっていうか、私はきっと単独行動するもの同志でどこか気が合えば幸せだと思い、今日もあの子は幸せかな、落ち込んでるのかな、元気かな、とか気になりつつ見てた
近々、胃カメラ飲むんだ。怖いような。だけど二周くらい回って楽しみになってきたよ、だって体があるからできる妙な体験だもの。(2014)
生きる目標みたいなものは思い付かない。ただ、楽しみなイベントや、見たいものや読みたいもの。好きなひと。味わいたいこと。そのためにはもう少し生きていたい。ただそれだけ。自分が長生きすることにはもうあまり意味も価値も感じてはないけど、好きを好きでいる幸せを覚えていたい
少しの間だけ、生きるのをお休みできるシステムとか欲しい。夏休み的な
つらい、もう疲れちゃった、泣きたい、何もできる気がしないししたくない、これを訴えたらたちどころに何とかしてくれる万能な、親のような存在がほしい。親はいる。尊敬してるし大好きだよ。でもだから心配かけたくない。(2014.8)
私の人生ああだったなとか、こうだったなとか、良かったとか、あとで思い出すってこと死んだあとできるのできないの?できないならなぜ?できるならそれもなぜ?/なぜ?とか思うのは、ヒトだけ?そうならそれもなぜ?
頭痛がなかったときの自分に、頭痛がないって素敵なことだよ!って言ってやりたいものです。
(「残酷人生論」)存在を存在と認める、それ自身がそれ自身のままで幸福と感じられる魂、で居たい。/私、自分、はどの時点から自分になって、(胎児の頃から?)、どの時点まで私でいられて自分でいられるのかなあってことが未知なので、知らなくても生きていけるけど、知ってみたくもあるので
好きな人達や好きなものと一緒にどっか高いところにとんでいって融けてまざって消えてずっと一緒にいたいんだ。それであとでゆっくりそれこそご飯を一緒に食べたりしてもみたい。
好きなひとには、また生まれて欲しいって思っちゃう
お気に入りのDVDの中のたかだか三分くらいのシーンを、スロー再生や、視点を変えてのリピートで20分以上かけて視聴するペースで噛み締めあじわったりして、頭がどうにかなりそうなのでいったん忘れてみた。
宇宙のこと想像しようとするといっつも地面のなかの蝉を思い出す。蝉にとって、生きてる間に到達できない地球の裏側のことなんて、無いのも同然なように、私にとって地球の軌道外のことや宇宙の外の宇宙のことは、無いって思ってて構わない。のに、気になるの不思議
なんだろう、なんか気を抜くとすぐ、自分は日本人なのに地球とか銀河とかに生まれたとか思っちゃう。実際は日本の気候に教育に文化に染まるだけ染まってて日本なしでは今の私ではないのに
子供が乳児の頃を急に思い出してた。泣き止まないのを聞いてると気持ちがつらくて、泣き止むようにしたいと思った、それはかわいいから。かわいそうだから。でも、泣き止まなくても今はいいんだ、と思ったほうがうまくいくことも多かった
生きてることや死ぬことについて、これはどういうことかを考えてても考えてなくても、怖がっても覚悟を決めても、いつか死んでしまうんだけど、考えることを味わうことは、この身体があるお蔭だし言葉の教育を受けられたお蔭なので、せっかくだからそれを味わいたい。いつか消えるとしても
いま考えてるこの私って何?そういうの考えるの楽しい。いま楽しいと思ってると思ってる私って何?私とかが何に生かされたり終わらされたりするの?を信じることとは別に、考えるの楽しい。「残酷人生論」は読んでて面白い。「魂は、認識する宇宙の容器」(2014
思ってる心って触れない。脳があるから思えるけど、心って「サッカーの試合」みたい。サッカーボールそのものじゃないし、選手でもなくて、「サッカーの試合」っていうもの
子供の頃から今にかけて、何かに対する好き嫌いとか認識が相当変わったものが多々ある。180度変わったものもある。歴史認識とか、アイドルへの偏見とか、添加物への恐れとか、こういう人は好きだ嫌いだとか、諸々の
互いの実家の影響力が強かった、ていうか、お互いに自分の実家の身内のことを怒らせてはいけないように育った夫婦だから、その方面の影響が弱まってくれてやっと何となく、穏やかに接する余裕ができたような気がする。
なんで、人の困りごとや弱いところを嘲笑したり、見て面白がったりする人間が、いるんだろう。ていうか、そんな感情がこの世にあるんだろう/私にはそんな残酷な気持ちなんてない、って思ったけど、もしかしたらあるのか、清濁なんでもかんでもあるかもね、大嫌いな人に対してはあるかもね。
すれ違う人達がみんな昔の同級生か知り合いに似てるように見えて、名前も思い出せないけど小学校か中学校かいつだかわかんないけど会ったことのあるひとに見えてた。私以外の人々は案外少ない人数の役者さんで全ての人類を演じてるエキストラってことはないだろうに。
好きな人達のことを思えるようにずっとどこからも戦争の危機をふっかけられないように、戸締りと見張りをしっかりしておくことには賛成だけど自衛の解釈わかりにくい
リアルで出逢う、すれ違うたくさんの人達、各々それぞれの人に、こちらからは見えない心があるんだなあって、ついった読んでると思い出す
私と彼女とでは、考え方を形成するために読んでいる情報の元情報がまるで違うから、そこから出てきた意見もまるで噛み合うはずもなかった。(2011)
もっともっと淡々としていたいな…
でも私はみんな一緒のところに、愛に還っていくって思っていたいので思っている。
なにがどうしんどくて不安なのかうまく言えなかったけども、あのね、今日の良かったこと/ウチのダメだけどかわいいあの子、ダメダメっぽいけど、ああいう手詰まりな状況でも私に笑顔を見せているのでそれがねもうほんとに笑窪がね、可愛らしくて私は見習いたいけど足元にも及ばない件(2014.7)
書類を少しだけ片付けながら考えたけど、やっぱり私が想像するようなタイムマシンは無理だわ。実現しないと思う。過去の記録、写真にしても文章にしても、見てる間に変わったものとか無いもん。未来から誰もこれを操作しに来ていないってことだもん。それと、未来にはまだ誰もなにも居ない気がする
下を向いてすまほを見てたら眼鏡がずり下がってくるので下がるのに任せてみたら、鼻も通りすぎ唇も通過し、手を使わずどこまで行くのか試した結果、つるを耳にかけたままレンズ部分を顎下のラインまで降ろすことに成功したので
そして私が中学時代に親に投げたふざけた発言のこととか。ごめん、ホント大丈夫だよと、当時の父や母に言いに行けたら、言いたい。今頃言ったら「そんなことあった?忘れたよ」と笑われたし。
雨が降ってアスファルトに当たるとぴかぴかポチポチするの、あれ星が転写されてるのだと子供の頃に作った話が我ながら好きで。
きっと、周囲が敵ばかりいるように思えて、子供の評価イコール自分の価値、って気持ちになっちゃったんだろうか。あの人、この人。私の中にもそこに転ぶ要素が潜んでいるかもしれない。自戒したい
私が接してきたあの人この人、子供の為だ子供の為だって言いつつ子供を使って、立派な自分を演出しようとしたり、必要とされる自分を作り上げようとしたり、してた気がする
はやく落ち着きたい。自分からも家族からも、どこをどう押しても何の悩みも不安も出てこないっていう状態に早くなりたい。
押入れに積まれた布団と布団の間って、号泣するのに最適な場所だった。でも近年、私はそこを必要としなくなった。これは、幸せになったと考えていいのかも
この十数年間、私の日記やら写真やら大事なメールやらあらゆる心の財産が、Webサービスの個人ボックスに預かられてる。パソコンには保存してないし、印刷しないかぎり物理的に出土したりしない。私がパスワードを誰にも遺言しなければ永遠に誰の目にも触れず眠り続けるメモリー
あの夫婦の、子どもの内面に関心無さすぎ度合いが凄まじいし、家庭教師が世の残酷さを教えるやりかたがこれも凄まじかった(『家族ゲーム』)
日本語ってやっぱりいいなあ。特に、ひらがな。
あの子にとっていつしか我々親は、全部をさらけ出す対象じゃなくて、自分の見せたいところ・見られてもいいところを選択して見せる対象の人間になっていった。それが成長というものなんだ、わかってる。それを寂しいと思いながらその一方で嬉しく思う、嘘じゃない。
よその人の神様の思いかたでいちいち殺し合ったりしないようになればだいぶ安心して暮らせるのになー。
プレゼンテーションとかで緊張してるひとを見ると、むしろ少し緊張してるくらいのほうが何だかチャーミングで好きな感じがする。淀みなく話されるよりちょっと噛むくらいのほうが何だか頑張れ頑張れって思って聴くから印象にのこったりするですよ。
あんなにインダストリアのことを悪のように描いてるけど、それを観ていた中学生の私も現代文明やだやだと思ったけど、いま大人になってから観ると、いやそれもこれも、技術だってプラスチックだって立派に命を支えてくれる有り難いものじゃん、って弁えつつ鑑賞できる(未来少年コナン)
縁。ってことを思うたびにこの言葉にこもったいろいろなことを思うたびに、何の涙かわからないものが目のなかに溜まってくる
なんとなくのイメージで怖がってるんだとわかる。化学物質とか。文明とか。あんまりなんにも考えてないんだと思う。技術とか科学とかの恩恵を受けてる部分には知らないふりして電気音楽作って聴いて流していてもイメージ宗教のなかで文明の外の夢見ていられる
フォローさん、同年代安心するし歳上のかた憧れてるし、でも年下のかたが割と多い、年齢関係なく素敵なひとがたくさんいる、我が子くらいのフォローさんは私に、喉元過ぎると忘れてしまったようないろいろなことを思い出させてくれたりする
ていうか分娩時のたかだか十数時間の痛みの強弱が、子を思う気持ちを左右するわけないし、自分で産んだかどうかも愛情とは直接関係ない。産みの親より育ての親って言うんだから。(無痛分娩の話)
本当に頭の良いひとや本当に誠実なひとの持っているすごい何かが、何百年も後々まで伝わればいいのに。
気になっていた箇所の掃除を半分だけ済ませたら生きる希望が湧いた。またあとで続きを
以前は悩んでいたことでいま解決してること、以前は痛かった箇所でいまは治ってるところ、たくさん数え上げて嬉しくなってきたから七夕ぐっじょぶ。(2014.7)
初対面のときでもそうだけど、このひとは他人に厳しそうなひとだなあって感じると、もう極力関わりたくないと思っちゃう。いつ私も批判の対象にされてしまうかと恐れてしまう
子供の配偶者にあれこれ口出す人って、何目的なのかさっぱりわからない。子供を悩ませてまで何をしたいのかわからないな。
そう、よく知らない人達だってもしかしたら心とか世界とかいろいろなこと思ってるのをただ黙ってるだけでもともとは同じところから来たんだし!(ひとなかに出るイベント億劫)
超脱した心を持ったまま人間生活してるひとって何食べて暮らしてるんだろう
何がこんなに億劫なんだろう。よく知らないひとと接することがか。でもそのよく知らない人達だってもしかしたら私みたいに朝起きて夢見のことをぼんやり思ったりあの世この世のことを時に想像したりしてるのをいちいち口に出さないだけかもしれない
子供に何回も言い過ぎて覚えられてるのであれだけど、私が惚けたりしたら一日中あの嵐さんのコンテンツを視聴させてくれてればおとなしく楽しく過ごすからその間に自分のことをやってて。っていう約束
からだの中で痛いところ苦しいところが発生したときっていつもより何割も増しで体のことを意識してしまうよね。/いま私が特に意識してない体のそこここ、たくさんある。ありがと
歳を取って社交の場に出られなくなっても惚けてもなるべくかわいい服を着せてもらうとそういう気分になるもんだろうなあと
たとえどこに行く日であってもなくても、きちんと服を着ていると、着たなりの気分になってくる。明るい色の服ならそういう気分になるし、襟のついた服なら考えることもそういう襟付きっぽくなる。
世界でどの国も一斉に安心して武器を捨てられる仕組みとか、まだないのね。行き届くような公正な法律とか警察とかがないから
お隣の人が武器をもってウチの敷地に攻めてくる、とか思わなくて済むのは、ウチと同じようにお隣さんも怖い武器とか持ってないことが法律で保証されてるのと、何かおかしなことが起きたら公正に警察がなんとかしてくれると思うし、法律でなんとかしてくれると思うから、安心して居られる
おばあちゃんシッター。あと何年こういう感じなのかわからないけど。見聞きした内容をすぐ忘れてくれちゃうから、同じ話を何回でも新鮮な気持ちで聴いてくれるの、ある意味、助かるっちゃ助かる
愛って…。ていうか、愛の仕業だな、と思うことばかり。生きてることとか。痛いところが治ることとか。生まれることとか。生まれるのを見たりとか。育ったりとか。育つのを見られたこととか。人間が居るのも居られるのも何かするのもできるのも、愛だなって気がする。死ぬのも死ねるのも愛かも
居ること、ゆるされたりゆるしたり、しあわせ/居てもいい、って感じると普段の百倍何かできそう。
恋なんて自分がすることにはもう興味はないけど(できる立場でもないし)、その分、ラブストーリーを観るのは大好きなの。ひとを思って思いを秘めたり抑え込んだり、好きなひとのために弱くなったり強くなったり優しくなったりしてる様子を観るのが、ただただ好きでとにかく観たい。
棚からぼた餅のぼた餅は何故おはぎじゃないのかな、もしかしたらぼた餅のほうが落ちてくる擬態語を連想しやすいからかも。
以前おしえてもらった、ホットチョコレートラム酒と黒胡椒というのが美味しかった記憶を、たよりにしつつ、カフェオレに本味醂少々と胡椒を入れて飲んでみました。美味しかったです。食べ物に関して私はストライクゾーンが広いので皆様にお勧めかはわからないけど
そのうえ最初は字幕無しで観てから次に字幕で観て…とかやってるから一本の作品で何ヵ月も何年でも楽しめる一方、どうしても狭く深くになってしまうから、一生に味わえる本数は少なくなるの。
そしてドラマのなかの全ての登場人物に、このドラマ、自分達の歴史、最初から最終回まで見せてやる神になる妄想をする。ほら、実はこうだったよって。あれは誤解だったんだよ、とかわからせてあげたい。
ドラマって言えば私、気に入ると何回もスローとか停止とかで、ほらこの時のこのひとの目にいま涙がこれくらいたまってる、それを見てこのひとがこういうタイミングであんなことこんな顔でまばたき何回したとか、すっごく堪能するから買っても元を優に取れる
彼女は学校の放課後、ちょっとだけともだちとあんみつたべたりおしゃべりしたりする暇も与えられなくって帰りが少しでも遅れると打たれたし溺死させられそうになったりして、もう良い歳なのに逃げたり反抗したりできなかったことを考えるとマインドコントロール凄い
喉元過ぎると忘れちゃうことだけど、子供らが同時に眠っている時間は至福だし、独りの時間に飢えているときに得られたその時間に夫の相手なんてしようと思わなかったなあ。って我ながらなんだか哀しいけども。
憧れの芸能人が結婚して幸せになるならしてほしいし、独身を望むならそれもよく、いずれでも幸せな人生を送ってほしいと思いつつ。一度は結婚したらいいとも思う。その人生イベントが芸風とかお仕事に何かしらの新鮮な風を送り込んでくれないかなあ、などと期待してしまったりして…私、我ながら勝手
理解を超えてるすごい人たちが実在するの面白い。/すっごい人間を知るたびに、ヒトでよかったー!また来世もヒトで宜しく!とも思うし
脳みそしゃかしゃかさせて貰えるついーとを遡って拝読する時間、幸せ。
ちょっと幼少の頃を思い出すたびに由紀さおりの歌が流れそのあと何の関連もないのに短調だという共通点だけで人生が二度あればを思い出したくないのに思い出すの我ながら気に入らない。いつどこで何をきっかけにこの脳につくられた手順だかもわからなき
意地悪な人や、嫌いな人、のことで煩わされてる時間は、もうない。勿体ない。その分、もっとやりたいことや考えたいことがある。
家族へのマネージャ業はこれといって目に見えるような成果も評価も報酬もない。心身を支えてるっていう意気込みのようなものもこれといってない。けど見えない涙と幸せがあるのを知る人ぞ知る
実家で母が擂り鉢の中で山芋ペーストと出し汁と卵をどんどん融合させていくのを夢見るような気持ちで見ていたあの感じ、もう私の胸にしかないんだね…私が逝ったら、消えてしまうのだよね
塔の上のラプンツェルみたいに、親とか支配者に自分の自己イメージを曲げられていた人がそれを打ち破って新しく自分や世界を見出だす、っていう話が私は好きなんだと思う。ディズニー版のノートルダムの鐘も、そういうところが好きで
人類全部をところどころ愛してるし嫌いなところもあるけど個人的にはヒトで良かった。歳とると同じことばかり呟いてしまう。ついったがあって良かった
この世の中に私が本当に全ての本音を吐き出せる場所があるとして、吐き出したいかどうか、吐き出す意味があるかどうか、わからない
「あなたの肉体に生命を吹き込んでいる存在と、ほかのすべての肉体に生命を吹きこんでいる存在は、同じもの」(「ポケットの中のダイヤモンド」)いつか肉体が終わるしそれがどんなに酷くてもそこから逃げられないってことを認め全部受け入れられたら自由。特別でもない私も誰かの鏡で、この配役GJ
男のひとのどこが好きかって、突然の裏声とか、手の甲とか、あるよたくさんある!!男の人も好きだし女の人も大好き。ヒトの動きを観るのが好き
反面教師っていって思い浮かぶ人物のほぼ半数以上が血の繋がった人々だから学習環境に恵まれてた私…。丈夫な胃腸さえあれば消化して栄養にしてしまえたけど、私には優しいお粥のほうが有り難かった。んー、でも…あの人々も私を確かに構成してる。彼ら彼女らにそんなつもりなかっただろうけど。
それも今現在起こっていることではないし、あのときの彼も彼女も今の彼でも彼女でもないから、これを私が覚えているのは自分の手の中の問題だからまるで録画した番組みたいに扱えるようになった気がする。/こんな日が来るんだよ。って昔に向かってメールでも送れたら面白いのに。
ピーマンといえばこないだの死神くんのあの子、命にかえてもピーマン嫌いを克服してお父さんお母さんに褒められたかったなんて、親にしてみればピーマン食べられるかなんて些細なのに、ああだから子供って本当にかわいそう(ネタバレごめん)(2014)
あと、人の潔癖度合いのことを考えてた。大皿から直箸で取ることに抵抗のある人と無い人がいる意味。私は抵抗のない人間だし、初対面のひとの食べかけでもその状況によっては食べられるけど。など
ご飯食べながら考え事の続きしてた。そっか、陣痛は痛いけど苦しみではないかも。とか
いま流行っているものも、誰かの青春の思い出になってくのかなあ。
明らかな悪意やデマに対する批判はこの限りではないけど、リアルでもネットでも、ひとの弱さとか未熟さを批判する言葉は見たくない。自分はどうなのと言いたくなる。私のことを言われた訳じゃなくても体が震えてくる。これは私自身のちょっとしたトラウマなんだと思う。
「ポケットの中のダイヤモンド」読書の続。全てが一。つらかった私と、幸せだった私と、どこが違う、あの時のあの人とどこが違う、実は同じ?被害者でいる快にしがみついてしまいがち。愛から隔絶しているという錯覚を取り去りたい。「苦しむのも、苦しむのを止めるのも、あなたの自由」ていう。
これが答えだっ、っていうのがなかなかない。全員一致で何かが決まりそうになると反対意見を述べたくなっちゃうのにリアルに対面すると気後れしちゃう私なぜか。なんでもが諸刃だから中道がいいのかな。
父が少し鈍いおかげで繊細な母となんだかんだうまくいってたと思う。
読んで面白い文章(必ずしもお笑いジャンルではなくても面白くて読みたくなる文章って)に出会えた時ホントに「ヒトでよかった!」/ってなるのしあわせ。
ちょっと聞こえるか聞こえないかの会話が活字になっているのを目で観ると、なんというか、その平仮名や句読点までいとおしく愛でたくなってくることとか。耳でも目でも味わう。まず字幕無しで観てから次に字幕付きで再度観てからまた字幕無しで観るエンドレスの楽しみ
急に、なんでもかんでもいとおしく思えて往来でわああって叫びたくなることってない?わけもなくわああって泣けたら超すっきりすると思う
いまここに在る、自分のポケットに既に宝物があること、を実感するのにどれほどいろんな道を辿ってる。私は誰かと違うのに実は誰の中にも私はいたかもしれなくて、ところがこの本をきちんと読みきるには私の読む力が不足してると痛感。ボケないうちに記憶にとどめたい(ポケットの中のダイヤモンド)
ガンガジの「ポケットのなかのダイヤモンド」をあまりにも時間をかけて真ん中ら辺まで読んでお休みしてたのでまた最初から読み始め。「私たちは誰もがみな、ただ一つの本質的な意識のある側面、あるいは一つの表象」って文で想像が世界を駆け巡って茫然として小一時間経つ。(2014.6)
私の諸々の心配をよそに、ケータイで積雪の写真をたくさん喜んで撮ってきた息子。社員質問会のことより「ほらみてこれ、すごいっしょ!この一面の雪さあ!」とか言って見せる。まあ、そういうところがかわいいんだけども。(2014冬
まあでも別の身体を持ち、透視できない心を持ち寄って暮らす以上、いつも平和ってわけにも行かないね。軽く修行は続く
非難されそうな(たいてい被害妄想)時に先んじて攻撃するという常に武装する人々、が居たから気が抜けなかった。
やっとの思いで言葉にできることなど僅かだけど、言葉に触れると確かに心が変わる
ご飯の支度をしたあと、私の代わりにコピーが家族のところに行ってご飯ですよを叫んでくればいいとおもったけど、そしたら家族が自身のコピーを寄越してご飯を食べるんだろうからあんまり意味ない
種明かしされないまま長生き!
似てるけど同じじゃないけど似てるかもしれない。私はひとり、誰とも違うだけどどこか似てるかもしれない
このごろ、さみしいとき、ああ、この寂しさはもしかしたらいつかの誰かのさみしさと少しは似てるかもしれない、ってまず思う/しんどいとき、不安なとき、ああこれもいつかの誰かの気持ちと似てるのかもしれないってひとつひとつ思う
どこまで自分と同じでどこまで自分とは違うのか分からないから不安だけど面白い。
外を歩くことは恐ろしいと思う一方で、でももしかしたら今日、出先ですれ違うだけのひとたちも、寝てる間に夢を見たり、泣いたり、ついったみたいなところで自分の気持ちを書いたり、してるんだろう、それぞれ。と思うとヒトでよかったとも思う。
ウチの子も、大人になってきちゃったから、怖い夢を見たくらいじゃ親を起こさなくなってしまったに違いない。(などと思って涙が出る。忙しい毎日だけど、どこかで伝えたい。大切な存在だと。いてくれて嬉しいと。)
転んでみないと起きかたが分からないって言葉が急に後ろで鳴り響いたから息子をなるべく優しく起こしてくるね。全ては経験値。
だから永遠に死にたくない/あ、でもあとで逢えるんだっけ。待ち合わせ詳細
嫌いな人に嫌われたっていいんだと思うことのできる子と、そうはなかなか思えない子と、どこでその分岐点があったのかと
やっぱり、妬みって自分も誰も幸せにしないなあ。それを外せたひとは幸せだなあ。(ドラマ録画を見終わって)
まだ帰宅してない子がいるときの大雨の音ほど泣きたくなるものはないよ、やだよ
身体が息をしている限り、気力はいつかきっと湧いてくると思う。
自分が浮気性だからといって「男は誰でも必ず浮気する」とか言ってる人、ものを知らなすぎて笑えてくる。
乗り過ごして反対方向に乗り直した電車でまた目的地到着に気付かず乗り過ごしそう。振り子のようにいつか止まるかな
互いに思い合う家族の間でさえこんなに人間関係は難しい。それはひとつの事象に対する解釈というか、気にする気にしないの基準がまちまちで、まちまちが存在してることをわからないから。いわんや他人をや。
どうしようかなあって思ったときはやってみるのがいいよね…。/生きていると楽しいことがあるなあということを覚えていたい。
いやあ、つまり、なまじ好きな人とか作って結婚したくなっても、親戚に反対されたり反対されないまでもいざこざに巻き込んだりして板挟み苦労をするよりは、って思ったの(当時)
さけるチーズはもっと長さを長くしてほしい。裂いたときに素麺みたいで綺麗だから。風になびかせてうっとりしたい
戸外が暑いからなんとなく冷たいものが欲しくてお店に入ると涼しいもんだから、温かいものを注文してしまう。冬は冬でやはり温かいものを頼んでしまう。結局、いつも温かいものを飲んでしまう
山元加津子さんの「ゆうきくんの海」意志を伝えることが難しい子の心を分かることがとても難しいけれどここにある幸せも。詩を書く大ちゃんの、「僕だってそこに”ある”/"ある"ものは大切」という詩、素晴らしい。「ある」ものの大切さって簡単にわからないけどわかりたい。
相手の時間を自分に対して使わせる申し訳なさ、いつも感じるけど、たまにたまーに思い切って誘ってみることができるようになった。だけど私がご飯とかにお誘いするとしたら平気な顔して実はものすごい勇気を出してる
グリーンアスパラとトマトをマヨネーズと砂糖と味噌で炒めたら、チーズが入ってるっぽい味になったけどチーズは使わなかった。まあまあいける味だった
いろんなニュース、一日の始めに読むのと終わりに読むのとでは受け取る気分が違って違う記事のよう。
楽しいことに没頭してるときに自分で「こんなことやってて一体なんになるんだ」とか、人が何かに夢中になってるとき「そんなことやってなんになるんだ」とか、思ったり言ったりするのはつまらない。なんになるんだ言い出したらそれこそこの世自体、なんになるんだ。なんにもならないけどいいでしょ…。
心霊怖い系の話で思ったのは、もしそういうのが私の近くに知らず知らずいるなら、着替えとかお風呂とかおトイレとか覗かれちゃってるじゃん、プライバシーの侵害だからね、やめてよ見られないことを前提にしていることを見るなんてだめだめ、見ないで。ってこと
履歴書を書くにも面接で応答するにも筆記試験で論文書くにも、めちゃ苦労してる。でもあの子の日頃の振る舞いとか人柄を見てて、悪くないやつだと知っているだけに、口惜しい。お茶碗に米ひとつぶ残さず丁寧に食べるキャラ、誰が見抜いてくれるのか(2014)
何度も呟いてるけど左右で違うところを見つけるとハート鷲掴みにされる系なので。代用手段としてウィンクもまた好き。ほくろとかも。そしてちょっと開いた口から不揃いな歯など見えた日には一目惚れのおそれもある。(需要ない情報)などど思いつつ
控えめな目元とか小さい目が好きなのは、制約の強いほうが逆に燃える、みたいなことかと自分では思ってる
本当は、個人的な好みで言えば、奥二重とか一重瞼のほうが好き、露出少ないほうが惹かれる、ゆかしい。だから私のどっちかの目も、一重にならないかなあって試したけど無理みたい。左右で違えば一粒で二度おいしい、羨ましい
寿命がくるまでにそれを何回リピートして心に焼き付けて味わえるかなあって思って胸が苦しくなるけど、好きな気持ちのおかげで長生きできるんじゃないかな、とも思うから、いますぐ還るわけにいかないけど、どこかで合流しましょう(って空に向かって口に出さずに呟きます)
好きなアイドルとか俳優さんとかアーティストさんとかのお顔がファニーであればなおのこと魅力的だし変顔が素晴らしければ素敵だという話になって、誰々のほうが面白い顔だから好きだ、いやあの人のほうが、いーやあの人のあの顔が面白いもん!ていう会話盛り上がり
人には早く病院に行ってと言うのに自分は極力受診を先延ばしするのは、どういうわけだ私。きっとお医者に診てもらったら問題が顕在化してしまうと思ってるから我ながら愚か。
ガルバニー電流、アルミを噛まなくても、噛んだことを想像するだけで出てくる私は
昔のこと、未来のこと、いろいろ脳内に同居しながら、好きの気持ちだけいついつまでも残れと思いながら
今日の反省。夕食用意して待ってた私のことを分かってくれないと思い、険悪なことを言ってしまった。だけど私だって、疲れて帰ってきた家族に対する思いやりがなかった。険悪から、謝る気持ちになって謝れるまでに30分も要した。結局謝るならもっと早く謝ればよかった。(2014)
iPodからどんな曲が流れてようがシチューを煮込んでいる間、グレープバインステップまたは横前横ホップを左右交互に繰り返してたらすっごく汗かくし子供に生温かい目で見守られるしお薦め。
ところでそれにしてもなぜこんなに各々いろんな身体を着ていろんな顔して生まれてくるのか不思議。金太郎飴みたいに同じじゃなかった理由を考えてる。
それとも本当は家族に当たり散らしてみたいけど立場を考えて抑えているのかな、そうだとしたら切ない。そうだ、もしネガティブな言葉があの子の口から出ても、もっとゆるふわとろとろした反応をしてみよう
あの子、多分、あの子史上もっとも手探り混沌先が見えない時代を過ごしてるだろうけど、そんな状態なのに家族に当たり散らすでもなく、要所要所で笑顔を見せるの、よく考えたら何気に素晴らしいんじゃないだろか。これよ、こういうところを採用担当者は見抜けばいいんじゃないの?
読んだり観たりして良かったコンテンツについて子供らに、良かったよと吹き込むんだけど、彼も彼女もなんだか忙しくて余裕なくてなかなかすぐ読んだり観たりする状況心境になれないようだ。けど、それでも、作品名を耳に入れ居間のテーブルに置いておく。いつか余裕が出た頃にもしかしたら思い出すかも
世界史資料に描かれた昔の偉人の肖像画が今の感覚とあまりに違うこと、にツボって笑いをこらえるのに必死だったらしい。確かに授業中いきなり笑い出すわけにはいかなかったよね。…というような話をした。
幽体離脱して、この可笑しな皮をもっていくことなく、そばにいってぎゅーっぽんぽんしたいのにできないの!
(身内話だけど)大切なひと同志がそれぞれ思う、善かれ、が噛み合わなさそな気配が見えると、めっちゃ不安になったりする。だけどこの不安を、大切なひとびとに直に見せたくはないんだよね
快速急行の飛ぶような速さに、「江戸時代の町人が私の身体に憑依してこの電車に驚きながら乗っている」と想像する遊びを始める所存っ
着たい服を着るのがいいよね、人生は有限だもん。
子と喋ってて「いま、運動会の組体操が危険だっていう問題がね」って言ったら「棒倒しとか騎馬戦とか、もう運動会自体が全部危険だから。というか学校生活自体全て危険だ」という話になりまして
どうか、自分を嫌いにならずに自分の道をあの子が見つけられますように
家族全員が「明日の課題を気にせず夜更かしできる日」を迎えた瞬間に、乾杯したい。これが今年度の願望。だけど、就活生のもたらしてくれる思いの全てはファジーで、このことに比べたら進学受験の見守りなんて分かり易過ぎて笑ってしまう程(2014.5)
そうよ百歩進んでもトータルで九十九歩下がったとしてもその経験値とその一歩…これ、フォローさんからよくよく教わったことなんだ。でも見届けている間の「早く安定したい欲」
十歩進んで十歩下がる×十回=200経験値、みたいなのを毎月積んでるこの数ヵ月にあとあと意味が出てくると思ってなきゃやってられないよ
ファーストネームだけの世界になったら良いのにとか思っている私/男兄弟がいない私は結婚するとき相手の親から、苗字が変わってもいいのかどうか妙に念を押されたけど、当時、そういうことにとても無関心だったから家意識のずれにその先ずっと悩まされるなんて予測できてなかった。ホントめんどくさい
「相手をあきらめるという行為は相手をより深く理解するところから生まれるものであって、けっして冷淡なことではない」(桜井章一「勝つ人間の「見切る」技術」)腑に落ちる。凄く包容力を感じるのでした。
ネットでもリアルでも、あ、見てもらっている、気づいてもらっている、このことを知るとやっぱり自己肯定感が高まる。自分の中のいろんなスイッチがスムーズに入って頭の回転もちょっと良くなる感じ。だからやっぱり家族もそうなんだと思う。これを忘れずにいる所存。ありがとう。
見せたいところだけ見せている間柄、それをそんなに寂しいと思わない。見せたいところを見せてくれてどうも忝い有難いと思う。/けど、そうじゃない人のほうが多いだろうと推測する。
だから家族もきっと私に隠していることがあるだろう、波風立てたくないから黙っていることがあるかもしれない、だけどそれを本人が、そう悪いことだとは思っていないのならそれでいいとも思う。私がそうだから。
彼に本を贈るのは何年ぶりだろう。ある意味賭けである。それに暗に「だから私みたいな妻を諦めてね」と言おうとしていると思われたらあれかな・・・思われてもいいや。いますぐ響かなくてもいいや。その種がいつどんな形で芽を出して誰に還元されるかわかんなくてもいいや。(2014)
初めてフォローさせてもらったきっかけとか、フォローしてもらったときのことなど、思い出せたときになんだか不思議で自然と頬が緩んだりする。
難しいよ…相手を気遣いすぎて逆効果になったりするよ…歴史を共有しきれていない新しい家族との暮らしは、特に。愛があるだけでは答えが出ないことばかり。
同居してる子供夫婦に少しは彼らだけの時間をあげたいと思って夜は早めに自分達の部屋に引っ込むようにしていたら、自分が避けられているのではないかと実は気にされていた件。(伝聞)
諸々の思いをいつか子供らにも伝えようと思う。/何もかもが無駄にはならないこと、を。
何でもかんでもいつか終わりがくるのを知ってるから生きていけるなあ…
分かってる頭では。子は自分ではない。他者の人生を生きるのダメ。子に迷惑。だけど、私だけのための私の人生に殆んど興味なくなっちゃってる。
名前を知るともうそのひとのことが以前より存在感増し増し
美容室でいつも思うんだけど。この歳で、たとえば女優の誰々さんみたいなスタイルにしてくださいとか気恥ずかしいし。だからイメージしてる髪型を伝えるためのヘアスタイル用語集みたいなの壁に貼っといて欲しいや。
好き好き大好きの魔法のなかにあった話で、道に迷って泣いてた山元さんに公園の住人さんが優しくしてくれたので後日その住人さんにお礼状を郵送したら、公園に配達してもらえた、っていうの。あの縁の奇跡的な優しさびっくりした。
最終章の浩司くんのエピソードは親としてとても共感。悪いことをしちゃった子に向かい合う気持ち、かつての私のあのときの胸中と重ねた。これで決まってしまうなんてことは、ないんだ。いつでも新しく前を向けるんだ。って今も自分や家族にテレパシーを送っていこうと思ったです。
「好き好き大好きの魔法」読んでると、渡る世間に鬼は無しだなあって思って。もしかしたらこの人の魔法が、鬼も笑わせてしまうのかも。/普通、そんなうまくいく?って思ったけど、…気持ちが通じるってこと確かにこの世にあるんだと思う。私にも少しならいままでの経験に心当たりある
体をめいっぱい使ってるパフォーマンスって観ててめちゃめちゃ気持ちいい!/なにげにボンバルリーナかっこいいな…って思った。でもやっぱりランペルティーザかな。あーでもやっぱりグリザベラのあの最後の歌のとこ!(CATS)
意味さえわかれば頑張れると思ったり、意味のなさに癒されたりするの、不思議。脳や心のなか、同じ自分なのにランダムに別のところから開けてみると全然違うものが取り出せる。みんなもそうなのかな。そこが面倒くさい。そこが好き。
自分よりすごいひとがたくさん見つかる世の中のほうが面白い、って思えるほうが面白いと思った。
その時々で善かれと思うものを選んでも時代が変われば感動も変わってしまうの当然なんだけど、なんだか諸行無常ってしまった…。/いま、これイイネ!って思ってる自分の考え方、何十年かしたら、おばあちゃんそれ古いよとか言われちゃうのかい?って思うと私ゃ
昔の新聞小説だった「偽原始人」(井上ひさし著)を古本屋さんで買って読んだら、子供の頃にあんなにワクワクした、詰め込み教育への風刺ストーリー、いま読むと何か遺跡を眺めるような気分に。当時の私に、将来はゆとり教育を反省する世の中が来るなんて知るよしもない。
38度も熱あったときは休んで正解だったよ?むしろ休むことで、他のひとが同じ状況で休みやすい職場になったと思います。人助けです。
確かに、喜ばせたいって思う気持ちだけでもれなく幸せをもらっちゃったりするから、厳密には無償の愛じゃないなあって気がする/えーとつまり、自分が誰かを幸せにしたいって思えた時点で既にその誰かから幸せな気持ちをもれなくどうしても貰ってしまってる、ていう意味です
つまり、長生きしそうなバイタリティにもひかれるし、長生きできなさそうな、かよわさひよわさにもひかれる。
恋心に必ずしも生殖欲は伴わないけど、「このひと、生きてる!活きてる!」って思える人や、「このひと、生きて欲しい!活きて欲しい!」って思える面を垣間見たりすると、心がきゅっと掴まれてそれから何年も想い続けて幾年も想い続けるタイプ。
おでんの具は大根がもっとも好き。おでんの全ては大根を美味しく食べるためにある
おかねなくてもボクにまかせて!あのねおかねね、なくてもね、ボクがやるから!…どうやるんだろう。あとをついていって聞いていたかったが…。
ベビーカーを押す若いママさんの側について荷物をひとつ手伝って持って歩いてるちっちゃい男の子が喋ってるの聞こえててかわいかった。もし!ママとパパがおかねもってなかったらボクがいいものもらってきてあげるからだいじょうぶなの!
学校で担任の先生と個人面談受けてきた子が、ずっと喋っていたいくらいに楽しかったと言ってた。そんな先生と会えて良かった。(2014)
そういえばテレビで観たことある、十年以上ジャムサンドイッチしか食べずに元気で生きてる人の話を思い出してた。何がその人に合うかわからない。
家族が抱えている課題懸案がなんだか足踏み状態のような、何も進んでないように見えるような、でもこれも経験値蓄積の大切な経過なんだろうね…そうだそうだよ
欠点を長所と見ることができるひとって素敵よね…いいわあ。
あの子、一番忘れてそうだったのに何かデザートを買ってきてくれた。それはうれしい。だけど一番のプレゼントは、私がいなくても生きていけるようになってくれることなんだけどね。まあ、もうホントはそうなってるんだと思うけど。
何かね…私たち個々の命、細胞とか、全部が大きなひとつの命に必要とされて存在してる、っていう考えに浸っていると、そんな気が遠くなることをこの脳内に思い浮かべられる幸せと不思議に本当に時空を超えた気分になる。愛に向かってるっていうか。(魔法の国 エルガンダの秘密)
フォローさんが小さいお子さんの乳歯の下に待ち構えてる永久歯の可愛さについて語ってたのを見ておもったけども。私の歯フェチは第一子の最初の歯の生えたのをみてから目覚めたと思う。
楽しみなことがあると食欲を忘れるという性格なので独り暮らししたらいつの間にか絶食してしまうかも。但しチョコレート、君は別だー。
人を幸せにするっていっても、何をしてあげるっていうより、その人が元々持っている、幸せになる力を、引き出す手伝いっていうのかな…それができるのがここでいう魔法の力だと思ったのでした。
魔法って、人や自分を幸せにする術だと思う。その修行って、表からは見えない隠れた真実を見つけて掬い上げる練習じゃないかなっておもった。だからインターネットだって魔法の道具に使えるし、でも使い方次第。
自分も誰もがどこかで必ず繋がっている感、世界全て作用しあってる感、今までの全瞬間瞬間が今の瞬間を成り立たせてることの驚きに泣くよ、泣いちゃうから人前で読むとき注意。縦にも横にも繋がっててどれも単独では存在しないんだなあと。
だけどすぐお天気が変わる自分の、お天気のすぐ変わる変わりっぷりを面白がれる程度には、一晩寝て変わったから時間の経過ってぐっじょぶ。
なにか気にかかることがあるとそればかりに心とらわれるのやめたい。今日は昨日より幸せへの感度を高めたい
子供が、たとえばこのままじゃ誰かを傷つけそうとか将来を棒に振りそうとかの兆候が少しでも見えると、心配で、大変だこのままじゃこの先この子どうなる?すぐ何とかしなきゃ、と思った。だけど、いま見えてる子供の状態だけで判断しなくていいことをあとから知ることになる。なんとかなるということを
いま思い出してるのは息子の「高校一日全さぼり行方不明事件」あのときはびっくりしたし、これはゆゆしきことだ、なぜ?いじめにあってる?とか危機感あったけど、今思うとなんてことなかった
こんな時間に寝たらしい息子の物音を聞いても今日びの私は、そうだそうだよ彼には自由な時間が必要だったんだ、それがただ夜中だったんだ、って思えるからマジ本当に皆さんにありがとう…。(2014)
とらえかたひとつでしあわせになれる、って教えてくれる好きなひとたち
もうじき、この世との別れです、ってことになったら、私なら、心の中の好きなひとたちや素晴らしいひとたちのことを思い浮かべ記憶をひたすら反芻していたい。好きなひとがそばにいられなくても、普段通りに好きなようにどこかで過ごしてくれている間にいつのまにか眠りたい。
じゃあこんな私はそれを教訓にできたかというと、上の子には自分の必死さを訴えてしまった。叩いてしまった。責任感と手探り感に、押し潰されそうだった。やっぱり自分が可愛かった。だけど子のことは死んでも守りたかった。矛盾してるけど
あなたのためにしか生きてない、全てあなたのためだ、…ただ、親はそれを子供に訴えちゃダメなんだと思う。子がどれ程生きづらくなるか。だけど孤独で誰かに認めて欲しい人間はこれを子供や姪や甥や孫など、影響力を認めさせたい小さい子に刷り込もうとする。
私が幼い頃、その人々に口答えなんて一切怖くてできなかったけど、大好きな母に対しては口答えした。口答えできる唯一の相手が母。母には自分を認めてもらいたかったし、口答えしても許してくれると思えてたから
魔法使いサリーの歌、最初はオリエンタルな雰囲気なのに急にアメリカンに変わるの、ぐっじょぶだと思った。
とりかえ・ばやは原案となった平安時代の物語がどんだけぶっ飛んでて現代人好みな話かを偲ばせるものがある。石蕗の中将のトラブルメイカーぶりに笑え、…はやく次が読みたいですとにかく
誰も読まない自分しか読まない場所に思いのたけを書くのって気持ちいい。いっぽう、ふと、ついったであれこれ書くのもどこかしら誰かの目にとまり、誰かの心にのこって何かの作用ができたら私はこんな人生をひとつのサンプルとして提供できた欲を満たせるなあって思った。私をご自由にお使いください
ところで受精卵っていつごろから自意識や感情を持ってるんだろう。子の超音波映像と心音を観て聴いた時、まだ米粒くらいにしか見えなかったけどとくとくとくとく鼓動が確認できたけどあの時はあの子は自分を誰だと思ってたんだろう。
死んで、意識なくなったらみんな一緒のところにいって、自分も他人もなにも区別がなくなってとろっとろになるの?
少し寝坊できる朝に、良い夢見が出るまで寝てしまう、これ福引で当たり玉が出るまでガラガラ回してしまうのと似てる。
寝る前にその日あった良いことを3つ書き出してみるといいんだって。鍵つきさんのついーとだけど
私がしんだあと、私のことを覚えててくれるひとの記憶がなくなって、私を覚えててくれなくなっても、それでも私がしたことによる何かが誰かの中に少しずつ生きてそれがまた、違うだれかに作用する。だからずっとなんだかんだ私は生きてく。うわあ
もはや当時の、日々を生きるモチベと言っても過言ではなかった。毎日瞬間瞬間私が見た楽しいものを片想いの彼に、まるで一方的にメールで動画を送るかのように自動強制的に送って共有できる喜び。あくまでも妄想だけど。とにかく毎日毎時間、そんなことばかり考えてて勉強どころじゃなかった。
これは高校のころにしていた妄想遊びだけれど、いま自分が目にしている光景を実況ライブのように、そのまま好きなひとの脳に送信しているという想像を独りで静かにするのが何よりの楽しみだった。
「陣痛なう」だけど、あるあるの宝庫。世の中のあらゆる人の数だけ、出産で苦しんだ母がいたんだなあ、とか、産まれたあとも続いた諸々の痛みとか、おっぱいは食糧って意識に変わったとか、もうね、あるあるあるあるあるある叫びながら読んでるよ。
ウチは上の子が人生の節目でいちいち小さな回り道を織り込んでいるので、見てる家族としてはちょっとはらはらさせられてるんだけど、無駄じゃないのね。無駄なんてないんだね、ありがとう
つまりどんな切羽つまった状況でも、そんなお菓子の箱なんかで目を輝かせていられるあの子のチャンネルの切替が素敵で私は我が子ながら見習いたい
ソロ充…私は基本的には独りでカラオケとか独りで映画とか好きだけど…みんなどんな時に寂しさを感じるのかなー。私は好きなものや好きな人にファンが少ないと寂しいと思うタイプ。柏餅の味噌餡のファンが増えると嬉しいな
もうね、自由を妨げられたくないし、誰かの自由を妨げたくないし。大切なひとには安心して自由に人生を楽しんでもらいたい。そのための教育、そのためのお金、そのための生きる力をもってほしいと思って子育てもしてきたはずなんだけど、…うまくいってるかな私
どんなに切羽つまった状況でも、いって参りますをハイパーチャーミングな笑顔で言って手を振りつつ出掛けるウチの子に、溶けそうになってる
ついったで自分とは違う世代や生活時間を生きるひとの呟きを拝見して私もかなり柔らかくなれたと思う。ありがたいです。
大人の受験生と暮らす私の願いは、ただひとつ、お腹をこわさず熱を出さず、不本意感を感じないで思う存分やってこられたらいいね。だけど不本意なことがそれでも起こってしまったら、それはちょっと悔しいけど、何かのわかりづらい贈り物なんだと思うことにするので。
なるほど・・・。セルフエスティームは自己受容、セルフエフィカシーは自己の能力への自己評価、そっか。(フォローさんに教えてもらった)どちらも大切ですね。(2014.5.3)
自分のことを好き(根拠なし)なんだけど、このままで良いと思ってて、そして面倒な努力など嫌いだから、やればできるかもしれないことができないまま。これでいいって思ってそこで止まることにあんまり危機感を感じないで済んでしまって。だけどこれゆえに好きな人々に軽蔑されるとかは嫌で
どこかからかとても良い香りがしたけど何の香りなのか検索で調べようとしても調べられず…
お天気がよくて、私の頭もお腹も痛くない、まるで天国のような帰路。もしかしたら私はもう自分の思ってるような形ではここに存在していないのでは?と疑うレベル。そんなとき電車内のよその赤ちゃんの目を見つめてみる。そしたら見つめ返してくれる。つまりやっぱり私はちゃんとここにいるんだ。
家族であっても、相手をまるごと受容するのがとても難しい。そんなこんな自分に嫌気がさす/お任せしたい。だけど、こだわってしまう。私には私の考えや感情があることを相手に認めてもらったという実感をただ得てみたいだけなんだとおもう
その時々で私は、よいと思ったことを、好きと思ったことを、自分で大事にしたい、だけどこんな自分をわかってもらうことを諦められないで、わかってもらおうと思ってしまい苦しい。分かられることは難しいのに。たとえ家族であっても
夜中のついーとをお昼に読めたりするの楽しいし、時差を超えていろんな繋がり嬉しいもん。
自分のことものすごくめんどくさい。でも、自分のことをめんどくさいと思ってるひとが私だけじゃないのを知るとなんだか和む。我儘だったり、だけど誰かのために生きたいと思ったりするんだ、私。こういうの私だけじゃないのを知ると、空腹も忘れる。ありがとう
"尾崎さんのOH MY LITTLE GIRL に出てくるような恋、今の人生では通らなかったけど、歌で味わった気分になれるから、歌はぐっじょぶ。"
何を遺そうか考えておかなくても、いままでに縁があった人たちの人生に心に何かしら微々たる記憶と影響を遺したはずで、それがどこまでもいつまでも形を変えてピタゴラスイッチみたいに波及していくから私の命は永遠だわ。
葬儀の形式なんてどうでもいい、遺族が一番やりたいようにすればいい、って思ってたけど、せっかく遺言なんて我儘言えるんだから、会葬者に聴いてもらいたい曲を使って好きな音楽で送って貰える音楽葬、こんなに絶好のプロモーションはないな!って
まずマグカップに牛乳、板チョコ一枚、ラム酒ティースプーン一杯。美味しい次にラム酒ティースプーン二杯の。これ酔う。次にラム酒のほかに黒胡椒もいれるバージョン。何かが目覚める。次にラム酒の代わりにキルシュワッサー。ふらついて立てない
そうよね、せっかくここにいるんだから、経験値を積んだほうがお得な気がするね。
上の子の子育てにあれほど口を出して我々親子を泣かせてきたあの親戚、興味がなくなったのかもう何も言ってこない。
風邪のパターン、初日はこんな症状、そのうちにこんな症状、そしてこういう経緯をたどり、そろそろ収束に向かう、とか予測できるので、ああはいはい、このパターンねって、先が読めてどこか安心。でもこれが人生で初めての経験だったら?だから赤ちゃんはそりゃあ泣いてばかりにもなるわー
息子が小学生の時の忘れ物で可愛かったのは、学校に行くのにランドセルを置いたまま出掛けようとした・雨が降っていたのに学校に傘を忘れて濡れて帰ってきた・雨が降っていたのに手に持った傘を差すのを忘れて濡れて帰ってきた、などです
40度のお湯を10分浴びるのと400度のお湯を1分浴びるのは全然違うし、バナナに含まれるカリウムだって太陽だって放射能なので。(※400度のお湯なんて存在しないじゃん…)
お子さまに限らず頬っぺは斜め後ろからの眺めが素晴らしい。
パンツだけだと冷えるかもしれないからそのうえに一分丈のスパッツを穿きたいと思ってちょうど枕元に未収納の洗濯物があったから、その中から取り出して穿いたのがスパッツに似た息子のパンツだったからいま死んだらいやだなと思ったことと
精緻な刺し子手芸作品を拝見してると一針一針の動きを想像して異次元に意識が飛んでゆきそうになる。
人が踊っていると好きになってしまう。たやすい
フォローさんが、根拠のない自信と無条件の愛(どちらも大切、そして密接な関係)のことついーとしてて今日も確認中の、ヒトに生まれた楽しみ
寝過ごししかも夢のなかで知らないひとになっていた性別も歳も国籍も全く違うひとになって知らないひとと関わっていてなんの疑問も持たずにいたけどこれ誰あれどこ
着てるものも、見てるものも、食べられるものも、誰かの一生懸命の集まりなんだなあって思うとうれしいなー。(「舟を編む」の感想の続き)
先頭や最後尾の車輌の窓から見える景色に脳内で銀河鉄道999のサントラを流してしまう癖が30年以上、治らないー。
駅構内の案内の矢印は、最後まで責任持って途切れずに私を連れていってください。この表示をつけた人は一度、まっさらな何も知らない人の気持ちになってこの表示の通りに歩いてみて。途中で梯子はずされた気持ちになるスポットがあるよ。と言いたいことが、多々あります
南瓜サラダで余った皮の部分は細く切ってオリーブ油で炒めてクレイジーソルトでおやつだん
プラナリアだった時にはヒトだった頃のことを覚えてたのかもしれないなー
やりたいからじゃなく必要だから見つけなければならない志望企業、そしてそのために捻り出さなければならない志望動機、私がもしそれをやらなければならないなら死にたくもなる、、その事を胸にしまっておいて就活生を見守るのしんどいけどしんどいのは本人、私は凪の海のようになりたいのに
昔から親から可愛い可愛いと言われ育って自分でもそう思って成長しておめでたい。なのにあの人もこの人も私に振り向いてくれなかったけどあれはたぶん、世間の美人基準に騙されてただけなんじゃないかと思ってみたりして、その世間の美人基準は私を騙せると思ったら大間違いだとか思ってみたりして
昔々に学校でうたった曲やら、ピアノの発表会で弾いた曲やら、うろ覚えのタイトルでも、検索でそれがなんだったか分かって懐かしいけど、あっけない
馬鹿だったところ、滑稽だったところ、その全てのサンプルをせめて子々孫々への遺産として提供したいけれどまだ自分が生きてて恥ずかしいから、今生からログアウトしてから渡す方法を欲している
気が向いたときだけ突然時間を戻せないかと。
好きなことで食べていけたらいいのにね、好きなことが稼ぐ手段になったときに期限に追われたり買い手におもねったりしなきゃならなくなりそうでつらいわあ、と言ってて
自分の髭そり残しを気にしてる姿さえ我が子となれば萌えなもんですよ。こんなこと昔の自分に告げたらきっと信じてくれないわ
求めなければ、ホントだ、足りてる!!/なんで求めちゃうんだろ…私だって私に色々求められたらめんどくさいのに
お勤めのかた、大変だけど、その笑顔で私の知らない誰かがきっと幸せになっていくと思うのでありがと
ゲームソフトやゲーム機で遊んだことがあるのは唯一、息子のゲームボーイを借りてポケモンを遊んだのだけだけど、ソーナンスが好きだった。恋といっても過言ではなかった
私の強みも書いとくね。数少ないドラマにはまったら繰返し観ては登場人物と同居するところだよ!
発展途上だったのかな、あの人も私も
思い込まされること、について昔から恐れがある。すごくいい!と思っても、反対の目線も見ておきたい欲がある。これは何だろう…たぶん、私自身が矛盾だらけの人間だからかな。そんな自分をそれでも嫌いにならない/自己愛。だって私が好きなひとたちが私を好きと思ってくれてたこの歳月があるから
就活中の人に、応募している会社から次の選考への通過連絡が何時なんどきかわからず携帯電話に連絡が来る仕組み、非通知でかかってきて、それを取れないと結構な死活問題になるっていうの、理不尽。電車の中かもお葬式に出てるかも歯医者さんにいるかも授業中かもしれないのにメールで欲しいでしょ
昔はわかんなかった、何か誰かを素敵だ可愛い好きだと思う感覚が、増えていったりするから今の自分も好き。だけど今の自分が忘れてる感覚を昔の自分は持ってたりする。昔の自分も自分だから好き。自分は誰かや誰かでできていて、その人達も、だから好き。
給食袋っていう単語に萌えるようになっちゃった。給食袋から何か出したりそれを頑張って使ってよいしょよいしょって懸命に何かする子を想像すると可愛いことこのうえなくない?
独身のとき、子供のかわいさがよくわかってなかった。可愛いのは目鼻立ちが整ってるとかわいいってことなのかそうなの?どの辺りがかわいいのかと思ってた。同じ子をいま見たら絶対むちゃくちゃかわいいって思う。
通勤通学でごったがえす駅を逆方向に歩いて帰ってきて思いました。生きてるだけでみんなすごい
今朝見てた夢の第一話は複雑混沌過ぎてやはりどうしても思い出せないというか言語化できなく、面白かったという記憶だけが遺ってる。/(面白かったとかの記憶だけが死後も遺るのかな?)
「人がこわい」という言葉をインターネットで見るたびに、このひとが怖がる対象のひともまた、ひとを怖がっているのかな。とか思う。私は…ひとが私ともしも同じような構造をしているのなら、怖いし、鬱陶しいし、時には可愛いし、面白いし、予測不能だし、他の動物とはちょっと違うなあって思ってる
つらいとき、共感してつらくなってくれるような優しいひとが好きなのに、そんな優しいひとを一緒につらくするほうがつらい、ってなるのでどーしましょーねー。人は人自分は自分、ってどこかで割りきって見てくれる気持ちをバックアップ人格として持っておいて貰えたらとか
家族の就活見守りについて所感。面接をなかなか突破できないのはきっと何かしら彼にとって意味があることなのかもしれない。やきもきするけど、それもこれもあの子の人生の大切なパートなんだろなあ(2014)
心のなかにすてきなひとが住んでるから全然孤独を感じない!って思う一方で、この、心のなかに住んでるすてきなひとの素敵さをわからない人とかもまだこの世にいるんだと思うと、気が遠くなって自分の無力さ小ささ心細さとか急に宇宙空間に放り出された感
そういえば引越で上の子が転園したとき手作り袋物のノルマがやたら多かったのなんなんだろ。絵本袋、体操着入れ、スモック入れ、上履き入れ、お弁当の時のコップ入れ、うさぎのお世話の時のマスク入れ、ピアニカの吹き口入れ、全部手作りさせてた意味とは?あんなの作る暇より子供と遊ぶ時間
疑似家族いいなああー。昔、「ホームドラマ!」ってTBS系のドラマがあって。はらちゃんと同じ、岡田惠和さんの脚本のドラマなんだけど、バス事故で家族を失った遺族のうち、一人暮らしになってた人々同志が寄り集まって大きな家で共同生活する小学生、中学生、女子高生、OL、サラリーマン、高齢者
ご飯美味しくできたら自分も美味しいものが食べられるし、美味しいっていってもらえたら嬉しい。学校や会社に行く彼らが何かの夢を見るのに腹が減ってはかなわない、かなえてあげたい、だから炊事は有意義なの、でも面倒
誰かから学ぶことが出来るようになるのは成長、っていう呟きを読んで、とても…嬉しいっていうか楽しかったというか、良かった!
「だめなら、だめということがわかって、それも成長だし前進」ていってたフォローさんの言葉を思い出してる。これ、さっそく、人生ままならないと嘆くあの子に言ってから送り出したい
好きな食べ物はありすぎてひとつに決められない。ひとつに決められないからと言ってそれぞれが大好き。それを食べている間はそれのことしか頭にない。だけどひとつに決められない。しいていうならチョコレート。ホットチョコレートに入れるためのラム酒を今日こそ手に入れたいと思いながら最近は
(電車の)ドア付近に乗っていて、駆け込み乗車してこようとする人を見ると、開のボタンを押そうと探してしまう人、私だけじゃないと思うんだ。
縁があるならあるだろうしないならないのかもしれないし。どうなってどう転んで行くか敢えて楽しめたら大したものだと思う
何かに祈っていた…。最初は「あの会社があの子の良いところを見つけてくれますように、そしてあの子も自分の思いをうまく伝えられますように」だったけど、そのうち「これを通じてあの子が自分と他人をもっと好きになれますように」に(2014)
不安だ不安だ不安しかないというあの子の不安払拭職人と化しててでも寝なきゃ早く寝なきゃ眠いと台無しだからとにかくこうしてああしてこれだから大丈夫大丈夫、っていうのが精一杯で
そうですね、なぜ重いことほど人に打ち明けられなくなるのか、…やっぱりそれを聞いた人がどう思ってどう気にかけてどう気遣ってくれちゃうか、を考えてしまうから、かも
もしかしたら、うまく言葉にして「これです」って見せられる段階の悩みはそんなに悩みじゃないかも。だから、言葉にするのが難しい感情や概念を言葉にしてくれている誰かの言葉に触れると何かすっごく嬉しい。ていうか救われる気がする。この救われ感を多くの人々にシェアしたくてついったに居るのかな
悩みを言語化することができた子供の状態を、よくぞそこまで辿り着けたねと喜ぶってこともそうだし、それを私に見せてくれたことに対して、私という存在が子供のために少しは意味があったんだなという安堵、かも。だけど本当の悩みはきっと子供にも言葉にできないだろうという気はする
ああ、でも逆にたとえば子供とかから悩みを打ち明けられると、それをたちどころに解決する答えは提供できなくても、あの子らがその心境を言葉や態度で見せてくれたことに私は癒される。この気持ちは何だろうと思う。
全力を尽くしたからといって思うままの結果が出るわけじゃないこと自体を栄養にできるひとになるのを、そばで見ていたい。そして、おーるおっけーだと伝え続けたい
全力を尽くせば尽くすほど、その結果が思わしくないと哀しい。そんな家族をこれからどうやって励まして前を向いてもらえばいいのか毎日このことばかり考えてるんだけども
こうしてお気に入りのサイトの言葉に浸っているとき私は私のことを見てそこからまた私の外の世界っていうか私のなかの外界のことを見ている。そうこうしていったん泣いて洗う
どうしてこんなにお布団がモテ過ぎるのか考えてみる。考えてみるまでもなく素晴らしい。いつもいつでも誰でもかれでも包んでくれるの、忝ない
子どもが五歳のとき、私の買い物の間に待てずにドアの外で泣いてたのを、ただただ抱き締めれば良かったのに。あれほどちゃんと待っててと言ったのにどうして!という叱咤をしてしまったの凄い後悔。
自己肯定感をそぐようなことばかりが降ってくる。私だけは私を良いと思っていたい。ってこういう気持ちを子も自分自身に持っててくれていたら、もう私の役目は終わってる。終わっていたらいいなあ。
サーティーワンアイスクリームの種類が多くて迷うことが苦しいから悟りを開いたら、自分が全部のアイスと一体だったと気づいて、むしろ自分はアイスだったと知って、食べなくてもいいやってなって、ラクになるのでは?という説が子供とのお喋り中に浮上したのでした
赤血球は酸素をつかんだり離したりしてる間に我々のことを考えているのかそれとも何のためにこんなことをしているのかわからずにしているのかしら、という話をしました。
好きな作品、好きな自然、好きな人、のことを好きな気持ち、好きなものや好きな人の役に立とうがたつまいがこちらが幸せなので、この幸せを多くの人に味わってもらいたい。だけどみんな時間がないんでしょ?だから私が神様か何かだったらみんなに時間をばらまきたい。またはその代わりにお金をまきたい
この「あまちゃん」を私は春子目線で観てることが多い。子に対して素直に謝れるようになる時、子も自分も救われる時
あー、そうか、あと私は、私の好きな人が誰かに嫌われるのがとてもいやだ。それがその人自身からであっても。でも昔ほどあからさまに怒ったりしない。と同時に、私のことを好きでいてくれる人に免じて私は私のことを嫌いにならないでいたいと思う。これも昔ほどはキッチリした決まりじゃないんだけど
普通、相性が合わないと感じる相手と何年も同じ所帯で暮らしたりしないところを、暮らす機会に恵まれ?て、暮らしてみたら、案外良かったという希少サンプルを人類史に刻むために私と彼は出逢った。だからしあわせをしあわせと気づいたら覚えておこうと思った
つまり私は私がされて平気なことなら人にしても平気なんだと思う。私が仮に朝から急用ができて一人でウチを出ても、家族が寝ててくれて構わないしむしろそうしててほしい。だから今、家族が朝から用事で出掛けても私は二度寝してもそんなに実は心苦しくない…のかな…といいながら呟いてるのは何なの
(前略)でも当時の私に今は伝えたい。嬉しいことや楽しいこともあるし、彼の優しさもたくさん見つかるんだよ、と。むしろこの人でなきゃならなかったんだと。
メイクしていかなくてよかった。号泣じゃないけど常に少しずつ流れる涙の温度で自ら温まってきた感じ。私の知らないところでとても頑張ったり迷ったり支えあったりしてくれてる、ひとたち。好きな人たち(神様のカルテ2)
母に話を聞いてもらいながらなんだかわけもなく泣けてきてしまった。本当は私が母の支えになりたいとか話を聞いてあげたいとか思ってたのに。私はランドセルをおろしてあの食卓でおやつを食べてるときのような気持ちにすぐ戻ってしまうんだ。/何十年経とうと基本的には子供的な感情は変わってない
すごく不機嫌に子供に接してる人を見かけたけど、どうにもできかねた。昔の私だったら「そんなに怒鳴らなくたっていいじゃん」みたいな念をこめてそのママさんを見つめたかもしれないけど、そんなことすると私の視線がストレスになって回り回ってその小さい子が捌け口になっちゃうかもしれない
世界とか愛とかの全てを知った人にはお願いしたい。全部はネタバレしないで半分くらいにしてね。
街を歩いてて、自分が妊婦だと妊婦さんに目が行き、乳幼児持ちだと乳幼児に目が行き、子が小学生だと小学生に、そして中学生に高校生に大学生に就活生に、だんだん目が行くようになるとわかる。年寄りが身近にいるとお年寄りに目が行き、働き出すと人の通勤服を気にする
うちの子、「強いと思ってた人が何かの拍子に泣いたり弱さを見せたりしてると、それだけで好きになっちゃう。リーガルハイの羽生くんが最後に泣いてたとき、好き!って思った」と言うので、わかるわかる
好きと思えるひとたちに、肯定されている、ことを実感できるだけで、脳と心はどれほど安心してのびのびして楽しいものを私に見せてくれることかと。そんな自分に、そんな誰かに、ありがとうって思う。ってこれついーと書いてるうちに涙流れてきた。もろいなあ。歳をとるのもいいものだなあ。
だから好きになれるかというとなれないし、そのひとがいたから今の私があるという恩と、好きになれるかは別。で、好きになれなければ優しくできないのは私のだめなところ。しかも治す気にはなれないという。それを私に突き付け教えるために彼女は私の人生に配役されたのかもしれないけど。
好きなひとも嫌いなひとも、何かを教えるために私の人生に配役されたのだと仮に思ってみるとちょっと楽になるけど、彼ら彼女らのほうではそんな訳はないのでこれも、勝手我儘な考えだと我ながら思うけど。いまは便宜上そう思わせてもらう。
いろんなかたがたの心のなかに私が存在してると思うと何だか照れる照れちゃうよ…
私には、まとめ癖がある。あー、それってあれって結局そういうことでしょ、みたいな。
自分以外のクラスメイトが、自分の知らない歴史を共有してて、なんかしらないけどおっかなびっくり親切な人が仲間に入れてくれようと気を遣う様子がね、子供時代にはね、大人が思うよりおおごとな深刻なアレなんだってば。
子供の頃に飽きるほど見て触って潜って食べて投げて遊んでたあの雪が、いまここに出現すれば楽しいのに。
ただただ胡麻油で蒸し焼きにしただけの白菜が甘くて美味しい!何かで味付けしようかとおもったけど、もう、お塩だけでいいや
変わろうとしなければ変わらないと教えてもらったのに、変わろうとしようとしようとしてない自分を甘やかす口実を探している。
でもって、しかも、思春期だと、親に見守られてる感がダイレクトにじゃなくて間接的に見てる風情のほうが子に喜ばれたりする。あんまし気にしてないていで肝心のとこは気にかけてるよ、みたいな。もー微妙な車間距離的な距離感を保つの大変でして
パラレルワールドって言葉を見ると、この世界から一度ずれた世界、二度ずれた、三度ずれた、…って360度までの全部のパラレルワールドを思い浮かべてそこの私やみんなは何してるんだろって思って笑えてくる。
子どもに還りたい。でも迷惑はかけたくない。迷惑かけたって別にいいか。それもきっと自分というサンプルを見せてることなんだ。
明日がこわい。でもはやく明日を見たい。長生きしたい。歳をとるのは嫌だ。枯れて悲しい。枯れて安定したい。どんどん馬鹿になって色々諸々のことやひとと縁が切れていく。
ひとつの狭いことに拘りたくなくて、なるべく多面的な大きい視野でいようというバランス感覚を働かせたいと思う、一方で、ひとつの狭いことや狭い範囲のひとりひとりに思い入れたいし拘りたいし、のめりこんで、熱狂もしたい。という気持ちもある。これは、両立できないのだろうか。
つまりこう思う。「想像を超えるものが、私などには計り知れないことが、ここにもそこにも在るよね。」って思って生きていれば、優しくもなれるし、平和でいられるし、幸せでいられるのかも。
優しくいる為には想像力が大きい必要がありそう。でも「私の脳では想像し得ないことが有りそうだ・有るだろう」って思って生きてくことが、お互いのストレスを軽減してくれる気がする。想像を超えた何かがあるよね、と思っていれば幸せでいられるように思う
このときの自分と今のこんなことはしないしたくない自分とが地続きなのがどうにもこうにも解せないけども。きっとあれも自分に間違いない。
その娘の潤んだ目の潤みをいつまでも覚えていたい。それと、/課題のレポートをやっと送信し終わった息子に、チャイミルクティーを差し出したときの「ああ、ありがとう」の声のかわいさも、ずっと覚えていたい。保存
目から涙をちょっとだけ出すことでアンテナの曇りがとれるような気がする。
攻撃を目的とした攻撃をしてくる人の心情とか背景をひとつひとつ真面目に考えてあげてたら疲れてしまうよ、キャパは有限なんだもの。好きなひとたちを大切にする以外の余裕はなかなかない。
そうですね…加害者にならないことも被害者にならないことも、難しく且つ重要なスキルなのかもしれないですね。
目に見えている好評悪評の数と、本当に分かってる人々の分かってる度合いは、必ずしも一致しない、それがもやもやするけどそういうものだと諦めて、瓶のなかに手紙を詰めて流す気持ち。
印象操作はやろうと思えばやれてしまうものだと知るインターネット
ネットで検索して、自分だけだと思っていたことが、多くの人にもあるのを知ると、寂しさが薄れる場合もあるし、でも少しがっかりする場合もある。
楽しいイベントの日にも、気を抜くといつのまにか、心配事や悲しみやどうにもしがたいことを見つめてしまっている。これはいったい。あー、心配事や悲しみやどうにもしがたいことをいつかなくせると思ってしまってるのかな私。それ込みでの幸せを味わえばいいのに
悲しいことにばかり目を向けてしまいそうになるのを、頑張る。私は意外と丈夫だと思われている節があるけど、これは本当は喜ぶべきことなのかもしれない
200mlの生クリームの紙パックの口を開けて砂糖を流し入れ、パックの口をしっかりと手で閉じたまま跳んだりはねたりしてシェイクしたらホイップクリームができるはずと信じて跳んだりはねたりした。結果、ホイップクリームはできなかった。
わたしにだって生理的に受け付けないものはある。ホラーやスプラッタ作品など。でもそれは誰かにとってはきっと面白く大切なものなのだろう。そしてこの感覚は一生続く保証もないし。
感動したあの映画への評判を見てたら、生理的に受け付けないという声を見た。私が泣くほど感動した対象ですら、誰かにとっては毛嫌いの対象なんだ。しかたのないことだけどこのことはかなしい
ひょっとするとみんな同一人物じゃないの?外見と育ちと性格と考え方と感じ方が違うだけの同一人物?ていうかどこまでが自分でどこからが他人?って思う瞬間もたまにある
走る人いわく、もう歩きたい、やめたいという自分とのせめぎあいに勝った時に得られる達成感だけが楽しみだっ、ていうんだよね
何を妄想してたかというといつものことだけど、夫が先に逝ったら私は告別式にどんな挨拶をするかということ。自慢したいことがたくさんある。あのことこのこと。彼はいつも家族のためを優先していた。有り難くて。でも、このことと、胸が苦しくなるよな片時も離れがたいような好き!とはまた別なの
泣きながら街を歩いているときの自分が、普段の自分と違うのが、面白くて、つい何回もやってしまう。
中受のための塾に娘が通ってたあの時、夜の十時頃に迎えに行って二人で電車に乗りながら「あ、いま私らのこと、子をこんな遅くまで塾通いさせるとは可哀想にとか思って見てる人がきっといるだろうな 」って感じつつ、娘のこと何も知らない人にどう思われたっていいや。という気持ちも同時にあった。"
自分が知らないところで、誰かが自分の幻影を見てあれこれ言っている声が流通しているかもしれない。心地よいもの、不快なもの、その声がネットで可視化されて自分に届く割合は、その時々の目の向け方で違うけど。それを気にせずにいたいので私は「お天道様が知っててくれてる」と言い聞かせる。
他人の振る舞いや考え方を変えるなんて難しいことー。できる限りのことはやった、あとはもう、自分の問題ではないと。
素敵なひとの、あらゆる表情をみられて、しあわせな時間を過ごしました。この記録を誰かが空の上から預かってて貰っていいですか。
長生きしていつかビールの美味しさを理解できるようになるのが夢。
そういえば櫻井さんは独り暮らしの自宅の湯槽では頭までお湯に浸かるそうな。背泳ぎみたいに仰向けで顔だけ水面に出して、耳もお湯のなか、落ち着くらしい
大学で勉強したことが実は会社勤めにどう活かせるのかいまひとつわからない、みたいなことを言ってたけど、でもひとつひとつ書き出してみたら、得た視点とか考え方はどこかで人間の営みに繋がってることに気づけそうだ。など
ねたばれちゃうからあんまし言えないけど今になってじわじわ来た。レイジ以上に私はロイドに恋していたかもしれない。当分の間、あのひとは私のなかで実在の人物で居続けると思う。/助けて誰か。好きな架空キャラが好き過ぎてたいへん。やっぱり助けなくていいです
あと、登場人物が心のすれ違いを繰り返してる時は、脳内で彼らを集めて、このDVDを最初から登場人物の皆さんに観せる上映会を催す妄想なら毎日している系の主婦はこちらです。
子ども、流石に高校生大学生になってもおむつがとれないってことはなかった。それをあのトイレトレーニング真っ只中の頃の子どもの親をやってた自分にタイムマシンで言いに行ったら、そんなこと知ってるよっ、って言い返される気がする
貶す対象を探すより、好きなところを見つけて暮らすほうがきっと楽しいことと気づいてない人が、いつか気づいてそうできればいいのに。そのいつかの奇跡のような変化がいま私の目の前で起こってくれなきゃイヤイヤーっ、てなるから悔しい。待てない。
好きなひとが馬鹿にされるとめっちゃ悲しく悔しい。このかなしみの正体は何だろう。ちょっと細か目に分析してみた。好きなひとの魅力を感じられるこのしあわせを、その馬鹿にするひとたちが知らないでいるそのことの、惜しさ。可哀想さ。それを思うと寂しくもどかしく
何かにラベルを貼って思考停止した人が増えれば増えるほどラベルを貼られた人の哀しみもまた増してゆくように
そのくらいのこと人類は、やり遂げてしまうでしょう。そのわりにいつまでも人と人とのうまい距離感とか肝心のところはまだまだ未解決なままの予感。かわいいね(見た夢のコピーの話)
そういえば出掛けた帰り道、娘が夕べ見たヤバい夢の話を聞きながら、人がみた夢をダビングして借りて私にも見られたりしたら面白いなと思ったけど、これ遠くない未来に実現してしまうと私は思った。
昔から虹とかオーロラとか好きっていう話の続きをする。紙に色鉛筆でいろんな色を一点集中で描いて、それをお守りにしてた。森羅万象とか人の心のあらゆる側面とかをそれで可愛がってられる気持ちになったから
いつか消えてしまうからこそ美しいっていうけど、美しいんならいつまでも消えなきゃいいんじゃん!
自分のデータが消失しても、あのひとこのひとあの子この子の思いは消えないってんならまだ安心なのに、それも期間限定とか言われたらもう本当に勘弁してほしい諸行無常。…って思えるのは何だかんだ幸せだからなのか。そっかわかった。
何のお経もあげてもらおうがもらうまいが土に還ろうが海に還ろうがいいんだけど、本当に私を成仏させてくれる気なら、私の骨よりこの脳データ、心の歴史、好きな気持ち、愛しい気持ち、観たもの聴いたものなどの記憶諸々、これを預かってくれればもう。
気が付けばアンダーに収まるべき部分がトップに来ているという事態を防げるだけの肉。それだけあればいいの。谷間なんて贅沢は望まない
谷間よりももっと欲しいもの。ずれ上がらないための引っ掛かりとして機能するための必要最低限の体積。その引っ掛け力
いや大したことじゃないんだけどなんかこう、素敵なもの見てると幸せすぎて、時間止めたくなるのに一向に止めることできないのでちょっとホントどうしようかと
それを知った頃の私は自分と同じ景色があの子の目に映り得ないことを嘆いた。でもあの子にその絵が色鮮やかだと感じられてるならお節介な事だ。/そうやってあの子は私に、私の知らない、知り得ない景色の存在を知らせてくれた。
優しく見つめたら優しく見つめ返されて昨日とは違う自分と、昨日とは違う彼や彼女が見えてくる、だからいま現時点で見えている世界がいつまでも続く訳じゃない。これ、明るいニュースだと思うので
理不尽だと昔なら思ったあれやこれやのこと、だいぶ、可愛く思えるようになってきたと。我ながら思う。そうね、やはりこの捉え方で脆い心を守るすべは強く出来そう
幼稚園児に戻って、ただ遊んでるだけで可愛いって褒められるような身分になりたい、そんなときがある。ときがある、ってか常に思ってる系の主婦
そういえば私がインターネットの世界に出た頃に私の膝でよだれ流してふよふよと寝てた子に、いまやネットのコンテンツの詳細を懇切丁寧に教わる日が来てしまい。
東京で落ち着くためには、人と人の物理的な距離がどんなに近くても気にしないこととか、きっとこの隣合ったひとも、ついったーとかのSNSで溜め息ついたり可愛い呟きをしたりしてるんだろうなあ、とか、想像して楽しむこととか…かと思ったのよ
ついったの呟き、置き手紙、読めるときに開封して拝読します、好きなときに読めたら開封して貰えることがあればうれしい。この仕組みを楽しんでゆきたい。お互いゆるゆると。
ネットでみかける若い人の心の声を見ると思う。そんなにも親に心配かけたくないの。そんなにも親を頼るのは悔しいの。心配かけられて頼られるの本当は嬉しい親御さんがたくさんいるんじゃないの?そのことを今お子さんに言うのはまずいから言わないだけで
国防って結局、近所付き合いと防犯との兼ね合いにも通じると。自分を大切にしつつ、余所のお宅に侵食しないようにしつつ、万一に備えて鍵はかけ、不法侵入には警戒しつつ、でも自分もルールを守る、みたいな。/でもって個人情報の漏洩にも気を付けそれが悪意に利用されないようにする。
だから私は何を書いても良いんだとは思わない。明らかに事実と違うことで誰かを陥れたり傷つけたりすることは書いてはいけないと思ってる。問題は、気を付けててもそれを意図せずやってしまったとき。それは指摘してもらうほうがありがたい
ネットで何か声を出したら、それは、全国全世界の誰にでも見られるし、どんな肯定や否定の意見が返ってくるかはわからない。でもその、どんな意見がくるかわからないことを覚悟することと、どんな意見にも答えなきゃいけないこととは違うとおもう。全部に答える必要ない。議員さんの答弁じゃないし
なんでわざわざ、嫌いなひとのことで頭いっぱいにするのか
ひととか芸術とか自然とかを、好きだなあって思ったとき、何だか急に悔しくなることがある。私がこんなに感動したり好きだと思ったりする気持ちが、脳の寿命がきたらどこに行くのか分からないということに、ぬーーーーーんんあああああ!ってジタバタしたくなる。とくに夕方頃に。
でも分かる。本当に私のことをおもって泣いてくれてたのか、泣くことで私が従うのを期待して泣いてたのか、子ども心にも私には気づいてた。分かってた。
ただ、私達はただのサンプルのひとつにしか過ぎない。それをもってして幸せかどうか測ることは無意味だとだけは言えるかも知れない。いろんな形があるんだよ幸せは。みたいな
どうにもできないものがどうしてもあるし。満たされてないと判定して、それを満たせる満たせなきゃと消耗してしまう時間が惜しい、そんなことしてる間にもっと見つかる、楽しいことが。それで既に満ちてる。ってことを、気づかせて貰えるの嬉しい
いずれ来るかもしれない心配事のことばかり心配しようとしたり、自分を嫌ってるかもしれない人がいるかもしれないことを懸念したり、こんなことに心を使ってる余裕はないよね
歌番組が私の幼小中高大社会人の頃のいろんな時代の記憶を連れてくるのでどうしたらよいかもう、もうね…
頭がよくなりたい。自分の頭のまわらなさに、もっとすごく脳が優れていれば誰かをもっと幸せに出来るだろうにという、無い物ねだり。(あなたは頭が悪くなんかないよという慰めを他者から欲しいわけじゃない。自分で自分の至らぬ点を感じてしまってる以上、自分が気分を変えない限り気が晴れない)
そんな気楽なしあわせのはずの架空キャラへの愛なのに、どうしてこんなに胸が苦しくなって涙も時にとまらなくなって左手の甲の血管が疼いたりして一体これ何なの。
心の中に住む、ドラマや映画や漫画などの架空人物、のことを考えてるときのしあわせは、気楽な無責任なしあわせ。いくら好きになっても何の迷惑もその対象にかけることはなく、自分がどう思われてるか気にする必要もなく。
話をしていて噛み合わないなと思う場面にいつも共通してたのは、依って立つ感情の前提が違いすぎてたこと。いつも
有名人がテレビなどで喋る言葉は極力全方位に無害であろうとすれば面白くはなくなる。なので、えいやっ、と自分の気分を気楽に発すれば、聴いてるひとのなかにはそこから傷を受けてしまうこともないとは言えないので
たとえばエネルギーの会社に応募するのに、温かいお風呂にはいれる幸せを恩返ししたい、っていう志望動機だっていいと思うの。
意外と明るい顔で喋っていた。貰ってきた色々な企業のパンフを私も見せてもらいながら思った。この中のどの会社をとっても、どれがなくても、今の私や好きなひとたちの生活は今の状態ではいられなくなる。もしもこの中の、どれかに彼が勤められたら、それはひとつの愛の実現化と言えるのでは
甘え駆け引き、よく子どもにやっちゃう人とか身近にいた。そんなあんたはもうウチに帰ってこなくていい!とか、そんなこというなら死んじゃうからね!とかの脅し。あれは嫌だったな…
兄妹の並んで歩いたり前後で歩いたりして、お互いに見たり見なかったりして、付かず離れずな感じで、ちょっとにこっとして一緒にいるの、その様子を眺める行き帰りの道がなんだかしあわせだった。
おにーちゃんがお風呂から出たタイミングでおめでとうを言ったら、口のなかでぼそっと、ありがとうございますって敬語で返された。そのときのふわっとした笑顔を記憶した。(息子の誕生日に)
もっと、知らない分野を知ろうとすればよいのだけど、ひとたび好きになってしまったら頭の中で増えるワカメのように膨張して占有されてしまうので、おいそれとひろげられない
それを読む暇も機会も気力も体力もなく私はあと百年も生きずにここを去るのかと思うともうね…
帰り道に本屋さんに立ち寄ったら、あまりにも本が多くて、漫画も多くて、多さにちょっと悲しくなっちゃってた。世の中に、こんなに、書く人達がいて書いている。描く人達がいて描いている。いつもならそれをイイネ!って思えるのに思えない今は疲れてるせいだろうか。
彼を彼女らを、すっかり許しきることは、私にはできないけれど、時間が経ち、自分も歳を経て、その出来事や、その人々を、もっと大きな目で見ることができるようになってきた、なってきたら、それは自分にとって大きな癒しになると思った。・・・ってメモしておいた。
久々に会って話せて良かった。私が好きなものについて彼女は嫌いだという、如何ともし難いことを思い知らされたにも関わらず、彼女の考え方が、好きだ。
風とか太陽とか宇宙とかに早くなってしまいたいけどあと何年くらいこの有限な縛りで暮らすことになってるのか責任者の人に問い合わせる方法って無いの?
あーっ!なぜ!どうして身体は有限なんだろう!もっと好きなひと百人でも千人でもしあわせにできる物理的な制約もないような身体が欲しいし死なない心と死なない身体をもった何かの神様とかになりたい、なれない。から、優先順位をつけざるをえない。選ばなければ、ならない
BJの喋りかたがとても好きだと彼女がいう。おまえさんっていう二人称。ですぜ、っていう語尾。など。昭和の感じ。
一人になんて限定できない恋的な好きの気持ち、これはもしかしてだけどもしかしてだけど、新しい連ドラが始まるたびに脳のなかの住人が増えてくからなんじゃないの?
このような気持ちがでも他のひとにも共有されたとき嬉しいって思うし、解られないと寂しいって思うけど、寂しくても、好きなひとや好きなものが自分の胸のなかにあることはホントにしあわせだと思えるくらいには健康を維持して長生きしていたい。
子どもに、やらなきゃいけない課題があるうちは、私も心からくつろぐことができない。こういう気質や気分は子にとっては迷惑だろうと思うけど、なかなか治らない
遺伝子に影響がないとわかっているレベルのものにすら怖いイメージがついちゃったのは、怖いイメージがついちゃったほうが自分達のイデオロギー拡散に都合の良い人々がいたからだと私は思ってるので美味しく食べてるしたぶん孫ができたら孫にもどんどん食べさせます
とにかくあの兄妹の健気なことは私が覚えておくからね。覚えておくんだから(いろいろ思い出したらしい)(『火垂るの墓』)
その一方、自分もひとひとりに相当な影響力を行使してしまったという怖さと申し訳なさが常にあって、結局どっちなの(子育て)
でも、失敗作だなんてこれでも思ってないし、失敗作だなんて思うほど自分の影響力を過大評価するような失礼傲慢なことは思わないようにしてるししたくない(子育て)
宛名のないメッセージ、きついものは自分宛だと思い込み、甘いものは他人宛だと思い込む癖。
いまさっきお菓子やさんの近くを歩いたらとても良い香り。もし生まれ変わって誰かの体のパーツになれるならば、鼻がいい。足は連れてくだけ連れていっても自分は味わえない。って一瞬思ったけど、鼻より目のほうがいいな。
何度も自分で失敗させ転ばせて乗りかたを会得させる。子育て全般に言えることだとは思う。けど家の周りに坂道が多く、体力体格視力判断力がつくまでは、死んだらそれまでと放流するわけにはいかなかったのよ。
考えなければならない課題が山積みなほど現実逃避したくなって夜中に遊んでしまうのだろう、あの子も、おそらく。自分でも、これじゃいけないとは思ってはいるのだろうな
後世のために私ができることは、私というひとつのサンプルの提供
自分を見つめて見つめ尽くす人のこと、自己中心っていうよりそれは他者を見つめているんだと思う。人を好きになることと自分を好きになることは、切っても切れない。どちらが先なのかわかんないけど。
すまほ画面内の表示がまだ画像なんかを読み込んでないうちに焦ってタッチすると、目標物に向かって親指が到達する前にその目標物はサクッとずれていて、私に別な箇所を押させるのだった
朝が来たから起きようとしてるけど、どうせ夜になるし眠くなって寝るんだから、起きなくたっていいかも。など、身も蓋もないことを考え中。どうしよっかな。起きたほうが寝てるより楽しいことがあるってんだったら、起きるのもやぶさかではないです
お風呂で娘と恋について話し合った。頭の良いひとが好きという話、人を好きなひとが好きという話/好きなひとを一人に絞ることができないという娘の話。それは悪いことではないと私は答えつつ、だけど彼女の中ではそれが良いか悪いかが問題なんじゃなくただ落ち着かないのがいやなのかもしれなかった。
今日、出逢うものが、もしかしたら過去の自分にはわらわれるものかもしれないけど、未来の自分にはグッジョブと誉められるものかもしれない。
主人公のぼやっとしてる度合いやクラスメイトの雰囲気がなんとなく自分の学校時代と重なるの懐かしい。(あたしンち)/あたしンち、堀さんと宮村さん、それぞれはなんとなくだけど、みつはしちかこさんの「小さな恋のものがたり」と相通ずるものがあるのではなかろうか。
今日も寒いけど、心のなかに好きなひとがいるからあったかいよね?ってフォロワーさんが言ってた。うん、あったかいよね。
いつも思う。フォローさん達の背中を見ながら呟いてるけど、この呟きを耳にすることがあるのは、フォロワーさんだ。
晴れない気持ちの晴れなさの原因を言語化できるうちはまだ軽症で、症状がすすむと何も話したり書いたりすることができなくなる。ていう自分を踏まえて、子どもから無理に言葉を引き出さないようにせねばと自戒してる
安堂…!まさか、ロイド以上にサプリちゃんにあんなに涙腺やられるとは…。ああ、やはり今期、このドラマが私の大当たりだった。ありがとうございます!(2013)
そこにあるもの、起こっていること、それを顕微鏡で見たり望遠鏡で見たりを自由自在にできてそれを優しさに変えられるような人になれたらなりたいし、わたしがそうなれなくても誰かがそうなれたら嬉しい。
人の心を弄ぶような人は嫌いだ。って考えてたけど、そもそもどうしてそういうことをしてしまう人はしてしまうのか、それを知りたい。とも思った(もう少し私の心身に余裕があって寿命が延びてたらいつかまた考察したい。でもいまは置いとく)
理解しようとせずに支配しようとしてくるあの親類に対しては、理解してくれないなら消えてほしいと願っていた。そうすれば私は私のままで大手を振って生きていても彼女たちを傷つけなくて済むと。ていうか、傷つけずに生きていると思い込めて自己を満足させられると。そう思ってた。
未成年の頃の自分が外でしていたことをどうして、いまの私がこれほど曖昧にしか覚えてないのか分析してみた。きっと内側の問題で頭いっぱいだったからのキャパ保持防御措置
血縁は切ろうとして切れるものではないけど、心のなかできっぱりすっぱり防御壁を作ることができる。
誤解されそれきりになるとしたら、それきりで片付けられてしまう程度の自分だったというだけの話。
あのねあのねお母さん聞いて聞いてっていうのは園児や児童だけじゃないことがわかる。息子にちょっと今日はどうだったと訊くと、喋り出す。夫にちょっと今日はどうでしたと水を向ければこれも喋り出す。園児や児童の頃と違うのは、訊かれるのを待っているという点だけ。
お風呂では娘がずっと「どうしてあんな人が三次元にいないの!どうして私は二次元に行けないの!」ってずっと叫ぶのを聴いているだけの時間がそこにあった。
そうやって遠くの、顔も知らない人々に向かって何かをただ聞いてもらう場がなかったら、もしかしたら育児ノイローゼ的な状態になっていたやも知れない。
子どもがまだ乳児で外出もままならないときに、私も日記サイトを作って、htmlタグも少しずつ覚えて、掲示板も併設して、アクセスカウンタ付けて、キリ番を踏んでくれたひとにお礼したりして
だけど命を助けるなら少しでも一秒でも長く、楽しい思いもさせてあげて、安らぐことをおしえてあげて、愛してあげてほしい、欲しかった。お願い事を過去に向かってはもうできないから、せめて今の
だから、幼い子の命を助けることは未来にすごい宝を送り込んでいることかもしれないし、どんな可能性の含まれることなのかも計り知れないとも思う。
でも見せてもらっている。あんまりな、酷い親から生かされたひとが、沢山の人々に感動を与えたり沢山の人々の心に何かを残したりしている場面を目の当たりにすると、これは奇跡だなあと思うし、そして人は親の力だけで育つものではないとも思う
ひどい人ももしかしたら必要なの?正しくないけど、必要だったのかな?つらいよ。過去に戻ってその酷い振る舞いをやめさせたら、たどりたどって今の私の思考も存在も消滅しちゃう。だって成り立たないもん
よくぞご無事で、ようこそここへいらっしゃいました。って握手したい。
誰かに好きになってもらうために自分を無理に変えるのは却って不誠実だからしない、というか、できない
自分の思いを発信するときに、何ともいえない幸福な感じとともに、だけどどんな反応がどこからくるのか想像もつかないという怖さもある。自分の身が自分一人のものであれば、誰と刺し違えてみても何も惜しくもないけれど、誰かを巻き添えにしてしまったらと思うとやはり慎重になってしまう
熱い思いを、鍵あかでずっと呟いているひとを見ると、それもっと全世界に向かって叫んで欲しいって、横からついつい思ってしまう。
ひと良かれと思って精一杯生きている様々な分野の人々の働きのお陰でまた生きられた私
自分のシモのことや、きたないことを、責めずに受け入れて黙々と世話をしてくれる親の姿に当時ものすごく感動したんだけど、今になって、そのときの親は取り立ててすごく頑張ったわけじゃなく極々自然な行動をとっていたんだと理解できた
優しい人が熱くなるとき、それは愛ゆえなんだなあということ
ここで安心して暮らせるのも法律という規則があるからで、それに守られているのは間違いないのだけれど、その規則は個人個人の、最大公約数ではくくれない事情をときに取りこぼしてしまうケースも少なくなく、それを決めて運用するのは本当に難しい
もはやiPodのシャッフルを使うまでもなく自分のメモリーからそれこそ何十年分の脳内プレイリストからどれを選んで起き抜けに流してくるかわからない我ながら。
映画でもなんでも一見悪役だとか不気味な感じのキャラにまずは惹かれるの、何故なんだろう。髪で目が隠れてたりするともう、好感度アップ。黒い服など着てたら尚よし
ついったーやブログ等、こういうネットで誰かを存じ上げるの不思議。それまでは、偶々同じ地域に住んでたとか同じ学校や職場にいたからとかの縛りの中でしか人々と知りあえなかったのに。ネットなら何かのキーワードでご縁が出来て老若男女近距離遠距離に関わらず繋がれるのが面白い(今更だけど)。
産む前は、産んだらきっと自分の世界が狭くなるだろうと思ってたけど。違った。
この、奥底では自分を嫌いになれない感覚、これを教えてくれて思い出させてくれるのは、心のなかの諸々を言葉にしてくれる、私の好きなひと
私が自分を心底嫌いにはなれないのは、取り立てて目に見えるようなすごい貢献を世間に対してしては来なかったけど、むしろただ恵みをもらうばかりだったけど、こんな自分が全く何にも影響せずに息をしてきたわけがない、きっと無意味そうに見えても私の知り得ない意味があったんだと思えるから
身近なひとの助けになることが難しい。助けたいと思う例えば家族、親族、彼らのことを知れば知るほど、何が彼らにとって本当に嬉しいことなのか分からなくなってくるだけでなく、それが分かっても私にそれが満たせる気がしない。満たす根性もない。それが我ながら情けないといいつつ問題を先送り中
自分でもわかってるのは、心配事の七割以上が取り越し苦労だろうということ。
ごくプライベイトなことで些細な、それでいてどうしていいかよく分からないような悩みを思い出すと、何を観ても聴いても上の空になってしまう。早く抜けたい
素敵な歌があるから長生きしたいなあ。
そう、いつかなくなってしまうのに何故、生きたり愛したりするのか、ってところに思いを連れていかれて、一緒に観た子と道々語り合いながら涙を乾かしながら帰ってきました。陽だまりの彼女、二回目は一回目より涙腺の弛みが早かったです。
前の私は色々誤解していて、「天然ものこそ最高!化学はこわい!」とか単なるイメージに惑わされてた。その考え方が過ぎると却って有害だしひとを惑わせ傷つけるものなんだと知ったのは近年。お恥ずかしい。
隔年くらいのペースで人間関係がリセットされて余所者として社交デビューするのってしんどいし、その後の集まりでもなんだか話題についていけない感が癖になって、ひとといるのが場違いな気分が常につきまとう
会社の転勤というもの全般に私は昔からなんか憎いと思っていた。中学の時に学年の途中に唐突に友達から引き離され、馴染みにくいグループの既に固定した集団の中に飛び込まされた、いまとなっては良い経験値を積んだとか言えるけど当時の自分には生きるか否かの大問題で理不尽極まりないと感じた。
きっかけが偶々見かけた、レビューの高評価の一節であっても、それを選んだのは私。だけどその出逢いには人智を超えた何かが働いてる。
私や、子どもが、いま現在、その心を潤してもらってる様々なコンテンツや、大切な何か、それは、ふとした思いがけないきっかけで目の前に流れてきたのを、自分自身がそれを選びとれる条件が揃っていたからうまく出逢えたお蔭なんだなあ、って。
"二度と巻き戻せない時間 覚えていたい。"
ジョージマクフライの吹替で一番好きなのは富山敬の声。ああいうどこかか弱い感じのが良かった
自分のついーと傾向はどうだろう、とか、お別れはブロックでとは、とか、遡り読んでから呟くか呟いてから遡り読むか、とか、フォローしやすいアカウントのついーと数とは、とか、…
幸せになってほしいひとに、幸せになって欲しいと思ってることを気づかれずに幸せになってもらう方法って、ないのかな。
夢って頭の中から来るのにどうしてか自分が作った世界じゃない感じがします
ソーセージとかハムとか見ると、脳内に自動的に西城秀樹の『走れ正直者』が浮かぶ仕組みを持ってる
その事務所で怪しい資料をみせられながら、市販の、添加物の入ったあれを使うとほらこんなひどいお肌になっちゃいますよとか。それ聞いてたら二十万のそのお勧め化粧品セットをなんとしても今契約しなければ人生が終わるとまで思った。
手とか腕とか肩とか脚とか背中とかだもん。頭の形とか。前髪とか。でも若い頃に惹かれたそれらのポイントも今となっては何の決めてでもなくてとにかく雰囲気っていうか、まず、好きになってから後付けで、そう言えば笑窪がいいとか歯並びに萌えるとか何とでも言えるし
あと、私が幸せだなあって思うのは、ごはん粒を噛んでる時、素敵な歌を聴いてる時、人の作ったすごい良いものを感じてる時、好きなひとが人間なんだなあって感じてる時、誰かが幸せに笑ってるのを感じてる時、好きなドラマの最終回を観られた時、など
涙を見せたり暗かったりしたら怒ってくる大人、の話を読んで思った。私の身近にも居た。気持ちをうまく言語にできない子にそういう仕打ちをするのは子どもの心を否定して殺してるのとほぼ同じだと思ってる。自分を殺すことを覚えさせる、それはその大人がラクになりたいからそうしてる
自分が信じていて自分の思考を方向付けていた、あるひとつの仮定を「もしかしたらこれ自体が誤りではないか?」と疑ってみることで、その後はもう、同じ言葉を見ても別視点からの別な風景に見える。すると、かつては良かれと思ったことも、実は諸刃の剣なんだとわかってくる。
時間も、使える体力も気力も、有限なので、好きなものや好きなひとたちのことを見たり読んだり観たり聞いたり聴いたりして味わって過ごせる時間と環境を喜ぶことに主眼をおいていきていきたいです。好きなひとたちもそうできることが私の最たる願いです。
好きなひとたちの日常を綴った文を読みたいのは、ひとが私の妄想の中の存在じゃなくてちゃんと生きてることを確認するのが嬉しいからかもしれない
こわいひとだったし、自分の支配が子や孫に及ばなくなったと知ってからはひたすら死にたい死にたいって言ってたけど。音楽に触れている時間だけは笑っていられるように今はなってて
すずしろは清白って書くんだって。と、ご飯のときに子どもらに言ったら、大根どんだけけがれなきイメージなんだよと爆笑が起こった。笑うとこだろうかここ。
鎌田東二さんっていう宗教哲学者のひとが、神職の資格もありつつシンガーソングライターで、還暦にして比叡山でバク転で踊って歌える楽しいひとだという。めっちゃ興味そそられ
生まれるときからついったーに記録される時代、すごいなー
「人がこわい」という言葉をインターネットで見るたびに、この人が怖がる対象のひともまた、ひとを怖がっているのかな。とか思う。私は…ひとが私ともしも同じような構造をしているのなら、怖いし、鬱陶しいし、時には可愛いし、面白いし、予測不能だし、他の動物とはちょっと違うなあって思ってる
二人の子どもそれぞれの可愛いところをまた発掘したんだけれど、詳細に描写すると確実に彼らに身バレしてしまうので内緒。でも、しあわせ。
好きなひとたちが、幸せになるところって言うか幸せでいるところを見られれば私はきっと、そこにすごい深くて大きくて可能性が予測できなさ感を感じて嬉しくて救われる思いがするからかもしれない。
昔につらい目にあったことのあるひとなのに、というか、だからこそ、優しい、そういうひとたちが私の好きな大切なひとたちにいまなってくれているのは必然なのかな、偶然なのかな、それか私がそういうひとに惹かれるようにできてるのか。
自分が親に味わわされた痛みを子には与えまいと母がくいとめてくれてたから私はいまこうやってのほほんとゆるゆると生きていられる、これを忘れる訳はない。忘れてはないけど正視するのがこわいときある
あーでも、平易な歌詞のようなのにやっぱりすっごく良い歌だわ、これ(友~旅立ちの時~)
自然界にもっと多くの放射線が昔から存在していてそれに人体は適応してきたのだし、自然放射能と人工放射能とを区別するとかおかしいし、どっからどこまでが自然で人工だか、太陽光線だって自然界のものだけど一度に強く浴びればあぶないし
末の子を身籠ってお腹が大きくなってきたときの、上の子のあの期待と不安の混じったなんとも言えない表情を思い出してしまった唐突に。大丈夫なんだよ、見捨てたりするわけないんだよ大丈夫なんだよ、ってことを分かってくれてたかな
自分の脳みそに意表を突かれて嬉しいなう
身内との諸々の微妙すぎる悩み、それは簡単に他人に説明できるものでもなく、完璧に語るには数十年の歴史×人数分のことをまず説明しなきゃだし、それをしたところで何が解決するのかという。なのでこれだけ書き置くことにいつもなる「悩みはあれど、トータルすればしあわせ」
子どもらと晩御飯を食べながら、どうして自分は自分に生まれてきたの、ほかのひとじゃなかったんだろー、という話になり、どうも我々は、誰かの手に汗を握らせ面白がらせる役を誰かに演じさせられてる可能性がある。とか言い出して、
有機であれば安全とは必ずしも言えなくむしろ、危険な場合もあると。化学が悪くて自然が良いとも言えないと。
酢豚にはパイナップルが入っていると嬉しいし、いっそパイナップルしか入っていなくても嬉しい。
何歳になっても、子が初めてのことに向かうのって親としてはドキドキする。
ふと、いま思ってたのは、私を助けるためなら引き換えに死んでもいいって思ってくれる人間はあの母だけだろうなあって。仮にそんな場面があったとしたら、そんなふうに死なせてあげたい、それが幸せなことなら。と、おこがましいことを考えた。
そういえばTVで観た、蛍光塗料とペンライトを使うアートパフォーマンスが、幻想的だったよ。描いてしばらくするとすーっと暗闇に消えてしまう絵が次々と儚くて綺麗だった
もうね、自分とか家族とか大切なひとたちとかが、生きてて良かった思いをすればするほど嬉しいていうか、生きてて良かったと思ってもらう幸せをいかにたくさん味わうかが目的の人生。
ディズニーの美女と野獣、ベルが王子の目を見て「貴方なのね…!」の台詞あるから、あれはイケメンに戻ってというより王子がビーストと同一人物だったことが確認できて(瀕死だったのに甦って)嬉しい、だったと解釈したよ
そうだよね…一生懸命にやったことの結果が出ないことイコール自分の全てが否定されること、ではないわけだし、ニーズが噛み合うかどうかは努力が必ずしも反映していない、もやもやする世界、それが就活、
エスカレーターで降りるたびに銀河鉄道999の機械化母星でメーテルと降りてる想像をしてしまうの止められない
心ない人のせいで優しいひとが悩まされるの悔しい。妬みって、みにくい。誰かに意地悪したところで、そこではすっきりするのかもしれないけど、よくよくあとで振り返ったら虚しくなるんじゃないのか、自分に悲しくなるんじゃないのかな…
インターネットで言葉だけの交流をすることに不慣れだったころ、いろいろ勘違いしては泣いたり怒ったり誰かに迷惑かけたりしてた、あの初心者マークのころの自分。を無かったことにしたくはない、白日のもとに晒したくはないけれど自分では覚えておいて、やさしくなるためのよすがにしたい。
どんな弔い方をされても私はもう別にいいや。どのみちいつか宇宙に行けるかと思って。
布団カバーの紐は縦列と横列とで色を違えるなどしてもらえると助かる。宜しくお願い致します。
好きなドラマなどをおさらいしようとして気に入ったシーンをスロー再生などしていたら結局時間内に全部は観きれない、時間内に観ようとすると好きなシーンをスロー再生できない、ああどうすればいいんだ!とか言ってたら自由時間はあっという間になくなってた。
サーチュイン遺伝子を活性化するためのカロリー制限などやはり私には無理だった。反動でチョコ一箱を目にもとまらぬ速さで食べて味がわからない、勿体無い(泣)
すまほから音楽を聴きながらアイロンがけをすると速さは変わらないけれど気分良くできることがわかります。
女の子っぽいところのある男の子とか、男の子っぽいところのある女の子とか、魅力的だという/男女の体が入れ替わる系の映画やドラマ、好き/ギャップが好き。ギャップが好き。とにかくギャップ
二十代くらいのふぉろーさんが呟いていることをみると、我が子と重ね合わせて親の気持ちで見てしまうことが、多々ある
ピリピリしてたり尖ってたりしてる子は寂しいんだから何か褒めてあげるといいよって。
傷ついても堪えて涙をこらえているフォローさんに、こらえなくていいのにと声をかけたい気持ちと、でもこらえようとしているのなら祈るだけのほうがいいのか、という気持ちもあり
産んだあと、身内の言動が、普段はスルーできることでも深く刻まれて、いつもより百割り増しくらいは泣いて泣いて感情の起伏すごい山あり谷ありだったのを。当時の紙の日記には記してある。それを消したくても消せない、消すとあの頃の私がかわいそーだから
中学生の頃、芸能人にはまってる子を軽蔑したりしてた。アニメ最高と思ってる自分が偉いと思ってた。本当に、ごめんなさい。自分を恥じています
車窓から隣の車線のレールが見えて、枕木はもう速くて見えない状態、あれがたまらない。あの速さにしびれる。そんな共通話題
全部を見て知ってもらわなくても、かなりの部分を知っててくれるひとがいる。知っててなお、笑って薄目を開けて見てくれるひとがいる。これ幸せです。
私のこと全てを見せ尽くしてる相手がいない。たとえば自分のことAからZだとすると、AからLくらいまで見せてる相手と、GからPくらいまで見せてる相手と、とか・・・全部集めると私が完成しそう
半沢さんといい斎藤さんといい、しがらみの人質に家族が取られそうな場面でいかに自分を保持するのかの答えのサンプルを見せてくれそうで(2013)
私の何が幸せかって、昔から憧れてたこと、親の思惑をあまり気にせずに友達と遊ぶ、…を、子どもが実現してくれていること、そしてまたその報告を聞けること。そもそも友達の話を子が私に躊躇いなく話せる状況を持てていること
夫と私の職業観のあまりにも違うことにちょっと落ち込んだり、だけど負けたって気はしなくて、私のようなぬるい人間と夫のようなチャレンジャーとがうまく混ざってるからこの家も世界も何とかかんとか成っているんだろうなって思って
儚さに泣けて、でも引き止めてはいけないと思い、でも最初からいなかったようにはなってほしくなかった。だけど。やめるなら痕跡を遺すように放置してほしいなんて、私の我儘でしかないものね
我ながら馬鹿じゃないか。なるようになるんだから、もっと気楽に。だけど楽しみなことがあればそれが楽しみなほど、絶対にそれが理想的に行われなきゃと思いすぎて自分で自分にプレッシャーかけてるみたいな。
情けないけど、イベントが重要であればあるほど、それを無事に楽しめるか心配になりすぎてお腹痛くなってきたりするし、お腹が痛くなったりしないか心配になることで余計にお腹が痛くなってきたりする。イベント中は案外何事もなくてもその前後、神経がピリピリして胃腸に何かしら変調をきたしたり
香川照之さんの役で好きだった岩崎弥太郎。それとイチゴ娘。どちらもかわいかった
赤ちゃんの頃って一日単位でも刻々と変わっていくし成長するけど、かなり大きくなっても、一年前と今年ではもう違う
あんまりはっきり見えてしまってるものより、ちょっとちらっと見える何かに惹かれるのはなんでかなって思いながら
少し開いた口の中のちょこんと出ている歯、などを観ると脳の中からすごい長寿ホルモンが出て一日中幸せ
お兄ちゃんの旅の土産話を娘がまるで孫の話を聴くような顔できいててそれを見てる私もたぶん同じ顔でいた。
グリーンアスパラをマヨネーズと焼き肉のタレで炒めたのが好き
このPCの画面に沢山の日本語や英語の文字があって、それを眺めていると、世の中って何故あるんだろう、っていつも思って気が遠くなる
世の中、いつからあっていつまであるのか分からないことに改めて驚く。
アービンジャー・インスティトゥートの、「箱」関連の本はまえに私も読んだことあって、なんかすんごく泣いた。鎧を脱いだり脱がせたりすることについて考えさせられて滂沱の涙だった覚えがあって
子どもたちも生きてる間に何か彼らなりに、ああこれ最高って思えるひとや作品や出来事に遭遇できるといいなあ
たくさん練習してきたであろう生徒たちの姿をみて、そのひとりひとりのおうちの人々が「ああ、風邪を引かさずにすんでよかった」って思ってるだろうなと思ったらホントに泣けてきた。まじで。(子の学校祭)
BJの『不発弾』これのラストで彼が「おかあさん…」って呟くときのあの表情!一押し
少年誌漫画をかいまみて思うのは、男の子が思うカッコイイ男子と、女の子が思うカッコイイ男子はちょっと違うかもしれない。私は男の子が思うカッコイイ男子も好きだ。
昔、怒られて、泣いたら、泣いたことで余計に怒られたことある。泣くのを我慢すれば良かった(その時は)。だけど長期的に見れば、泣いて良かったと思う。怒ったほうも、「相手が泣いたことを自分は怒った」という記憶をのこしてくれただろう。それで溜飲を下げてる
笑ったあとにいつのまにか涙が伝ってました、人目がなかったら昔を思い出して声あげて泣きそうでした。(新潮文庫『それ、どこで覚えたの?』)
ひとにひとそれぞれ、思い出の曲があるんだなあってしみじみしている。
起きた時に既に脳の中に音楽が鳴り響いていることが多々ある。こんな炭素化合物で出来てる頭がどうして音楽を再現できるのか、その不思議さに悶絶寸前
涙や弱さを見せてくれるひとには、私も安心して涙や弱さを見せられると思えます。好きなひとの前では我慢しないのがお薦め。
なんていうか、ある程度は我が儘にしてくれてたほうが。思うがままにしてくれてたほうが。こちらとしては付き合いが気楽になる。というのをふまえて敢えて私のほうはある程度は我が儘なスタンスでいようとしている
娘の寝顔がずっと変わっていない気がするのはあのアハ体験の動画みたいに少しずつ少しずつ変わってるから気づかないだけなのかな。
息子が普段は家族の前で自分のこと僕と言うのに、電話かなんかで一人称が俺になってるのを聞くと、なんだか楽しい
私は好きなひとに関して興味があり、好きじゃないひとには興味がない。だけど好きになる前のひとにどうして興味を持ったのか、不思議としか言いようがない。
安藤百福さんのことがテレビで取り上げられていた。今日の非常識は明日の常識、という言葉が(2013)
好きなものは好きなんだけど、嫌いなものに対しては最近本当に嫌いなのか自信がなくなってきた…
あの子が幼少の頃にできてなかった様々なことに、今ならもっともっと優しい視線を注いでやれたのにと思うと泣けてくることがあるから、その法則でいえば今のあの子の多少のあれこれは数年後の自分の目からみたらもっと他愛ないに違いないや
いつでも使える技ではないんだけど、どうにもこうにも子どもに大人げなくなっちゃうときに、ちょっと他所の子を預かってるようなつもりになってるほうが落ち着く時があった(ってそんなふうに仮想できるくらいなら苦労しないんだけども)
子どもが乳幼児の頃に自分が感じていた、いろいろぐちゃぐちゃした思いがあって、まあ大抵は自分の大人げないところを嘆いてるんだけど、それを日記に書いて、ずっとずっとあとで子どもが子どもを持つ頃に見せようと思っていたんだ。だけどいざその時になったらきっとすごく恥ずかしい
自分の中にある、正しいと思うものを、自分くらいは信じていたいので、そのために、好きなひとの幸せを幸せに思うひとのことを、見つめていたい。
運転免許を奇跡的に取れたときのことを思い出してる。あんなに教官に怒られ泣かされ。大人になってから泣くほどに怒られたのは血縁者以外初めての相手
好きなひとや好きなものがありすぎて時間が欲しすぎてたまらなくてつらい。と。それを聴いてどんだけ私が幸せだったか。(子との会話)
図書館とか本屋さんに行くと気が遠くなってこわくなる。どうせこのフロアにある本たちのことも読みきれないのに世の中にもっと沢山の、読まれたがっている作者の作品たちがあることを意識すると、虚しさと、そんな広さっていうか大きさ?嬉しさ?を感じてしまって
ネットで気疲れしない為には次のいずれかの方法。一、読まない。二、読ませない。三、書きこまない。
どうして、自分に理解できない感覚や考え方に出会ったときに、それを自分の理解できる枠に無理におさめてしまおうとする人が世の中に居るんだろう、残念
喜んでいる自分を喜んでくれる誰かがいてくれたおかげで、いま、誰かが喜んでると喜べる自分でいられるのかも。
この先、目が見えなくなって耳が聴こえなくなったら自分の脳が毎晩見せてくれるこのえんたーていめんとだけで生きてくのかと思うと、今のうちにいろいろなものを観て聴いてインプットしとこうかと。
それ今そんなに要らない知識だろうなってことばかり蓄えては楽しんでいるあの子がこの先、どんな居場所を見つけて生計をたてていかなきゃならないのか、全く想像もつかなくて、それを手放しで面白がるにはあまりにも私は近すぎる。
どんなあなただって大切、どんな状態のあなたであったって大切、それを私は子どもらにうまく伝えられているかなあ。伝えたい。
心の中でたくさんのひとたちと乾杯したり輪になって踊ったり拍手したり好き好き言ったりしながら、気持ち良い涙を流していました(心の中で)
ひとりのひとに片思いをしすぎていて、周りを見ていなかったせいで、記憶に残せなかったあのクラスメイト達の面白さを。いまさら発掘して驚いている。もっと早く気づけば良かった。
居酒屋では人の声が聞き取りにくい。ある程度、何かをごまかしながらそこにいる。五割は聞き取れ、その五割は理解できる。
何学部で何を勉強したかっていうこと以上に、学生生活全体を通して、仕事現場に役立てるようなコミュニケーション力だとか情報処理力だとか、が身に付いたのかが求人サイドからは問われてるかなって気がします。どんな勉強も無駄にはならないかも
(とある大学の)哲学科の先生のお話。ものごとをいかに自分で自由に多方面から考えて表現するかの訓練なので、就活の面接で強いですよ!ってな感じで就職にも不利じゃないぞアピール(2013夏)
だけど二十年以上経って、まさか自分が、インターネットで出遭う人々を好きになったり、そんなひとたちから教えてもらう曲や映画を好きになったり、するような日が来るとは。想像もしてなかった。このあとも何か想像もしてないようなことが起こるかもしれないって思ってる
いま子どもが夢中になってる音楽が一生あの子の心に時々流れて癒しつづけるのを思うとなんだかいとしい。
物悲しい。どうしてただただ生きるために生きてしまうだけの時間しかない
うん。私が親の入れ物じゃないように、子どもも私の入れ物じゃないってことを忘れないようにしつつ、縁のあったことを喜んで生きていたいなあ。って思った。
歳をとってきたからか、自分の今までに経験したことや蓄えたことを何でもかんでも子どもに伝えてしまいたいなどという欲望まで出てきちゃうけど、これは慎みたい。彼も彼女も私を注ぎ込む入れ物の役割なんか負いたくないだろうと思う
喋ってて楽しい瞬間は、私と同じ感覚が子どものなかにもあったと発見するとき。と、私と全然違う感覚が子どものなかにあると知るとき。
見ててくれてると実感すると途端に視界がぱあっと開けるし、痛いところの痛みが軽減する。受け入れて貰ってると実感するだけで景色が違ってみえちゃうんだ。
家族も、それぞれが自分の時間をしっかり持つことで、家族と一緒の時間を楽しむことができるのかもしれない
アイロン掛のときと炊事のとき、熱気は炊事のほうが大きいのかも知れないけど感じる不快感は炊事のほうがマシなような気がする…もうすぐ食べることができるという気持ちの効果なのかなー(夏)
声で好きになるし、好きになったひとの声を好きになるタイプ
小さい頃、実家では「お水」のことを「おぶ」と言って、子どもに「おぶを飲みなさい」と。私も「おぶ頂戴。」と言ったり。方言なのかなあ
遠く離れたひとの声が私の、たくさんの、ひとびとの心を切なくさせるこの仕組みに気持ち良い涙で角膜を適度に濡らされてる。独りじゃない感じがする
すてきな歌詞を書くひと、すてきな曲をつくるひと、すてきな声で歌うひと、それを届けるために頑張ってくれてるたくさんのひと、受け取って幸せになってるひと、のことを思う毎日
なぜ人間は「なぜ誰々は何々してしまうのだろう」っていう言葉を見聞きすると、誰々が何々するものなのかと思わされてしまうのだろう
"好きなひとを幸せにする歌が好き / 好きなひとを幸せにする歌を歌うひとが好き"
たぶん、同じ文面のついーとを二年前に読んだのと今読んだのでは私の受け取りかたが違うと思う
一日=24年、位の体内時計で生きる生き物から見たら今の私なんか。ちまちまして見えるんだろうな。だけどこの一日24時間が泣けるし笑えるんだからしかたがないの
もしかしたら一億年くらい後には今の人類とは別の生き物が文明を築いてて、彼らは一日=24日、とか一日=24年、とか、そういう体内時計で暮らしてるかもしれない、
本当に三次元で生きてるひとが泣き叫ぶところは心苦しくて見ていられないけどドラマだから好きになれる/見ていられなくはない。一緒に泣いてしまうけれど。でも泣かせたいとは思わない。ドラマだと泣くところを態々観てしまえる
何かの物語作品に心を掴まれると当分の間、私の半分以上はそれに支配されいつもいつでもそれを思い浮かべて生きてしまう。
心に思い浮かべ脳内に流すだけで泣けてしまう曲が私にもある。切ないストーリーの映画のテーマ曲だったり、その頃の自分の心境を思い起こす引き出しの取っ手のような曲だったり。もし記憶喪失になってからその曲だけを出されても私はきっと泣けない気がする
こっちから見たらただただ悪としか思えないことが、こっちから見たら愛しいとか、そういう事例と出遭うたびに、その矛盾を何とかしたい、なんとかできるんじゃないか、などとひとりでやきもきしたことが多々あった
家族からはママと呼ばれ、外では苗字で呼ばれる。私の役割で呼ばれている。だからたまに、個人として名前で呼ばれるとうれしい。ついったーのひとにユーザー名で呼ばれるのもうれしい。
恋愛感情もないし友達になりたくもないし、感じ方も考え方も不調和極まりない、のに、やはりこの人のことを端的に言ってしまえば愛している。なぜ彼と出会ったのかずっと神様に問いただしたいと思っているけれど本当は、答えを私は知っている気もする。というか答えの一歩手前で足踏みしていたい(夫)
自分以外の誰かを幸せにしたい欲、自分以外の誰かが幸せでいるのを見たい欲、は確かに存在する。←私の場合は偶々、その最大は我が子に向かっているだけで、人によっては恋人、配偶者、親兄弟、人によっては仕事を通じてもっと多くの人へ、間接的に直接的にどこに向かうかは人それぞれだけど
忘れてしまうと過去が可愛そうな気がするけど、忘れてしまったほうが絶対心が穏やかになるだろう記憶がある朝。おはよう/哀しい事以上に、楽しいことや好きなひとのことを思う時間をたっぷり持ちたい
聴いた子どものいびきが超かわいかった。このかわいさ幸せを、好きな人の聴覚に直接送って分けたい欲。でもそれには私の十数年の歴史と私の感覚をも添付しないと全く意味を為さないのかと思うとどうにもはがゆい
生まれた国で差別することはいやだけれど、その国の施している教育が、よその国を貶めること又は自国を下げることに、主眼を置いていた場合、そういう刷り込みの仕組みには、警戒してしまう。
もし目がみえなくなったらネットで仲良くしたいひとやついーとを読みたいひととのお別れを余儀なくされるのが、本当に本当に恐ろしい、この思いはついったを始める前にはあまり感じなかったこと
結局は私は家族に心配事があると一緒になって心から遊べないから。自分も宿題を済ませるまで安心して遊べないタイプだったから家族にも早く一緒に遊べる状態になって欲しいんだろうな、我儘な気持ちだ。
ふと振り返って私は、子どもに、未知を楽しめる余裕を許してきただろうか(とは自分では思うけどそういう雰囲気を伝えてきただろうか)って思った。
振るときははっきりと、それと分かるように振って欲しいと思った。
独りだけど一人じゃないけどこの思いは私だけのもの、でも私だけでは持つことが出来ない思い
そんなことができるのもこの身体のお蔭だし、この身体を支えてくれるあらゆるものやひとのお蔭だし、遠くのひとの歌声も届けてくれるあらゆるものやひとのお蔭だし、ありがとです。
そんなこんなでテレビ並びにネットでも、懐かしかったり新鮮だったりする色々な歌に触れて、命の洗濯をしてた。だから一人じゃない。何かを思って泣いたり笑ったりしたことのあるひとのことを思う時間だった。
駅前に飾ってあった笹の枝にたくさんの人々の短冊、そのなかにひとつ無記名で「会えますように」と一言だけのを見つけた。
私が好きなところは、雫ちゃんがおじいさんに自作の物語を見せるときのドキドキ感とか、誉められたときの緊張がほぐれての号泣とか。わが娘と被って感情移入してしまう。娘だったらと思うと彼女の肩を抱きたい。
やっぱり母には失われた青春を取り戻してほしいとおもった
たくさんのものやひとに好きって思えて楽しいんだけれど、もし好きの対象がただひとつだったらもしかしたらもっと幸せになるのだろうか、私。わからない
でも、何をしなければいけないかということからこうやって目をそらしていたら、子どもへも悪影響が及びそうだし、いつかいつかホントに本気だして、片付ける日が来ると思うの。いつかいつか…面倒くさいは罪。子どもにもしめしがつかない全くつかない。自分で自分がいやだよ。
超絶美人になればかなりのことがうまく実現できそうだけれど、超絶美人にならなければかなわないようなことは本当はたいして大事ではないのかもしれないなー。
やっぱりあなたの代わりは誰にも務まらないです。
ネットに発する言葉だって、私の言おうとしてることはもっと的確に、もっと影響力のある誰かがどこかできっと既に発してる。仕事だってそう、私などが表にいかなくても私より上手なひとがほらここにもあそこにも。って感じた瞬間、嫉妬ではなくて、不思議なんだけど、落ち着いてしまい安心してしまう
彼女の描く絵、拙くても私には唯一無二の魅力があって、だけど世の中にあんなにもっと秀でた作品が無数にあって、彼女のやろうとしてることは世界の誰かがもっと効果的に既に実行している、それを敢えて考えずに趣味に没頭できる娘が可愛かったから、
私のとてもしょうもないところを発見した。人間関係でも趣味でも何でも、どんな場面でも、…私の代わりはいくらでもいるもの。って思った途端に一種の安堵感から、あ、良かった、私のしたいことをきっと誰かがやってくれるからという安堵感から、なんとなく観客になってしまおうとする傾向にある。
運転免許、私が取れてしまったことが恐ろしかった。時速40以上はこわくて出せなかったし一人ではバックできなかったし、だからその後は専ら身分証明書として使ったよー。こんな私のようにならないようにしっかり練習してくだされ。
"声優さんて確かに子どもから大人から動物からロボットから何から何まで演じられてすごいなー。銀河鉄道9 9 9の声優さんが好き。スネ夫の声も演じてたひと。"
ジャニーズファンはたいていおかしい、のではなくて、ジャニーズファンはたくさんいるからその中にいるおかしい人の数もまた多くなるし、目につきやすくなる。ということだと思う。
家族が好きなのに家事が得意にも好きにもならないってひととしてなんか私はおかしいと思うけども。逆にここまで家事が苦手で興味持てず嫌いな人間でも家族に衣食住を最低限でも提供してきたこの歳月、自分ではとても誉めたい
社交の場に出て遅く帰宅して、あー疲れたなんて言うと。自分の遊びで出ていたのに疲れたなんて絶対言ってはいけないと叱られたのを思い出す。でも遊びでだって疲れるときは、疲れるんだもん
これ以前も呟いたかと思うけどやっぱり、弱くて間違ってしまうけど愛に辿り着く、っていう話や人々を観るのが好きなんだと思う。そういうひとたちへのいとしさを、ドラマだから私自身が無傷のままで彼らを見ていられるから
だいたい映画芝居ドラマを少なく観ては、はまれば数ヵ月数年ずっと登場人物が私のなかで実在しちゃう
(おかげさまで無事だった)へその浅さは子どもらが中から蹴りすぎたせいなの
手を繋いで歩ける時代、貴重だった…
話してて思った。彼女のことを私は解っていると思ってしまっていた。だけど、それはあくまでも私の発想の域を超えてない理解でしかなかった。まだまだ彼女のなかには私なんかがはかりしれないものがあって、やっぱりわかんないや、だからもっと好きになった
色が鮮やかではないほうが美味しそうに感じるという感覚がもっとひろがればよい。
なぜこのひとだったのか、お互い、なぜなのか、神様に逢ったら真っ先に質問したい次項
ひとを欺いたり傷つけたりするひとは、お天道様が見てるということを知らないでしてしまうのなら、お天道様に見られてないうちに今度は自分が欺かれたり傷つけられたりしても文句はないのかなあ。
小さい子の泣き声がするとこっそり近くにいって鑑賞用に録音したい(危険人物)
友達の友達が必ずしも友達じゃないし、好きな人の好きなものを必ずしも好きになるわけじゃないけれど、でも「あっ、何だか何かを感じる!」ていう瞬間はたまにたまに訪れる。
で思い出したのはOL時代にやたら頑張っちゃって昼休み返上で仕事しようとしてた私に先輩が忠告したこと。それって一見ひとのためのようでいて実は働きにくい職場にしてしまうんだから止めなよと。誰かの無理で仕事が回るようにしちゃったらみんなのためにはならないんだよ、と
でもそうやって僅かな限られたメンバーが無理をすることで回っていくようなイベントや組織はよくない。みんなが自分のキャパを超えない範囲でできる環境を作るためには、結局、誰か一人が必要以上に無理をしてはいけない、
うわべでだけノーマル家族を演じてた彼らが、本音を噴き出してぶつけて家のなか滅茶苦茶に壊して、その虚しい瓦礫のなかから少しずつ歩み寄ってホントに家族を再スタートさせるんだけど、鈴木保奈美さん演じるお母さんが、まず家の片付けから着手したのが、私からすれば神の偉業だなと
子にとってこの家が、というかこの我々親が、居心地のよい止まり木に成れているかどうか不安になってしまう。ホントいざというときは晒け出してくれるかどうか。でもこの気持ちを私が露にし過ぎると逆効果だと思う。日常の仕草や態度で安心感を感じてもらうしかないんだろうなあ
なぜ適当な服を適当に着ている時に限って出先で知り合いに遭遇するのか
たぶん、私はひとの心を感じさせるものやひとが好きでそれを見ることによって癒されたり、そこで感じたことを家族との関係性に活かせたり、している(自己中だけど)。ついったを勝手に使いたいように使う同士がふと何かを種まき合うという瞬間に時々奇跡的に出逢ったりするのが、好きなんだと思う。
私のついったの使い方というか感覚、は自分でも時によって変わる。好きなひとたちをじっくり観たい為だったりもするのに、ふと、誰に向けてでもない勝手なことを書きたくなるし、私に向けてでもない勝手な言葉を読みたくなる。それもまた私の栄養にさせてもらったりしている。
病院への付き添いうぃる。たのしく行くようなところではないけど、身体があってよかったことをおもいださせてくれる場所
いろんなものが目の前に現れても、私の心に引っ掛かってずっと心に住んでしまうものは、僅かな数のもの。
そう、ただただ抱きしめられることの幸せ
女子中学生のノリに、中学生だったころからついていけてなかった
ピノコが本当の歳相当の八頭身美女で描かれる回があって『人生という名のSL』だったと記憶してる。BJのピノコへの愛、すごく泣けた
照れたり泣きそうになったり笑ったりするひとの声って素晴らしいね。好きなひとの歌声を聴いていると幸せ
右を下にして寝てると鼻の右側が詰まり左を下にして寝てると鼻の左側が詰まる。このシーソーあるいは砂時計的な遊びをあと数回繰り返したら、/だけど詰まってた側がすーっと楽になり風が通るときの快感が忘れられなくて逃れられなくてどうするどうなる私は
母の話を聞きながら、少女の頃の母を抱きしめているような気持ちでいた。
この歳になると、時の記念日の「時」っていう文字を見ただけで万感胸に迫ってしまって涙腺が開いてしまいます。日偏に寺ってところも良いし。
男の子が女の子を可愛いと言っているのを見ると安心する。男の子は女の子を可愛いと思うのは現実にあることだったんだと思って安心する。私の想像だけじゃなかったんだとほっとする。(息子の件で)
やなことばっかしあるときに、「それをあなたは味わうためにわざわざ体を借りて生まれてきたんだよ」と言われて、はいそうですかって納得できるかできないか、この宿題の提出期限はいつですか
好きになればなるほど、彼が私以外の人と幸せになればいいなと思ってしまった。両想いが未知の世界になっていった
宗教がわるいんじゃないと思う。その宗教じゃなきゃだめという考えと、その宗教じゃなきゃだめという人を利用して喜ぶ考えが、わるいんだと思う。
好きなひとが、ご自分のことどうでもいいからみんなに幸せになって欲しいと言うのを聞くと。哀しさ切なさと同時に嬉しさをも感じてしまう私は冷たいのかもしれないけど、自分のことより誰かの幸せを願える心にはそれを「幸せ」と名付けていいと思うので。
リアルで物理的になでむぎゅされたのはもうずっと何年も前のこと。今は私がなでむぎゅする役。だけどたまには私もされたい
初めて息子が発した、意味のわかる単語が、「パパ」だったことを思い出した。私がその頃に一番発してた言葉の中で最も真似しやすいのがそれだったんだろうなあ、って。
「このドラマはフィクションです」みたいに、いろんな教典は「これは喩え話です」が付いてると思って読まれればいいのにって子どものとき思ってたけど、そんな但し書きが必要ないくらいそれは自明のことだったのかも、考えてみれば。
子どもと話してたんだけど、人の振り見て我が振りなおせっていうけども。それがよい振る舞いか悪い振る舞いかわからない場合はいくら見ても我が振り直せないよね、って。
あんまり平穏な気持ち過ぎて、過去のあの時点の自分やあの時点の自分に申し訳ない気持ちになる。そこに今の自分を送り込みたくなる
あの子は予想済みのひとつの現実を掲示の板の前で突きつけられる。きっと顔で苦笑いして心では一年間の夢や葛藤を分別整理する取っ掛かりの足場をやっと踏みしめながらいつか微笑みながら思い出せる自分になる日をまだまだ想像できずに人混みの中を無言で帰宅するのだろうな。(とある年の3月)
ありがとう、食欲、性欲、睡眠欲さん。あなたたちがいたから今の私は居ます。
ひとが好き、って思える私はたくさんのひとたちのおかげだとわかって嬉しい。
わかった。私の今の悩みの九割を解決する方法。「どうしてこんなになるまで放っといたんですか!」などと言ったり思ったりしない、無の心を持つ無償奉仕の片付けやさんがいればもう何の問題もなかった。って一日に百回くらい考えてるなあ
身体はいつかなくなるの頭では分かってるし、だからいつかお別れしなきゃいけないの(頭では)分かってるけれど、そのことを考えちゃうと涙腺が崩壊する。
ひとに対してじゃなくても、ひとが作ったものに対してでも、ひとが作れないものに対してでも、それを好きって思う気持ちがすごく好きだし、そういう気持ちが今までにもこれからにも自分の中に、好きなひとの中に、あればあるほど、私は幸せ。
世界にたくさん在る中で、比較してあまりにも少ないひとや作品にしか生きてる間に心に仕舞えないたちなんだけれど、今までに出会ったひとや作品で既にとても幸せになっていることを時折思い出す。もういつ終わっても実は悔いがない。ただ、それを一秒一日でも長く味わいたくて生きている気がする。
泣いてるひとをみるといつも思うのだけれど、涙、まだ人類が発見していない成分が含まれてると思う。と思いたい。ものすごい滋養強壮なものが入っていたらいいと思う。
子らが一度は普通に就職するところを見届けたい気持ち、これ結局は私がラクになりたいからなんじゃないのか。
万が一にもSOSを発信しててそれに気づけなかったらどうしようって、いつも心のどこかにある、このことから解放されるときを心待ちにしてるような寂しいようなどっちなんだろ。
気にしてない振りで見てないていで、実はあの子の口許目許を見まくっているですよ。
大きくなった子どもの口数が少なくなるの心配になるけれど、家で親に聞かせなくてもどこかに吐き出せているんならいいんだ…それに、思い出し笑いでにやける瞬間を目撃したから、いいんだ。
なんか、私の小さい頃に。母がいつの間にか泣いてたことがあったなー。幼すぎて私はわかってあげられなかった。寂しかっただろうと思う。雨が降ったりやんだりしてたんだろうな、短いサイクルで
自分が、大変だった頃のいろんなイベントとかピンチな場面とか思い出すとき、だいたいが喉元過ぎれば熱さも忘れちゃってるから、忘れちゃうことはいいのだけれど、その当時の直前の不安とか恐怖とか必要に応じて思い出してもみたい。
目に入る、全ての言葉には、一概にそうとも言えないをつけようとすればつけられるけど、だったら私の喋ることもそうなのだなあって。
自由な柔軟な心の感じのひとが、それ込みで何かに敢えて没頭してて、でも没頭していながらも自由なひととか良いよね
やっぱり、色々な角度から何かを観ることの出来るひとが、好きなんだと思う、私は
常識だとそのひとが思ってるであろうことを崩したくもなって
リアルの人間関係よりもネットでの相互理解のほうが余程難しいと思う。判断材料となる情報が、言葉しかないから。それを受け取る側の主観も、体調だとか気分だとかに左右されるし。だからネットで誰かと仲良くなれることは、とんでもない奇跡だと思う。
自分の主張を正当化するために事実と違うかもしれないことを作り上げて撒こうとするひとは何を目指したいんだろう
ひとの一生について思い巡らす一方で今夜の歌番組には誰が出るのかとか考えてる。電車の中の人々は何を思ってるのかなって考えてる。朝には身体があったひとがいまはもうそれを持ってない。とか。急に、自分がどんな仕組みで生きているのか心許ない。
回らない頭で考えたこと、色々はひとつに、ひとつは色々に、かなあ。こんな簡単なことじゃないのかもしれないけど
それまでなーんにも興味がわかなかった分野に、何かの拍子に急に惹かれてしまうことってあるなあって思って、寿命尽きる瞬間まで油断できない気がしました。
心のなかのいろんな人がいろんなことにふれ触発され啓発されつられて起きたり寝たりしてる。
何でもないことを何でも聞いてもらえることの有り難さをしみじみ感じています。
時々よくわかんない寂寥を感じて堪らなくなったりとか彼の彼女の心の中が見えそで見えなくて気を揉んだりとかしちゃってるんだけども、それも宇宙とかから支給されたこの身体を着ている今だけなんだよね。脱いでお家に還ればなんのことはなくみんな一緒に裸でお喋りするんだよね?と思いたいです
子が園児のころなど思い出してる。あの頃あんなに私は自由な時間が欲しかったのに、あの頃の子どもたちにまた逢いたくなったりしちゃう
けどね、何も知らないひとに向けてだからこそ、この無責任なことが言える。いつか誰かをものすごく好きになって、振り向いてもらえない対象を好きになって、ただそれだけで生きていける日も、来るかもしれないし来ないかもしれないの。
居てくれたら幸せだなあって感じるひとが、気遣いではなく笑ってたらもっと嬉しいけど、この気持ちを酌んでもらった結果の笑顔ではなくて笑いたいからの結果ならいいなあ、って望んでしまう
(続き)二度と来られないお店なのか、またいつか来るお店なのかは、わからないけど。
"今回の人生で味わえなかったことが多々あってそれは燃える恋だとか世界をまたにかけるだとか、これってお店に入って頼めなかったほうのメニュー/ 自分のお腹のキャパ限界から食べられなかったメニューのことどうやって諦めるか悩むよりは、いま食べてるものを適量ゆっくり味わったらいいのかなって"
(子どもに対してでも大人に対してでも)自分の気持ちをどのくらいのタイミングでどのくらいの、量と速さで届けたら、気持ちよく受け取ってもらえるかなあって、それを自分の主観で測ってあれこれ悩むことは多い。薄氷を踏む想いっていうか。だから、受け取ってもらえたときはそれはミラクルな瞬間
低線量の被曝を極端に恐れることによる弊害も、確かにあるようです。被災地の復興を妨げたり、差別につながったり、妊婦さんの心に悪影響があったり、輸入食品のほうが安全だと勘違いしたり、怖さにつけ込む商品を買ってしまったり。でもそのことを指摘する学者さんは、御用レッテルを貼られてたり。
なんか、小さい頃は悔し涙が多かったけど、歳とるにつれて感動系の涙の比率が増えて嬉しい。
そうですね、自然って素晴らしいね。あ、自然って、山とか海とか空とか花とか星とか、だけじゃなくて
あったかいひとになりたい。いつも、なりたいっておもうばかり。自分の冷たさを消すにはどうすればいいのかわからない。いつも結局、ひとにはそのひとだけのものがあって、その芯にはお互いに関われないことを肯定してしまう。
いままで気づいていなかった誰かの魅力にある日突然に射抜かれて幸せに陥ることってあるんだもん。それは生きてて良かったと思うんだもん。四六時中、そんな好きな対象を思っていられることがあるんだほんとに。
私の期待しないところで時空を超えて誰かに届いて何かの種を蒔かないかな、なんて、期待する自分がいる。叶ったところを肉眼で確認できやしないのに。それでもいい、って、思えたり思えなかったり
子どもに存在を意識されない親になりたい。つまり、親のことを気にせずにいられる心理的環境をあたえられるひとになりたい。
エゴをすっかり濾し切って純水になって、誰のことも潤せて、誰も傷つけず、誰のどんな形の価値観にも容れられる人になりたいって思うけど、でもこれって自分が消えることだからできないとも思う。
もやもやをどこまでも追究して晴れた暁には、いっそもっと本当にらくになるかもしれない。私はそれまでに何億年もかかるけれど、この世界にそれを数年でやり遂げてしまってくれる人が僅かにいてくれるかもしれない、そう思うと世界が好き。
おはようございます。私など、自分のこともひとのことも追究するの疲れちゃうからというか頭が回らないから、もやもやしたままでいいや…このほうがらくに過ごせるから…なんてどこか諦めちゃってるけど、だから一生懸命に考えて考えを遺してくれるひとには頭が下がります。
何年も経っても傷つけられたときの記憶、なんかなんだか、忘れてしまいたくないって思う、忘れちゃダメって昔の私に言われてるようで。でも薄く薄くしたい。忘れるのと違う
本当にタイムマシンが欲しいです。相手が子どもだからっていって理不尽な目にあわせてるような人の現場を取り押さえたい。
歌声を聴くと、歌うひとの歌ってる顔を思い浮かべる。生きてるって感じがする。
理想像を作りすぎて、そこになかなか到らないからといって悲しくなって全部リセットしたくなっちゃう、そんな気分に過去二十回以上はとらわれたことがある。今はそこまでじゃないけど
細胞が入れ替わるの脳も同じだろうに、二十年も四十年も前のできごとや感情の記憶が保存されてて時々思い出せるのなぜ。この世にある物質だけでこの仕組みを作ったのすごい。
中高生のようにSNSにハマってみるとわかってきたこと。誰かが読んでいてくれる、誰かが関心を持っていてくれる、ということが書くモチベになるんだな、と。子どもも、あまり凝視されると息苦しいだろうけど、無関心のなかではもっとやる気をなくすんだろうな、
今はこれを恨みとしてではなく、無知とは哀しいものよのう、的な微笑ましい未熟さの象徴としての思い出になっているのだった。
私に好かれているという事実だけを好かれる、ということはよくある。
そのままの自分でいいって言われるだけで生きるモチベが、だだ上がり
子どもにも、家族以外に、こんなふうに、脳と心をシャッフルさせてくれるような素敵なつながりを、ネットで持って欲しい(但し私の知らないIDで)。
リハーサルの存在しない子育てや、子どもとの付き合いの中、揺らいでは立ち直し、この揺らぎを子どもの前では見せたくないから、オトナの私はこういう場所でたとえばついったらさんに向かって「おかーさーん」と甘えさせて貰ってる気分。そして自分の狭さを俯瞰で見る羽を取り戻させて貰ってる。
風化する自分の脳、哀しくて心地好い。悔しいことも、愛しいことも、貰い泣きも、貰い笑みも、諸々の思いの記憶を、宇宙の誰かが預かってくれるなら砂になれる。冷凍庫よりも堆肥コンポストで。無記名でいい。誰にでも使われればいい。私のもののようで、そうでもない
まだ起こってもいないことを悲しく想像して泣くのを、あとでやめたい。だから子どもを送り出したら、ゆっくり遡り読み。それまでインターネットと電気の供給と自分の視力がそこにありますように。祈
私も疲れていたときに息子(当時は幼稚園児)のパンツを洗濯機に入れるつもりが自分で穿いてたりしたっけなあ…
幸せになってもらいたいなあ。想像するだけで幸せになる。ていうか今、めっちゃ想像している。こんな時の自分はもうもし誰かが横から見たらどん引くと思う。頬がゆるんでゆるんでもうだめだめだ。いま鏡をみたら叩き壊したくなると思う
二年間探し続けてるヘソクリがあるんだよね…正確には、二年前にとある場所に取っておいた一万円、どこにしまったか忘れたけどそのうち思い出すだろう、そのうち出てくるだろうと放置、時折ふと探す気になって探し出すけどすぐ諦める、を二年間続けている
次に生まれてくるなら思想の自由言論の自由生存権とか基本的人権の尊重とかきちんとしていて、うえのほうにまずいこといっても逮捕されたりしなくて、お水が美味しくて、医療費が安くて、17文字や31文字でできるポエムがあって、ちょっと謙虚なお人柄のひとがいる国とかがいい。
ただ、私が夫のことをとても誇らしく感じる点がある。家族に一度たりとも手をあげたことがないし、あの無茶苦茶な幼児期の男の子のことでさえ一度も叩かずに諭していた。このことを振り返ると
「他人にされていやなことを自分はしない」というだけではもううまくやってはいけないんだよ。されていやなことが人によってこんなに違うんだもの。ってことを実演してみせる私達
○○産のものは危険、とかの十把ひとからげも虐めみたいなものだし、何かの物質がちょっとでも含まれていればもう命に関わるものだと思わせてしまう思想も虐めみたいなものだし、何がどの程度であればどんな被害が出るのか出ないのか検証してない煽りは刃物になっちゃう。
おやつ以外の食事が嫌いだった。食事の時間がなければもっと人生は楽しいのにと思ってたし他に楽しいことあるんだから時間の無駄だと思ったし給食に感じる強迫観念っぽい恐怖もその延長に。お腹が空かないうちに大量の食事が用意されている、ことのいやさ。それを残すなという無言のプレッシャー。
カップヌードル博物館、あんなに混んでるとは思わなかった。安藤百福さんが無一文から一念発起してチキンラーメンを発明したのが48歳、カップヌードルを発明したのが61歳、初の宇宙食ラーメンを作ったのは95歳の時…すごいなあ。
あなたがあなたの価値を知らないかまたは認めないときでも、私はそこに惹かれていますよと、言いたくなることがある。
でもこういう夢を観られる自分の脳がわりと好き。この脳がなくなったら私の好きなひとたち好きなものいろいろがどこにいってしまうの。身体がなくなっちゃったら私はどこにつれてかれるの。こわいね死ぬのこわいこわい
好きなひとが多くのひとに愛されるほど嬉しいというか誇らしい。そう、誇らしいの。これ本当に。あまり理解されたことのない私の本音だけれど、好きなひとは百万百億のひとに愛されてほしいと本気で思うし願うし祈る。でもそれを好きなひとが知らないよりは知ってくれたほうが、少し気持ちは良い。
ネットで読むそのひとの言葉から、そのひとが今どんな状況でどんなことを感じ考えているのかを全身全霊で想像していく間に好きになるのは、何ていうのかなあ、哀しいような嬉しいような幸せ、っていうのか、何ていうのかなあ。何ていうの?
けどこの細々したつまらない家事を常に繰り返してるからこそ、家族は心身の健康を保てて、彼らはこの先、何かに出逢えるんだろう。そのために。くだらなくみえることも私はしていく
夢の続きをみようとして、正しく続きをみられたことはめったにない
転校生人生を送ってるうちにアウェイがデフォルトになったけど、アウェイなひとの存在が気になるようになってなかなか払拭できない
素材を切って盛り付けるだけの献立でも、その食材を何とコーディネートするのかを考えるのって肝要だと思うのですよ…!
『バーバラ・セクサロイド』は、どこかふざけているような感じがしたので、好きでした。『カフェ・ド・サヰコ』は、ふざけているような感じがもっときれいだったので、もっと好きでした
お腹の痛いのも治ったし目の痛みも随分治ってきた。それだけのことでこんなに世界が綺麗にみえるんだよ!って
時間が経過したら話せることもあるのかもしれない/親にだからこそ話せない。自分を心配しそうなひとにだからこそ話せない。きっとそうなんだと思う
母はもっともっと誰かに甘えて生きて来られたら良かった。親にはもちろん、娘である私にも甘えない、甘えられない。甘えていいよといっても難しい。甘えないことが自分の存在価値だと思ってるのかもしれない。甘えてもらえない私も私のことがかなしい
溺愛、が対象の全てをとにかく受け入れ愛さずにはいられないってことなら、素晴らしいことだと思う
地球上に人間がたくさんいればいるほど、嫌いな人もふえるけど、好きな人も増えるし、私を感動させてくれる才能を持った人もたくさん出てきてくれるから、嬉しい
フォローフォロワー数とも少ないかたで、呟きの多いひとでしかも鍵あかだったりすると、そのひとをフォローするのはとても勇気がいる。私などが見てていいのかなって
巨万の富を手に入れたら、全ての公共の道や駅には徒歩三分以内に必ずおトイレが設置されている世の中を作りたい
目蓋がほんの五ミリ腫れただけでもこんなに頭のなかその痛みで支配されてしまってるけど
娘と身体のシステムの不思議さについてしみじみ語った。産まれてきたときのこととか
幸せが胸に込み上げてくると、セーターの毛玉さえ可愛く見えてくることが分かったので
この広い世界に沢山の人々がいても、私の中身に本当に関心を寄せて、私の言葉にならない言葉までもじっくりそのわけも辛抱強く聞いてくれるひとは極く少ない。でも少なくてもひとりでも居てくれると、とても嬉しいとおもう。
過去ついBOT機能のメリット。その当時は私をご存じなかった方がいま読んで何かを思ってくれること。何かを思ってもらうことが好き。
程よい無欲が一番、世のため人のためになるのかもしれない、素直に世の中を味わえるくらいの程よい無欲を保ちたい。
自分の優位性を必死で確保するため攻撃は最大の防御とばかり人の弱みを突いてくる人間、に接した子どもが、一方は同じように人を責めて主張して生き延びていく、一方は誰も傷つけないように自分を責めて抑えて生きていく、そのどちらも哀しかったし、そうなりたくない。
選ばなかったことや選べなかったことを考えてしまうのを程々にしようと思えた。今の自分にできること、味わえること、よく見る。有難う。
夢見がよかった。あらゆる好きなひとを斜め後ろからではなく正面から見て聴くことができた。
私は私の大好きなもの大好きなひとを自分で大好きでいれば充分幸せだけど、それをほかのひとも大好きになってくれると更に嬉しい、という流れの延長上に、私が大好きなひとがご自分を大好きでいてくれるともっともっと嬉しい。そしてそんな私自身のことを私も大好き。あー、嬉しいな。
いとしいものと私を隔てるものは死の前に先に老化による体力気力知力の衰え
面白いテレビとか楽しい時間を過ごしたあとで、ふっと虚しくなるんだけど、順序が逆だといいかも。最初にまず虚しくなっておいてから後で楽しくなる
ネットだからこそ書けた言葉を読ませて頂いていると湧き上がってくる、一見正反対なようなふたつの感情がある、私は独りだなあって。でも独りじゃないんだなあって家族の中にいても私のこの思いは自分だけのもので、家族それぞれに彼らだけの思いをもってる、でも一緒にいられてそれはありがたい。
うん、市川さんの短編集、読み終わった…最後の話『いまひとたび、あの微笑みに』素晴らしかった
とりたてて殆ど趣味の合わない夫と、僅かに共感するものがあったとき、化石を発見した考古学者みたくふと嬉しい。
子どもに喋ったのは、ふとした拍子に好きになった物事や人々が一生忘れられないものになるかもしれないよねっていう
第一子をいつでも手探りで先の見えないなかで育ててきたその不安、それは先に生まれた第一子のせいではなくて私のせい
優しいひとの優しさは私に直接向けられていない時でもとにかく私を癒してくれてるなあって思って本当にこれを忘れない、ずっとずっと
チャーリイがもし悲願の、ママに可愛がられ続けて育ったら、アリスとあんな宇宙っぽい神っぽい愛をみることもできなかったんだなと思うとねえ。(『アルジャーノンに花束を』)
何かを味わうときは全身全霊、それのことだけ考え感じて没頭する。コンデンスミルクを舐めるときもそう。
好きなものや好きなひとのこと、Botに登録したりするのは、だからそんな奇跡のような時間差で誰かの中に発芽したら嬉しいから。
私はある一時期まで、とてもとてもとても頑張ったことのあるひとなの!だからあとはおまけなの、ゆっくりのんびりさせてよそれくらいいいでしょ!と。みんなでそうやって泣くだけのオフ会しませんか。
分かっているのに実行できない面倒なことを辛うじて若いときの私はやっていたのは主なそのモチベが、「怒られたくない、失望させたくない」それで何十年も生きてしまった
なんっっだろうこれ。大好きすぎる。幸せになってもらいたい方法が。こうきたか!(市川拓司『吸涙鬼』)
君しかいないんだ!と言われたらこわいなと思いながら若き頃を生きてきたことを思い出した。いつも、その他大勢のなかの、うえから三番目くらいに自分が位置していたかった。なぜだろう。自分がそのひとのすべてなどになってしまうような事態はおかしいしそのひとを損なってしまいそうだからか。
引っ越し、いつも大抵、物悲しいものだったけど、でも忘れていたものを見直すのに役立ってた。
ちょっと気の弱い優しいひとは、その言いたくても言えない言葉を、優しいからご自分のなかで溶かしてしまった。でも私はそれを見せて頂いた。あなたと同じ人類であることを誇りに思えたのでありがとうございます
優しいひと寂しいひと哀しむひと幸せなひとの心の声を聴かせて頂くと私のなかに生まれるこの思いを、言葉に変換するのが難しいのでそのまま直接世界に降らせたくなる、でもその世界のひとびとがやはりそれぞれ何か思っている、では私は私のなかだけにこれをとどめるしかないのか?
ただ夢中で、見つめてた、あの子が嬉しいと、嬉しい、ってだけ。自分ならこうされたいだろうけどあのこはどうだろうか。とか、試行錯誤で。そしたら育ってくれてた。教育方針とかきかれてもわからない。
ずっと片想いに慣れてきた私だけど。想いが届かなくても想う幸せと、想いが届く幸せのことも、このごろよく考える。
ネットでの、顔も名前も知らない同士の繋がりって、好きとか嫌いとかではない要素によっても左右される。家庭の事情とかネット環境とかいろんな条件が絡んでくる。そんななか、奇跡的にご縁がたとえ短い間でもそれは切なく忝なく
骨がどこを経由したっていずれは宇宙行き。私の心は誰かの心の中にしばしとどめてもらってから、そこを経由して結局は宇宙に流れてく。そこがお墓であり、且つ産まれるところでもある。
TVで、お墓のことを取り上げてたけども。あまり興味が持てない。子どもが困らなければいい。なんのこだわりも持てない。それこそ普通に世間に通りが良いようなやりかたのほうが余計な悩みを抱かなくてすむならもうそれでいい好きにして。思い出したいように思い出せばいいよ
その言葉で、あなたが気づいていない私が勝手に貰っている、それをあなたが負担に思うことは全くないし心配だってしてないし、気にしないでいるままでいいんですよ、と
あとこれだけは確信持って言えるのだけれど私は何らかの感動を私に与えてくれたものやひとのことを、全世界に知ってほしいといつも思い、シェアしたいと思い、自分で独り占めするのは罪だとさえ思う
"お腹にいる間から、あの子達の身体は私のものも同然って思っちゃってるからこういうことになる よくない。身体はそうでも心は別"
子どもの食べかけを食べるの平気なのだけど、子どもは私の食べかけを食べるのはイヤ、これよく考えると面白いな。子どもには私じゃない他人つまり夫の血が半分入ってるけど子どもにとって私はどこもかしこも馴染みのある遺伝子なんだから、逆になりそうなのに。経験が感覚を変えたのかな。
わああ急に書きたくなった追伸。宇宙のように優しいひとはポジティブなものの他にネガティブなものの存在もちゃんと知っててくれてる!!
私を理解してくれる人は、私に「理解してますよ」とは言ってこない気がする。だけどその人のことを私は見つけることができない。
この世界そのものとして顕れている神様…のこと、忘れかけては思い出させてもらってます
天賦の何かを持っているかどうかが、人に知られるかどうかが、財力や言語能力に依っている世界は、まだまだだなあって思う
私は私にできることをしていればいいと思う一方で、そんな私達が本当は誰の掌の上にいるんだろ
何が本当なのか知ろうとするひとの中に、自分に都合よくて自分が気持ちよくなれることだけ知りたい人が混在してるから事がややこしくなり、更に、その混在を利用して人を支配しようという勢力もあるだろうから集団が怖い
そうね、私はやっぱりひとつの考え方に染まってみたくてでもそれを知るほどにそれは完璧じゃないことをちょっとでも知るとああ違う違うってなってまた百歩くらいずざーって下がって眺める
親の前で、いつまでも変わらない子どもとしての自分でいることがどうも望まれているような気がしてならない。これが親孝行なのかは見る角度によって変わりそう
"世界の大容量記憶装置になることが私には難しいけどせめてこの脳みそを今日も現状維持することで精一杯 そんなことを思うと結局ありがとうとしか言えないて思ってまた涙腺が開くけどまだまだ諸行無常にも逆らってみたいお年頃。"
ご自分には価値がない、需要がない、と言う素敵なひとに「そんなことはないです、そんなこたあない」と心底わかってもらうことが難しい場合。私が覚えていよう、私だけじゃ無理ならみんなに覚えてもらおう、それも無理なら、蒔いてもらった種を育て育てて私もいつかどこかで知らない誰かに撒きたいな
幸せって、好きなひとを思うことによって自分が溶けて流れてそれが世界の養分になっても夢見心地でいられることかもしれないって。それがあわよくば巡りめぐって誰かの心の1%の成分になって誰かを笑わせることができたら。(すんごい照れくさい告白系の話)
そういや私も自分のことを実家の母になんでもかんでも言えるようになったのって結構オトナになってからかも。優しい母だったからまさしく優しさがこわかったっていうのかなあ、でもあの優しさが私を作ってくれたのを知ってる。時間が経つとほぐれてくることってあるよねー。
ヒトなんてこんなものだろう、善悪なんてこんなものだろう、というようなヒトの思想の限界を、ばっさり爽やかに壊してくれる何か人智を超えた優しさの存在に気づかせてくれそうなものに対して私は泣くんだ。そう気づきました
でもそうだ、好きなひとがご自分のことを悪くいうのを聞いてると私の好きなひとのこと悪く思わないで!って哀しくなる一方、で、もうひとりの私は。ああ、その考え方は好きだなあ、だから好きなんだなあ、とも思ってしまう。この現象に名前を付けたい
遺伝子情報に左右されてのことかはわからないけれどその人だからこそ出逢うそのひとの世界の記憶の積み重ね、暗い闇から明るい光まで多色全部の集積、それを私は少し垣間見ては憧れたりする
私を好きになってくれる誰かはみんな、私を作った諸々の経験や私が出逢ったたくさんのひとびとのことを好きになってくれてる、それって世界をすきになってくれてるのと大体一緒じゃないの
わたしの、この薄いようにもみえて案外盛りだくさんな半世紀近くの人生のなかで、私に冷たくした人々優しくしてくださった人々私が勝手に嫌った人々勝手に好きになった人々勝手に好きになった作品や製品生産物全てによってしか作られていない
人間が、やっちゃいけないこと、やっていいこと、その境界は何だろう。自分を自分たらしめている心は易々と弄ばれるものなのだろうか。(映画『プラチナデータ』を観て)
時々自分の過去ログ見るのは、自分の心の振幅がすごいなーと確認しては、ヒトって落ち込みっぱなしでも好調続きでもないよなあーって確認すると落ち着くから。
こう…なんていうのかな、ご飯の心配を一切しなくてよいお花見をしてみたかった。一生に一度くらい。脳裏にご飯の心配が全くよぎらなくて済むようなお花見を
いつどの角度から見ても整った美しい顔より、ある瞬間にものすごくきれいにかっこよく見えることがあるけど普段はそんなにイケメンでも美人でもない、っていうひとにより惹かれるらしい、私は
だけど走って弱って満身創痍で自分や息子のささやかな挑戦を素直に笑って喋る彼は美しいと思えた
何が言いたいかというと私が泣いているこの幸せのようなこの状態は果たして万人受けする幸せの形かどうかが分からない。分からないままに、うーん、何が言いたいか分からない。自分の頭の悪さがこういうときにホント悔しい。だから、心の中のことを的確に言葉にできる天才に憧れ続けて今も惹かれる
幸せを祈れる幸せを私ばっかり独り占めするのもなんなので全世界に分けてあげたいと思うけど、そうすると涙も分けてしまうことになるし、お節介かもしれないとも思ってしまう。
※過去発言のbot自動投稿は、その時にそう思ったという記録。投稿間隔は気まぐれで変わるので時報代わりにはなりませんです※
他人が作ったものに感動するだけで良いのか?自分は何か素敵なものを作り、世に何か提供したくないのか?って呟くものが脳内に一人くらいいたかもしれない。昔のはなし
何かのきっかけで目の前に転がり込んできた作品のなかから何かの気分によってアンテナがキャッチしたものを狭く深く愛でて溺れる。ひとが発したそれを味わい泣く。私の人生のほとんどがそのことに費やされていることの幸せ
桜の花を見る以上に、桜花を見てたひとびとの心の声を見たり聞いたりするのがもっと好き
自分の愚かなところを拾うたびに、虐めたひとの顔を思い出すたびに、好きなひとを傷つけた言葉を忘れられないたびに、こんな生き物に何の意味があるのかと思いながら、好きなひとを好きでいられる気持ちを自分や他人のなかに見つけると、次の生まれ変わりもヒトでお願いしますと思ってしまう
いらっしゃいませこんにちはを大きな声で言ったりレジでお釣りを渡すタイミングを間違えないようにしたりがかなりハードルらしい。祈っている。私はひたすらそれと分かられないようただ気を送るだけ
ついった、画面に流れるフォローさんの文章、活字、文字のひとつひとつ、それらはそのひとが入力したものなのだと思うと急にぶわーっと愛しさ溢れてくることがあるよとか恥ずかしくて家族に言えやしません。
子どもには、最後の最後に私のことをどうでもいい人間だとみなして頼ってほしい。
もし我が子が、親にも言えずに、親にだからこそ言えずに、ひっそり先立ってしまったら。と想像しては怖くなる、これをなんとかごまかして生きてる
ほんとうの悩み事は誰かに相談できない、っていうか相談できないから悩み事となる。ってことを思い出した。
いま、なんだかんだで幸せになってしまったので、つらいひとたちに気持ちを届けることが難しくなってしまったのかもしれない。だけど1980年代の自分と一緒ならどうだろう
(以前は褪めた目でしかみてなかったチャリティ番組に)それは単に孫のごとくに好きな人たちの、活躍の場として観てるだけなんだけど、観るスタンスが変わるだけでこんなに、視界に入ってくる
好きなもの好きなひとを思う気持ちがこの世から消滅するのだけは勘弁してもらえないかなあ。どっちかというと諸行無常には反対したいけど、嫌いな気持ちは消えていいので一概に言えない。
どんなにしょうもないことだとしても自分の足跡を遺したい気持ちになれるのは幸せだからこそなのか、さびしいからなのか
Bot自動投稿、止めてしまおうかとしばしば考える度にいっぽうで自分の歴史を遺したい欲が勝って存続させてる
インターネット上のデータの形になっている私の宝物が何千年もするとどうなるのか心配で眠れない
なんか、衰え行く私の頭で記憶しておくことよりも宇宙空間に覚えててもらってるほうが良いんじゃないかって思う。でもそういう想像をするたびに涙腺が痛くなる
十数年ぶりのひととの集まり楽しかった。あのカオスだった子どもたちの、大人になった写真なんか見せあって不思議な時間旅行みたいで
向こうで楽しく過ごさせてもらってるはずだ。本当によかった。よくぞ15歳まであんなふうに生きて我々に素敵なものをもたらしてくれた。お礼をはやく言いたくて抱っこしたい今すぐ。泣けて泣けてしかたがない。でもここにいない事実は彼女の成長を象徴しててそれも嬉しい
自分が独りだな、誰かと一緒にいても自分て独りだな、って思うことが多々あったりするのですが、っていうかいつもいつでもそう思っているのですが、ほかのひともそう思いながら一緒にこの空の下にいるっぽいですね。今日もありがとうです。
憎しみも暴力も知らずにいたひとが、誰かを愛するゆえにそこに染まってしまう様子、を見るのはつらい。
趣味も好みも違うのに、何故か一緒にいて楽しすぎる。意地悪な心が彼女には欠片もないとわかる。大好き。だけど普段はお互いにお互いのことを忘れ果てて暮らせている。
"テレビドラマのほうのサトラレ、あんなきれいごとだけどだからあのドラマは何回でも観たくなる。DVD箱買いしちゃったもん 本当の現実の世界はそんな綺麗なことばっかしじゃないのじゅーじゅーしょーちだから"
言葉にできない、どうやって表現していいかわからない、わかってもらえる気がしない、…そんな気持ちのヒントというかキーワードを置くだけ置いておいて貰えるのは良いかも。いまはわからなくてものちにわかるようになるかもしれないし。
幸せになってほしい。ひとの幸せを願えるような幸せを極めて欲しい。だけどだけど、その前に、美味しいものも食べて、気持ちのよいものも観て、聴いて、触って、味わってほしい。後半はこれ私の我儘
よく、これをクリアしたら天国に行けるとか極楽に行けるとかいわれる条件って、その条件をクリアできた心がもう既に天国だし極楽でしょとツッコミ入れたくなる。
未来少年のコナンとラナは多分、私が初めて出逢った、魂が深く結び付いた究極のカップル。こんなに信じあって捧げあって限界を超えあってるのに、恋とか愛とかの単語をきっと知らないでいる11歳の少年少女を知ってしまった時の私の衝撃たるや!
残り時間を、なんとか楽しいことを拾って味わえるような人間に育てる、それはじっくりゆっくり見守る地道な作業ですね。
ここ現世でご一緒することになったかたへ。残り時間、なんとか楽しいことを拾って味わえたらいいなと思います。
うん…よく考えたら、なぜ私はヒトに生まれてきたんだろうってこと以上に、なんで女に生まれてきたんだろうのほうが不思議でしょうがない。どの時点でなんでそうなったのか。
小さい子どもさん病気になるとママのお疲れ尋常じゃないけど、実に頻繁にいろんなものに罹患する年頃。免疫の貯金だと思って堪え忍んでたなあ…。
死ぬ方法のことばかり考えてた頃の自分のことを時々思い出して見つめてみると、あくまでも私の場合、死にたかったのではなくてリセットしたかった。リセットした状態をそれでいいよと言ってくれる筈もないひとびとに、それでも、それでいいよと言ってもらうことを夢見ていた
そういう意味ではあまりいろいろな感情に揺さぶられ過ぎずに一定の速度で一定の光と熱を届ける太陽になりたい。
そのひとの表層しか見てないんじゃないか、私の思いかたは逆効果なんじゃないか、思うこと自体が迷惑なんじゃないか、というこれらの不安を払拭する方法を知らないままにいまできることは、好きと表明することのような気がする。
神様になるまでにあとどれ程の必修カリキュラムをこなさなきゃならないか天文学的に計り知れないので、ここでは最善と思うことをしていくしかない
ある程度その能力が高まるまでは愛しさの感情をいったんしまっておくのがいいのか、それとも未熟なまま放出してよいのか、それすらわからない
愛する資格が欲しい、ていうか、的はずれじゃない愛を発動する能力が欲しい。全てすっかり解った上で、そのひとが一番幸せでいられるようなことを確実に実行できるような、能力が欲しい。そういった意味では神様になりたい。
対面で発せられた言葉のやりとりさえ、心配になる。のに、ましてや書き言葉を読むときをや。
縁って思いもよらないことを引き起こす。
それにしてもこんなにいろいろな使い方のできるインターネットツールだとは、想像もしてなかった。
非難中傷にさらされ傷ついている現地の生産者さんの声を見て無力感に襲われながらもせめて私は自分のキャパ内で調べて、買えるものは買ってきたつもりです。
放射性物質については、過ぎた楽観も悲観も刃物になっちゃう。自然に存在していて生物はその中で暮らしてきた、でもその摂取量に無頓着でいてはいけない。だからそれがどの程度のものだったのか科学的に冷静に見たいときに、ことさら危険を煽ることで何かを売ろうとする人々や穢れ思想は邪魔でしかなく
太陽を見ている月の後ろ姿を誰も見てくれてないけど、満月に向かってこれから段々ふとってくる。
頂いたスイーツから後光が射している…必ず生きて帰還し味わう所存、右みて左みて命を大切に歩け私。
そうですね…私は、もし好きなひとが私の嫌いな人や物のことを好きだった場合、それを無理に好きにはならないものの、そのひとがそれを彼を好きな理由とかきっかけがなにかしらあるんだなと想像してそれを遠くから眺めて愛でる程度には、あっさりしています。
そして見れば見るほど好きになる。そのうち、私の中で、好きなひとたちは身体をすっかり脱ぐ。魂だけのひとになっていく。もう、生きていても生きていなくても好きだからどっちでもよくなってくる。のに、実際には好きなひとには身体があり、それが時として好きなひとを喜ばせたり苦しませたりしてる
人間を感じさせる。心のありとあらゆる色んな色を感じさせる。よろこびかなしみにくしみもやさしさも。自分の中の、誰かの中の。そんな瞬間瞬間を見せてもらえて好きになる、っていうか好きになると見せてもらえる、っていうか、見えてくる。
(続き)なまじ知られないでいた方が好きなひとは幸せかもしれない、ああだけどそれ以上にこうも思う、好きなひとによって私が知った幸せを多くのひとにも知ってほしいともおもう。どうすればいいの。どうするとかできないからこれ私には
エアリプメリット:直接メンションと違って、相手に与えるある種のプレッシャーを軽減できるかも。いつ読んでも読まなくてもいいし、反応してもしなくてもいいよ、これは呼び掛けでもあり私の私的な呟きでもあるから。という気遣い。と同時にTLに残すことで感情を一般化して他のひとと共有できる。
就活がんばるひと、もしそこに縁がなくてもそれはニーズが合わなかっただけで人格否定ではないのよね
こうして捨てるものを誰かが視界の端っこに、ふうん、って入れて、でもそれを気にしないでいてくれることに、甘えさせて貰ってる
TLに現れるひと、現れないひと、好きなひとたち、みんなのことを思い浮かべると私は、いろいろな思いをすることができます。それは幸せという言葉でまとめるにはあまりにも多彩で
なんか、家事って孤独ーっ。ていうか終わりが見えない。やらなきゃやらないで済んじゃう感じ。でもやらないとあとで確実に大変なことになる。やってもこれで終了って思えない。やってもそんなに変わり映えしない。
私などのためにちょっとの時間もお金もつかうくらいならその分、何かあなたの楽しいことにつかって欲しい、って思うけど、でももしあなたが私を少しでも好きでいてくれるならそのお気持ちを大事にしたい
出発前の彼女の笑顔を繰り返し脳内再生している。行きたくない・初めてのことが怖いと、あの頃そう言っていた彼女に、じゃあ行かなくていいんじゃないの、やめなよ、と言いたかったのを堪えて見守っていて良かった。
離れてる間の彼女の身の上への心配はもうほとんどない。むしろ、酸いも甘いも様々の経験を土産に帰ってくるだろうから嬉しい、
好きなひと、一分一秒でも苦痛を味わってほしくない。やむなく苦痛を味わってしまったならその何十何百倍も楽しく心地よい思いもいつか味わって欲しい
自分に向かう好意や嫌悪のことを度外視できたとき、もしかしたら背中に羽とか生えてくるかなあ。
もしかして、無意味とは。ヒトがその意味を考えたってわかるわけない、意味を考えることが無意味って意味かも
もうね、哀しいとか苦しいとかのイベント、なぜあるの。そもそもなぜあるの。理由なんかないのね。何もかも無意味なんだ。そう考えると楽になるね、そうだそうだね、でもなぜあるのか
あと何回くらい抱き締めたりできるだろうか
自分が誰かに好かれているかを自問自答しても、好かれてるなんて自分の幻想に過ぎないんじゃないかという気持ちを否定しきれなくて楽しくない。自分発の好きの気持ちのことを考えるとこれは確かだから楽しいわ。
誰かが何かを好きになって幸せになることがどこの国のひとにもみうけられることが嬉しい
不安を言語化しきれないことが多いけど敢えてしてみる作業、有意義
(息子の)彼の笑いのスイッチはいつも予想もつかない。沸点が低いのか高いのかわからない。テーブル席ひとつ隔てて別な宇宙があるみたいだったよ
思えばこの人生、2次元2.5次元3次元に好きな対象がいるとそのことで頭が心が膨らみきって重力に反して翔びまくり、そしてこの好きな対象を全世界に知らしめたいだとかその人を笑わせることなら何でもしたいとか夢見て宇宙を飛び回ったりとかしてるしこれからもそう。
素敵だから好きになったのかも知れないけど、いまや、好きだからどんな色を発していても好きってこと、ないですか。私はいつもそう
ものすごく唐突に、南くんの恋人っていうドラマのことを思い出した。南くんの服のポケットに入っちゃう彼女かわいい
貴女を泣かせるものだけが世界ではないしなくなるよ、と伝えに行きたい/って未来の自分に思われるとは過去の私もまさか知るよしもなかったし
いつかこの思いをどこか誰かに還元する所存。
覚えていたいし幸せになってほしいし生きてて欲しいし自由でいて欲しいし行きたいならどんどん歩いていってほしいしでもそれは幸せな道であってほしい、などと思ってしまう、ていうのが、私の、好きという言葉の意味
私よりも長生きして欲しいひとびとの存在。私よりも先に逝ってしまうようなひとは、最初から私の心に現れないでくださいと言いたい
たぶん私は距離感をつかむのが下手なのと、常識的良識的な振舞い作法が身に付いていないことからくる自信のなさと、私をよく知らないひとからよく知られることへの諦めと、よく知らないひとがそのことで申し訳なく思ってしまうことへの申し訳なさ、
ひとがひとを思ったり頑張ったり頑張れなかったり泣いたり笑ったり悩んだり幸せそうだったりするのを見ると感動するのですが、でも大勢のひとなかに出ていくのは避けたい。我ながら何故なのかよくわからない
毎日毎時間毎曜日、同じように、行ってきますという人、そこに当たり前のようにいてくれる人、本当は自動じゃない、人ひとりひとりが凄いがんばって動かしてる世の中、その凄いことの重なりで実際してたんだね。行ってらっしゃいませ
だれにも迷惑かけないで頼らないで自己完結したいとあの子は考えてしまうらしい。迷惑かければいいし頼ればいいんだよね、そう行って送り出したい
フツーに世間から見ればそんなの当たり前だとされることを、それは当たり前じゃないことだ、凄いことだ、と知ることができるの嬉しく
誰かが誰かを愛している事例をたくさん見て感じるたびに、それらを彼ら彼女らのことを全部覚えていたい、覚えていたくてたまらなくなる。死ぬと忘れちゃうの?イヤだ忘れたくない。でも脳みそが忘れても心はその輪郭くらい覚えてるのかも
さっきまで観ていたはずの夢が思い出せない。何か悪くない夢を観ていたことだけが、確か。これってこの感覚って人生終わったときの感想なら理想的かも
これといって何も努力もしてなくても生命維持だけで偉業だし、ましてや一度でも頑張ったことがあるなんてひとはもう永遠にさぼってよし。って私に言われても困るとは存じますがはぶあみらくるぐっでい、しーゆーっ。
この世に腹痛がなかったらもっと世界は素晴らしくなるはずなのに何故なくさないの。これどこの部署に訴えればいいの
散らかった家の中も、イケてない容貌も、見せず気にせず、言葉だけを使って逢えるネットツール。素晴らしい。
人が作ったもの、人が表現するもの、の御蔭で、命があってよかったなあって思うことがこれからも一個でも増えるといいなあ。有難う!洗濯二便行ってきますぐっでい。
時間が経てばたつほど、何でも面白がれるのかも
大切なひとだからこそ、何ていってどのように声をかけて良いのか分からなくなることがあるね。
両足首を片手でつまんで持ち上げて片手でおむつを差し入れてたあの頃を敢えて再放送してみたい
たとえば今からあの世に行きますよ、でもいままでの人生の中から一年間分だけ三倍速リプレイしてもいいよ、って言われたら、昔の私なら十六歳の初恋の日々をリクエストしてたかもしれないけど。いまなら敢えて妊娠初期から出産直後までを。
世の中を面白がるためにはまず先立つものが要るらしいので
こうして外で誰かに聴いて貰えているから、ウチで家族の話を聴くゆとりができるのかもしれない。
人への思いかた、これが愛なのかほんとにほんとの愛なのか、って突き詰めて考えることがあるけども、その人が幸せになったら自分も嬉しいってことの嬉しさに、まっいいかあ、ってなる。はいそれは自分が気持ちよくなりたいだけでしょおー?って誰に思われようが思われまいが
人が具合悪いときくらい神様は良い夢を見せてくれたっていいじゃない。とか思ったけど、夢見せてるのはとりあえず自分の脳ということになってる。建前上は。うまく逃げられた。
なるよーになる!死にゃしない!です
見守る(見守られる)ことがどれほどすごいことか子どもの頃はわからなかったなあ。
肉親への愛と相葉さんへの愛を説明するのに、ハーゲンダッツアイスと味噌ラーメンを比べることが難しいと喩えましたが、要するに私はハーゲンダッツアイスと味噌ラーメンが好きだということです。
子どもにとって私が一番じゃ、困る困る非常に困る
そっか、そうか…。誰かにとっての一番になりたいという野望、ここ30年くらい抱いていない。これが、枯れるってことか。
新聞配達さんの音も悪夢の終わり頃に聞こえてて、どんなときも休めない人々への感謝と申し訳無さを思って
無条件で愛された経験、というより、無条件で愛された実感があると、自分を無条件で愛しやすくなるのかなって思った。
ただ、ついったTLを見て感動すると、いま感じた私のこの感動を全世界の人間の脳と心に直接瞬時に流し込みたくてできなくてそれがじれったい。
素晴らしい人を見ると。ああ、これで、私が素晴らしくないままこの世を去っても安心だ。と思える。好きなひとが私の手によって幸せになるんじゃなくても、誰かが好きなひとを幸せにしてるのを見ると、ああ、それを見られたならもういいや。よかった。と思える。思えるようになった気がする。
もしかしたら数年前の私と今の私は同一人物ではないのかも。同じ身体と記憶を別の誰かがシェアしてるって感じ?
何かを誰かを嫌うことが気持ち良いと感じることがたまにあり、それはどうしてかなと
生きていればいいことがあると、思っています。生きているうちにいいことが私はあった。ていうか、いいことだと以前は思えなかったことについて、いまはそれをいいことだと思えるようになった。そういう自分の変化、ある意味、負け。負けるって、気持ちがいい。
うん…確かに。誰かを恨むのってすんごいエネルギーを使うしその割には何もすっきりしないし。
あなたの言葉があなたの知らないところであなたの知らない誰かの財産になっていますよと伝えたいひとがたくさんいる。
70億人の中のただ一人に否定されても全世界に否定されたと感じてしまうことってある。そのとき他の誰かは貴女を素晴らしいと思っているんですよ(私を含む)、でもそういう問題ではないんだよね、哀しいことだけど
よく頑張ったねといって抱き締めたいひとびとが自分を含め時代を超えて存在してくれてる
「世間の人々」という「集合」で見て捉えがちになってしまう気持ちを「一人一人の毎日毎日のドラマの積み重ね」で見られるように意識をあらたにしてくれるついった。
なりすまされてしまうことが容易なコミュニケーションツールなども人命にかかわることが多々ありそう。
TLを遡り読みながら「そんなことないよ素晴らしいよ!」「きっと伝わってるし伝わるよ!」「矛盾じゃないよ!」「こちらこそ有難う!」「そんなあなただから好きなんだってば!」などのツッコミの言葉が胸に溢れて早朝から号泣したいのを堪えている主婦はこちら
なので時々は、消えたくなったときの気持ちを必死で思い出すという作業を、その記憶を辿ることを、敢えてしてみる。そのとき何を考えてたのか思い出してみる。
どんな親ならいいのか、一周でも二周でもして振り出しに戻ってわかんなくなってる
わかんないや。だけど、あの子達が思いとどまるためのよすがとしていまの私は役立っているだろうか。逆にあの子達は、私が思いとどまるよすがになっているけど
ひとが笑ってるのを見るほうがやっぱり気分良い、ざっくり、まとめれば。
おやつを食べ終わる残念さに気をとられておやつの味が分かんなくなったりしないじゃない、子どもって。
考えてもしかたのないことを考えるのそろそろやめたい。
一日のうちに心の天気がくるくる変わるのをそろそろやめたい。
TLに置いていってくれるお手紙、今までにこぼした何百万粒の涙で織られているかもしれない。濃縮還元涙。全成分に有難うです。
フォロー0の人の0は実は優しさなのではと思っている。哀しみついーとが誰の言葉を受けてのことでもないよ、という気遣いのように感じる。
もっとゆっくり食べればいいと思いつつ、でもそれが、美味しかったよの言葉の代わりなら、いいか。
追伸:頑張って言葉にしてくれて本当にどうもありがとう。言葉にできない気持ちを持ってくれてどうもありがとう。
いろんなお店が夜遅くまでひらいていて便利な世の中になったけど働く人達も遅くまで帰れないことを思うとそんなに便利じゃなくてもいい気がする
寒い日に眼鏡を息で曇らせてから街灯を見るのも虹光線がいっぱい出てきてかわいい。
こんなこと呟いても意味がない、なんて考えてたら、ついったなんてできない。意味がないことの集合体に意味が生まれてくるのも風情があって良いではありませんか。
好き嫌いの多い人と結婚した、なんでも食べられる妻よりも、なんでも食べられる妻を持った、好き嫌いの多い夫のほうが、苦労してるのかも
そんなわけで私は、貰っているばかりで。前にも書いた気がするけど崖を登ってる方々を見てやっと自分が平地を歩く気持ちになるようなそんな人間なのが忝く
めんどうなこと、逃げたいけど逃げられないこと、に向かっているひとたちのことを思い浮かべると眩しくて、でも私にもそんな頃が確かにあったことを思い出せて嬉しい
脳が覚えてられなくなっても、全て心のほうで覚えていたい。
でも結局つきつめれば、私の根性のなさ、怠惰、のせいで、身近なひとを幸せにできないこと、これにつきる。だから怠惰を治し根性出せばいいだけ。分かっているのにできないでいる
死にゆくひとは、覚えててほしいのか、忘れて欲しいのか、私なら、ある程度思い出してくれて、でも普段はすっかり忘れててもらいたい
これから結婚しようという人にはぜひ、片時でも一緒に居たいと思う相手と結婚することをお薦めしておきます。
将来に不安を抱いたり、疲れたり、ひととやっていける気がしなかったり、頭が痛かったりお腹が痛かったり、寂しかったり、そんな人々の集合が、社会?
素敵なひとだから素敵、と思うこともあるけど、素敵なひとでいたいのになかなか素敵なひとでいられなくているひとだから素敵だ、と思うことのほうが多い
うれしいこともあるけどでもかなしいことやつらいことがくる回数のほうが多いように感じてしまうんだよね、そんな横顔寝顔をみていると言葉にならない愛しさ。忝ない。
今までに出逢った人や物のうち、どれが欠けても今の自分じゃない人間になってたのかあ、ってなことを喋った。
大人のひとの、ああこれは嫌だなという振る舞いに対しては、徹底殲滅する勢いで攻撃するよりも、いつか気づいてくれることがあればいいなあ程度のスタンスでゆるく受け流しておけばいい。って近年は思えるようになったかも。
この身体、胸が小さいことにも胃腸が弱いことにも今はまあ目をつぶるとして、睡眠を取らなくても大丈夫なように作って欲しかったです。
病院、お役所、各種のお店、電話サポートセンター、相談室、などなど、何かわからないことや心配なことががあったときに応対してくれる人にすがるとき自分が子どもで担当の方々が天使みたいに感じることがある。何を訊かれても答える為にきっとたくさん勉強してくれてたんだなって思うのでありがとう。
※つらいと思いながら生きているひとがこんなにいて、幸せを願う心を持つひとがこんなにいる、それを確認させて頂きました。ありがとです。それ、おいといてください、まわりまわって誰かが拾ってまた流して誰かの心に届くからね。
禍福は糾える縄の如しなんだけど、楽しい記憶だけダビングしてとっておいてあとは一応しまっておく。
深呼吸して、意識は身体よりちょっと上に浮遊して俯瞰で全体を見下ろしながら、だけど最後の一秒まで諦めないで、
練習は本番のように、本番は練習のように。とよく言われるけど、それがなかなかむずかしい。思い入れというものがあるし、これまでの歴史があるのでなおさら。だけど全てのことはどこかに必ず活きてくるので無駄にならないの
やあ、よく経緯を知りもしないで勝手に勘違いして勝手に見下してくる人間のことなんか気にする暇があったらほかにやることがある。
頑張ってるようにみえない人達も頑張っていることを思い出して午後も生きていきます
人間が見せてくれる全ての儚くて素敵な一瞬芸にいちいち、見てましたよ有難うと叫んで回りたい気分
手の届かない範囲にあるご馳走、生きてる間に味わい尽くせない様々な何かが無数にあって、誰か私の代わりに続きを味わっておいてくれるんならそれでいいんだ。私はこのガムとかスルメとかひとつをじっくり噛み締め続けてく
そっけなく冷たいような物言いのひとが、本当はすごく優しかったりすることがあるんだね。
白黒にわけられないことをいやというほどホントはしってるからホントはやさしいひとだと思う。って直接言いたいー。
私のついーと語尾には「一概にそうとも言えない」をもれなくつければ全部真実になるやもしれないわ。
大根を細かく切ったものを蜂蜜か黒蜜に漬けて上澄みの汁を飲むとのどに良いそうです、でもマスクしてはやく休むのが一番かも
目に見える範囲の時間と空間の範囲で、自分が好きだと思うひとから、自分がかけがえのない人間だとされたい時にそれが叶わないと寂しくなるのかな。でもその目に見える範囲は三次元の人間の限界でしか見えなくて
生まれてきた存在って(私を含め)いつかのタイミングで誰かにとって必要だったから生まれてきたと思うのだけれど、それがいつで誰にとってなのかが自分で実感できないから寂しくなっちゃう
グループの先輩、課長代理、課長、部長、この人々の判子を貰わないと自分のやったことがやったこととして認められない仕組み、当時は面倒だと感じたけれどあれこそが実は、マシンじゃない人間の不完全さを補って個人のせいにしてしまわないための優しさだったんだと
宇宙は無限じゃなくて有限かも知れないとか言って来たので、じゃあ、宇宙の外は何があると思うのと訊いたら、宇宙じゃない何かがあるっていう
夫の服のポケットから妻の知らないお菓子の袋。私も食べてみたかった
それも可笑しいね、みんながそれぞれこの世で観てる夢がいま偶々交わってるだけで、同じところに還って行くってのに。そう聞いたら気楽になったのに。やはり、そう簡単に気楽に過ごさせてくれない仕様につくられちゃったんだ。
泣くな、はらちゃん)あんな風にまっすぐ気持ちを伝えられるの現実には有り得ないから、癒し泣かされる
今頃再確認した基本事項。私が機嫌良くしていれば、彼らも機嫌良くなる
私が発した言葉について意図しない方向にとらえられたら、そんなつもりじゃなかったのにと泣きたくなるけど、考えてみたらそんなつもりだと思われたのは私が悪い。
ひとつの単語に、ひとつの意味合いしかなければいいのに。誰の間ででも共通な一個の意味しかなければここまでめんどくさいことにならないですむかも。
あの子にだって、頭のなかもやもやして布団から出られないことくらいあるのよわかるでしょ
なんかオールマイティーな言語能力が欲しいなあ。気持ちとか真意とか誰にも間違って解釈されないような言語能力が欲しい。
けどこの細々したつまらない家事を常に繰り返してるからこそ、家族は心身の健康を保てて、彼らはこの先、何かに出逢えるんだろう。そのために。くだらなくみえることも私はしていく
おとなの階段を子どもが一段のぼるたび、かつて私が夢みた境遇(子どもが私を必要としない境遇)に近づいたと思うと嬉し哀しい
いやな夢、怖い夢は、そうなる暗示とかじゃなくて、そうならないように大切に考えているっていうことの表れだと思います
クリーニングタグをわざとつけとくファッション流行を自分で流行らせたい。そしたら時代の先端として今の私も後で評価される
しまいこみすぎてまったく忘れてたことが何かの拍子に思い出されるのって超超超面白いな。
なんとかなるだろ。なんとかするだろ。彼も彼の人生を生きてる。どうしょうもなくなってから泣きついたっていいよ。いいの。よし。
苦しむとこなんて見たくないんじゃなくて、一緒に苦しんでしまうだろう自分を避けたいという臆病からきてるのかも
子どもの幸せを自分の幸せに思ってるってことを子どもに知られなくてもべつにいいからただ幸せになってほしいだけだけど。そこに至る細々をじっと気長に待つってことが私には難しいけどやらなきゃならない課題。
彼には彼の事情言い分がきっとあってそれは親には見せない。こちらがそうさせてる。こちらが全力を尽くせば向こうは閉ざす
ついったをやってて良かったこと。いろいろ様々な立場の人々が居て、その人々が、傍から見えない何かを考えている、という当たり前過ぎて忘れそうなことを、毎日意識させてもらえること
でももっと寂しさを顔に出せばよかった。あなたが誘ってない人間がここに居るよ、仲良くなりたいよとアピールしておけばよかった。自分を覚えさせとけばよかった。自分の中の問題がそうすれば、他人の問題として顕在化したと思う
もう出来上がった仲良しさんたちに誘われない自分の姿が恥ずかしいやら、気を遣わせていることの申し訳なさやら、だから寂しくない振り、誘われてなくても平気なふり、そんな自分の存在をみんなの視界から消すべくおトイレに居た時間の長さだったけど
既存の集団に馴染めない思いをした経験の良かった点ってあまりなく、ただ唯一、既存の集団に馴染めない人が居ることを意識するようになったっていうことだけ
ツイートってよく考えたら笑える。呟きが届くのは、フォローしている人へじゃなくてフォローしてくれている人へ、だものね。ラブレターを紙飛行機に折ってあなたが前方へ投げ飛ばしたメッセージはぐるっとUターンして全て後ろの誰かがキャッチするばかり
PCを観ている間の自分とそうでないときの自分の中に流れてる時間の速さが違う気がする。
祈ったり願ったりさせてくれる存在でいてくれてありがとう。
うちの子達が憎たらしく思えたときもあるけど結局は可愛い訳がわかった。あの子ら、ああ見えて全宇宙だった。道理で…
涙を見せておっけーなんです、その横顔をみた人の中に、何か生まれるから
自分は優しいのかどうか、愛があるのかどうか、自問する人はすでに優しいし愛があるってば。
がんばれてるひとも、これ以上がんばれないひとも、みんな、それは無駄じゃないよと、神様が優しくみていますように。ゆっくり休める時間も、持てますように。ぼんぼやーじゅ。
ああ、今なら、ちっちゃい子の駄々こねを翻訳できそうな気がするのにな
でも私、まだまだ苦楽から卒業できる段階じゃないししたくないな、
読書の続き、感想メモ:慈悲深い聖人ってとにかく喩え話がとても上手だなあっ。楽しい。あと、永遠不変のものがあるから移り変わるものがある。闇があるから光が見えるのね。どれも私のモノじゃないので執着しないの大事。手放して両手をカラにすると何でも受け入れられる。
乳幼児の、言葉にならない感情に寄り添うのって、すんごい修行っぽい。もうあの頃に戻る若さは私にはないわ。
技や才能に惚れるけど、技や才能だけ出されても惚れない。そのひとだから。とか考える。
続き:カジモドの左右の目の大きさの違いに萌えるけど、ただ左右の目の大きさの違う顔をポンて出されても惚れない、彼だから。とか、
でもただ伏せた睫毛と白いシャツだけ目の前にポンと出されても惚れない。あの人だけの、あの心をもつあの人のだからこそ、それに惹かれて幸福感を感じる。それもよくわからない仕組み。結局、総合芸術なのかな、皮一枚剥いだ中身と、皮一枚との。
私、惚れるとき、たいてい、伏せた睫毛と白いシャツに惚れるっぽい。そんなの老いればなくなるし、シャツは脱げばなくなるし、一時的なものなのに、でも伏せた睫毛と白いシャツに胸が高鳴って幸せになってしまう仕組み、してやられてる感、どうして何のために作られてるのかと。
さっきも書いたけど、よその人の神様の思いかたでいちいち殺し合ったりしないようになればだいぶ安心して暮らせるのになー。
やっぱり私は、「あなたが信じてるどんな神的なものもそれは人が思いたいように思う形で良くてどれも実は繋がってるっていうかみんな同じものの別面だよ、そんなことで争わなくていい」って言ってるものが好きなんだとおもった。
ひとだからミスあるの当然、それ前提でミスをカバーする仕組みが職場にあってほしい
自分の愛が本当の愛かどうかってつきつめて考えてるひとの愛ってもう既に本当のだと思う。私は勝手にそこからたくさん頂いている。ていうか、本当の愛、本当の優しさ、本当の幸せ、って何だろ、どこにあるんだろ、
中受と高受、どの時期に頑張ってどの時期に息を抜くかのタイミングの違いはあると思う。どっちでもその子に合ってればいいし。
かけがえのない子どもたちにも、その、自分は居ていいんだという安心感と、思いのままに好きを選べる自由をてに入れてほしくて、だからそのための知識を勉強したりそのための経済力を手に入れる為の就職をしてほしいというのが子育てのモチベに根本にあるし
ついったで仲良くしてくれてる方々にも、私が勝手に思ってる幸せつまり、居ることはおっけーという安心感と、何をいつどんなふうに表出して何を選んでもおっけーという自由を手にしててほしいと勝手に思ってる
産んだ子に、「居るだけでもう充分、それだけでいい」という気持ちは本当。だけど「居る以上はもっと自由にもっと楽しく、そのためにもっと健康でもっと賢く」と望んでしまう気持ちも本当。だけどこの気持ちの前者と後者の二択を迫られてしまうなら前者が勝ち残ることが我ながら想像できる
こっちに対して過剰な心配や期待を寄せてくる親族には相手を消すか自分が消えるかしか心の安定がないと思ってたけど物理的な距離をおくことで概ね対処できた。でももし産みの親だったらと思うとor産んだ子にそう思われたとしたらと思うと堪らない。「居るだけでいい」と思って欲しいし思いたい。
自分で自分用の宗教作ってなんとなく自己満足してるけど、よそさまにお出しするには気が引けちゃうなあ
ここじゃない銀河系に住んでる人とかが考えた神様ってどんなんだろう。でも地球人の好みには合わないかも。などと想像するのは親子共々、好き。
わからないところを訊くと一生懸命親切に説明してくれる店員さんに出会うと天使に思える。
昔からだけど、独りになると誰かと繋がりたくなるのにひとのなかにいると独りになりたくもなり
育児における周囲のサポート、善きアドバイスとなるか余計な口出しとなるか相当際どい
人の気持ちに敏感すぎる優しいひとびとが一番生きづらさを持ってるのでそういうひとこそ行き易い世の中って到来しないのかな
Botで過去ついだと表明して流すことで、これは現TLにまつわることじゃないし今のことじゃないよ、と安心してもらう効果も狙ってるとこある、私の場合。
過去のついーとを定期的に流すBotを作ることを教わったことでちょっと私の世界が広がれたと思う。
幸せでいてほしいので私がまず幸せに生きます。安心して存在するし、自由でいようと思います
ネット環境や生活パターンや生い立ち境遇好み感覚、ひととは違う、違うことに寂しくなるよりも、違うひと同志が離れていても言葉を置き合い拾い合い、何かを貰いあげ合い、ができる、ことを味わいたい
ひととか世界はなんでこんな切な愛しいように作られたんだろう。どういう意図で作られたんだろう。って考えてもわかるわけない。もし気まぐれで「ただそうしたかったから」ってことで作られたならお手上げだし、じゃあこっちもそれをそれごと楽しみ「ただそうしたかったから」で生きるしか思いつかない
心って漢字もこころってひらがなも好き。ていうか痛くなったりあったかくなったりする心ってどうしてあるんだろう、なんのつもりでこんな仕組みが作られたんだろう。
多分、私の感じる幸せ感は、今のところは、心の自由の確保と両立する自分の存在承認
深夜TL遡り読みで、私の心の声がこだましているかのようなツイートを見ると、私は本当は何歳で何者かということを忘れる
種蒔き合う愛が好き
「彼にとって自分が必要とされているからといってDV彼から逃れようとしない」という例を見聞きすると、そんなにも人は自分が居る意味が欲しいのかと、堪らなくなる
出産してから子どもが、ある程度の年齢に育つまでの毎日毎時間が、からくも死なせなくて済んでほっとしたということの繰り返しで。そのときになって、かつて親の言っていた「生きててくれてるだけで」の意味が体感できた。
人生の意味を追求したい気持ちを、親類縁者に許されそうもないからどんどん押し込めていくうちに、人生にあんまり意味とか求めないほうが楽しめると思うに到ったから。
泣いてるひとが笑うと嬉しいけど、またふとした瞬間に涙がぶりかえしちゃうこともあるやもしれないので、でもそのときは遠慮しないで泣いて、でもだんだん薄まりますように。
子どもの幸せが私の幸せ、これはホント。今は本当にホント。だけどそう思えない時間が昔は存在してた。家族の幸せが自分の幸せだと思える私の今の境遇とか精神状態とかはきっと周りのひとから貰えたものだと思う。ありがとう。
白黒はっきりつけないでいてくれるほうが私は居心地がいい。もしかしたら子どももそうかも。太陽よりもこたつみたいに温められる場所があるから冷たい道に旅立ってまた安心して帰ってこられるのかも。そうなりたかったのに昔の私はそうじゃなかったかも、
気にされる喜びと気にされない気楽さ
ひとを好きになれるって有り難く幸せなことだなっておもう。
ついっただって以前は一生アカウントを作ることはしないと決めてたっけ
今まで私がずっと、あれはきっとああだろう、これはどうせこうだろう、と決めつけていたことが実は一概にそうではないということを。この数年で急に覆されたり目から鱗落とされたりした。ので安易にあれが嫌いと言いたくない気持ちになっている。
そういえば猫の可愛さを本当に意識したのがここ一年くらいのことだったけど、ついったがそのきっかけだった気がする。
TLには幸せな言葉ばかり並んでいるっていうわけじゃないんだけど、寂しさとかもひっくるめて、なんていうか、そこに在ってくれることを確認して、涙が浮かぶ
私も親によくちょっとしたウソを言ってたなあ、心配かけたくなくて。あと、息子にはよくウソをつかれてた。彼なりにその時は親にそう思わせるのが最善だとおもったんだろうし、思わせたんだと感じた
夫とはお互いに居心地のよい無関心さでいたい。お互いに勝手な趣味を持っていたい
幸せになってねという気持ちが届いたかどうか不安で寂しくなることが多々あるけど、今日は敢えて、寂しがらないという愛しかたをやってみようと思います。
続き。大切なひとに、大切だよと言う気持ちが今すぐ直接は届かなくても、置いておいたらいつか誰かに届くかもしれないと思えるのも、言葉で繋がれるこのツールのよいところ
一方で、言葉だけで繋がれるからこそ出逢えるひと、出逢える何か。ここでしか得られないもの、ここでしか影響を与えあえないものもある。
だけど。言葉だけでやり取りするこのツールだけで繋がることは、言葉の使い方やツールの使い方の感覚の違いから、相手の心情状況を推し測る難しさやすれ違い解釈の多様さ、時に疲れてしまうことがある
お昼を食べに行くときに家族のご飯を用意するの面倒だと思ってたら、夫が子どもを外食に連れ出してくれると言ってくれた。どういう風の吹き回しかわかんないけどありがたい。ぱーっと気が軽くなった
当時の自分がはまっていたもの、濃さは薄れたけど数十年たった今も好きでいる。
ママ友との思い出を辿れば必然的に、あの子達の懐かしのトラブルやエピソードも思い出すことになるから楽しい
奇跡だってあると思うの。みんながそれぞれ違うひとだし、同じ一人の人間の中にも時によっていろんな感情が同居してるし、何かをとらえるセンサーも感度が違ってきたりするけど、だから出逢うのは素敵
心って厄介で不思議で矛盾してて掴みどころがない。それを様々な言葉で表してくれているのを見ると、泣かされてやがて癒されて、身の回りの人のことも好きになる。
同じ事象を、杞憂に費やして終わるようなことなく、楽しめるような体質を子には授けたいという願望。
対面で肉声を交わして人としゃべることを極力避けている私だということをいかに知られないようにしているか私の顔と名を知っている人は知らないんですよ
どうしても体の凹凸と脳内の記憶が砂丘のように風化していくのを止められない。
本人の心配を親が先取りしてたら子の心が休まらない。って何回自戒すれば私は学ぶの。
私の中のポジ人格は、自分がこんな者でも自己肯定感を持ってて他人は他人自分は自分だと開き直って何でも書くのに、私の中のネガ人格はそれを恥ずかしいと思い、自分が人を好きと思ってるほどには人からは思われていないとしか思えずその根拠を今日も明日も探し当ててしまう。そんな二人がずっと同居。
変えられない過去とか環境のことはどうにもならないから、いまある楽しみを考古学者っぽく執念で発掘して生きてくほかになさそうだ。
今日の涙は今日のうちに流しておくのがいいかも。
けれど、ある試練や虚しさに対して、それを捉える自分の捉え方が、歳を取ると変わってきたなあとは思う。死ぬしかないと思えたことが、そうは思えなくなり、薄まり、どうでもよくなり、代わりに、変わったあとの自分がこの身体の中には居たのだった
私のかつての死にたさをもってして、誰かの死にたさを推測することはできないし、私の生きててよかった度合いをもってして、誰かの生きててよかった度合いを期待することはできない。けれど
ところで気になるひとのことは斜め後ろまたはずっと後ろから観てるのが好きでしたが、なぜかというと、真っ正面に躍り出てしまってももし目をそらされたらダメージが大きいだろうから。または、目をそらさずに見てくれたとしても相手の視界を遮った責任を、回避したいという。
知り合いかもしれないユーザー、を教えてくれる機能よりも、知り合いかもしれないユーザー、から見えなくしてくれる機能のほうが、需要が高いと思う
急募:「笑顔をみるだけで幸せになるよ」と「笑顔じゃなくても大好きだよ」を同時に伝える方法
たとえば、何かをただただ聞いて欲しいだけのことってあるよねとか。好きだからこそ傷つけてしまうことがあるよねとか。私は、好きなひとによって傷つかない。という愛しかたをしたいしされたいよ、とか わかりあえないことを知る、とか。
ついったからもらった様々な思いを、ついったからもらったということは伏せて子どもらに話すことが多々ある。
"ハリーの息子に名付けられた名前の由来を思うたびに切なくて泣ける。/ セブルススネイプ抱き締めたい…"
娘の日常の萌えぶりを母に話したら「羨ましい。わたしの子どもの頃はそんなことをあの母親には絶対に言えなくておくびにもだせなくて」と言う。母の母は、娘がいながらそんな楽しみを知らずにいたなんてなんて勿体無いことだろうと思った次第
昔の自分に報告したいことが多々あるけどネタバレしたくはないな…
あー、いつぞやの私と今の(機嫌の良い)私がまるで同一人物とも思えない。
そして誰も私と同じじゃないことがよくよく分かる。同じじゃないひとのこと、同じじゃないからこそかもしれないけど、好きだ
どうしようもなく独りになりたいときがあるっていうか、独りでいたい状態のほうがデフォルトかもしれない(かもしれないけど、わからない)
しかも私がこういう形で記憶の中の彼女を夢に登場させてこういう感情を想起していることは彼女には全く思いもよらないことだろうし、口が裂けても言っちゃならないことではある、ということが一番かなしい
世の中には、夢に出てくるだけで一日しあわせな気分にしてくれる人もいれば逆の人もいて。久しく顔をあわせてなくてもこうやっていつまでも人の脳にネガティブ感覚を送り込んで来るとは。敵もあっぱれなことだ
※つらいと思いながら生きているひとがこんなにいて、幸せを願う心を持つひとがこんなにいる、それを確認させて頂きました。ありがとです。それ、おいといてください、まわりまわって誰かが拾ってまた流して誰かの心に届くからね。
そういう意味では、一対一でなければならない恋愛なんてめんどくさいことは、子孫を遺すことには役立つかもしれないけど、好きな有りかたでは、ないなあ。と思った
意中の相手には三年間一切告白しなかったけど、その人が如何に魅力的であるかをクラスメイトのほとんどの人々に宣伝せずにはいられなくて。私の片恋を皆が知っていたはず
やらなきゃいけないことはたいてい、つまらない。でも、それをやることで、あとで楽しいことがあるらしい。じゃあ少しずつでもやろうかな。
ウチが片付かないのは、あれもこれも、あとで観るかもあとで読むかもっていって手の届く範囲に出しておくから、それが山積みになってって結局時間もなくてなかなか観られないし読めないでいる、から。
もういちどこのお店(現世)に来ると知っていれば腹八分くらいにしてもいいけど、そんな保証もないので
人生とお別れするとき、「もっと味わっていたかったな、帰りたくない(死後の世界に)」って寂しく思えるのがいいのか、「ああ、もーうお腹一杯、ていうかもう飽きた、早く帰りたい(死後の世界に)」って思えるのがいいのか、どっちなんだろ
大きな声で言いたいのは、好きなひとの好きな人に自分がなっているというラッキーな人は、もっとその幸せをガンガン噛み締めて味わうべきだということ。
幸せになってほしいひとのこと、幸せにするのがなにも私である必要なんかない
うれしいことを思い出したときの口元の弛みをおさえるために手でおおってるときってなんか家族に心配されたりするけど何て言っていいかわかんないよね。
登場人物を高確率でコントロールできてもシナリオをなんとかできないとね、夢見
産んだひととそうでないひとの感覚の断絶を薄めるための案としては、若いうち日頃のうちから、煩わしくきたないワケのわかんないものへの免疫をつけておくことじゃないかなって思う。
産んでみたらたしかに、乳幼児の口からでも下からでも出すものや出すにおいや音に寛容になったしむしろ可愛いと思えるようになったけど(だってそれは直前まで自分の身の一部だった)、でも身籠る前はそういうものを煩わしくきたなく育児を恐いと感じてた自分が居た。
我思う故に我在りってことは、みんなそれぞれ思ってるからみんなそれぞれ在るってことでいいのかな。
夢に好きなひとが出てくる頻度は高いんだけど、自分に都合の良いシナリオになるかというとそこは難しい。
我が子の、とある気持ちを見抜くことができて愛しさが弥増しました。でも気づかないふりをしました。それは腰に巻いたタオルだから。
楽しい出来事のあと反動で寂しくなるけど、でも楽しい出来事の記憶が「だからまた楽しいことがあることを楽しみに日々を進もう」って思わせてくれる。
この歳になって生まれて初めて!ということを実行できた。これからも、この歳になって生まれて初めて!ということをいくつかは実行できるのかもしれないし、したい。
動物への許容度も、小さい子の振る舞いへの許容度も、食べ物の好みも、時間や環境によって同じ自分なのに別人かという位にいつのまにか変わっているのホント不思議。
息子がテレビ観てものすごい甲高い声で笑っててあの子の知られざるポジティブメンタルにびっくりしてる
"子どもの泣き声、子どもが生まれる前は確かにうるさいとは思ってた。 で、今じゃ小さい子の泣き声が聴こえるともっと聴きたくてわざわざ近くに寄ったりするあぶないひとになった。"
夢の中のような舞台だけど、どの風景も自分の中に既に有るような気がする。(エンデ『鏡のなかの鏡』)
月を詠んでるのがやたら沢山ある。それと、好きを如何に伝えるか、伝えられない好きを如何に鎮めるか、そんなモチベで詠まれたのが沢山ある。(昔の和歌)今この歳になってなら、古典の授業ももっと面白く受けられたと思う
人類から見て綺麗だったり可愛かったりする生き物、なぜなんだろう。あと、それをなぜなんだろうと考えるのがこの太陽系でもしかして私ら地球人だけなのかな、そうなの?
失恋の思い出だとかは、静かに眺められるようになるまでどこかに預けて凍らせておけたらよいのに。
案外さっぱりした顔をしていた。勿論残念じゃないことはないだろうけど、そう、これが、成績という過去の怠慢と甘さが現在の自分の足を引っ張るという貴重な経験であり、
祖母の様子が、いくら安心させてもそれを忘れて不安を訴えるさまが、授乳してもしても空腹を訴える乳児のようだとちょっと思った
フォロワーさんに対しては、一緒に銭湯に入ってるんだと思わせてもらう。タオルいっちょで。
夫の良いところその1 家族に向かって手を挙げたこと無し。大人になってから他人に暴力を振るったことなし。
新しいステージ、慣れないお仕事、挑戦する方々のその緊張を緩和する魔法か何かが使えたら本当にいいのにと思うばかりで申し訳ないけどいつか朗報をお待ちしています。いってらっしゃい。
この身体の細胞の一番古いのって、いつからあるんだろう。
手塚治虫さんの、火の鳥なんかを読むと、こういうの読める人類で良かったと思う気持ちと・人類とかよりももう少し改善された何かに生まれたかったという気持ちが丁度よく混じって気持ちよくなってくるの。
(人間のあれなところやあれなところに気づいてしまっている人、そこから歩く方向がどうあれ、そこに気づいてしまっているというあなたのその気持ちが、好きです)
起きるやいなやコップ一杯のお水を飲むと内臓から寝起きが良いそうです
届かないヒトには届かないのかもしれないけど、それでも、他人の不幸をねがうヒトがそれをやりにくくなればと思う。
そんな知られざる誰かのおかげで私はこの一文字一文字を打ちながら今夜のご飯のことを当たり前のように考えていられるので
私たちのあの抑圧された日々は何の意味があったんだろうね何か意味があったからいまの我々がいるんだよね、って母としゃべくりまくり
心も身体も他の追随を許さないくらい弱いので、熱い温泉にはいれない。ぬるーいお湯にしか入れない。で、みんなもきっとそうなんだと思ってしまう。
人と交流しないでただ只管自己満足のついーとを傍若無人にするつもりでいた別あかに、フォロワーさんが少しずつ増えて何となく不安になってきた。一方、何か少しだけ嬉しい。だけどやっぱりこわい。私の中で「まあまあだよな」と思っていたついーとが、ひとたび「評価」されるかもしれないかと思うと
うすうすは気づいてたけど、ひとのつくった世の中、ひとが快適に生きていけるようになってない
なんでそんなことで泣くのかって人様が思うことで泣いたってべつにいい。自分からの絶対評価だから。でも泣くなら晴れた朝がおすすめ。おひさまが乾かしてくれる
だけど、ずっと前にこんなツイートをした覚えがあるけど、何万mの断崖絶壁を登ろうとする人(それはその人だけの崖であって相対評価ではない)を見て、やっとやっと私の、前に進もうとする気持ちが一センチくらい出るので、本当に忝ない。
PTA活動からも、外で働くことからも、資格取得からも、実家サポート業からも、遠ざかってしまって、あの時の自分は一体どこに行ったのか、幻だったのか、だけど一方で、今の状況に確かに当時は憧れ?てたような気もする。
それを使って洗脳とか脅迫とかグッズ押し売りとかしてくる占い師がいたらそれは滅ぼしたいので。
洗濯したら買い物に行くけど。道ですれ違う人たちの心の中にもしかしたらそんなたくさんの、フォロワーさんのつぶやきのような、見えない宇宙が入ってるんだろうな、って思いながら歩くことにする。
ひとつ歳を取ると親に見せない気持ちがそれだけ増えるし、子どももそうなんだろう
私がいなくてもたぶん生きていけるようになって私の知らないことを知っている子どもと、お喋りするのも、楽しいんですよ。
見てよかった夢を何度でも再生できる仕組みが待たれます。
ストレスの捌け口を無関係な人間に向けてしまうような人の弱さ、にまで思いやることはなかなかできないや
自分の生活ペース>お付き合い ということに済まながらない関係が気楽でいいと思ってます
楽しいイベントをいつも体調への杞憂のせいで心から楽しめない
誰かと誰かが仲良くしてるの見るの好き。これは本心です。これは悲しい映画よりもハッピーエンドの映画を観る方が好きというのと似ている
オフ会に誘われたら嬉しい気がしてきた。すっぴんを見られても構わない気がしてきた。馬鹿だと思ったけど本当に馬鹿なんだな、と分かられても構わない気がしてきた。だけど部屋を見られないことだけは死守したい。
何かを頑張るひとの頑張りはそのひとだけの絶対評価だけど、それを垣間見させてもらうと私の心が確かに動く。これも何だろう
ヒトだからぱんつ穿いてて構わないし脱げないことを恥ずかしく思うこともないと思ったです。
自分が親でいいのかな、って悩むひと、子どものこと思ってる気持ちがあるから
一人でいる人、の楽しい集合体であればいいかも。
元おなじクラスの人々、面白い人たちがあんなに居たんだった。どうして私は当時これに気づかないで過ごしていたんだろう、気づかないで過ごしてしまうような付き合い方しかできない自分だったんだろう。時間ごと戻れたらいいのに
今日これから会う人のほとんどが、今夜帰宅したあと、もう生きている間には二度と会えない人達なんだと思う。そして今日会えなかった人達にも、生きている間には二度と会えないだろうと思う
あの子の帰りが遅いときは必要以上に心配しないように銀河鉄道999劇場版のトチローの母の台詞を思い出している。男の子を産んだんだから仕方がないよね、っていう
家に居て見るたまたまそのときの私の姿が一日中の私だと思われたらなんかいやだ。
以前、なぜかボランティア活動とか寄付先を(それも、偏った思想系に労力やお金が流れたりしないまっとうなの)熱心に探してたことがあり、その団体や代表者の背景をネット等でよくよく探したり調べたりしてるうちになんか何も信じられない気がしてやがてお金もなくなってきて面倒になったの思い出した
自他を少しずつ少しずつ、温かい目でみられるようになってきたということ自体に、私が自己満足しているだけかもしれないけど。
頭が良くなって、全ての人同士の誤解とか傷つけ合いとか理不尽とかをぱああーって解決してしまいたい。それで人間が考えうる限りの最善の策を思いついて全部の人が矛盾なく幸せになれるようにできる能力を持ちたい。
あと、とかく何々好きにろくなのはいないとか、何々な人に悪人はいないとか、ひとからげにする言葉もよくない(自戒含み)
他人の劣ったところ不幸なところを見つけて嬉しがる、という心理が私の中にも誰の中にもどこかに存在することは分かるのですが、でもそれは好きな考え方ではないし、言語化してみても自他共に特に嬉しくはならないですね。
なるほど、そうですね…人間の人間ぽさに対して厳しすぎると生き辛いし生かし辛いですね。
でもたかが身体を覆うもので何万もするのを見ると、これであのライブDVDが10年分も買えるじゃないかとか思ってしまうと、なんかもう。
自分の今現在怖いものを過大にとらえることで、今興味のないものがどれほどもっと危険なのかを考えなくなるのっておかしなことだなあって。
ただ、そこから撤退を余儀なくされるのがなぜ向こうじゃなくてこちらなのかというのは、理不尽だなって思った
楽しむ準備は出来てるかーっ(事前にお手洗いを済ませよう!)幸せになる準備は出来てるかーっ(どんな準備が要るのかな!)
心だけで繋がれるのが一番いい。それが可能なはずのネット生活でさえ体力に左右される。若い頃から軽視してきた体力というものに最後に笑われるのは哀しい。
懸案事項が済むまでは人生やめたくなって、無事に済むと今度は生きてもいいかなって思ってしまう。
家庭環境マネジメントをうまくできないことで、もし家族の可能性を損なったり、自分の老後にツケを回したりするのなら。千里の道も一歩からと言うし、何か少しでも今日の成果を出したい。
でも可愛い何かを見ると観られる目があって良かったと思う。
ちょっと痛む箇所があると、外界の何もかもが苦いものに感じるので身体って不便。
ああ僕は左利きなんだ、くらいの軽いカミングアウトができるような世ならと思う。色覚のマイナー。紫外線を見ることのできない人間をもし蝶が可哀想がってきたら、大きなお世話だと思うだろう、と同様に、彼の中には彼なりの色彩豊かな世界がある筈で。
自分が信じていて自分の思考を方向付けていた、あるひとつの仮定を「もしかしたらこれ自体が誤りではないか?」と疑ってみることで、その後はもう、同じ言葉を見ても別視点からの別な風景に見える。すると、かつては良かれと思ったことも、実は諸刃の剣なんだとわかってくる。
どうも自分が独り裸で、わらわれながら歩いてるような気分に突然とらわれる
十年くらい前にネットで仲良くしてくれてたひとをめっちゃ怒らせて別れたんだけど今ならどうして怒らせたか分かったし謝りたいけどどこの誰だかわからないので祈りを捧げちゃうよー
意味が欲しいっていう私たちに、既にそのままで意味があるよって言ってくれる宗教だったら、染まってやってもいいなってあの頃から思ってた。
オトナになりきれないうちにおばあちゃんになる公算が強い。
行ってまいりますの子の背中ってどうしてあんなにいつまでも見ていたい風情なんだろう。
帰宅した子どもらがそれぞれ、月がきれいだったよと言うのでそのたび見に行ったらそのたびにきれいだった
アルジャーノンに花束を」の主人公がまた退行していく間に、自分が理解し成し遂げたことを自分ではまた理解できなくなる瞬間、でも一瞬でもそれを味わえたことに感謝したのなら、彼は私には到底眩しい神さまだと思った
ネット上に見た言葉、「人間を倒したい」これだけを額面通りに受け取る人は受け取るのだろうと思ったけど、これを書いたかたの人間性は多分私がキライな人間性とはきっと違うなあと勝手に勝手な解釈をしているのをご免なさい。
好きになると得をした気になる。そのあと万万一嫌いになっても、好きになったことの得があるからプラマイプラスかなあ。
美味しいケーキを左端から少しずつ少しずつ味わうようにしか本が読めない。
心の中に、赦してあげたいけど赦してあげられない人が少なくとも五人くらい居るし、その一人はもうこの世にいないし、でも無理にゆるそうと思わずに、何か別の形で別の方向に還元しようかなって思ってる
可愛い対象を可愛いと思える気持ちをあと百年くらいは保ってるうちに身体の持ち主が替わりそうだけど、希望します
お供えもののあれこれとか、線香の本数とか、拘りが作られた経緯はわからないけど、縁というか自分がどういう誰の作用の積み重ねのもとにここにこうして居るかを思えればいいと思ってしまう。
自動投稿してますが、その過去時にそう思ったという記録でしかないです。
月からの使者はあの忘却薬を姫に飲ませるなら竹取の夫婦にも飲ませるべきだったかと。それか、楽しかった思い出だけ残しておけばいいじゃない。
昨日つぶやいたこと、ちょっと違ってたかも。存在してくれてるだけで嬉しい人を好きな人と言ってるのは確か。だけどその好きなひとびとが、笑っていたら嬉しさ増大。問題は人が何をもってして笑うのかが人によって違うし知り得ないこと。推測するしかないこと。
好きな人に長生きしてほしいんじゃなかった。幸せになってほしいでもなかった。楽しい思いをたくさん味わってほしいでも、なかった。ただ、存在しててくれて嬉しいから好きなんだった。ていうかそういうひとのことを「好きな人」って言っちゃってるとこある。
botの中にいま誰もいなかったとしても。そこにある置手紙を偶然という名の必然で読める(たまたま読む環境に置かれて、たまたま読む気分になっていて、だから読める)ことをしみじみと楽しめる自分になれたら、いいなあ
脱水中の洗濯機の上で突っ伏して物思いに耽っていると洗濯機酔いすることがわかった
なーんて、こんな、自分や他人の心のことなどをぐるぐる考えてばかりいる時間は、世間的には、「いい歳」だから卒業してその力を若い世代のためにつかう「べき」なんだろうなー。
こんなわけのわからない私に愛想をつかさないで居てくれる人が、愛想をつかさないでいてくれるのを本当は知っていて嬉しく思っている。そのくせ、嬉しいって大声で言えない。
全部を分かり合えないことをきちんと知っている人って優しいよね、私も、そんな自分でありたいなって思っているのになあ。
それどころか自分の中に他人が同時存在しているよ。あと、過去の自分のやったことに、ドッキリテレビのように驚かされたりしてる。いったい何してくれちゃってるのかって。
子どもとして扱われたい時代に充分まるごと子ども扱いされることの大切さを噛み締めている。
誰のことも特に幸せにしてこなかった独身時代を反省して、今は、人を幸せにしたいと思ってるのにうまくいってないのは、多分、私が思う私の幸せが万人に通用するものではないからかもしれない
人を人とも思わないようにしたり、人を人とも思わないように振舞おうと頑張ってする人って、人のこと好きなんだと思う
自分なんか足元にも及ばないような歯牙にもかけてくれないような雲の上の存在を好きになれば、もう安心してそのまま「負け」ていられるので、さっさと「好き!」って言い逃げられそうだけど、ひょっとしたら彼は優しいから同情して気にかけてくれてしまうのではないか、なんて妄想しちゃったんだよね
五十光年離れてる人が、百光年更に離れても、きっと大丈夫、すごい望遠鏡を持ってるから
ひとの気持ちの移ろいやすさを知ってるひとは、謙虚で素敵だと思うので
TVの中の人を好きになるの、何が良いかって、自分のことをどう思ってるだろうとか気にせずに観ていられること。最初っから無限に遠いところに居るのを観てるだけなの幸せ。
振り返ってみたら毎日学校や会社に行くってこと自体、とてつもない荒業だったかも。
ネットでもリアルでも、発信するかたが意図しないところで、このような私が何かを貰ったりしているので。自分が狙った方向じゃないところで意外な誰かを救っていることも、少なからずあるのではないかとも感じられました。希望的な観測ですが
それをなんとか自分の子育て姿勢にも対人関係にも反映させて、貰ったものを還元できたらいいなあ、とも思えました。
私の身内側の視点と自分側の視点の全てが見出されて、つまり人類側の複数視点が見出されて、私は、私を損なった人々を赦せるような気持ちになるし、私が人や私自身を損なっているということも、許せるような気持ちになります。
自分のことを中学生か何かだと思ってるときに、ショーウィンドウに映った自分の姿を見てしまうと、中学生じゃないから驚く。
誰が何て言おうと。自分より先に死んじゃう動物を飼いたくない。けどもし飼ったら、遺して先に逝きたくない
"先の自分の一連のツイートから、私の目から相当量の涙が流れていることを推測できる人っているのかねー / そういう可能性もあるってことで(自分にもひとにも)"
親に信用されずに育てられたと思われるひとが身近にいる。その親は自分自身を信じられなかっただけでなく、そのくせ自分が育て上げなければ子は育たない、と考えていたように見える。
走りながらも、時々近隣のレーンを目の端っこに入れながら、でも互いに直接は関わらないでいる。みたいなのも気持ちが良い。でもそのうち、誰かにリアクションが欲しいとか、誰かに声をかけたいとか、思い始めて行くのかな。
一部、数人の、心無い人を見かけたら、その人々の振舞いを無言で歯がゆく見ているしかない人が百人千人といるような気がする。
音とか色とか形とか匂いとか。すぐ脳内に再生できる状態。その再生でぱああっと嬉しくなったり胸が苦しくなったりしてこのちょびっとの涙を明日も体感してみたいと思った。脳内の化学反応がどうなってそうなってるかは私にはわからないけど、自分の脳みそに今すごく「ありがとう!」ってなってた。
以前働いていたときに、あまりに心が疲れきって、ストレス解消に帰り道で却って余計な出来合いの食べ物を買って食費が嵩んだのは本末転倒だろうと思った。
って思ってタウンワーク見てたけど、コンテンツ鑑賞のための余裕と家族マネージャーのための余裕を削ることなく、心身消耗しない範囲の職種と勤務時間でご近所でってなるとなかなか応募したいものがない。
ヒトが好きってのは、ひとの嫌なところはいやだし、すてきなところは好きだし、でも次に生まれるとしてヒトとプラナリアだったらどっちがいいかって訊かれた時に「ヒト」って答えるだろうってこと。プラナリアだったときの記憶がなくなってるから。ヒトしか知らないから。
この人を幸せにしたい。っていうのを細かく訳すと、「この人がこの人自身の好きなものを選び取れて、よく味わえ、心を自由にできて笑ったり泣いたりできる、ように、私も傍で一緒にそれを見て笑い泣いて多く笑えるように願う。そうすることが嬉しいから」だと私は思ったんだけど違うかな?
「君を幸せにしたいから。」っていうプロポーズ、私の当時の解釈では、私の心の自由を保証してくれるんだ。と思ってた。違ったのかね。
中高生のようにSNSにハマってみるとわかってきたこと。誰かが読んでいてくれる、誰かが関心を持っていてくれる、ということが書くモチベになるんだな、と。子どもも、あまり凝視されると息苦しいだろうけど、無関心のなかではもっとやる気をなくすんだろうな、
っていうのをそのまま伝えられたら苦労しないよねえ、っていうところに、共感した気になっているのかもしれない。
子どもを放り投げないようにしながら且つ、子どもに自分で自分の道を選び取れるようにサポートするのって、すんごく難しい
可愛さは造形の美とは無関係なので
この家族旅行中、はっきり言って非常に幸せでした。以前の自分ならそれをそれほど幸せとは感じられなかったかと思います。ですが、おかげさまで今の私は日常に幸せを感じられ。(いつかの、家族旅行中のついーと)
そして子どもらは、その日に出会ったことや思ったことを、思い出し笑いしながら鼻歌を歌いながら私に聞かせてくる。これのどこが不幸なのか。目に見えない誰かや誰かのおかげで支えられた最高の幸せじゃないかと気づく。
人間みたいに、自分はどうしていきてるんだろうだとか、宇宙はどうなっているんだろうだとか、を考えたりする生き物は、宇宙には多分いると思うし、生きている間には遭えないけど、いるだろうと想像するだけで今は満たされる。自然や宇宙の美しい写真など観てるとそう思える。
ネットを見ていて、誰かが何かに憤っているポイントが私には許せなくなかったり、私がすんごく気になる部分を誰かは気にしていない様子だったりする。寂しくもなる。でも、これだけ人がたくさんいるのだから、私の思考との近似値をとる人がどこかにいるだろうなと想像する。生きている間に遭えないけど
何かのコンテンツを一緒に観ても感動ポイントは微妙にずれているし、何に萌えるか何を面白いと思うか何に腹が立つかなど、完全一致することはない、家族の間でも。思考が完全一致しないけど喋ってて楽しいのは、完全一致しなくてもよしとできる空気のせいかもしれない。
原作のあるドラマ、原作のある映画、先に原作を読んでしまわないほうが私は楽しめるけど、うっかり読んでしまってもそれはそれ、これはこれと割り切れるようになった
すてきな音楽を聴いている間は、聴く意味なんて考えちゃいけないし、聴き終わったあとのことを考えたらつまらないから、ただ聴くこと。美味しいものを食べてるときも同様。観ている時もそう。歌ってる時も、踊ってる時も。疲れたら眠ればいいので。
子どもを心配しすぎると尋問するような口調になってしまう自分を本当に殲滅したい。
テレオペの仕事のあのときは顔の見えない他人様に言葉で殴られ続ける日々に自分が自分だけが堪えられなくて逃げるように辞めたけど、お腹をこわした私に先輩が薬をくれたあの思い出だけが唯一の良い思い出。
お腹が痛いときに見るものにはネガティヴ偏光レンズ越しの見え方。
あんまりフォロワーさんへのサービスだとか気配りだとかしすぎると何も書けないし、読む方もいつもカメラ目線のよりも無意識の姿を観たい気持ちがあるだろうな、逆に、全くの無意識無防備を見るのが一番好きって人もいるのだろうか
もっと小さい頃から、自分と他人とは共通項もありつつも違う存在だねってことを知って、同調されない自分のことも好いと思え、同調しない他人のことも苦にしなくて済む、ような感覚が欲しい
数十人しかフォローしていない私のTLのほんの一日だけを取り出してみてもこんなに、生きる意味について考えてるひとがいることが、ということはフォローしていない人も、ついったをやってない人も
なんていうか多分、私にはいまいち分からない感覚があって、それを知らないでいる私も誰かを無自覚に不快にしてるのだろうと想像すると怖くなる。
私とは違う世界が彼女の頭の中に育って在ることが嬉しいのに、娘にすら共感されなかった自分の感動が可哀想でもあり
自分の中の、綺麗なところより汚いところがいっぱいの、要するに神様じゃない人類な部分、を「まあいいや」と肯定できる人のほうが、他人のことも「まあいいや」と思えて生きやすいし生かされやすいだろうと思う。そういう人が魅力的かどうかは、また別だけど。
二番目の子のときはかなりいい加減に、食べなきゃ食べないでいいや。って思ってたら何の苦労もなく食欲旺盛な幼児となり
上の子に離乳食の一段階上の幼児食を頑張って気合い入れて手間かけて作ったとき、その苦労を報われたくて、あの子に食べろ食べろオーラ出し過ぎて、引かれて食事ぎらいにした
全部は好きになれないけれど全部は嫌いになれない人と連れ添っていられるのはひたすら、「縁」と「歴史」のお蔭だと思う。
何をかわいいと思うのかを一般化しようと試みたけど、人によって違うし、一般化した答えを私は欲しいのかというと欲しいわけじゃないなあ、って
でもネットのお蔭で、100%分かって貰えることをうまく諦められる自分に近づくことができたかも。
今朝見てた夢の第一話は複雑混沌過ぎてやはりどうしても思い出せないというか言語化できなく、面白かったという記憶だけが遺ってる(面白かったとかの記憶だけが死後も遺るのかな?)
一つの曲に、いったい何千何万の知らない人々の思い入れが重なって詰まっているのか想像すると気が遠くなる
家族それぞれに、何が小さい頃怖かったか訊くとみな違う。それを決めるものが何なのか不思議
好きになる→好きになりすぎて苦しくなる→脳内から消去する→気楽に眺めることができるようになる→好きになる→好きになりすぎて苦しくなる→脳内から消去する(一週間サイクル)
短調のメロディのほうが時間旅行に連れてってくれるときの速度がはやい気がする。
さっきの夢ん中で昔からの友達みたいに普通に喋ってた人はいま考えると誰だろ
(家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています)私には絶対できないことだからそれをやってくれてるひとの物語をみるの好き。
証明写真だけみたら凸凹な男子が、垣間見せる、利他と自愛との葛藤とか、何かしら慈愛とか、挫折とか、そういうの見ちゃうともう凸凹が超絶美男のデザインに充て嵌ってしか見えなくなってくるっていうか。
自分の壁、一個一個越える喜び、また欲しいな。
済まながるママさんには、むしろ大荷物と共によくぞ頑張ってちびちゃんを連れてきてくれたね!という感謝の思いを伝えたい。私も十数年前を思い出し心の中の遡り読みをしながら、家に帰ったらきっと我が子を優しい目で見られるという確信で目を潤ませて店を後にできたのだった。
集まり、案ずるより産むが易しだった、いつもそう。行ってしまえばなんとかなる。隣合った初対面のひとにも歴史あり
湯上がりの自分を見ると人と会いたくなるのにな。更に曇り鏡に映ってソフトフォーカスかかってるのを曇り眼鏡で見れば同窓会の案内が欲しくなる
一万メートルの崖を登ってるような人を見てやっと自分の怠け心が一センチ前に出る気になるので忝ない。
伴性遺伝なので男性に多いらしいです、色覚の個性的な人は。カラーバリアフリーの考え方で最近は色彩だけでなく模様や形も情報に添えるように気遣うのがベスト。地下鉄路線図とか青と紫の区別が付きにくい人もいるので
いつもタイムラインにいらっしゃるひとが居ないと何か大変なことになってしまったのかと思うことを慎みたい。
私のちょっとした言葉に反応して息子がなぜか笑い転げてて、その様子を娘がまるで孫を見るような目で微笑み見つめていて、あの瞬間を永久に保存しておきたい。
確かにあのワケわからない生き物を独りで24時間見つめる生活はハッキョーしますから、夫、互いの親、親戚、ママ友、隣の人、頼れる人全てに甘えることを、子どもに皺寄せが行く前に頑張るのです、私が一番苦手だったのは頼ることでした。
自分が死んだら悲しむ人がいるんだと思える人や、生きていたら楽しいこともあると思える人は、幸せだけど、そう思えなくって死んでしまった人に、そのことの責を背負わせるのはむごい。全身全霊で周りが背負わなきゃと思う。
死を選ばざるを得なかった人への思いを「迷惑」という言葉で片付けられるのは所詮は他人事だからかと。子どもに死なれることがつらい親なら「迷惑」なんて言葉は浮かばない。死を選ばせてしまった子に融合して精神的に又は身体的に一緒に死ぬ気。「迷惑」などという切り捨てたような感情とはまるで違う
自他を悩まし苦しめてきた考え方の一つに「全か無か」あるいは、100じゃないなら0も同然、あるいは、100じゃないならいっそ0。でも歳をとることで、50でも20でも良いように心身ともに成ってきたかも。時間制限を意識するようになったから。あと、麻痺したから。
馬鹿だったところ、滑稽だったところ、その全てのサンプルをせめて子々孫々への遺産として提供したいけれどまだ自分が生きてて恥ずかしいから、今生からログアウトしてから渡す方法を欲している
TVで観た突然死の対策を思い出してる 家族といても個室に居れば予想外の苦痛、急な孤独死はありえる。いまこの瞬間に人生断ち切られたら遺された誰にも顔向けできない感じの私でよいのかね。
脇見もせずに自分の前の石段を一段一段真面目に登っていく努力と克己の人に叶わないものをみて憧れる。
あとどのくらいの時間があるのかわからないけど 少しでも楽しみたいし楽しんでほしい。ではまた。
彼女が惚けてくれて私は救われたのかもしれない。彼女の砂漠のような承認欲求を、充たしたくても充たせない苦しさから、逃れられた。歳をとるのはよいことだ。
転んでみないと見えないことがある、でも、命に別状のない上手な転びかたと起き上がり方をもっと知っておきたかった
CMに流れる商品のイメージに騙される人々をわらう一方で、自分こそが安全イメージに幻惑されていることに気づいていなかった。ってことを、放射性物質が一個でも在ってはいけないからと逆に危ないものに手を出したり差別したり不安につけこむ商売をしたりするする人を見て思う。
自分以外の誰かを幸せにしたい欲、自分以外の誰かが幸せでいるのを見たい欲、は確かに存在する。←私の場合は偶々、その最大は我が子に向かっているだけで、人によっては恋人、配偶者、親兄弟、人によっては仕事を通じてもっと多くの人へ、間接的に直接的にどこに向かうかは人それぞれだけど
あと特に恋なんて。リアルの人間に恋ができてないとダメじゃんみたいな風潮は気にすることない。恋人いないの?楽しいよ?なんて、子どものいない人に「子どもを産まないの?かわいいよ?」というお節介と同様に聞き流していい台詞(いや、子どもはかわいいけども)
今回の人生で叶ったこともあるけれど、縁がなかったことも多過ぎる。スポーツでの勝利も才能発揮による名声獲得も宇宙冒険旅行も熱烈な純愛も。でもそれを観ることができるし想像することができることを楽しめばいいかな。なにも自分の身体でやってみなくても。
仕分けていたVHSビデオテープの数々に、好きだった俳優のドラマやパフォーマンスが録画してあった。素晴らしい演技も歌も踊りも脳裏にこんなに鮮やかに記憶してるのに。私の身体では再現できない。なぜ。なんであれが私じゃないんだろう。私の喉からあの声が出ないとかおかしい。
(誰かの素敵なシーンのエキストラでもいいから出演したいな)
身をもって自分の弱さ脆さを味わったからああそれもこれも弱い脆い心なんだねそういうものなんだね。って知ってくれてる人といると、弱くても脆くても生存していける。そういう人を優しいって感じる。
一昨日はこの世の終わりみたいに泣いていた娘も昨夜はあんなに笑ってた。
自分の過去ツイートを見るとつくづく気分の浮き沈みに驚く どうしてああまでネガティヴに捉えていたのか、どうして夫に邪険にされたと思っていたのか、ただ疲れていただけだったかもしれないのに
"やはりあの子は静かに泣いてた 抱きながら肩にどんどん滴が落ちるのわかった。不安は当たり前、今のうち泣いていいよ、って(とって喰われるわけじゃないから生きて戻れさえすればいいからこれから時間かけて準備すれば大丈夫だからと言う前に)"
(人間のあれなところやあれなところに気づいてしまっている人、そこから歩く方向がどうあれ、そこに気づいてしまっているというあなたのその気持ちが、好きです)
砂場でオモチャを他の子に貸してあげられても貸してあげられなくてもどっちでもそれぞれに喜ばしいことだったのかもしれない。今となってはどっちでも良かった。
過去ツイで思い出したけど、「案ずるより産むが易し」ってやっぱり七割がた当たりだと確信してる。だけど残り三割を必要以上に恐れている私。しかし今日もそこに勇気を持って挑んでいる人々がいるんだなと思うとまだ生きていたい。
いろんなひとのついーとやブログを拝読してて思うこと。今までに顔を見かけた学生さんもママさんも店員さんも病院の受付さんも配達員さんも、そしてインフラを提供してくれている顔の見えなかった方々も、もしついったやブログをやっていたらどんなことを、言えないつらいことをも書いているのかなと
なんか、自分の胃の痛みが治ったら早速、ひとの入力投稿する文字のフォントや日本語の響きまで全部可愛く思えてしまうのゲンキンだと我ながら思う
前にバイトを辞めたときのこと思い出してる。円満に無難な理由をこしらえたけど、正直に「働かされ方が理不尽だから」と言えばよかった、他の派遣社員の為にも。
親もヒトの子、だというサンプル提供しかしてない気がする…私…
人と交流しないでただ只管自己満足のついーとを傍若無人にするつもりでいた別あかに、フォロワーさんが少しずつ増えて何となく不安になってきた。一方、何か少しだけ嬉しい。だけどやっぱりこわい。私の中で「まあまあだよな」と思っていたついーとが、ひとたび「評価」されるかもしれないかと思うと
この駅ビル窓からは花も猫も見えない、わずかな青灰色の空だけ、そのむこうに星があるらしい、聞くところによると
未来少年コナンの足の指の力はもはや人類とも思えない。あのアニメで一番好きなシーンは、(以下、ネタバレ注意)海底で動けないコナンのもとにラナが、潜水と浮上を繰り返し何度も口移しで空気を与えているうちに彼女が力尽き、それを見たコナンがものすごい怪力で枷をぶっちぎってラナごと助けるの
だけど、ずっと前にこんなツイートをした覚えがあるけど、何万mの断崖絶壁を登ろうとする人(それはその人だけの崖であって相対評価ではない)を見て、やっとやっと私の、前に進もうとする気持ちが一センチくらい出るので、本当に忝ない。
試練に堪えるひと、今日より明日が明日より明後日が、らくになっていますように。
あなたに遇わなければこんなに苦しい思いをしなくて済んだのに!などと思われるくらいなら、私の存在に気づかれないほうがまし。って思いながら生きていた何十年、これでよかったのかどうかは分からない
久しぶりに現れてくれたフォロワーさんが、悩んでいる様子なのを、ただ拝見するしかできないのを、はがゆいとおもう。でも、せめて私の代わりに「時間」が包帯役を果たしてくれたらと願ってます。
脳の仕組みおかしい。幸せな夢を数夜観せたら、一回は泣かせる夢を上映することにしてるらしい
って、そういう思いを子にさせたくはないしさせずに済んだとは思う、でも第一子育ては手探りで緊張してた。もっともっとリラックスしていたかった
入りたいから受けてるんです!ではいけないのかしら志望動機。
世の中からこの腹痛現象と共に、タレントに無理に食べさせるバラエティも根絶したい。いまこれを強く訴えとく
私がこの世できらいな症状ランキング栄えある堂々一位は突然襲う腹痛、私が暇な主婦だから良いものの、大事な予定のあるひとにそれが起こったらと思うと憤りを覚える。
だけど、好きじゃないなと思っていた人の中に、何か好きな部分をみつけることもある可能性を思うのは良い事だと思う
娘が読了して強く薦めている本を少しずつ読んでる。最近読んだ章には、私が決して経験できなかったしこれからもできないような、幸せそうな両想いが描かれていたので来世を先取りしたと思えばお得だった
リアルでは顔に出してないみんなの気持ちをネットで可視化して貰えることで、人々が実は人知れずに緊張したり安心したり逃げたかったり逃げなかったり嫌いなものがあったり好きなものがあったりして生きていることを、確認させてもらえる。すると私の中の知られざる思いも撫でられた気がするから。
誰かと誰かが仲良くしてるの見るの好き。これは本心です。これは悲しい映画よりもハッピーエンドの映画を観る方が好きというのと似ている
血が出てるような絵や写真を見ると涙出さずに泣かされるからそういう絵や写真は嫌いだけど、そういう絵や写真を表出せざるを得なかったひとの気持ちを思うこと自体は嫌いではなくて、好き嫌いに拘わらず思ってしまう。この気持ちも何だろう
怒られたり失望されたりする恐怖だけで過ごしたことがあるし、それだけで24時間泣ける自信があります(家族の目を気にしなければ)。
億劫なこと、怖いこと、これはひとそれぞれに持っていて必ずしも同じじゃないけど、そこにがんばって挑もうとしてる人の気持ちを見ると、私の怠惰にも歯止めがかかる。ありがたい
孤独に堪えて真面目に授業に出ているような人はかつての自分を見るようで大好きです。
と思う一方、でも、今ここにある自分とか、今の思いのほうを保持したいから、いい夢みたと思って、よしとする。
今日これから会う人のほとんどが、今夜帰宅したあと、もう生きている間には二度と会えない人達なんだと思う。そして今日会えなかった人達にも、生きている間には二度と会えないだろうと思う
家に居て見るたまたまそのときの私の姿が一日中の私だと思われたらなんかいやだ。
その、よその親を見る目の基準となるのが、自分自身の子ども時代の経験に加えて親をやってみた経験も混ざるから複雑な思いが生成される。
分かった。ついったーの可笑しなところがわかった。フォローしてるひとがその言葉を書く瞬間をちょうど目撃したりしてしまうのに、あっ書いてるかいてるとかいちいち言わずに見てるひとがいるのがふと可笑しな気持ちになるんだ。
自他を少しずつ少しずつ、温かい目でみられるようになってきたということ自体に、私が自己満足しているだけかもしれないけど。
母と話してて、待つことの大事さ、じっくり頃合いをみることの大事さに気づかされた
それかせめて、いま味わえていることを全部そのままずっと覚えていられる程度には頭が健康でありたいです。忘れちゃうのはいやだーっ。もったいない。
頭が良くなって、全ての人同士の誤解とか傷つけ合いとか理不尽とかをぱああーって解決してしまいたい。それで人間が考えうる限りの最善の策を思いついて全部の人が矛盾なく幸せになれるようにできる能力を持ちたい。
あと、とかく何々好きにろくなのはいないとか、何々な人に悪人はいないとか、ひとからげにする言葉もよくない(自戒含み)
諸行無常ってた気分も、やさしい言葉を頂くと途端に前向きになる自分の心のたあいなさ。
楽しい刹那瞬間が塵も積もれば山となっていけばそれは幸せなのだろうと。
聖母マリアじゃないただの人間だというモデルサンプルをいやってほど子どもに見せている自信に溢れている私ー。
夕食を食べてから寝るまでの時間が長いと胃が痛む体質だった私は、修学旅行や合宿の夜でも夜更しできずに先に寝ざるを得なくて惜しかった
添加物とか農薬とか何か危険そうなものを一切排除しようとして食費がかさんでそのストレスで却って健康をこわす、みたいな
自分の今現在怖いものを過大にとらえることで、今興味のないものがどれほどもっと危険なのかを考えなくなるのっておかしなことだなあって。
今度は愛妻家薬師丸ひろ子に泣かされた映画、超良かった!超おすすめ。
若いついったらさんの、おそらく親御さんはご存じない悩みの告白ツイートを拝見すると、うちの子らもきっと親に見せてない諸々の気持ちを毎日抱えてるんだろなあって、思う
まあ、何かあってもとりあえず生きてればそれも修学だけども。
怒られなければ怠ける私になってしまったことまで誰かのせいにはできないというのは、自分でもわかってる。
彼女達が私の餡子の部分を全く無視して皮の部分だけ自分の好きなように料理しようとやっきになって向こうにしてみれば愛してたっていうことらしい。私から言わせれば虐めだった。避けて離れて私への関心が薄れるのを待った甲斐はあった。
ただ、そこから撤退を余儀なくされるのがなぜ向こうじゃなくてこちらなのかというのは、理不尽だなって思った
自分のことを本当はキライな人、の言葉を自分から見に行ったりしなくていいんじゃないでしょうか。物理的に離れられるだけ離れる。見ざる聞かざる言わざるで関わりをどんどん希釈していく。
余命半年とか言われたら、本当は観たいものを観て読みたいものを読んで触りたいものを触り触りたい人を触ることだけに時間を費やしたいのに、実際は掃除とか物品整理に追われるのかと思うともうやだやだ
それでも最後に心が残ってればいいなって思う。
懸案事項が済むまでは人生やめたくなって、無事に済むと今度は生きてもいいかなって思ってしまう。
自分に含まれる凶暴性をすっかり取り除いてからもう一度、産み直して育て直してあげたいけどもう、今できる最善を尽くすしかないんだな。
祖母が初恋の人のことを語るのを以前一度ならずとも聞いた気がする。
ひゃーーー私にしてはよく働いたんじゃないか?千里の道の一歩のうち半歩は進められた。誰が認めなくても自分的には進歩。しかーし、6時間ずっと座る暇も食べる暇もなく作業していた割には室内の見た目が殆ど変化していないって何なんだろう
ちょっと痛む箇所があると、外界の何もかもが苦いものに感じるので身体って不便。
折角だから私も、老人になった自分てものを少しだけ経験したい、ゆくゆくは。
ついったのシステムの不具合が場合によっては人命にかかわることがある
ああ僕は左利きなんだ、くらいの軽いカミングアウトができるような世ならと思う。色覚のマイナー。紫外線を見ることのできない人間をもし蝶が可哀想がってきたら、大きなお世話だと思うだろう、と同様に、彼の中には彼なりの色彩豊かな世界がある筈で。
自分が信じていて自分の思考を方向付けていた、あるひとつの仮定を「もしかしたらこれ自体が誤りではないか?」と疑ってみることで、その後はもう、同じ言葉を見ても別視点からの別な風景に見える。すると、かつては良かれと思ったことも、実は諸刃の剣なんだとわかってくる。
意味が欲しいっていう私たちに、既にそのままで意味があるよって言ってくれる宗教だったら、染まってやってもいいなってあの頃から思ってた。
ランダムにページを開いて少しずつ読んでる本からの、朝一に受け取った啓示は、「背中を押す人の顔は見えない」っていうのすごく自己肯定に役立ってくれた。
息子は私に叩かれた記憶をまだ保ってるだろうな、何年経とうが。前後の事情も親の気持ちも関係なく、叩かれた記憶だけが保存されてるだろうな。消しゴムで消しに行きたい
下着を着けずに往来を歩くようなことはしないし、銭湯でだって隠すところは隠してるんだし。みんながそう。タオルを剥ぎ取ろうって人はいないと思って安心して銭湯にいける
帰宅した子どもらがそれぞれ、月がきれいだったよと言うのでそのたび見に行ったらそのたびにきれいだった
現実世界の日常を積み重ねるほうが、ターザンよりも実は命懸けかもしれないのになあ。
ところで、なぜ抱っこされて高いところを跳び移られるのが好きかというと、私を命懸けで守ってくれているということが端的に分かりやすいから
家事を普通に行う気力を辛うじて振り絞っています。あれやこれやを読んだり観たりすることを自分への褒美にして
こないだ私が中学時代の休み時間に独りトイレでばかり過ごしていたことを子どもらの前でしたとき、ことに息子の口数が多くなった。
回っている自分の過去ツイを見て、ああ過去だなーと思うときと、今もこんなこと考えてるな進歩してないなと思うときと、ある
いま読んでいる小説に、自らは生きる資格がないとして・死ぬ前に多数の人々の傷を我が身に移動させ引き受け続ける少年の話があった。私なら、彼を止めることが善なのか悪なのか頭では判断できない。ただただ、脳を経由しない「情」で止めてしまうかもしれない
誰かの喜怒哀楽を見るときに自分の中に生じる感情を見つめているうちに自分のことが大事だってことが確認されて、だんだん自分だか誰かだかわかんなくなってしまう瞬間があって、それで幸せだと思ってしまって。でも自分と誰かは違うんだった。それが分かっていても、というか解っているから、かなあ
自分と全然違う環境設定にいる人の言葉を読んでいて突然、「うわ、何、私の心の声をそのまま朗読してるよこの人!」って思う瞬間に出会ったりするからヒトに生まれて良かったって思ってしまってなんだか。
自動投稿してますが、その過去時にそう思ったという記録でしかないです。
"ああ、今なら、この経験を引っ提げてなら、第一子をもっと楽しく育てられたような気がする 今なら、この思いを引っ提げてなら、中学時代を楽しめた気もする。でも、まだ遅くない。"
生きていてくれてると嬉しいって思ってしまって忝ない。生きていてくれてることを知らせてもらえて嬉しい。
いや違うな、それもこれもひっくるめてやさしいひとなんだ、あのひときっと。誰のことも傷つけまいと思って
子どものころ、親に迷惑かける自分を消したいと思ったけど、今は、子どもに迷惑かけてもらえないとかなしい
ぼっとで時間をずらすことでしか言えない本心もあるかもよ
全部じゃなくてもどこかしら好きならそれでいい、って思ってるんだけど、これ結婚とかには向かないのか、向くのか。全か無かって考え方ができないんだけども
なーんて、こんな、自分や他人の心のことなどをぐるぐる考えてばかりいる時間は、世間的には、「いい歳」だから卒業してその力を若い世代のためにつかう「べき」なんだろうなー。
善意か悪意かは発信者側じゃなくて受信者側がそれをどう思うかで決まるんだもんなあ。
強力な軍手を持ってなくて掴んであげられない。それを償えることがあるとしたら、私の中に油断すると芽生える危険物を、小さいうちに潰すことなんだけど、もぐら叩きのようでキリがない。
クラスのほとんどの子の誕生日を覚えていた(当時)のは、好きな子がいっぱいいたから。だけどそんな私を「痛い八方美人だ」と軽蔑していた人がいっぱい居たに違いないと思うと怖い。私は意識的に八方美人を行っていたつもりはさらさらなくて、ただ、好きな子がたくさん心に存在していたってだけ
ヒトっていう箱の中にぎっしり孤独な人が詰まっていてみんなが自分を孤独だと思っていて、みんな違う味で、それをまるごと、なにかこう、やさしーい神様が最後に一呑みにしてくれるのとか、想像してる
それどころか自分の中に他人が同時存在しているよ。あと、過去の自分のやったことに、ドッキリテレビのように驚かされたりしてる。いったい何してくれちゃってるのかって。
子どもとして扱われたい時代に充分まるごと子ども扱いされることの大切さを噛み締めている。
学校でもどこでも、家で待っている人のことを忘れたことはなかった。でも今、行ってらっしゃいと送り出した子には、帰宅するまでは私のことをどうか忘れていて欲しいと願っている
自分のぐちゃぐちゃしたところを種明かしするのはもっとずっと先がいい。
自分がそれほど興味を持てない人から思われるほうがしんどかった。応えられないことはしんどかった。そのしんどさを知っているから、それを好きな人に味わって欲しくなかったし、それを味わわせる人間が私だったらそれこそ負け?だと思った。
片想いは楽しかった。思ってくれない相手を勝手に心の中で好いているのは生きるよすがになって楽しかった。
寝るときは眼鏡を指定の場所に置いて寝ないともし地震が起きて停電になったらそれを探せず下手するとその裸眼で避難生活をする羽目になりますのでご注意ください
直接リプライが隣の教室に行ってその人を呼び出して手紙を渡すことだとすると、エアリプは自分とこの教室の黒板にただメッセージを書いておくことかな
TVの中の人を好きになるの、何が良いかって、自分のことをどう思ってるだろうとか気にせずに観ていられること。最初っから無限に遠いところに居るのを観てるだけなの幸せ。
ずっと自分の身体というか外周は注目されていたけど芯を見てくれてる人が稀有だったため、目立ちたくないのに見せたいというジレンマを保持して何十年。
身体がちょっと不調なだけで頭の中に、ちゃんと収納していたはずの不安がはみ出してくるのどういうわけです
自分のことを中学生か何かだと思ってるときに、ショーウィンドウに映った自分の姿を見てしまうと、中学生じゃないから驚く。
歳取るごとに自分に対する諦めが溜まっていくし他人に対しても諦めがほどよく貯まっていくから
そうだ、夫と一緒に芋ケンピを食べるときに感じる、えもいわれぬ説明のつかない幸せと、子を見る笑顔を横から見る幸せ、そこに生じる自分の感情には嘘偽りがないと確信しているのだから、あれらの幸せを限りなく金箔のように千代に八千代に延べていけばいいのでは。
自分の身体の枠を超えて行けないっていうゲームの時間があとどのくらいあるのか測ってる人に訊いて来たいと思ったり訊きたくないと思ったりする。
親類に注目されすぎて、自分への無関心を欲していたんだ、その自由な身分を手に入れたくてとりあえず既婚者になったんだ、と思ってたけどちょっと違う。私に注目する人物の、私の中を殆ど見ようとしていないこと。それが息苦しかったことが解った。
パラレルワールドだとかの抽象的なことだけ想像したり喋ったりしていられる将来像を描いていたのに主婦かあ。
給食が完食できないことを苦に毎日自死を考えていた時代があった(小学校高学年時)。子育て時に留意したいのはやっぱり「だからどうした?それがなんぼのもんじゃ?」と考えられるように持っていきたい。のだけれど、私自身がかなり些細なことを気に病むほうなので、私以外の人間の感覚を注ぎたい
私は、と言えば、自分自身や自分の子育てにそんなに自信はないけれど、私以外の様々な人の影響が子に及んでるだろうし、子も自ら育っていくだろうと。どこか楽観視してるところがあるから、そこまで子を信じられなくはないなあ。
舌打ちする人を見ても、他人事だと、あの人もいろいろつらいのかなーなんて思ってあげられぬこともない。けど自分に向けられてたら、悲しみに震えて刺したくなる。刺さないけど。
走りながらも、時々近隣のレーンを目の端っこに入れながら、でも互いに直接は関わらないでいる。みたいなのも気持ちが良い。でもそのうち、誰かにリアクションが欲しいとか、誰かに声をかけたいとか、思い始めて行くのかな。
別あかで、フォロー数ゼロの世界を初めて味わったら、視界に誰も入っていない見通しの良い専用道路ですっ飛ばしているような爽快な気分で、誰にも需要とか気遣いとか考えずにただひたすら好きなことを書き連ねていけることの身軽さを良いと思った。
一部、数人の、心無い人を見かけたら、その人々の振舞いを無言で歯がゆく見ているしかない人が百人千人といるような気がする。
どうして、人様に読まれると張り合いがあるのに、読まれにくい時間帯のほうが気楽に呟けるのだろうか
って、ごめんね、あんまり自分に自信が持てないでいると、誰かのことを悲しませてしまうね
ヒトが好きってのは、ひとの嫌なところはいやだし、すてきなところは好きだし、でも次に生まれるとしてヒトとプラナリアだったらどっちがいいかって訊かれた時に「ヒト」って答えるだろうってこと。プラナリアだったときの記憶がなくなってるから。ヒトしか知らないから。
「君を幸せにしたいから。」っていうプロポーズ、私の当時の解釈では、私の心の自由を保証してくれるんだ。と思ってた。違ったのかね。
君はそのままでいいんだよ。が、その人の成長を止めるから良くない。というのを見たんだけど、私の場合、「そのままでいいんだよ」と言われた方が却って「このままよりもっと成長してみたいな」と思うきっかけになる
見聞きした事例:子どもに失敗をさせたくなくてなんでも親が先回りしてお膳立てして育ててたら子どもが自分で何かを決めることができない大人になったそうな:私がもう少し踏み込んで知りたいのは、なぜその親は子に失敗をさせたくなかったのかな、ってこと。
若い頃に全く興味が持てなかった人臭さとか色気とか流行の歌とか芸能人とかに対して、急にこの歳になって、ああ、捨てたものではなかったのだなあと、今までの遅れを取り戻すかのように惹かれている。何の収支を合わせようとしているのだろうか自分。
忝くなって、ここにこのままでこんな私は居ていいの?って訊いて回りたくなるんだけど、でも周りの好きな人がそう呟いていたら多分私は、「居ていいも何も、居て。居るしかないのがお互い様」って言う自分しか推定できないから、じゃあやっぱり、私も居ようか。とならざるを得ないし
子どもを放り投げないようにしながら且つ、子どもに自分で自分の道を選び取れるようにサポートするのって、すんごく難しい
可愛さは造形の美とは無関係なので
私などよりももっと生きづらさを抱えていながら尚も、生き死にに対して見通す努力を続けているひとの言葉がついったで拝見できて、幸せになろうとするんじゃなくて今ある幸せに気づくかどうかだ、と言ってもらえて、愛されなくても愛せること自体がすごい幸せだ、と言ってもらえて
風化する自分の脳、哀しくて心地好い。悔しいことも、愛しいことも、貰い泣きも、貰い笑みも、諸々の思いの記憶を、宇宙の誰かが預かってくれるなら砂になれる。冷凍庫よりも堆肥コンポストで。無記名でいい。誰にでも使われればいい。私のもののようで、そうでもな
放射能も、ここまでなら大丈夫だろう。って言うと「御用」とか言われるのはやだ。国産食べよう。輸入食品の農薬、添加物のほうが問題では。ってと言うと「御用」とか決めつけられるのはやだ。元々自然に存在した放射性物質と同居してきたカラダのしくみのことも信じてみよう。って言うと(以下略)
勝てない試合を許さない親族に、心も身体も支配されていた時代があった。だけどそれが私の為じゃなく彼女の自尊心充填の為だと知ってたし私には能力がなかったし怠けたかったからただ憂鬱だった。
ネットを見ていて、誰かが何かに憤っているポイントが私には許せなくなかったり、私がすんごく気になる部分を誰かは気にしていない様子だったりする。寂しくもなる。でも、これだけ人がたくさんいるのだから、私の思考との近似値をとる人がどこかにいるだろうなと想像する。生きている間に遭えないけど
何かのコンテンツを一緒に観ても感動ポイントは微妙にずれているし、何に萌えるか何を面白いと思うか何に腹が立つかなど、完全一致することはない、家族の間でも。思考が完全一致しないけど喋ってて楽しいのは、完全一致しなくてもよしとできる空気のせいかもしれない。
他者を扱き下ろすことで身を守っていたあの親戚のことが、怖かったけど、最近ふと気づいたのは私と彼女は案外趣味が合うかもしれないということ。別な出遭いかたをしていたら彼女と友達になれたのかもしれない。こんなふうに思える日が来たことに私自身が驚いている
好きな人が痛そうな画像は、見ないようにしたいけど見てしまうけど見なかったことにしたいけど見たから泣きたいけど泣く資格ないから困った。
原作のあるドラマ、原作のある映画、先に原作を読んでしまわないほうが私は楽しめるけど、うっかり読んでしまってもそれはそれ、これはこれと割り切れるようになった
家族がいるし家族のことは大切だし好き、でも自分の中には家族にも誰にも一生解られることがない考えや感覚があり、そのことは家族に知らせるのは忍びない
祖母の幼児的な振る舞いに寛容になれる私は、時々しか会わないからで、傍で毎日世話をしている実家からみれば、良いところ取りだと思う。これって、幼児育て真っ最中の親のところに例えば義父母が「まあまあ、そんな厳しくしなさんな」というのと似てるかも。
この歳になってもまだ、親族を幻滅させることを恐れている自分がいることに気づく。幻滅させない自分でいようとした思考パターン、結局は自分に都合が良かったからそれを選んでしまったことを認めて、でも少しラクになれ、と自分に頻繁に言い聞かせている。
時間の流れ方が人によって全く違う時代がくるのかなと思ったり、もう既に来ていると思ったり
というわけで夜ふかしして読み終わった「ヨコハマ買い出し紀行」予想以上の名作。ウチの娘も絶賛。最終話の扉頁を開く前に、ああこれで終わるのかと思うと寂しくて落涙してしまうほど。
お腹が痛いときに見るものにはネガティヴ偏光レンズ越しの見え方。
ああ、だけど、いままで私が言ったりやったりしてきたことを「それは全部おおきなおせわでしたよ」と審判が判定を下しにいつやってくるかと思うと怖いなって思いながら生きてる
もっと小さい頃から、自分と他人とは共通項もありつつも違う存在だねってことを知って、同調されない自分のことも好いと思え、同調しない他人のことも苦にしなくて済む、ような感覚が欲しい
人生には。お腹の痛い時間と痛くない時間の二種類しかないから、痛くない時間はせっかくだから楽しみたい(イイコト言う)
誰かに何か文句を飛ばす人はその対象の人の書いたものを全部は無理でも可能な限り把握して、ある程度経緯を知ってからにしてほしい。と思ったけどそういう人は軽率に文句など飛ばさないか。
好きなものや好きな人の評判をネットで見ようとすると必ず見たくない言葉も目に入ってしまうので自分が好きならそれでいいと自らに言い聞かせる。
自分の中の、綺麗なところより汚いところがいっぱいの、要するに神様じゃない人類な部分、を「まあいいや」と肯定できる人のほうが、他人のことも「まあいいや」と思えて生きやすいし生かされやすいだろうと思う。そういう人が魅力的かどうかは、また別だけど。
義務教育で受けた授業によって(70年代)なんとなく、日本をキライにさせられるところだった、あぶない。国民に自国を好きにさせるのって基本だと思うんだけどもー。
自分が好きになった人が、世間大多数にとってイケメンや美人じゃなくっても、自分にとっては世界最高のイケメンだし美人だということは、普通に昔から知っているので、そんなことも掻き集めて自己肯定の材料にして息をしています
二番目の子のときはかなりいい加減に、食べなきゃ食べないでいいや。って思ってたら何の苦労もなく食欲旺盛な幼児となり
上の子に離乳食の一段階上の幼児食を頑張って気合い入れて手間かけて作ったとき、その苦労を報われたくて、あの子に食べろ食べろオーラ出し過ぎて、引かれて食事ぎらいにした
塩胡椒程度のつらさ哀しさだけあればいいや。引き立て程度で。哀しめるのも生きてるからだね、とか言っておける程度で止まってて欲しいという。
ところで昔はメロンがきらいだったけど、ルナールのにんじんを読んで少し変わった。メロン描写が美味しそうだったから
下の子のベビーカー押しながら上の子の受診に朝一で行って診察券出したあと、幼児あやしながら半日以上も待合室でじっと待つのつらかったから、電話予約制も欲しかったなあ
家族にも分かってもらえることが期待できない、家族だからこそ分からせられない、ことを誰かに分かってほしくてネットに出た気がする。
わからなさを知った上で抱き締めてくれる存在を小さなころからずっと探していた気がする
子どものころ実家では、朝イチで妹と交互に「おかあさん、あのね!さっき見た夢はね!」と報告し合い、母は笑って聞いてくれ、母自身も見た夢の話をしてくれてて楽しかった
オフコースのなかでは「あなたより大切なこと」に思い入れがある。ほかにも、スピッツの「遥か」とか。中島みゆきの「横恋慕」とか。カステラの「ビデオ買ってよ」とか。シンディのとか。今井美樹のとか。レベッカのとか。ほかにも。とにかくきりなくあって、
そして遅いお昼ご飯のあと、TLで紹介されていた音楽を試し聴きしてた。まるで独りでコンサート会場にいるように。世の中にまだ聴ききれないほどすてきな詞や曲があってきっと生きている間には聴けないだろうことに寂しくなりながら。
あっわかった、これって、アニメキャラへの愛と同じだ。三次元でも二次元への思いと同じにしか思うことのできない体質だったんだ。わかった。
いつもいつも頭の中に誰かしら好きな人はいたけど性欲につながらなかった。白いシャツを着て楽器を奏でる姿が一番好きなのでその服を脱いでもらいたいとは一切思えなかったし。好きな人は人に知って欲しくなるし人にも好きになってもらいたくなるしだから自分だけのものにしたい気持ちが希薄だったし、
私に彼氏がいなかったのって、親族からの縛りがどうとかいう以前に、私に足りなかったもの、素直さと色気と性欲とやきもち心だと思った。
リアルだとなかなか聞くことのできない恋愛観を見せてもらうのネット楽しい。自分との違いを知ると世界はひろいなあって思う。
17歳の時点に戻れるなら、透明マント持参で行ってあの人の席の前に座って、あの人の顔を心おきなく正面から見て、彼の耳元に囁きたい、ななめ後ろにいるあの娘は案外いい子だよって
1時間でも2時間でもおトイレが占領されていても安心できる環境に深く感謝したのだった。幸せだと思った。この環境を地道な努力で築いてくれた夫に、ありがとうと心の中でだけ思った。幸せって、いつでもおトイレに行けることだと思った。
トイストーリー3、観終わった!良かった…凄く。でも片付けがやりにくくなるんだよな、このシリーズを観ると。心を鬼にできなくなる
自己肯定感→利他の気持ち→誰かの自己肯定感を高める→誰かが利他の気持ちを高める→何かが
泣きたい時に泣くと「泣くなんて失礼だ」となじったあの人のことを思い出すと今も胃が縮む トイレより心地いいのは押入れの布団と布団の間に顔だけ挟めて声もなく泣くこと(目を見られたらあとでバレるのだけれど)大人になった今は布団がなくてもエア布団があるからうまく出来る
老若男女いろんな人の中に住む中学生を一堂に集めてお喋りしたい
短調のメロディのほうが時間旅行に連れてってくれるときの速度がはやい気がする。
さっきの夢ん中で昔からの友達みたいに普通に喋ってた人はいま考えると誰だろ
よって私の中ではまだ、ノートルダムの鐘のカジ君のイケメン一位の座は当分は揺るぎない。あれは、悪魔より何より普通の一般市民がとてつもなく残酷だということをディズニー映画にしてははっきり表明して、しかもヒロインと主人公が結ばれない、だけど自分の居場所を獲得する。子どもにこそ観て欲しい
自分の壁、一個一個越える喜び、また欲しいな。
録画チェックしながら 悩みながらも居場所を確立していくひとに憧れたことを千尋をみて思い出した。
頭痛が頻繁なので、こないだTVで観た健康特集を思い出し死んだらどうするを意識しながらも、家族の顔を思い浮かべながら「もしかしたら私が今いなくなっても却って自立を促して良いことなのかも」とも思って
悔しい、残念だ、そう書けない人の悔しさ残念さをわかりたい。
お察しします、だけでは伝わらない気持ちでみてます。ってこれでも伝わらない。でも感じる。あのひとの、書かなかった部分。もっと書きたくて書けなかったのだろうところ。
私のちょっとした言葉に反応して息子がなぜか笑い転げてて、その様子を娘がまるで孫を見るような目で微笑み見つめていて、あの瞬間を永久に保存しておきたい。
失敗を怖いと思う。無謀ができなかった。のは、失敗したら親に怒られるとかではなかったと思う。失敗をすると哀しませるだろうと勝手に考えてブレーキをかけてた。子どもにブレーキをかけさせないで済むにはと考えてみてる。同じ轍を踏んで欲しくない
読んでくれたひとが、読むだけでたちどころに病気も憂鬱も治るようなツイートが、どうして私にはできないんだろう。あるいはふぁぼボタンの他にそういう栄養注射的なボタンはないのだろうか
好きな人のことをほかの多くの人に好きになってもらいたくなるし、好きな人自身にもその人を好きになってもらいたくなるのを程々にしたい
自他を悩まし苦しめてきた考え方の一つに「全か無か」あるいは、100じゃないなら0も同然、あるいは、100じゃないならいっそ0。でも歳をとることで、50でも20でも良いように心身ともに成ってきたかも。時間制限を意識するようになったから。あと、麻痺したから。
よく考えてみたら、夢に向かって最大限の努力をしたこともなかったし、それをへし折られて心から泣いたこともなかった。そもそも叶えたい夢も持てなくて行動のモチベの全てが、ただ親類縁者からの承認欲
脇見もせずに自分の前の石段を一段一段真面目に登っていく努力と克己の人に叶わないものをみて憧れる。
でももし彼女の充たされなさの刺が外へではなく内へ向かっていたら私はそもそも生まれ出てもいなかっただろう。
あの頃、私を包囲していたのは二種類の人。考え過ぎてしまう人と、考えなさ過ぎる人。そして私は、考える力がないのに考え過ぎてつらくなっていて
学生時代に、健全なサークルと偽って私を誘い込んだあの某カルト教団からの合宿から、途中で気づいて逃げて来られたのも、その前に別な新興宗教に洗脳されかけてた状態から抜けたばかりだったからだと思う。
実母の人生をやり直させてあげたい。でもそうすると現在の私はいない。私じゃなくなる。だから申し訳なく忝なくなる。辛い歴史の上に存在させてもらえていることを考えるとまた目が腫れそう。
触れたい・触れられたい、という欲が殆どゼロに近いこの夫婦、なのに相手の健康状態が良いことを常に願う欲とか相手の気持ちが平和である欲はいつも強くあるので、ひょっとしたら既存の夫婦に無いレアなケースを神様が実験しているのかもしれないのでそこに乗ってみることにする
あなたの見ているTLと私の見ているTLはこんなに違いますよ。って言いたいことが時々ある
本当の自分を見せてなお受け入れられないならその人やその社会が見る目ない。ってすっぱり思えたららくなんだけども。
今回の人生で叶ったこともあるけれど、縁がなかったことも多過ぎる。スポーツでの勝利も才能発揮による名声獲得も宇宙冒険旅行も熱烈な純愛も。でもそれを観ることができるし想像することができることを楽しめばいいかな。なにも自分の身体でやってみなくても。
仕分けていたVHSビデオテープの数々に、好きだった俳優のドラマやパフォーマンスが録画してあった。素晴らしい演技も歌も踊りも脳裏にこんなに鮮やかに記憶してるのに。私の身体では再現できない。なぜ。なんであれが私じゃないんだろう。私の喉からあの声が出ないとかおかしい。
一昨日はこの世の終わりみたいに泣いていた娘も昨夜はあんなに笑ってた。
溺れているけど歩いていられる体と心、我ながらすごい
起きるやいなやコップ一杯のお水を飲むと内臓から寝起きが良いそうです
なんか、自分の胃の痛みが治ったら早速、ひとの入力投稿する文字のフォントや日本語の響きまで全部可愛く思えてしまうのゲンキンだと我ながら思う
エントリーシートの書き方って本に「書くと不利になる経験」として「いじめられた経験」とか書いてあってなんだそれって、悔しかった
年末までにやらなければならない家庭内懸案のうち、昨日はやっとたったひとつを終わらせただけのこと、でもそれが、やる前とやったあとでは精神状態がこんなにも違う。もう、いっこずつゆっくり、ハードルを小さく低く少なくやりたい
愛情の真偽を試されるしんどさVS試されることの有難さ。
だけどそんなふうに親に対して、自分の見せたいところ、見せるべきところをわきまえて付き合おうとする子どもはまだ未成年なんだからきっと心のどこかに「おかあさーん!」って泣いてみたい部分も持ってるんじゃないか、それを私に対して出したい時に、「出していいんだよ」って私は伝えきれてるか
おかあさーん、って泣き叫んで泣きじゃくりたい時がある、いくつになっても。だけど頻度が下がるだけだ。
私がいなくてもたぶん生きていけるようになって私の知らないことを知っている子どもと、お喋りするのも、楽しいんですよ。
私がいなきゃ死んじゃうような、そんな赤ちゃんの頃の子ども達のことを思い出してみた。哀しいくらいの可愛さだったのに、気が休まらなくてそれを味わいきれていなかった。勿体無かった。
あれかな、深夜だからこそ呟かれた言葉を、まったく横からの私が朝に勝手に受け取って、誰かに分けたいと思うのって、あれかな、とも思うのだけれど、でもやってしまいます。
入りたいから受けてるんです!ではいけないのかしら志望動機。
あとで読み返すと恥ずかしいようなツイこそがついったに書きたくなる
いまわかってるのは身体は心を乗せてるから大切ってことが。
だけど、好きじゃないなと思っていた人の中に、何か好きな部分をみつけることもある可能性を思うのは良い事だと思う
読んだ本に出てきた小龍包が食べたくて困っている。その本に、「溺れてこその恋」っていう台詞があるんだけど、溺れるのが頭と心だけにいつも留まれるのが私の偉かったところだと思ってる
何かを頑張るひとの頑張りはそのひとだけの絶対評価だけど、それを垣間見させてもらうと私の心が確かに動く。これも何だろう
億劫なこと、怖いこと、これはひとそれぞれに持っていて必ずしも同じじゃないけど、そこにがんばって挑もうとしてる人の気持ちを見ると、私の怠惰にも歯止めがかかる。ありがたい
行く手に待つのは悪魔か愛か、知らないけれど憧れる、って歌詞に親子で無性に惹かれたのを思い出していた(美しの丘、より引用)
一人でいる人、の楽しい集合体であればいいかも。
人は少しずつは変わるものなのかもしれない。ある程度は。知ったことでマシになったのは、耐性がついたのかもしれない。向こうにもこちらにも。
自他を少しずつ少しずつ、温かい目でみられるようになってきたということ自体に、私が自己満足しているだけかもしれないけど。
子宮に無駄な働きを何年もさせるのを人類はそろそろやめるように進化すべき。栄養豊富なふかふかベッドを用意してあげたのにまた要らないって言われた!って怒ってるかのような痛みをあと何回繰り返すつもりだろか。
母と話してて、待つことの大事さ、じっくり頃合いをみることの大事さに気づかされた
頭がもっと良かったらなと思う。もっと桁外れに頭が良くなりたい。目的じゃなくて手段として。人間関係で人身事故を起こさない程度に頭の運転がうまくなりたい、みたいな。
なるほど、そうですね…人間の人間ぽさに対して厳しすぎると生き辛いし生かし辛いですね。
楽しい刹那瞬間が塵も積もれば山となっていけばそれは幸せなのだろうと。
自分の今現在怖いものを過大にとらえることで、今興味のないものがどれほどもっと危険なのかを考えなくなるのっておかしなことだなあって。
私の観た夢をそのまま誰かの脳内に配信したいです。
で、今から自戒として決めているのは。私に孫ができたら。お小遣いは程々にし、ただ、こんなしょうもない人間が色々それなりに考えたり感じたりしていましたよというサンプル提供ということでせめて役立てば御の字だと思おう。
子育ての主な目標が、子どもが親を必要としないで生きていけるようにすることだと思うので、必要とされたい親のエゴと、子育てと、どちらも満足させることがなかなか難しいなあって。
結局、体育なんかできなくたっていいやと運動会でもビリに慣れきっていた自分の身体に仕返しされる予感
本当にいやだ。こうして息子のことをどこかでナーバスにさせてきたのだろう。だから今、彼が家のなかで笑ったり歌ったりしてると心から安心してしまう。セーフだったと思ってしまう。
自分が信じていて自分の思考を方向付けていた、あるひとつの仮定を「もしかしたらこれ自体が誤りではないか?」と疑ってみることで、その後はもう、同じ言葉を見ても別視点からの別な風景に見える。すると、かつては良かれと思ったことも、実は諸刃の剣なんだとわかってくる。
これは嫌い、これは食べられない、受け付けない、と彼が主張してくるときっていうのは、我が儘というより「あなたの善意や努力が無駄になっては勿体ないですから」という優しさなのかもしれないと思えてきた。
十年くらい前にネットで仲良くしてくれてたひとをめっちゃ怒らせて別れたんだけど今ならどうして怒らせたか分かったし謝りたいけどどこの誰だかわからないので祈りを捧げちゃうよー
でもあれとかこれとか一杯嫌いなものが私の中にあって、その嫌いな感情にも意味があっちゃったりするのかなあってやるせなくなってもいる
浅漬けを作りながら思ったんだけど。小さい頃まったくもって意味がわからなかった胡瓜の存在、最近になってようやくその旨みが分かってきた。胡瓜って美味しいのね。このまま長生きすればそのうち、今まったく理解できていないビールの美味しさが私にも分かる日が来る可能性もある。
一時間前の自分も一ヶ月前の自分も一年十年四十年前の自分もそれぞれ似てるけど違う。変わってしまうし変わることができるなあ それぞれの自分、嫌いだったり同時に好き。あの人も、日に日に変わってる途中だろうなあ
見て欲しいときと見ないで欲しいときが殆ど同時 なヒト
「責任感あるとこ」「人のこと表面だけで決めつけず察しようとするとこ」「絵心がある」「妬みの気持ちがない」「存在自体が神」とかなるべく具体的に褒めたが、今度は「それじゃ自分から言うのが照れくさいから…」って言われて全く困った(※2019 就活中の家族に訊かれた件)
"不安なことがいろいろあるけど敢えてくじ引きの箱をかき混ぜる気持ちでいます ではまた。"
"やはりあの子は静かに泣いてた 抱きながら肩にどんどん滴が落ちるのわかった。不安は当たり前、今のうち泣いていいよ、って(とって喰われるわけじゃないから生きて戻れさえすればいいからこれから時間かけて準備すれば大丈夫だからと言う前に)"
"ひとのうちの子だって、遠慮しないでよくよく見て、おかしいと思ったら遠慮しないで踏み込める空気要  って思いつつなかなか口が出せないとき、あるね。疑わしいことを日記につけておくと後で役立つかも。"
行ってまいりますの子の背中ってどうしてあんなにいつまでも見ていたい風情なんだろう。
やっぱり乙一さんのあの本良いわー。メモ「際限なくひろがるこの美しい世界の、きみだってその一部」(『失はれる物語・しあわせは子猫のかたち』から引用)(涙)
アルジャーノンに花束を」の主人公がまた退行していく間に、自分が理解し成し遂げたことを自分ではまた理解できなくなる瞬間、でも一瞬でもそれを味わえたことに感謝したのなら、彼は私には到底眩しい神さまだと思った
夢を見た。現実には脳も身体も衰えてるから昔は出来てたことが今はできなくなっていたけど、夢の中では歌えてたし、踊れていた。楽しかった。
回っている自分の過去ツイを見て、ああ過去だなーと思うときと、今もこんなこと考えてるな進歩してないなと思うときと、ある
ついったの使い方が気分によって変わる。ミニブログにしたいのかコミュニケーションとりたいのか拡散したいのか定まらない。どれでもないのかも。自分の記録用、遺言用、だけど誰かの目に触れてまた誰かの脳を少し攪拌したい欲があるのかも。攪拌されると私が嬉しいからかも。
美味しいケーキを左端から少しずつ少しずつ味わうようにしか本が読めない。
覚えていたいことを無限に覚えていて、永久に保存できるような、大容量の記憶装置が自分の中に欲しい
自動投稿してますが、その過去時にそう思ったという記録でしかないです。
好きな人に長生きしてほしいんじゃなかった。幸せになってほしいでもなかった。楽しい思いをたくさん味わってほしいでも、なかった。ただ、存在しててくれて嬉しいから好きなんだった。ていうかそういうひとのことを「好きな人」って言っちゃってるとこある。
なーんて、こんな、自分や他人の心のことなどをぐるぐる考えてばかりいる時間は、世間的には、「いい歳」だから卒業してその力を若い世代のためにつかう「べき」なんだろうなー。
ツイートってよく考えたら笑える。呟きが届くのは、フォローしている人へじゃなくてフォローしてくれている人へ、だものね。ラブレターを紙飛行機に折ってあなたが前方へ投げ飛ばしたメッセージはぐるっとUターンして全て後ろの誰かがキャッチするばかり
エゴをすっかり濾し切って純水になって、誰のことも潤せて、誰も傷つけず、誰のどんな形の価値観にも容れられる人になりたいって思うけど、でもこれって自分が消えることだからできないとも思う。
自分のお腹から出たのに自分とは違う世界を持つ子どもと、親という役どころじゃなくて出会い直したいけど、叶わない。
生まれてこのかたいったい何千回も大目にみてもらえてることだろうか、
全部を分かり合えないことをきちんと知っている人って優しいよね、私も、そんな自分でありたいなって思っているのになあ。
それどころか自分の中に他人が同時存在しているよ。あと、過去の自分のやったことに、ドッキリテレビのように驚かされたりしてる。いったい何してくれちゃってるのかって。
ポストする発言の需要を考えずにただ言い放つことの快感を知ると、人様のその快感をも大事にしたいと思う反面、だけど「観せてもらってますよ」とも言いたい気持ちがもたげる。頭の中に一体全体何人住んでいるんだろう、意見の合わない脳内人格
学校でもどこでも、家で待っている人のことを忘れたことはなかった。でも今、行ってらっしゃいと送り出した子には、帰宅するまでは私のことをどうか忘れていて欲しいと願っている
自分のぐちゃぐちゃしたところを種明かしするのはもっとずっと先がいい。
それにしても天才っているんだなあ。知られてる天才も知られざる天才も。心の天才。それをみたりきいたり読んだりできるので人の端くれに生まれられてやっぱり良かった。
人を人とも思わないようにしたり、人を人とも思わないように振舞おうと頑張ってする人って、人のこと好きなんだと思う
じゃあ私がちょっといけてなくても誰かがいけてればいいんだ。
寝るときは眼鏡を指定の場所に置いて寝ないともし地震が起きて停電になったらそれを探せず下手するとその裸眼で避難生活をする羽目になりますのでご注意ください
これが、今すぐに身体を宇宙に返すのは勿体無いと思う理由になっています。
私の身内側の視点と自分側の視点の全てが見出されて、つまり人類側の複数視点が見出されて、私は、私を損なった人々を赦せるような気持ちになるし、私が人や私自身を損なっているということも、許せるような気持ちになります。
身体がちょっと不調なだけで頭の中に、ちゃんと収納していたはずの不安がはみ出してくるのどういうわけです
何かしらこう、言語化が難しい思いを、無理無理にでも言語化しようとするとき、私は長々と言葉をたくさん使おうとしてしまう。それをうまいこと140字にまとめるのが苦手、ましてや31音節にまとめるなど
自分のことを中学生か何かだと思ってるときに、ショーウィンドウに映った自分の姿を見てしまうと、中学生じゃないから驚く。
親類に注目されすぎて、自分への無関心を欲していたんだ、その自由な身分を手に入れたくてとりあえず既婚者になったんだ、と思ってたけどちょっと違う。私に注目する人物の、私の中を殆ど見ようとしていないこと。それが息苦しかったことが解った。
ぴしっとした人の垣間見せる堪え泣きだとか、いつも乾いた表情の人が見せるレアな笑窪とか、そういうのを鑑賞してだけ暮らしたい。残り時間を。
誰が何て言おうと。自分より先に死んじゃう動物を飼いたくない。けどもし飼ったら、遺して先に逝きたくない
私は、と言えば、自分自身や自分の子育てにそんなに自信はないけれど、私以外の様々な人の影響が子に及んでるだろうし、子も自ら育っていくだろうと。どこか楽観視してるところがあるから、そこまで子を信じられなくはないなあ。
親に信用されずに育てられたと思われるひとが身近にいる。その親は自分自身を信じられなかっただけでなく、そのくせ自分が育て上げなければ子は育たない、と考えていたように見える。
音とか色とか形とか匂いとか。すぐ脳内に再生できる状態。その再生でぱああっと嬉しくなったり胸が苦しくなったりしてこのちょびっとの涙を明日も体感してみたいと思った。脳内の化学反応がどうなってそうなってるかは私にはわからないけど、自分の脳みそに今すごく「ありがとう!」ってなってた。
この人を幸せにしたい。っていうのを細かく訳すと、「この人がこの人自身の好きなものを選び取れて、よく味わえ、心を自由にできて笑ったり泣いたりできる、ように、私も傍で一緒にそれを見て笑い泣いて多く笑えるように願う。そうすることが嬉しいから」だと私は思ったんだけど違うかな?
若い頃に全く興味が持てなかった人臭さとか色気とか流行の歌とか芸能人とかに対して、急にこの歳になって、ああ、捨てたものではなかったのだなあと、今までの遅れを取り戻すかのように惹かれている。何の収支を合わせようとしているのだろうか自分。
機械っぽいものに惹かれる自分がすごく人間だと思う。
私などよりももっと生きづらさを抱えていながら尚も、生き死にに対して見通す努力を続けているひとの言葉がついったで拝見できて、幸せになろうとするんじゃなくて今ある幸せに気づくかどうかだ、と言ってもらえて、愛されなくても愛せること自体がすごい幸せだ、と言ってもらえて
人間みたいに、自分はどうしていきてるんだろうだとか、宇宙はどうなっているんだろうだとか、を考えたりする生き物は、宇宙には多分いると思うし、生きている間には遭えないけど、いるだろうと想像するだけで今は満たされる。自然や宇宙の美しい写真など観てるとそう思える。
ネットを見ていて、誰かが何かに憤っているポイントが私には許せなくなかったり、私がすんごく気になる部分を誰かは気にしていない様子だったりする。寂しくもなる。でも、これだけ人がたくさんいるのだから、私の思考との近似値をとる人がどこかにいるだろうなと想像する。生きている間に遭えないけど
嬉し涙を流させたら幸せを感じるけどなあ
好きなともだちが、ほかの誰かと仲良くしていると、やきもちはホント感じないんだけど、ただ、「ああ、これで安心だ」と思って自分は一歩引いてしまう。
Twitterで見た情報の真偽をTwitterで探すことの虚しさをいやというほど思い知らされ。
お腹が痛いときに見るものにはネガティヴ偏光レンズ越しの見え方。
好きな人を独りに限らなきゃいけないの変じゃないか?あの人を好きなのとあの人を好きなのとを、比較するの無理。味噌バタラーメンとチョコレートどちらか一つ選べとか言われて選べる訳がない。
10ツイートの予定を1ツイートにまとめますと、アンダー部分がきついと必ず胃が痛くなりそれが降りてきてお腹をこわすので、ハサミも持っていない出先でアンダー部分を引きちぎったことがあるくらい、キツいブラのことを忌避しているということです
二番目が生まれてからのほうが楽になった事項がたくさんある。
おトイレを我慢できる構造に身体が育ってない歳で無理にオムツ外しするとまずママの心身が無駄に消耗してそれで子どもに優しくできなかったりしたら本末転倒だと思う。でも失敗してもおおらかにできるならその限りでもない?
例えば、他人の自己顕示欲をとことん嫌ってる人とか。何故だろう。なんの不都合があるのだろうか。ネットで位しか自分語りができないのに、「自分語りうざい」「自分語りごめん」という趣旨の言を見ると怖い
ところで、現TLから想起する話ではないのだけれど。私にとってはそこまで気にならない誰かの振る舞いのことを、別の誰かが非常に嫌悪しているのを見かけると、人の世って怖いなあって感じる。いや、私もそんなに他人に対して寛容じゃないけども
私とは違う世界が彼女の頭の中に育って在ることが嬉しいのに、娘にすら共感されなかった自分の感動が可哀想でもあり
私と同じ感覚、考え方、境遇、好み、趣味、そんなひとはいない。という当たり前のことを思い知らされるからSNSは寂しくて素敵なところだなあ。毒にも薬にもなる。肝臓の弱い人には薦められない。
自分の中の、綺麗なところより汚いところがいっぱいの、要するに神様じゃない人類な部分、を「まあいいや」と肯定できる人のほうが、他人のことも「まあいいや」と思えて生きやすいし生かされやすいだろうと思う。そういう人が魅力的かどうかは、また別だけど。
義務教育で受けた授業によって(70年代)なんとなく、日本をキライにさせられるところだった、あぶない。国民に自国を好きにさせるのって基本だと思うんだけどもー。
この人がモテるわけがない、と今感じる対象についても、いつなんどき、私がその人に何のきっかけでハマるか全くわからないし、この人にファンがついているわけがない、と感じる対象についても、きっと必ず、ファンはいる。
サマーウォーズに出てきたおうちで女の人がみんな家事をきちんとやっているっぽくて私があの中にいたらコンプレックスで押入れに引きこもると思う。
言葉などという不便な道具を介さずに、心のなかの伝えたいものを直に送受信できるように将来的には人間は進化あるいは退化したら如何かと思います
読んだ新聞記事に出てた、人事が求める学生像、腹立たしい。こんなの期待するなら就活時期を短縮して学生生活に没頭させればいいのに
下の子のベビーカー押しながら上の子の受診に朝一で行って診察券出したあと、幼児あやしながら半日以上も待合室でじっと待つのつらかったから、電話予約制も欲しかったなあ
家族にも分かってもらえることが期待できない、家族だからこそ分からせられない、ことを誰かに分かってほしくてネットに出た気がする。
わからなさを知った上で抱き締めてくれる存在を小さなころからずっと探していた気がする
でもある時、ある人に言われた「他人の夢の話を聞くことほどつまらないことはないよ」と。それが一般常識と知り、衝撃を受けた。私は他人の夢を聞くのが面白いのに皆は違うのか!それで怖くなった、世間が。
一つの曲に、いったい何千何万の知らない人々の思い入れが重なって詰まっているのか想像すると気が遠くなる
なんとなく、もうずっとまえに観た映画のこと、思い出してた。権力に利用されたり利用したり支配したりされたりすることから逃れて晩年になってやっとささやかな結婚の幸せを知ったのかもしれない皇帝溥儀のこと
身体も心もかなりきてるけど、あんましこれ以上傷まないうちに返却期限内に返却したら何か良い念力だけのものになっていたい。
1時間でも2時間でもおトイレが占領されていても安心できる環境に深く感謝したのだった。幸せだと思った。この環境を地道な努力で築いてくれた夫に、ありがとうと心の中でだけ思った。幸せって、いつでもおトイレに行けることだと思った。
小さい頃から主に、自分の思いを曲解されたときに泣いていた、でも曲解じゃなくてその人々にとっては正解だったのかー。「私の何が分かるの」をたくさん飲み込んできた今、ひとが飲み込んでいる見えざる大量の「私の何が分かるの」がこわくもあって、でも不思議なくらい素敵だと思うこともあって。
家族それぞれに、何が小さい頃怖かったか訊くとみな違う。それを決めるものが何なのか不思議
子どもが赤ん坊のときはこの子の為に死んでもいいと思ったけどいまは、この子らの為に私が死んだなんていう重荷を絶対に感じさせない死にかたをしたいと思う。
相手が大人なら即、犯罪として警察の出番となるところを、家や学校の中で子どもになされることとなると、なぜか一旦「しつけ」とか「いじめ」とか言われてモヤっとするから。児童や教師や親を信じ過ぎ。校内に警察の監視の目が欲しいもっと。防犯カメラも
老若男女いろんな人の中に住む中学生を一堂に集めてお喋りしたい
さっきの夢ん中で昔からの友達みたいに普通に喋ってた人はいま考えると誰だろ
ジブリ映画、子どもが真面目に家事を(特に掃除を)する場面が多くて、我が身を反省させられつらい。自分の衣食住を自分でなんとかするのが大事なんだよって言われる
その席で小さなお嬢ちゃんはちゃんと座ってお弁当を食べ、飽きないためのあらゆるグッズとママのサポートが上手で始終にこにこして、たまにはしゃぎ声が響いてしまったけれど、オムツのかわいいお尻を揺らしたり頬っぺをぷくぷくさせたりして、見る者の身体に良い脳波を促すこと限りなく
あの時は起きている間もストレスのせいか全身いつも痒くて、当時はアトピーの知識もないから水虫かと勝手に思って、酢を入れた水を塗って余計に痛くなったりして笑える今思えば。
お察しします、だけでは伝わらない気持ちでみてます。ってこれでも伝わらない。でも感じる。あのひとの、書かなかった部分。もっと書きたくて書けなかったのだろうところ。
とるに足りないツイートをbot登録しておくことで叶える欲。リアルの私を知らない人にもリアルの私が出していない部分を見せておきたい欲。リアルの私を知った上でそれを見れば悲しむ人の悲しみを回避しながらもそれを叶えたい虫の良い欲。こういう人間がいましたというサンプルを出しておきたい欲。
一万メートルの崖を登ってるような人を見てやっと自分の怠け心が一センチ前に出る気になるので忝ない。
何の為に何をどうしたくてやってるのかを見失ってる政治または宗教運動ってよくあるけど冷静に別の視点を取り戻したときの虚しさが強烈に後で来るの。
失敗を怖いと思う。無謀ができなかった。のは、失敗したら親に怒られるとかではなかったと思う。失敗をすると哀しませるだろうと勝手に考えてブレーキをかけてた。子どもにブレーキをかけさせないで済むにはと考えてみてる。同じ轍を踏んで欲しくない
甘え上手で弱味を見せられるほうが子育て向きかも
好きな人のことをほかの多くの人に好きになってもらいたくなるし、好きな人自身にもその人を好きになってもらいたくなるのを程々にしたい
自他を悩まし苦しめてきた考え方の一つに「全か無か」あるいは、100じゃないなら0も同然、あるいは、100じゃないならいっそ0。でも歳をとることで、50でも20でも良いように心身ともに成ってきたかも。時間制限を意識するようになったから。あと、麻痺したから。
とか不安ぐるぐるしても結局、身体に気をつけるとかメンタルを安定させておくとかしか私にできることってない。という地点に戻ってくる
子どもって親にどうあって欲しいだろう。安心して跳ぶための踏み切り板なのか、融けられるスライムみたいなのか、私はどちらでもあって欲しかったかも
智慧と寛容を体得して、未熟さを知り尽くしながらもなお上手に導けるようになる、ってことなんだろうか?成熟するってどういうことだろう。
テレ東で脳卒中の特集を観た。脳内に出た血は硫酸のように頭の中や首に激しい刺激痛をもたらして突然声も出せなく動けなくなり、視野が狭窄したり突然嘔吐したり意識なくしたり、そういう状態を見たらすぐ救急車を呼んで横向きに寝かせる、と
祖母にも実母にも妹にも私にも子どもにも友達にも、そして夫にも、人生の終わりには、仙人のような微笑を湛えていて欲しい。無念の表情じゃなくて
実母の人生をやり直させてあげたい。でもそうすると現在の私はいない。私じゃなくなる。だから申し訳なく忝なくなる。辛い歴史の上に存在させてもらえていることを考えるとまた目が腫れそう。
でも顔も知らない人のツイートを見ている幸せ(ただし酸いも甘いも含む)も確かに存在する←去年までは知らなかったこと
あなたの見ているTLと私の見ているTLはこんなに違いますよ。って言いたいことが時々ある
今回の人生で叶ったこともあるけれど、縁がなかったことも多過ぎる。スポーツでの勝利も才能発揮による名声獲得も宇宙冒険旅行も熱烈な純愛も。でもそれを観ることができるし想像することができることを楽しめばいいかな。なにも自分の身体でやってみなくても。
ヒトが人である以上、心の中にどうしたって存在せざるを得ない冷徹な部分、それに気づこうとしない人こそが冷たい人じゃないか。自分の冷たさに気づいて悩む人はむしろ温かいし、自分や他人の冷たさに気づいてあるがまま受け入れられた人は既に神
つらいことがあってもあのPVをまた観られるし、あの漫画の続きを読めるし、多分、生きていけるなあ
熱を加えた卵と乳は何か本能に訴えてくる。
身をもって自分の弱さ脆さを味わったからああそれもこれも弱い脆い心なんだねそういうものなんだね。って知ってくれてる人といると、弱くても脆くても生存していける。そういう人を優しいって感じる。
自分の過去ツイートを見るとつくづく気分の浮き沈みに驚く どうしてああまでネガティヴに捉えていたのか、どうして夫に邪険にされたと思っていたのか、ただ疲れていただけだったかもしれないのに
けれど、ふと「ああっ、解るそれ解る解るよー!」と思える言葉に出会ってしまうことがあるしそんなときなぜか涙が出るという身体の謎の反応
歌の歌詞にも突っ込んでいた。いやいやいや、知り尽くしたり知り尽くされたりするのは人類にはまだ早いから目指しちゃだめ、無茶な話だと思ってたほうがラクだし幸せだよー。と
カジモドのでかい手とか、おしつぶされた左目とかの如何にセクシーかを語れる人がいま欲しい
いまここに辛うじて飲み込んでる思いなんて、たとえ吐き出してみても誰の栄養にもならないから自分の烏滸がましさと一緒に速く消化して血液に変えてしまいたいけど苦すぎて胃に落ちてくれない
原作と大きく結末が違う映画やドラマを観るときは、パラレルワールドを描いた別作品だと思うようにしている。
大人な我が子と、扶養被扶養のしがらみを取り去って心だけで対等な相互フォローの関係でついったコミュニケーションできたらいいなあって思うことがある。事情さえ許せば
祖父母世代、親世代、自分の世代、そして子どもの世代の、若い頃に受けた教育や世間の常識や流行っていた価値観の相違にふと哀しくなってしまう。特に就活とか人生設計とかについて、私の経験が子どものケースには大して役立たないだろうことが。
その感覚だけはちょっと解ってあげられないないなあとか、それはとても解るんだけど自分はそうは思いたくないなあとか、そういうのもひっくるめて好きで居てくれるひとのことを有難いと思うし、私の「好き」もそういう意味での「好き」であることが多いです
何十年も食わず嫌いしていたものさえにも何かの縁で触れて180度変わって惚れ込んでしまうハプニングに、我ながら驚かされる。これだからやっぱりヒトはやめられない
オレンジを切って並べた今の指に残る香りも覚えていたい。カラダがあってよかった
何もかも覚えていたい
命を作るような行為は本来、命懸けのことだから誰とでもできるものじゃない余程の信頼がなきゃ無理だと思ったの…
藤島ハルが晴彦に貰った服を部屋で投げつけるシーンが哀しい。あの時はまだ嫉妬に囚われてたんだなあって。
このお店にまた来ることがわかってたら、選んでしまったA定食を食べながらB定食を羨む必要はなくなるのになあ
あれ、来世への宿題だと思えるものはもしかして私は前世でもう味わって来たのかな、忘れてるだけで。いま縁の無さげなあんなロマンスとか、あんな珍味とか、こんなスカイダイビングとかも
ていうかもしかして現世での記憶が一度なくなってからの、魂剥き出し状態になってからのほうが確実に探しに行きやすいのかも、ていうか帰るホームが実は同じで、打ち合わせした上で次の別行動をプロデュースしてたりして、
子のことを、どうであっても、何をしても、心の中から追い出せないでいられる(好きとかきらいとかを超えてて)ような自分の境遇が、実はものすごく奇跡的にめぐまれているのだということを改めて知って忘れないようにしたい。
何かの裏を読みたい心理が常にある。見える・見えない両方の世界の仕組みの裏の裏の裏を想定し切れなくて時おり疲れております。普及してゆく歴史や常識は、勝った人やお金を動かしたい人や声が大きい人によって作られることが多々ありそなので、信用と懐疑のバランスも難しいけど。
たとえば昨日生まれた我が子と今日生まれた我が子を、成長はしてるけど同一人物と認識して育てる。明日もそう。明後日もそう。…その積み重ねで二十歳まで見てきた子に今「生まれた頃の自分と今の成人の自分とは果たして同じ自分か」と言われたら「は?当たり前じゃん別人なわけないじゃん?」
すべての人の記憶が保管されている場所が宇宙にあるっていう人もいるけども。/じゃあ私がちょっといけてなくても誰かがいけてればいいんだ。
ダイスやモンスリーとか、大人のほうが寧ろコドモっぽくて、人々の中で生きているうちに成長してるし欠けている部分をだんだん満たしていくのに比して、コナンもラナもたかだか11歳かそこらへんの歳でいながら魂が美しく完成された夫婦って感じ…第8話がエモ極み
古代の人が見たら魔法にしか思えない技術が、いま当たり前のように身の周りに在ってくれるありがたい。そう思うと…いま魔法でしかないことを当たり前にやってるのかもしられない未来社会、も見てみたい気がする
防災的な意味で顔を洗っておいた。
いやなことから逃げてもなんとかなっちゃう。なっちゃった。ただ来世のしくだいちょっと増えただろうけど
ついったや、ついった以外の場所でも、「同感!ああっこれって私のことだ!」と思える言葉に出会ったりするけれど、でもその人は自分じゃない。自分じゃないんだ気を付けよう、でもパズルの一面だけがピッタリ合うってこともあるのかもしれない
ユニクロで買ったカップつきタンクトップの前身頃とカップの間にはまってさあ大変だったけど脱出しました。素敵な一日を
あなたの為だと言われると何も言い返せなかった。自分の為でしょとは言い返せるわけがなかった。
「可愛いね」って言うのは「美形モデルみたいに可愛いね」っていう意味ではない。「世間的表面的な美醜を超越して、何もかもを容れる愛の宇宙のように癒しの光を放っていて私もそれを放っておけなくて身悶えするほどキャー傍にいてって思わせてしまうよね」っていう意味である(通常)。
週1発行の無料求人雑誌を駅前でもらって持ちかえっては、それを読むのが面倒になって、週末には読了しないままリサイクルの束に入れて(酷い)、また週開けに最新号をもらってくる。この繰り返しをいいかげん止めたいんだけども
求められるのは幸せを自給自足で感じられるスキルかもしれないなー
何でも、一生このままってことはないね おはようございます。
物理的に離れてみたことで優しくなれた、ってことは多いんじゃないかな、と
そんなあれこれを考え出すと、ここまで考え方や趣味が合わなくて恋もしてない相手とでも折り合いつけて感謝して**年以上添い遂げられるんだ!と感動すら覚える(惚気話)
この道じゃなきゃ他はもーだめだ…みたいな融通利かなさがかなりまずいんだと思った
他人が選んだ道を貶さなくたって自分が選んだ道が良かったならそれでいいじゃない。どのタイミングで試練を経験するか、どれがその子どもに合ってる環境なのか、皆それぞれ違うんだから
いま大人になって観返すと、別にレプカも最初っから悪の権化ではないし、ダイスも意地悪じゃないしモンスリーの行動にも正しさがある…。コナンから見てラナを泣かせる者は悪だっただろうけど、コナンの知らないところで人はそれぞれ生きるのに精一杯やっていたそのやりかたが色々あっただけ
されていやなこと、平気なこと、嬉しいこと、って人によって違うよね…。
どう考えても、いま人間が考え得るここの宇宙の外側って、誰かの細胞のひとつの中にあるちいさな仕組みのひとつに過ぎない気がしてくるし、その巨人が誰でどんな存在だろうと私にはホント何の関係もないんだよ~
未来少年コナン(大好きな作品)、いま観ると、あそこまで人間の経済活動とか人工の諸々を悪者にしなくても…って思うんだけど、あの初回放送の頃の社会って、公害問題が顕になるなどそういう反省が必要な時代だったんだもんね…しょうがないよ
本当に電気、命に関わるね。太陽光や風力その他の発電方法にも環境に悪影響あったり災害時の脆弱性がある且つ原子力の代替が務まるような安定供給は難しいという。効率の良い原子力発電を、ただゼロリスク気分で危険視するんじゃなくて、現状を安全に運用する建設的な方向が良いなあ
言葉にできる気持ちもあるし、できない気持ちもあるし。言葉にできないままじっくり考えるのも薬、言葉にできないことを頑張って言葉にしてみるのもまた薬、って気がする
心配し過ぎる人に心配かけまいとして飽和状態になって優しい嘘を纏うのが上手になってしまっても、融かしきれなかったものがだんだん冷えて後で結晶になって残る
宗教は手前味噌で自作することにしてる。買わないし、売らない。でも材料はどこかで仕入れて来る。
幸せでいることが親孝行だよ
ただ、たまたまこれを見てくれた人が覚えておいてくれたら幸いなのは、世の中には、心配事をわざわざ大きくすることで壺や本や人気を売りたい人もいるかもしれないってことで、しかも上手にマインドコントロールするカルトなどはいつもどこかにいるよ、ってこと。
子どものことは何でもかんでも親が仕切って決めてやらなやきゃっていう人がいたけど、あれは子どもを育てた自分のことも信用してないからなんじゃないかなあ?
まず、駅の構内では矯正視力1.0に満たない人間がどこに立っても、どこにいけば西口東口北口南口何線の乗場、そしておトイレ、が何処なのかが一目瞭然でわかるようにしてください。どの地点を取っても心細くならないようはっきりしつこいほど案内してください
年取るとありがちなこと 自分が意地悪されてると思う。見えない矢が自分に向けられてると思う。一旦思い込むとそうとしか思えない。ていう事例をどっかで最近見た気がする。自戒
誰かの役に立てないと自分に生きてる価値がないと思い込んでた人に言いたいことがあったけどなんだっけ
昨日の雨とさっきまでの雲はこのお日様恋しさを高める演出だったかー
カラダのレンタル期限がどこにも書いてない
誰かのお世話になってしまうことを気に病むのってくだらないことなのかもしれない だってほら宇宙はやけに広いし。
せっかく日本に生まれたから言葉遊びもしたい
この空の下の人々の脳内に様々な歌が流れてるのかと思うと。
バリアフリーは当たり前として。各駅構内の200m毎に一ヶ所はトイレを設置し、そこに非常用呼出ベルを付け、使い捨てカイロと生理用品とエチケット袋を沢山置き、ご自由にお持ち下さいとすることが望ましいでしょ
私もあの頃はむらしたこうぞうの初恋を聴いてて泣いちゃってた。好きだよと言えずにの「言えずに」に来るとぶわーっと。
前世の記憶を失くしてから生まれてくるのは、ネタバレ無しの新鮮な気持ちで泣いたり笑ったり悩んだり感動したりしたいから、それが醍醐味だから、わざわざその為に記憶をリセットして生まれてくるんだ・・・ていう趣旨の言葉を最近どこかで見かけて成程と頷いた
車体感覚もわからない 人との距離感も計れない 縦列駐車もできない 高速道路に乗れない 道の真ん中走れない バックの時にハンドルどっちに切るのかわからない 免許更新忘れて失効したけどツタヤカードは保険証と電気料金のお知らせで作ったから別にいいの。
誰かが誰かを真剣に想っている様子に出逢えるから、ついったーやってて良かった。人の心ってものに希望が持てる。こんな私もそれを垣間見て生きるよすがにさせて頂く仕組みがあります。
心のなかのいろんな人がいろんなことにふれ触発され啓発されつられて起きたり寝たりしてる。
とある親族の「私は貴方の為に人生捧げてきたし貴方のことばかり考えているので貴方は私の良かれと思う気持ちを汲み私の期待に沿わないと私が死ぬよ涙!」ていうアピールがきつ過ぎてたから、自分で何か決めて行動することが怖かった。彼女を満足させられるかどうかが私の物事選択理由の筆頭だった
平凡そのもののフツーの私の過去ツイをBOTでぐるぐる再生することに意味があるだろうか(内輪向けの遺言以外の意味はないだろう)
ひとりの人の頭と心の中に天使も悪魔も勿論のこと、売れないお笑い芸人や天才外科医やSやMや男や女や政治家や坊さんや世界征服家やロボットや幼稚園児まで何処か隅に入ってるん、だから何って話だけど
なるべく行ったことのない場所の夢を見てきます。
ぎゅっと目を閉じて瞼のうえから圧迫すると、小さなトンガリ帽子みたいな無数の二等辺三角形の連続模様(カフェオレみたいな無地の背景に極細黒サインペンで描いたようなので頂点の角度は約15度)が見える。昔から変わらない。他の人は見えないのかな?
お互いに多くを期待し過ぎない間柄の友達関係が一番細く長く続いてる。年に数回会えるか会えないかで良し
アルジャーノンに花束をのチャーリイ・ゴードンは、ふつうの人が一生かけて登って降りる山を、イッキに駆け登って駆け降りたから、周りを面食らわせたんだね。
君たちは欺かれているんだ。と言って欺く手口のカルトがいくらでもあるからねー
あのひとは意地悪な人!と思った矢先に、その人の中に妙に可愛いところを少しでも発見してしまうと、憎む自分が悪いような気がしてしまうから、凝視しないで遠くへ遠くへ離れたかった。
ひと良かれと思って精一杯生きている様々な分野の人々の働きのお陰でまた生きられた私
危険を警告する声がデマじゃないかどうかを根拠検証のためこつこつまとめてくれている人は、差別とか風評被害とかが実際に深刻に在ることを憂えてやってくれているんだと思う
いやなことから逃げてもなんとかなっちゃう。なっちゃった。ただ来世のしくだいちょっと増えただろうけど
でもそんな大層なことじゃないのか。今、この狭い観測範囲で取り敢えず、今の、私に出来ること、それはどこかのいつかの誰かも担えるであろうこと、それをするときは…私にしか出来ないっていう気負いがあったほうが張り合いが出るのか。そうかも
そうですね…遠くから近くから、上から下から中から外から右から左から表から裏から、見てみる練習 がんばってみます。また明日
叱ってるようで実はただ怒ってるひと、子どもが「ごめんなさい」って言って涙をこぼせばとりあえず満足なのかな
心のなかのあれとかあれとかを上手に再現してはいこれですって言って見せ合えないゆえもどかしいという設定のゲームの時間があまりにも長い(人によっては100年くらい)ので途中で辞めたくなるけど まだ辞めないし辞めないでね。おはよです
これは、嘗て私が感じてた、就職のややこしさについて人に説明する時の気に入ってる喩えなんだけども…自分がどんな形の鍵を幾つ持っていて、どんな鍵穴を用意してる職場がどこにあって、それがピッタリ合うのはどの業界方面にあるのか、見極めがめっちゃ難しいなあ…ってこと。鍵が合えば開くけども
色の名前を表す言葉がこんなに多い日本って素晴らしいと思う
同じクラスの中でのトラブルの八方塞がりの気分が世界地図を眺めるくらいじゃ晴れないのにクラス替えがあるだけで嘘のように消えることもあったりして
喜んでいる自分を喜んでくれる誰かがいてくれたおかげで、いま、誰かが喜んでると喜べる自分でいられるのかも。
ふっ と自然な笑みがこぼれるところを少しでもたくさん目撃したい
今夜、ロマンス劇場で」序盤、正直なところこれはキツいかなって思ってた…ら、どんどん可愛くなって。感動してしまった。こういう幸せなんだ…次元の超えかたが好き。もしテレビで放送することがあれば、チャンネル替えずに観て欲しい※ちょっと「泣くな、はらちゃん」を思い出したりした(2018
小学生の頃に同じクラスだったAさんとBさん(どちらも同性)の二人から取り合いになって悩んだ日々を思い出すにつけ、三角関係の頂点に立つよりも底辺にいたほうがゼッタイ気がらくだと思った。
あんなに風情があってセクシーで頭も良くて勇気もあって且つ子ども心も忘れてなくて繊細で謙虚で…っていくら私が褒めても惚れても、彼には心に決めた女性がいるんだ…(カジモドの話)
ひょんなことで何かを好きになると私の場合、その周辺の何かに対してもまたアンテナが利くようになり、また別の、今までスルーしていた何かに詳しくなって、沼というより、すり鉢のように円錐形にどんどんと取り込んで行くイメージ
現世を作った人にききたい。心やさしい人々や誠実で懸命な人々が、ドラマの最終回で必ず報われるようには現実は作られていない…のか、何回も生まれ変わらないと最終回が観られない…のか、大体いま何話目であとどのくらいでハッピーエンドなのか、教えて
自分と全然違う境遇を暮らしている自分と違う考え方の人がたまたま自分の思いと似たことをツイートしているだけとは思いながら、頷いてしまう
あのころこだわっていたことが今はどうでもよくなっててそれが可笑しいや。
情報統合思念体が遣わした異星人は未来の自分自身と記憶を同期してしまえるみたいだけど、そんな彼女は「日々を重ねて歳を重ねていくしあわせ」を知りえるのかなあ。
もっと穏やかに落ち着いて子育てできる環境に彼女がいたら、また違っていたのだろうか。いつも人に弱みをみせまいとしていた彼女にとって子どもたちは重要な鎧というかアイテムだったのかな
あの時あの人に言いたかった(けど言えなかった)のは、子どもの世間的な評価とあなたの評価とを一緒にしたら親子いっしょに苦しいよ、って。
ヒトじゃないものが文明を築いてる将来をヒトの目で観られないのが惜しいなあ。今夜の夢はそれをリクエストしておきます。おやすみなさい。ってまだ寝ないけども
地域にいる定年後のおじいさまおばあさまがパトロールとかワークショップとかですんごく助けてくれることを知ったのだった。
子どものことは何でもかんでも親が仕切って決めてやらなやきゃっていう人がいたけど、あれは子どもを育てた自分のことも信用してないからなんじゃないかなあ?
住んでる地域が同じってだけの親の集まりだったから色んなスタンスの人がいてまとめるのタイヘンだったし
いまは斜め後ろから見て、天国にいったら上から見て、いつか中から見たい。好きな人の胎児になりたい ってわりと真面目に考えてたことがある
ひとりの時間が一番好きかもしれない。ひとりになってやりたいことは誰かが誰かを愛してる絵や言葉を見てその夢をみること。
一年以上も以前の携帯メールのやりとりを時間かけて振り返って読んでいたら、その間の自分や周囲の諸々の関心ごとの移り変わりと変わらないもの、悩んでは晴れ、曇っては浮上してきた家族や自分、その時間の流れ、読んでいて蘇ってきて、なんだか涙も出そうで
男の子を見守るときは、トイレの個室を上から覗くんじゃなくて、ドアの外でそっと待機し、必要があればトイレットペーパーを投げ入れるくらいのスタンスで
保護者会に出て初心を思い出せた気がする。キャパ小さい私自身は必要以上に悩みを抱えるのは極力やめて母港でいたいなあと。
あのひとは意地悪な人!と思った矢先に、その人の中に妙に可愛いところを少しでも発見してしまうと、憎む自分が悪いような気がしてしまうから、凝視しないで遠くへ遠くへ離れたかった。
ミュージカルやオペラやバレエや能や歌舞伎など、様々な演劇のお約束に疑問を抱いてしまう人はきっと常にいる。テレビドラマでも登場人物が内緒話を明らかに人に聴かれそうな音量で喋っているけど、それは聴かれてない時は聴かれない音量で喋ったという設定なんだ。そこはそういうものとして観るお約束
そうか、あれだ…命ある身体って、誕生日に暖簾分け独立した「有限会社誰々」ていうチームだから、同一会社だけど構成員たる社員は代替わりしてるから、創立当時を当の中の人が知らないってことか。引き継ぎ資料は主に脳の中そして社風に残っていく
まあ解らない人には解らなくても構わないっていうか解らない人が多いからうまく需要が分散されてる。
目の前でトゲが抜けなくて痛そうなのを見たら、こっちまで痛い気がするし、抜いてあげられるのなら抜いてあげたいと思ってしまうし、目の前で誰かがおいしいものを食べて嬉しそうなのを見たら、こっちまでおいしい感じがして嬉しいし
頭の中を割って見せ合えないという仕組みが「いったいなんなの」と思うけど、そのもどかしさを味わうために頭蓋骨があるのかな
おトイレに入ってるところは普通は見せたくないし見たくない。ドアに鍵はかける。でもおトイレにいる人が嫌いなわけないし自分も当然入るしみんなどんどんトイレに行こう。みたいな?
全世界いっせーのせ!で同時に核兵器やめられるんならいいのに。あくまでも全世界が同時に。
夢の中でむかしの想い人に「私の好きなものはセロリと音楽とあなた」と言います。そしたら「セロリと音楽はいいけど僕のことは嘘でしょう」って返されます。一番の好みを否定されたので、へこんだり、心外だと思って腹が立ったりします。でもセロリと音楽だけは認めてくれたから溜飲を下げます
心のなかのあれとかあれとかを上手に再現してはいこれですって言って見せ合えないゆえもどかしいという設定のゲームの時間があまりにも長い(人によっては100年くらい)ので途中で辞めたくなるけど まだ辞めないし辞めないでね。おはよです
ネガティブな言葉を見てもポジティブな言葉を見ても、何を見ても、ネガティブな気分になっちゃう、ような時もある(逆もまたある)。でもどちらも私の心の収納スペースを拡げてくれている
いやあ。ここから開けられますってなまじっか切目がついて書いてある箇所からどうにも切れないし開けられないからハサミ取りに行くのが遅れる結局は。
大切な人が私のために自分を犠牲にするのは辛い。友達のほうもきっとそうだろう、って思って私は友達のために自分を犠牲にはしないようにしたいと思います。お互い犠牲にならないように持っていけたらいいなあって感じです。
ある主張をしてある立場の人の気持ちに添えばまた別な立場の人を少なからず傷つける、あるリスクを懸念すれば、また別なリスクも持ち上がる、本当に難しいなと思います。
どこに行くにも必ず身体に子どもをくっつけて且つ着替えオムツ飲み物あやす為のグッズ等一式常に装備しないと家から出られなかった、あの頃の腰痛や、身軽になりたい願望。常にトイレの場所確認。行くのを諦めてたイベント。そんな諸々を喉元過ぎて熱さを忘れるかのように忘れてしまうのは何故
少しでも分かろうと思いつつも、でも全てを分かることはできないということも知っている…そういう人が好き。何もかも分かったぞと思い込んだりしないでいてくれる…そういう人の側でなら安心する
今回、人語を解する生物に生まれ誠に幸運だけど、今度またいつヒトに生まれさせて貰えるか心配。だったが、昨日で人生終わったと想像して今日またヒトに生まれられたラッキー!って考えてみたら多少は嬉しくなってきた
おんなじ祖先からみんな生まれたらしいのに不思議だ。おやすみなさい
良かれと思った方向に「だけ」大勢が流れてくと別の面で良くないことが起こるんだな、と気づかされる/たまには自分の視野を疑ってみるのも必要だなって自戒込めつつ
自分が信じていて自分の思考を方向付けていた、あるひとつの仮定を「もしかしたらこれ自体が誤りではないか?」と疑ってみることで、その後はもう、同じ言葉を見ても別視点からの別な風景に見える。すると、かつては良かれと思ったことも、実は諸刃の剣なんだとわかってくる。
みんな沢山喋ってるようでも、うまく言葉にできないことや飲み込む言葉のほうがもっと多い。いい大人だってそうなんだから子どもは尚更、若いこは更に尚更、胸にしまってるのかな
全部のひと1人1人の心情や立場に共感しちゃうと何も話せなくどっちにも動けなくなると思うけど、実際は何かに目をつぶって敢えて何か発したり動いたりしなきゃいけない、てことは理想の政治家って万人に好かれる人ではなくって、超人ってことかしら
そういえば「普通」って何だろう。最大公約数、最小公倍数、多数決、空気読んだ結果の無難、無用なストレスを避けあう為のお約束、声の大きな人が「これが普通だ」と宣伝した基準、昔からの経験則で残り今に伝わる生き易いすがた、…
根拠があるなら、そしてリスクバランスを考えた上で結局それが多くのひとのためになることなら、心配な点は心配と言っていいし、安心できることは安心できると言っていいし、でもどちらにせよできる限り科学的にあり得ることかどうか、優先順位がどうなのか、考えたいと思いました
時々よくわかんない寂寥を感じて堪らなくなったりとか、彼の彼女の心の中が見えそで見えなくて気を揉んだりとか、しちゃってるんだけども、それも、宇宙とかから支給されたこの身体を着ている今だけなんだよね。脱いでお家に還ればなんのことはなくみんな一緒に裸でお喋りするんだよね?と思いたいです
私もひとさまから見れば「それ全然気にするところじゃないよ」ってことを世界の全てみたいに悩んでて、それを言語化することは無理だし、そういうのって私だけじゃないことはまあわかる。自ら「これ全然気にすることなかったわ」と自分が気づくの待ち。なんだけど、
親から見れば大して「そこ全然気にするところじゃないから」ってことを、世界の全てみたく悩んでる子に「そこ全然気にするところじゃないって」と私が諭してみたって「そうだね分かった」とはならない(自分を振り返れば分かる)。自ら「ここ全然気にするところじゃなかった」と気づくのを待つほか無い
そうですよね…人が単独で健やかに優しくいられるわけじゃなく、その為に環境や社会の仕組みやそれ支える顔の見えない人々の働きがあるのを意識していたい
例えば来週の月曜日になにか緊張するような心配なイベントがあったとして、心配してもしなくても結果が同じな場合、その不安な覚えを来週の月曜日の朝までどこかにしまいこんで忘れていられたら体に良さそうなのにと
「迷惑をかけないように生きる」という考え方が、他人に頼ってはいけないような気にさせるけど、頼ることイコール迷惑かけるではない。「互いに自分ができないことを他人に頼って良いし、自分ができる別なことで、また誰かを助けたら良い」ことと「他人に迷惑かけない」が矛盾するように思われがち
私や私の身内を知らない人に向けてだからこそ、しがらみもなく、自分の心のあの部屋とかこの部屋にあるものを、好きなように出して遊べるし、時間空間の縛りなく知らない人かいつかこれを見て、ふーんそうかい…って何かしら感じてくれるかもしれない、というのが面白いんだよな…なので
現在の自分が、過去からのずっと目に見えない無数の先人や同時代のひとびとや社会環境や他の目に見えない自然や物理や諸々の影響係わりの、どれがなくてもあり得なかったことを、折に触れて心のなかでかみしめることが大事って、私の師匠が言ってることを今日も忘れたくない