使っていたbot(自動投稿予約)サービスに、twitterのAPI使用がタダではできなくなるっぽいので、botに登録していた言葉を仮に置いておくその1

(別あか)a.なんだか哀しいとき、なんだか哀しいからこそ、「好き」の思いを無尽蔵に一方的に浴びせて構わないような対象としての憧れの人の、とっても生きてる姿を鑑賞したくなる。
作品を愛でたい、味わいたいVS 作品の提供者に幸せな人生を送ってもらいたい   ここになんの矛盾も生じなさそうな人のことを安心して応援したいという欲が、自分のなかにある
他人が知らない魅力を好きな対象に見出だす幸せVS 好きな対象の魅力を他人が知らない残念さ
SNS 、ネット銀行、何もかも、IDやパスワードを紙に出力するのは盗まれたらこわいからもちろんやってないけど、私の頭のなかだけにあればあったでこれも不安。記憶ごとむちゃくちゃ信用できる何かに預けたい。そういう何かがあれば
・その場にいた人じゃないと分からないことがある\r\n・その場にいた人の言葉もその場にいた人の主観が入っている
思いが空回りして方向を間違ってしまった人が、また人の気持ちの力で戻ってくるっていう話は、私の好きなやつ。(HiGH&LOW SEASON 1)
一口に「同じ推しを好きな人間の集合」と言っても色々…・絶対評価の人・全面肯定の人・他を下げて推しを上げる人・ひたすら幸せを祈る人・ダメ出しする人・妄想する人・弱点もまるごと愛する人・自分の理想に嵌めないと気がすまない人・推しに恩を着せる人・推しを神仏のように心の拠り所にする人、等
ブラック・ジャックの「えらばれたマスク」/台詞のひとつひとつ、登場人物の表情、動作、間合い、アングル、もう完璧な映画だよね。父親の「信じてるよ」の後BJの表情変化とか…ラストの会話のあの二人の仕草とか名優の共演
中学生の頃に夢中で読んだブラック・ジャック、今また読み返してみると、あの辛辣な言葉の裏にどれほど割り切れない愛憎があったのか沁みじみと分かって、1ページ毎に涙出てしまう
好きじゃない・どうせ何々だろう・…そうやって観れば、尚更、好きじゃないように見えるし何々に見える。あと本当に過去の自分にも言いたいが、自分が興味ない分野について、止めろとか嫌いとか簡単に言うなとつくづく思い知らされたよ
何かを肯定する・好き…という場合に、つい、そのことをいちいち毎日言葉にせずに済んでしまうが、一方で何かちょっとした不満や文句、欲を言えばもう少し…なレベルのことは声を上げてしまう。なのでクレームの影にもっと何倍もの満足が隠れてるという事態は割とある
ミスを叱られたが、・このようなミスを人はしがちであるというサンプルを私は提供した・叱られたのはミスであって私の存在ではない…と思うことでメンタル凹みを凸にしたのだった
ところでNHKのスペース・スペクタクルで観た、生命が存在するかもしれない星の話だけど。自転してない星の昼と夜の間の、夕暮が続く地域に延々と生きてるかもしれない星人からすれば、夜も昼もないし冬も夏もないし昨日も明日もないとなると、時間の区切りで気持ちを切り替えるってことを知らないかも
ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝、良かった…貰った優しさを時間かけて誰かにまた手渡してく人、時間経過が愛しくて好き。全コマ全瞬間の美に泣。テーマ曲の○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○ https://t.co/5rgNnzR4ZA (2019.9)
諦めなさが、凄いんですよ…池井戸作品にはよく、現場の心を汲まない分からずやさんがたくさん出てくるんだけど、時に大胆に時に地道に、体力と知力と、人善かれの精神で、一つ一つ一人一人説得していく道のりがね、素晴らしいんだ。 ノーサイド・ゲーム
「大切な人」に誠実に向き合って相手に伝えられたの良かった。大切な人にだからこそ嘘ではない本当を届ける人々。一旦しっかり向き合って、でも今後、人の感情はガチガチの固定ではなく尊敬友情親愛が恋愛に変わる可能性もなきにしもあらずなことを見せて貰った おっさんずラブinthesky
『受け入れて』拝見し超良かったので感想メモ追記、時系列関係なく思い出す都度書いていく予定、少しネタバレあり、ご注意。特に私は・宮本家○と○の辿る経緯が各々だった件・○○と○の擦れ違い…に考えさせられまくり https://t.co/fPUrISRrHx
『受け入れて』 観た後、身近にある理不尽、(例えば)本来は業務に差し障りのないことで採用差別する側の問題を想像しました。採用側には・知らない分野での面倒を抱えたくない責任も負いたくない事無かれ主義・知らないことをよく知る努力を億劫がり時間や心に余裕がない
ヴァイオレットが、今までに人との心の通わせから得た宝物を、自身の中で育てて、また別の誰かに手渡すのが好き。ラストシーンでのあの仕草もそのひとつだったので、胸があったかくなった(2020 劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンを観て)
そして後半の展開(あんまりネタバレするのは避けたいが)、現実世界で今まさに起こっている問題に絡めて、とても美しいものを見た…あの、離れて見守りながら目を潤ませるところとかホントに大好きな場面… #逃げ恥 (2021.1 スペシャルドラマ)
天国と地獄 第8話で日高の本性が垣間見えるあの、○○○○○○での会話や、日高が彩子を回想してた場面、とても好き。彩子のことをなんとなく太陽のように捉えていそうな気がする…※ややネタバレな追記をしていく予定 https://t.co/jcFAKaGX1D
他人の幸不幸を勝手に判断することは愚かしいな…と、あの場面を観て私は自戒せざるを得なかったし。どんな人達にも、その人達にだけわかる歩みがあるね\r\nhttps://t.co/fZqTb2pAZI (監察医朝顔
『死神坊っちゃんと黒メイド』の坊っちゃんが高次の存在過ぎて堪らん…という話(第171話まで読んでいない方は追記を見ないで…) https://t.co/0eBUMiiRnl
仮面ライダー鎧武について自分の感想ツイートと、そしてツイートしなかった少しネタバレな物思い、 を、随時追記更新して置いておく場所 - Twitter絡みの倉庫 https://t.co/H7uaNHiKrl
仮面ライダーオーズ に出てくるいろんな欲望事例のこと考える…あれら全部の要素が現実の一人の人間の中に同居し得る…気分や体調や環境によってどの要素が色濃く出てくるかどれもあり得るかも…まるで餓鬼界やら声聞界やら菩薩会やら仏界まで行く可能性があるヒトみたい…
ブラック・ジャックの「U-18は知っている」(コンピュータが治療して手術する病院の話)とか、火の鳥の生命編(TVショーで殺し合いさせる為のクローン人間の話)とかそういう、未来先取りしてるなあ…という漫画を読むにつけて思う…。手塚治虫さんって存在が良い意味でオーパーツっぽい
特に「アルジャーノンに花束を」は良いよ。原作とはパラレルワールドだと思って割り切って観てみて下さい。バブみのある無垢な可愛さからシニカルで憎たらしい感じまで、幼稚な恋の嫉妬から聖人のような悟りの愛、闇から光まで演じ分けるユースケさん居ますよ… (ユースケ・サンタマリアさん主演の)
ミスを叱られたが、・このようなミスを人はしがちであるというサンプルを私は提供した・叱られたのはミスであって私の存在ではない…と思うことでメンタル凹みを凸にしたのだった
生田家の朝 最終回も生田家らしく面白かった。「こんなこともあろうかと」が可愛い。平凡な毎日送りながら頭の中で波瀾万丈を想像しながら尊い普通を生きてるの佳き。さとるくんとバカリズムさんの対談も毎日ほのぼのしてたし福山雅治さんの主題歌も良いしキャストの皆さんの演技も好き(2018)
休むべき時に休むことの大切さ。休まないことで人が休めないような雰囲気を出すことの弊害。\r\nhttps://twitter.com/komisokabot2/status/1132140715016740864?s=19
集団左遷 最終話o○○○○○○○○○○○の本心を見抜いた上で、かつて彼から貰った言葉と精神をお返しする真山…○○○○○○○真山が好き。oあの○○の涙、救いだと思う。彼のそれまでの人生を想像させる https://t.co/66AfGFj5t6
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○プロメア、私は炎の色の美しさというか痛みをまた味わいたさに、もう一回観たといっても過言じゃない https://t.co/dDETFfRhaU
劇場版『銀河鉄道999』を久しぶりに観た感想。原作漫画以上に私はこの映画が好き。鉄郎のビジュアルもアクションが映えるし鉄郎の年齢設定も上がって思春期ということで、メーテルが鉄郎に抱く感情に説得力が出たと思う https://t.co/OdDBF7Hhk8
ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝、良かった…貰った優しさを時間かけて誰かにまた手渡してく人、時間経過が愛しくて好き。全コマ全瞬間の美に泣。テーマ曲の○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○ https://t.co/5rgNnzR4ZA (2019.9)
『受け入れて』拝見し超良かったので感想メモ追記、時系列関係なく思い出す都度書いていく予定、少しネタバレあり、ご注意。特に私は・宮本家○と○の辿る経緯が各々だった件・○○と○の擦れ違い…に考えさせられまくり https://t.co/fPUrISRrHx
『受け入れて』 観た後、身近にある理不尽、(例えば)本来は業務に差し障りのないことで採用差別する側の問題を想像しました。採用側には・知らない分野での面倒を抱えたくない責任も負いたくない事無かれ主義・知らないことをよく知る努力を億劫がり時間や心に余裕がない
子供の頃に私にとって立ちはだかる壁だった苛めっ子も、いまこの歳になって振り返ると、奴も、ほんの子供でしかなくてウケる…ということは…子供が子供を苛めている様子が大人には然程のことに見えなくても、本人には絶望的な壁として立ちはだかっているということなんだよな…(2020 別アカにて
ARASHI-IN THE SUMMER公式MVで特に私の推しは「呼吸の音(ね)もToo close」の相葉さんの声と表情
ヴァイオレットが、今までに人との心の通わせから得た宝物を、自身の中で育てて、また別の誰かに手渡すのが好き。ラストシーンでのあの仕草もそのひとつだったので、胸があったかくなった(2020 劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンを観て)
トリミングされる保護犬そのものになることはできなくてもきめ細やかな想像力共感力で寄り添ってお世話することが人間にも可能である、ということを、今朝、I LOVEみんなのどうぶつ園の配信を観てつくづく思ったばかりだ(2020.11)
ハカセの失敗 届いて即、読了。めっちゃ良かった…ハカセが彼の祖母とは違う思考のもとに生きられたのは大成功だと私は思う(2020.秋)
と同時に、私が結婚や子育てを始めた時代(平成初期)のあの頃にモヤモヤしたあらゆること…働き方と家庭・家事分担・性別からくる世間からのプレッシャー・出産時の苦痛軽減・等について、逃げ恥から「こういう意識が皆にあればよかったよね」の提示をもらえた気がして(2021 逃げ恥スペシャル)
そして後半の展開(あんまりネタバレするのは避けたいが)、現実世界で今まさに起こっている問題に絡めて、とても美しいものを見た…あの、離れて見守りながら目を潤ませるところとかホントに大好きな場面… #逃げ恥 (2021.1 スペシャルドラマ)
彩子(の魂、身体は日高)が、泣いたり笑ったり凹んだりホッとしたり八巻を相手にテンポ良く意気込んだり日高(の魂、身体は彩子)を憎んだり恐れたり不条理に打ちのめされたり哀しんだりするその、全ての表情(演…高橋一生さん)とか台詞とか愛おしくて繰り返し観たくなる 天国と地獄サイコな2人
入れ替わり設定の面白さを最大限に活かしてる物語、大好き。単に性別交代のレベルじゃなくて…二つの身体で二人分の人間の性格、考え方、感覚、人生、を演じる俳優さんを鑑賞する楽しみ。人間の個性ってちゃんとあるんだなと実感できて何か嬉しい\r\nhttps://t.co/FPwe9hUw6Z
天国と地獄 第8話で日高の本性が垣間見えるあの、○○○○○○での会話や、日高が彩子を回想してた場面、とても好き。彩子のことをなんとなく太陽のように捉えていそうな気がする…※ややネタバレな追記をしていく予定 https://t.co/jcFAKaGX1D
監察医朝顔 最終回で私は平さんのあの○○○○○○○○○○○○○○にショックを受けたけれど、そのあとの朝顔さんや桑原くんの言葉で自分の認識を改めた。はっとした https://t.co/Dg3NDo3A3r
「時間の経過」に伴う変化の中で何か心のありかたが変わらずに続いて積み重ねている、という描写にきっと弱いんだ、私の涙腺\r\n(監察医朝顔最終回を観た時の呟き)
他人の幸不幸を勝手に判断することは愚かしいな…と、あの場面を観て私は自戒せざるを得なかったし。どんな人達にも、その人達にだけわかる歩みがあるね\r\nhttps://t.co/fZqTb2pAZI (監察医朝顔
『死神坊っちゃんと黒メイド』の坊っちゃんが高次の存在過ぎて堪らん…という話(第171話まで読んでいない方は追記を見ないで…) https://t.co/0eBUMiiRnl
仮面ライダーオーズ に出てくるいろんな欲望事例のこと考える…あれら全部の要素が現実の一人の人間の中に同居し得る…気分や体調や環境によってどの要素が色濃く出てくるかどれもあり得るかも…まるで餓鬼界やら声聞界やら菩薩会やら仏界まで行く可能性があるヒトみたい…
(ドラマ・天国と地獄)熱と光が彼の頑なな心を溶かすのとか彼女イコール自分なのとか好き過ぎるってことを…ふせったーに忘れられない好きなとこ追記し続けてるんだけど文字数が3700超えとか我ながらおかしい https://t.co/opLS2TEewF
仮面ライダー鎧武について自分の感想ツイートと、そしてツイートしなかった少しネタバレな物思い、 を、随時追記更新して置いておく場所 - Twitter絡みの倉庫 https://t.co/H7uaNHiKrl
トクサツガガガ 推しを持つヲタクだけでなくジャンル問わず心に好きなものを秘めながら分かち合いたい心理、全ての人類に響くお話。推しから貰える豊かなイマジネーションや人生のヒントや勇気、他者の宝物に対する尊重…年齢性別も、人目も、関係ない…自分と他人の「好き」を愛そう…
死神坊ちゃん アニメ第8話・坊ちゃんの弟妹はそれぞれ可愛いな…・雪の日のアリスと坊ちゃんの思い出、キュンッッ…キュンさせるにも程がある…なんだろうそのアリスのとてつもなく深い愛…それくらいあの日の坊ちゃんに救われた彼女だったんだな…
(コミック)死神坊ちゃん シャーデーの孤独にチームの皆がそれぞれアプローチする、カウンセラーでヒーラーでもある戦士達、メンバー同志の絆も素敵だなあ
恋です ヤンキー君と白杖ガールが互いに相手の置かれている境遇への理解を深めようと向上心を発動している姿が大好き
そうですね…遠くから近くから、上から下から中から外から右から左から表から裏から、見てみる練習 がんばってみます。また明日
ふっ と自然な笑みがこぼれるところを少しでもたくさん目撃したい
帰路 意外と大丈夫だった。年月が経てばあの頃同じ時間を過ごした縁の不思議さのほうが重大事になっていて案外楽しく過ごせてしまった。
何でも、一生このままってことはないね おはようございます。
そんな文句を心のなかで言うこともなく、与えられた環境のなかで自分をああまで変えていった主人公には、年齢以上の尊さを感じた。(HOPE 2話の件)
あんまりネタパレしたくはないが「TOO YOUNG TO DIE 若くして死ぬ」は、あっちとこっちとで時間の速さが違うってところ超絶切ないやつだった。あと、常にわき上がる笑いを堪えて観る羽目になったから、早くDVDで自宅にて観たい
そうだよね、途中下車できないなら車窓からの眺めを楽しみたいね(2016秋 フォロワーさんへのエアリプ)
美女と野獣 別世界の二人の人生を交わらせて、彼らのものの見方を優しく変えてくの好き。エンディング「How Does a Moment Last Forever」ゆったりして、もの哀しさある歌、この奇跡すら遠い過去…人の営みも永遠の中の一瞬なんだ…って思って少し寂しくもなるの好き
初めて出逢う感情を前に戸惑ったりときめいたり恥ずかしがったり悩んだり怖がったり思い切ったり挑んだり落ち込んだり舞い上がったり目から鱗落ちたり優しくなったり…そういう人の様子を見られるから初恋の物語は特に好き
こうやってふりかえると私がこの世に生まれてきて何を楽しいと思ってるかいくつか見えてくる。その中で相反するものがある。好きで大事な存在との関係の中で生きたいという欲と、誰にも何にも遠慮なく自由に一人で味わっていたい欲と
真木が人形のお洋服作るのにユザワヤみたいな手芸店に通って材料を買い集めていたりしたら可愛いな(想像)…それにしてもそういう創作意欲を楽しく発揮している時もある彼が、人々の作り出すもの全てを無に帰すことを願うってどういう仕組み…自分で変だと思わないのかな…人間ってつくづくおかしい…
全人類のことを外敵から守りたいという巨大な望みを叶える為にはどうしても超人的な圧倒的な「力」の使える存在になる必要が生じ、そのようにある意味、ヒトでなくなる、その過程において、体や心の痛みが避けて通れない…という仮面ライダーっぽさは…今この世のシビアな現実世界を想起させる、つらい
他人を助けるためはまず自分が死なないことだという伊達さんの制止も聞かず、自分の命も顧みずに目の前の他人を救おうと飛び出していった映司くんと、そういえばあの、恩返ししたい欲がうまく行かなかった人に人を助ける際の落とし穴を注意喚起する映司くんとは、同じ人生経験を抱える同一人物…
暫定的に考えた「みんなが幸せな状態になるための人体構造」 欲が満たされないときに満たされない状態もまた別にそこそこに楽しめる構造 自分ができない届かないことを他人がやっていたのを見たときに自分を棚に上げて喜べる構造 他人が苦しんでいるのを見ると生理的に自分が痛みと感じる構造、
理解しあえなくて苛々したり、同じ感覚の人を見つけると嬉しかったりするのに、自分にはないものを見ると楽しかったり。白色に安心するけど虹も綺麗。でもその各色が、自分のほうが他の色より綺麗だとか汚いとか言って泣いたり争ったりするんなら、つまらなくはなるけど、混ざって太陽光になれと思う
ネット環境や生活パターンや生い立ち境遇好み感覚、ひととは違う、違うことに寂しくなるよりも、違うひと同志が離れていても言葉を置き合い拾い合い、何かを貰いあげ合い、ができる、ことを味わいたい
生きなきゃなんない人を生きやすく、死ななきゃなんない人を楽に死にやすく、するのが良い教えだと思うの。まあ生き物全部が、生きたり死んだりしなきゃいけないんだけど。あとやっぱり、人殺しを正当化するような教義はおかしいって。自分が殺されても文句言えないってこと
相互理解の話で思い出したんだけど、やはり地球外の生物と対等な交流って難しそうだな。まず、この地上の菌と人が対等に付き合えるか考えて?言葉とか倫理観とか知能とか身体の仕組みとかの壁の以前に、こっちが菌であっちがヒトだった時の対等な付き合いのメリットや可能性ってあるのかな
それを知らないうちは、それを「どうでもよい」と思う。知ると、途端に「どうでもよくないもの」になる
神様がいるかいないか…私は、いると思うっていうか、何を神様と呼ぶかだと思ってる。この世がこんな風に「在る」そのこと自体を神様って呼んでもいいし(私が自分でどうにもできないしそのわけも分からないこと)
ところで、私のこれまでの人生の色々な記憶は断片的で、印象に残ったことの前後の経緯が思い出せずにいることが多々ある。でも覚えていないような事柄も、確かに私を作ってきたんだと改めて思った。主に、その時覚えた知識以上に、感じた気持ちが
私を作ってくれてるひとがたくさんいるし、部分的に私でできているひともたくさんいる…
やっぱり私は、「あなたが信じてるどんな神的なものもそれは人が思いたいように思う形で良くてどれも実は繋がってるっていうかみんな同じものの別面だよ、そんなことで争わなくていい」って言ってるものが好きなんだとおもった。
なんか…自分一人の人生だけだと何のことやら意味も分からないし何も成してないけど、大勢の人生が集まって大勢の時間が積み重なったら、それを俯瞰で長い目で見たら、ジグソーパズル的に、あーあー、、なるほど、こういうのができるのかー、と分かる。で、なるほどと分かる人って誰、みたいな…
フォロワーさんが呟いてた、宇宙がシャボン玉みたいに膨らんだ末には弾けて消えるか、の件、あれからずっと心にある。弾けても、石鹸膜の成分は何処かに存在しているその存在を許す空間が、あって欲しいか欲しくないのか私は、あるとすると気が遠くなり怖いし、ないとするとこれも怖い
私の言動に揺れて心すごく悩んでくれちゃう人より、私が何をどうしようが悩まない人、のほうが私は一緒にいて気楽なのかもしれない
全ての経験は無駄にはならないよね、たとえ結果が出なくっても…って/そうだ、私は跳び箱の前の踏み切り板でいなきゃ。これ昔、自分にいって聞かせたんだった。/息子の頬にえくぼがまた戻るまでと思って励ましてたけど、無理にえくぼを出されてもそれもかなしいから、ゆっくり寝てもらいたい
子どもって親にどうあって欲しいだろう。安心して跳ぶための踏み切り板なのか、融けられるスライムみたいなのか、私はどちらでもあって欲しかったかも
どっちかというと「好きではない」「好みではない」「苦手である」という語彙をよく使うようにしているのは、私自身が「嫌い」の語にやたらに重く鋭いものを感じてしまうからだ。他の人がそうとは限らないんだ。こうしてひとつの言葉をとっても、感覚は様々だ。だからコミュニケーションは複雑
胸中の何もかもをオープンに見せあう必要はないなあ、と思うとき、私の中に浮かんできてよく喩えに使いたくなるのは「生き物は食べれば出すものと知っているし、その事実を当たり前に受容してはいるが、しかしおトイレのドアは閉めておいて欲しい、そのほうが互いに快いから」ってこと
プリンセスチュチュには、絵柄等の雰囲気で、ああこれはちっちゃい女の子ターゲットのやつか、と騙される人が相当いると思う。正直私も途中までそう思ってたんだけど…想像以上に闇だったし、主人公らが突き付けられる究極の選択が哲学だし、あの選び取った道を「そう来たか!」って涙なしに見られない
何々はこんな風に悪そうなイメージ、だからきっといかにもそんな悪いことをやっていそうだろう…みたいな変な願望?のようなものが、デマも拡げていくのかな。
私の保存したデータが消えることは、体がなくなることくらい寂しい。データが消えると人の作った世界が消えちゃう。そのあと何が残るかっていうと、私が関心を払わなかった勝手に存在する自然とか宇宙とかが勝手に残るけど、それって私と関係ある?…って程には生き物感覚を忘れてる
ありとあらゆる種類の大量の情報をコンパクトな形で世界の隅々にまで届けられるデジタル化と、それを支える電力、私が生きていられるのはこれのお蔭だし、筋肉の弱い人も歳とった人も、電気によって心身ともに生かされる場面が多々ある
ネット用語等、今更、人様にに訊くのがなんとなく恥ずかしくて訊けなくて、かといって今すぐ検索で調べたいほどでもないから、そのうち分かるだろうと放置していること、が積もり積もり、それを知らなくてもなんとなく渡れてしまっているネットの海
ところで、私のことを嫌いな人に嫌われても平気、とか頭では考えてる。人は人それぞれだから。でも実際は、人から嫌われることはむちゃくちゃ悲しい。人と私とは同じ感覚ではないことを思い知るから。言葉や表情で何か伝えるのも難しいと思い知るから。皆とひとつになる無理さを思い知るから。…かも
多分だけど私は、こんな何も成し遂げてない私が、考えたり思ったり感じたりしたことを、言葉にして遺してみることで、私っていう意味のない者でさえ何かしらものを考えているのですよと確認することで、自分や、自分みたいに意味のない存在に「意味のないなりに有意義。お疲れさん」て言いたいんだろう
私は表向き怒られない無難な自分のステイタスを作り、無難な日々を過ごすことを考えて大人になった。やっとその思いから解放された今、自分のなかにほぼ何の蓄積もないような気がして。つまりはっきり「自分の意志で選び勝ち取りました!!」というものがこれまでにない
祖母は「親」という立場を使って誰かを自分の偉さ証明に役立てたくて仕方ない人だったし、それができないと泣いたり嘆いたりする人だったが、それが孫の私に対してもそうだった。当時、祖母の価値観の外で生きることは、いわば祖母に死の宣告をするようなものだった
生きててほしい人が生きてることを知るだけでこんなに嬉しいのに、じゃあ生きててほしい人が生きられるために私に何ができているのかっていうと…分からないし、こんなことを思うこと自体がその人のためになるとも思えなかったりする
なんだろ、たとえばリアルタイムでは観てなかった理由って、当時の自分の状況や心境や興味の有る無し諸々あったんだろうけど、こうやって何かの拍子に時間差で出逢うものがはまることある
基本的には、子供には、誰かの幸せを奪うような生き方を選んで欲しくないし、そういう、人を搾取することに喜びを見出だすような子には育って欲しくはない、これ最低限の親の期待。これくらいは言ってもいいでしょ
そうなんだよな、私が(親じゃなくて親戚に対してだったけど)苦しかったのは、私が許可された幸せのあり方が、私の望むものとは関係がなかったことだった。どんな形であれ私の幸せは私のもので良いんだ、と思えたらよかったし、そう思わせたい
それと、どういう形の幸せのあり方なら親を喜ばすことができるか、なんていう気を使わせちゃわないように、どんな形であれ子供の幸せは子供の幸せだ、って当然のように親も子供も思える親子でいるのが理想的かな。これもなかなか難易度高いけど
自分が幸せでいないと親が不幸せに思うんだなと思わせちゃうと、子供は不自由になる…自分が幸せでいないと誰かも不幸せになるの苦しい。けど、っていうか子供の幸せを願わなきゃ、子育てという超絶めんどくさいことはできない。問題は、如何にそれを子供に負担に思わせないようにするか演技力か
彼があのタイミングで永久あばーよ、したのは…、誠の癖に良くやったな!という結果を彼無しで叶えるのを見たかったんじゃないだろうか。この際、彼の中では地球がどうとか自分がどうとかよりも、誠への情が勝っていたように思う(ボク、運命の人です最終回)
明日、学校の帰りにリンホラのライブに行く娘が「何か黒っぽくて危険な感じのカッコ良くて涼しくて講義にも出られる服って、ママは持ってる?持ってたら貸して」と訊いてきた。持ってるわけないし、どんな服なのかさっぱりイメージできないし、なぜ前日に突然言うんだ(2017.7)
Twitter、なんとなく自分のTLが家のように思っちゃって気楽に個人情報呟く人がいるけど、気を付けたほうかいいよ。公開間にという公道のど真ん中と、非公開アカウントという簡単な鍵付きのシェアハウス、このどちらかしかない
他人にされてイヤなことを自分は他人にはすまい、とは思ってるんだ。でも私がされてイヤだと思うことを、こんなにも多くの人間がそれをイヤだと感じてないということに凹む
私にとってイヤなことをする人、理由はいくつか考えられる。一、それが私にはイヤなことだと知らない。二、それは私にはイヤなことだと分かってはいるけどご自分の利益の為に仕方なくやる。三、嫌いな私がイヤがることをやるのが喜びだから。どれか?たいていは最初のやつなんだろう。
願い「私の好きな人達がなるべく痛い思いや苦しい思いをしないでいますように」と「私がなるべく痛い思いや苦しい思いをしないでいますように」と「この二つの願いが両立していますように」三つなので、たいていの魔神には受け付けて貰える
小さい子って案外、親の想像もつかないような面白いこと考えてるかもしれないよ。大人になったら思い出して教えてくれるかもしれないです。ちなみに私は、何もない公園でただ駆け回っていたあの時、地下組織と天上人達との戦いに参加している魔法使いの気持ちで小枝を握り締めて走ってました。
家で黙々と遊んでいた幼い頃の子供が、その時に本当は何を考えていたのか、想像するしかないんだけど、歳月が過ぎて今になって「あの頃、こんなことを考えてた」と子供に言われると、それがまったく予想もつかないことだったりして「ほええ~っ」ってなる
何かをどうでもいいと思えることって、安全装置のひとつ
意味はないけど面白い、と思えるときと、意味がないことが意味無さすぎて腹立つときと、ある
何が怖いって、来世とかじゃなく、いまこの世がまるごと、ある時点まで時間が来たら記憶をリセットされて、昔のとある時点まで戻されてループしてるかもしれないと想像するとホントやだ
ゆるっとした絵柄の漫画キャラが、二次創作できっちりした絵柄にアレンジされているのを観るの、好き
あらゆる意味でひっくり返して来た!あの台詞をあの人が?あの役をまさか、あの人が??反転芸術/頭可笑しくて大好き過ぎたわ…。(2017.6.26貴族探偵)
「それはまるでこの人生のようだ」をつけても大体意味が通るの
たかがポケモンGOだと自分を客観視しつつ、あるときは暇潰しに、またあるときには命懸けで、やるからには自分が楽しいようにやってるゲーム。ちょっとネットの調子が良くないだけで、ちょっと公式さんが無茶するだけで、いつでも滅びかねない世界で生きてるので
私の命の全部が親の手柄で作られたものではない。親、そこまで神じゃないんだ。子供の命は私のお陰じゃないんだ。私、そこまで買い被られると困るもん
自分だか他人だかよくわからないくらい何かに没頭するのは気持ちがいいし、気持ちがいいから自分だか他人だかわからない状態になれるんだろうか
歳月が流れ、いま私の両親が私のやることについて何ら責任を感じなくて済むようになった。これにより昔よりも親と気楽に話せるようになった
圧迫面接という名の弱いもの虐め、滅びて欲しい/圧迫面接という弱いもの虐めに堪えられる人だけいればいいという社風アピール、と解釈
これはアイドルに対してに限らず、公務員とか総理大臣とか、叩いても許されると断じた対象に向かって、現場の努力に想像を到らせずに「どうせ何々だろ」と勝手な中傷をして平気でいる人々のことも、残念だという思いで見る
よく観もせず「どうせアイドルって大した努力もせず事務所の力で美味しいとこ出させてもらえるんでしょ?」みたいな偏見を、私は昔、持ってた。それは大間違いだった。そんな甘いもんではない。あんなに努力。よく見たらすごい高度な総合的な技。ってことを何かの拍子に分かって以来、観るほど楽しい
そんなにアイドルに未婚でいて欲しい人って多いのかなあ。なぜなんだろう。ヒトであって欲しくない?アイドルが見せてくれる「夢」って何だろう。人として素敵な人が素敵なパフォーマンスをしてくれてて彼(彼女)が幸せな様子を見られてたらそれでいい…って思うのは、私が既婚者だからなのかな?
成人男子も、涙が出そうだとか言うんだ…って改めて思って、何とも切なくなってしまった。そして思い出したのが、もうすぐ二番目の子(娘)が生まれる頃に息子が「赤ちゃんが生まれたら僕はどうなるの…?」って訊いてきたこと。あれは泣かずにいられない
優しい人に「優しいね!」って言うのがためらわれる時がある。その人はそれを優しさだと知られたくないかも知れなくて
親が、自分の楽しみを楽しんでいる、そのことがどれ程、子供の私にとって安心なことか
私が好きになるひと、なぜかとても面白いし。好きなひとがご自分でご自分の面白いところに気付いて面白がってしまうのを見たら、尚のこと好き。だってそれは私の好きなところを、好きなひとも好きになってくれてるってことでしょ。だから自分のボケに自分でも突っ込んで欲しい。それを見るのが好き
「大変だな、しんどいな、越えたい壁だな、」って感じること、人によってそれぞれ違うけど、それをひとつでも一回でも頑張ってみる人を見ると、ああ偉業だ…すごい…って思うし、6億円あげたくなるし、私もちょっとは頑張ってみようと思える
起きたときに頭の中に歌が流れてきたり、見た夢が突拍子もないとき、思うんだけど、脳味噌すごいね。すごくない?すごいや
私が無事に生きていたら、楽しみなことが続々と控えている。でもそのひとつひとつを思いながら、これらの楽しみなことが終わってしまうのを寂しくなったりする。美味しいものを食べる前に、食べ終わった状態の自分を想像してしまうような生き物、人間の他にいるのかな。我ながら何やってんのって感じ
ブログにはない、Twitterの面白さって、やはりあると思う。読まれることを意識し過ぎず、でも読まれることを前提にして呟かれた短い言葉の連続
地球の表面からちょっと一層凹んだところにいる生き物でさえこんな珍しいんだから、地球外生物なんてどんなに想像を絶する格好してるのかと思う
アンチの言うこと気にしないで、って思う。地面の下の蟻が人間の悪口をいくら喋ってたって、そこに集音機を設置して聴いたりしなければ、何の痛みも痒みも感じないで生きていけたりできますようにと。
エレベーターに小さい男の子と若いママさんと私、三人だった。男の子がママさんに「わあ、いまひとりでにドアしまったね、まほうだね!」って言うしママさんも「すごいね、魔法すごいねー!」って乗るし、とても微笑ましかったけど、私は一緒に笑っていて良いのか空気になってるべきかちょっと迷って
で、それって彼女らにとって何が楽しかったのかなと察してみたんだけど、子供を信用してないから先回りして自分を押し付けることが可能だし、出来ないと決めつけてるから自分が有用なことを証明できるし、ことごとく全てで子供に勝って自分を偉くしたいってことだったのではないかと思った
それを知らないうちは、それを「どうでもよい」と思う。知ると、途端に「どうでもよくないもの」になる
全然関係ない話するけど、ビュッフエ形式の食事が夢に出てくることが(私は)多いんでもの思うんだけど、結局私は、ある程度歳を取りつつある今から、若い頃には見向きもしなかったあのエリアの料理やその辺のテーブルの料理を、時間内に取ってきて食べる回収の段階に来てるんじゃないだろうか
子供の頃のあるあるみたいなもんだけども。それまで真面目に宿題をやってたのに、ちょっとたまたま息抜きに落書きとかしてみたそのタイミングで見つかり「宿題を先にやれば?」みたいな。なぜ、その時に見た状況が全てだと思われなきゃならんのかね
ずっと動物の可愛さに対してスイッチが入らないままで生きてきて、この数年の間に「え、もしかしてみんながかわいいかわいい言う動物の可愛さって、これなのか!!」というのが分かり、今は猫やウサギを見るときとても幸せを感じるようになり、私にもこの感覚があったと認識して、めっちゃ安心する
距離感がおかしい人・こっちは他人だと思ってるのに向こうは他人だと思ってくれない人・こっちはこの問題を私の問題だと思ってるのに向こうは向こうの問題だと思ってくる人…が、子供の頃から身内にも身内外にもたくさんいて苦しかった。裏を返せば、私は比較的、人を他人と思う気持ちが強いのかも
毎日の暮らしの中で私のしてること、せざるを得ないこと、ほとんどが「あ~私はこれがしたくて生きてる訳じゃないんだよな…」って思うことばかり。これらを無くす方向には現実的に難しいけど、この、しなきゃいけないこと自体を何かのゲームのように面白がれる体質になりたい。なりたいのに…なかなか
道を極めるより道を楽しむほうが幸せっていう言葉に「ああそれだ~!!」って膝を打ってる。私の場合だとなんだろ…プロのような料理を目指すのしんどいからやらないけど、冷蔵庫の中見て気儘に食べたいもの作ってみて、あら失敗したとか、結構美味しくできたとか、楽しくやりたい…みたいな
ナポレオンの一生を池田理代子さんが描いた漫画を読んでて(2017)/人が徐々に初心を忘れたり、嫌いだったのに愛したり、愛してたゆえに本末転倒になったり、信じてたのに背いたり、都合で担ぎ上げたのに都合で追いやったり、悲しいけど面白い。(『栄光のナポレオン エロイカ』)
こないだ「ハゴロモジャスミン」という花の名前を覚えた途端に、帰宅途中の道で見つけるハゴロモジャスミンが爆発的に増えたような錯覚に陥っている(2017.5)
史実をベースに描かれた創作物を見ると、教科書では数行にまとまるあの出来事のあの人達にはもしかしたらこんな涙や笑顔があったのか、って想像させられるし、逆にいま実際生きてる我々の諸々の気持ちも歴史に刻まれるなら淡々と数行なのかという思いで、何とも虚しくなるから好き
やっと勝手に怠けられる時間が来たんだ。私にあれこれ言う親戚はもう年老いて何も言ってこない。やったあ、遊ぼう、遊びたい、遊ばせてくれ。そんな思いばかりで、普通に普通の成熟した中高年のすべきことに目が向かないし心も体も動かせない。という病気を抱えている。それは自覚してる
けど、やっぱり、幼き頃から大人になるまで「自分が何かを決める・自分で自分のために自由に何かを決めて行う」ことについて、あの人に怒られる、あの人に知られたらどんな事態に陥るか恐い、と思って生きてくる羽目になり、その枷が外されても「怒られないための時間が来た」という安堵しか残ってない
毎回毎回なんなんだ私の脳は、架空の設定を自分に現実と思い込ませる為の芸が本当に細かすぎる。で、もう一人の、夢から醒めたいほうの脳内の私、すんでのところでいつも救う
私にとっての乗り物(移動手段)と、息子にとっての乗り物(アイドル)、同じバスなのに全然、気にされかたが違うんだな
ぼのぼのに「困るのは絶対にいつか終わるから、安心して困れる」という趣旨の言葉があるのね。素晴らしいや。困るを生きるに置き換えて使ってもいいし
困難なことから虎松を遠ざけてやろうとする母親の心、困難に立ち向かう強さを持たせようと厳しくする父親の心、どちらも加減を誤ると、子供の自己肯定感を損ないかねないけど。あの戦国時代、己を恥じずに生き延びることが最優先事項とすれば、父親的なやり方に軍配が上がるんだろうな(2017.4)
眠いので「地球外の知的な生命体にもし逢えても、彼らは我々とは違う空気に適応して生きてきたのだから、彼らの常に放つ凄いニオイに我々はおそらく耐えることができないだろう」という夢を見そうになっているけど、ぐっすりーぷでぐっどりーむ(2017.4)
GW中の接客業(バイト)に今から取り越し苦労的な漠然とした不安を消せないでいたんだけど、好きな人の言葉を思い出して精一杯やって結果はお任せしよう、むしろ楽しもう、って思えてきた。何をそんなに私はいつも…この自分の何を失うのを恐がってるのか、って(2017)
夢から覚めかけて「あ、これ夢だ。じゃあこの夢、もっとこうしてやろう」って思った。これと同じことが死ぬ前に起こるのだろうか。起こったら報告するね(どこにどうやって)(2017)
3月のライオン後編も面白かった。すごく棋士の張り詰めた気持ちになった。ひなちゃんのあのエピも涙腺壊れて観たし、後藤もめっちゃ良い。いっとき激しく閉じ籠ったときの零くんも好き。人間って誰かの心のチカラに助けられる度合いがやっぱりとてつもない
美女と野獣の実写のモーリス(ベルの父)の描かれかたも良いよね。父の思いが泣ける。アニメのぽよぽよしたふっくらさんも良かったけど、病弱イメージを増すためにはあの実写ビジュも良し
そういえば私は、痛いと思う時・悲しいと思う時・苦しいと思う時・楽しいと思う時・美味しいと思う時・幸せだと思う時…等に、痛みとは何か・悲しみとは何か・苦しみとは何か・楽しみとは何か・美味しさとは何か・幸せとは何か…を真面目に考えてみることをしてなかったかもしれない
幼稚園児に持たせるお弁当で全ての栄養素を満たそう等とは思わないようにした。ちょっとの偏りなら夕食でリカバリできる。それより完食できる量と味。子供の好みに擦り寄る。ウチの子は当時少食だったせいもあるので、完食できると本人がとても喜んでた
好きから始まる関係性がある。関係性から生まれる好きもある。両方がなんとなく混ざって私の好きがある
太陽からの放射線も、思いっきり自然の恵みなんだけど、程度問題だなあ
何につけても、感情に訴えられたほうが関心が強まるという面はあるけども。偏りなく聞こう観ようとする人がいないと偏りない報道が成り立てない
「国」、人で出来てる。私とか。あの人とか。そういう人の営みの集まり
蘭のようなランカマキリが、綺麗さゆえに狙われるのって、なぜその姿に進化してきたのか意味分からない
ゆりさんが、若いコに言う「自分に呪いをかけないで」も良かった。ひらまささんにかかった呪いもみくりのそばで解け、みくりにかかった呪いがひらまささんのそばで解けてったのも嬉しかった
逃げるは恥だが役に立つ』結婚形体って何がもやもやなのかが分かる。そうそうそれだよ~って叫んで観た。でも、壁の中の平穏から、壁の外へ。ダメなとこもコンプレックスもあるヒト同志が枷を降ろしてお互いを受け入れ合える平穏へ。徐々に壁を越え合う人達が可愛い。好き
最初は、復讐のために自分の肉体を機械(不死身)にしようと思ってた鉄郎、途中からは、人間はいつか死ぬからこそ生を輝かせることができるんだと気づいて、今度はその機械化プロジェクトの親玉を潰しにかかる。それ見て当時の私は大変衝撃を受けた。死ねる世界を目指す主人公をそれまで知らなかった
自分が相手を愛することが、相手の生きる道を邪魔してしまうかもしれない、という懸念は、とても悲しい。愛することが確実に相手の幸せに繋がっていくという、その自信がないと、幸せになれない。そんなことを思って観るのがつらかったドク、特に第9話
「ぼく、強いだけ違います…弱いです…」が最高過ぎる。最後の最後にこんな弱さあったのを見せまいとしてたのに見せてしまうドク最高過ぎる。っていうか、この時点までほとんど弱いとこユキに対して隠し切っていたドクが健気で泣ける
岡田惠和さんの作るストーリーが好きなんだ。登場人物はヒトだから、途中途中本末転倒なこと言ったりしたり、あ~あ、なぜそんなんなってしまうんだよ、っていう酷いことして傷付けあっても、あとで乗り越えて高い次元に行く人々じゃん?心洗われちゃうわ
葉っぱが、効率的に光を受けて光合成しようとして、上に重なる葉っぱと葉っぱの間から伸びて、綺麗に並ぶ。これを上から見ている人間の私が「綺麗に並んでるね」と葉っぱたちに教える手立てがないだろうか。でも教える意味はあるだろうか。っていつも思う
男女7人秋物語の良介が「いま、幸せなんか?」って桃子に訊いたときの桃子の「幸せ」って答えた桃子のなんとも哀しそうなような複雑な表情、それを聞いての良介の寂しそうなようなホッとしたようなつらいような表情、泣ける
偲ぶ、倣う、あるいは倣わない、ということで、遺された者の中に死者が生きる…というようなことを南渓和尚が言ってたの、あれとても良かった
誰がどういう立場で何を根拠に何目的でいつ書いたか分からない情報がいっぱいあるインターネット
優しい人が、自分がいなくなる際の周りの人達の心に生じるさみしさについて責任取らなきゃと思う必要なんてないので、眠るように麻酔にかかったように幸せに消えて行って欲しいと思うし、さみしくなる気持ちは周りがなんとかするから安心してとも言いたい(難しそうだけど)
ちょっとでも私が「あ、この人のことが(顔が)(言葉が)(ためらう様子とかが)(趣味が)」好きだ、って思った人が、私の目の黒いうちにこの世からいなくなるという出来事が、さみしくて堪えがたい…という気持ちになるだけ。私には止める権限もなく、さみしい気持ちを解決してもらう義理もない
美味しいものを食べる幸せも、好きな人が美味しいものを食べてるのを知る幸せも、どちらもずっとずっと味わい続けたい。この欲は当分無くならない
娘にお風呂のなかで「自分の命より大切な存在、欲しくない?」って言われ、ああもしかしたら私にはそれがある気がする……とは思ったけど断言は照れるし確信ないから「自分の命も大切だからなあ…大切な存在があるからこそ自分の命が欲しいな」と歯切れよくない答えしかできなかった
「一周回って新しい」≒「一周回ってることに気づかず、どこかここではないどこかの別方向にまっすぐ向かってると思っていたら、実は一周回っていて、昔居たところにまるで初めて訪れるような新鮮な気持ちを伴って辿り着いたのだった」だと思う
私の嘘を見抜くのに、私が嘘をつかざるを得なくなる気持ちのほうはまるで全然見抜いてくれなかったのが、とても片手落ち
いつ爆発するか分からない親戚と付き合わざるを得なかった頃、子どもの頃は成すすべもなかったけど。学生時代にようやく編み出したのは、これなら爆発されないだろうっていう架空の私の設定と、架空の予定を作り上げ、完璧な嘘のシナリオを演じることだった。なのにその嘘は見抜かれた
大勢の人が入れ替わり立ち替わり働きに来る職場では、誰が見ても分かるマニュアルを用意してあるのが望ましい。私の頭の中にしかないことだとか、誰々さんにしかこれは分からないことだとか、そういうの困る。誰がいつ急にいなくなっても回るようにしておくのがいい
これは前の前の職場で感じたことなんだけども。リーダーが複数いて、その人らの頭の中にある「これはこうすべき。これは口で言わなくても察せられるべき。」って思い込まれてる事項がその人によって違ってて、我々新米が日替わりの各リーダーに当たる度、やり方を変えなきゃならないの超めんどうだった
私と仕事とどっちが大事?とか言う人、なんでそんなにひとつに決めさせ順位をつけさせたいのか分かんないっていうか私が大事だから仕事を大事にしてるんだなと思えばいいし、私という大事があるから仕事を大事にできるんだなと思っておけば万事丸く収まるだろうし
「生まれてからずっと同じ人間をやって来たのかと思うと自分、凄い!」って子供が言うのを聞いて嬉しいなど。私の場合、これまで自分生きてきて本当にずっと同じ人間をやって来たのか分からなくなることがある(2017)
ところで摩耶雄嵩さんのミステリに脳を掻き乱される快感を知りかけてるこの頃…。人は地道な努力をしようがしまいが良い人であろうがあるまいが、しんどい展開はそんなことお構いなしに来るときは来る、って態度のストーリーに、共感はしにくいけど脳の換気を良くして貰えるの
ところでBJ話の続きをせずにいられないんだけど。元々は単発で終わる予定だった漫画だから、謎の外科医の細かい設定はついてなかったのに、好評で連載することになったから彼の子供時代とか親とか諸々が生まれたんだ…って思うと、読者の反応って大事だよね
私の場合、親族による精神的な圧迫が子供~独身時代にあって(私に特有なものではなくたぶん多くの人が経験してるであろう種類のもの)、それと自分の感じた「育てられ」と子育てとの比較なんかも常々思ってた人生だった
無きゃ無いでいいんだと思う。私が持ってないものでもその誰かが持っててくれたら結局それでいいんだ。このように安心してヒトは寿命を終えるめでたしめでたし。
そういう、自分にないものを持っている人を好きになるくせに、その人の中に自分との共通項を見つけたと思うと、異常なくらい喜んでしまうの何?
単に自分から出てきた自分の延長というにはこの生理的な反射のような、自分より我が子優先の感覚が不思議すぎた。けどやはり自己愛に含まれてるんだろうか。これをもっと他の人にも多く広く発揮したいけどできるんだろうか
「愛そう!愛するぞ~」みたいなんじゃなくて、自分の身体に起こったことのようにあの子が痛いとき「痛っ」って感じたり、自分の舌以上にあの子が美味しいお乳飲んで美味しそうな顔をすると美味しい気持ちになったりしたのを「もしかしてこれって生まれて初めて私が発動する愛?」って思った…
言霊っぽいものを信じてないわけじゃないんだけども、ヒトが個人的に自分のために言ったり思ったりすることで何かがあったりなかったり生まれたり消えたりすることじゃないんじゃないか世界って…私が「みんな幸せであれ!うん、みんな幸せ!よし!」って念じても現に幸せじゃない人が実在してるし
その人からは引き寄せの法則の本も勧められて読んだけど、これもどうにも私には解せないと思ってそれきり。引き寄せようが引き寄せまいが何かがいつもどこかで起こっていたので、その起こっていたことにいちいち「これは私が引き寄せたの?」と理由つけるの心が疲れそうって思っちゃってそれきり
いろんな宗教がある中で、私の好みのタイプを言うね。あのね、あんまりグッズとか本とかをお勧めしてこない系がいいな。っていうかお金出さなくていい系。あと政治に打って出ない系。それと自分と違う人を殺さない系。…嫌いなタイプじゃない系。
(映身展2017)『憧れ』ネタバレできませんが、二人の女の子のこと観ててこの子達をとことん毛布でくるんであげたくなった。あんまりな親の代わりに。最後の台詞に救われ。そうよ、そうだよ、これから笑ってて欲しい
また違う場面で、私はこうも思っていた。いくら私一人が真面目であろうがあるまいが、何か小さなことで誰か一人を癒そうが、何百人何千人もいる皆にそれをすることはできないし私以外の人にそれを望めないし、自分、無力だな、って言ってた。隣の人もそう言ってた。それでも良い、一人一件担当でいい
認知のゆがみとされる事例を身内にあまりに多く見せつけられ付き合わされてきたなあ。行き過ぎた一般化、レッテル貼り、心の読み過ぎ、等々。私を「こうだ、そうに違いない」と決めつけて見ることで心の平安を得ていたのだろうか。私を分からないことをそんなに不安に思っていたんだろうか
目の病気ゆえに二十数年かけて視力を失った全盲の人の話だった。段々に見えなくなる間に、視覚以外の感覚が研がれてったのか、物が見えなくなっても生活があまり変わらないとおっしゃる人。登山が好きという。勿論サポートする人は必要だけど。スキーを愛好してる。怖くないという。人間凄いと思った。
そっか…誰かがやりたくないことを私が好きならお金になる、私がやりたくないことを誰かが好きでやってくれたらお金払う。でも私が好きでやることは皆もだいたい好きだもんなあ。全世界の人が面倒がってしかも必要とすることを私だけが好きで得意なら、いま大金持ちになれてるのに
核反応は使い方に気を付ければ命を支えてくれているし、使い方を誤れば恐ろしいものに変わる。それは何もこのエネルギー資源だけに言えることじゃなく、火もそうだよ、電気も水もガスも太陽も、そうだよ
同じ星の上にある違う政治体制や違う宗教の人々を怖がる割には、宇宙で見つかる別の環境の人々のことあまり警戒してないのって、何なんだろう
時々今でも思い出すA.I.っていう映画観たときのこと。最初に起動してくれた人物を愛するようにプログラミングされた人型ロボットの辿る一生。当時私は、ヒトが何かを忘れたり心が変わったり死んだりすることは、ある意味、幸せなんだな、と思った
ルイ16世さんが民を許すような言葉を残して処刑されてから後、マリー・アントワネットさんが家族に手紙で、信仰心とか、決して復讐なんて考えちゃダメということとか、書いてるの観て、うん…言葉にできないいろいろ。あと、日本の漆器コレクション可愛い(マリー・アントワネット展観た)
娘が新しく始めたバイトもお客様と接する職種で。「接客をやってみると、今度自分がお客になったとき、挨拶してくる店員さんに愛想良くしようって気持ちになるよね」など言ってた。とてもわかる(2017)
小学校時代を振り返れば給食の時間が最大の悩み。私は食べ物の好き嫌いはなく、ただ体というか胃が小さいために皆と同じ量を時間内に食べることが困難だった。残しちゃいけないことのつらさを、ごちそうさまでしたのあとに残された2~3人と共有できたからなんとか登校したけど、毎日隠れて泣いてた
そうだよね…、自分、も世界に含まれる。かさぶたができて治る仕組みに私は何の指示も要望も出した覚えもないけど、いつもながらお見事としか言いようがない
羽毛布団のような親になりたい。必要な時に押し入れから出せるやつ。夏は涼しく冬は暖かくて重くないけどしっかりしてる親になりたい、でも、なかなかなれない
毎度思うけど、産む方法で愛着がどうのこうの違いが出るとかの見ると、お父さんが可哀想だなと思う。お父さんには自然分娩も帝王切開も経験不可能だもん
だけどどうしてそうなるか分からないことをいいことに、そこにストーリーを盛ってお金や人心を思いのままに操ろうとする団体があるのは好きじゃない(2017.2)
十二星座による星占いをアバウトに信じてる者だけども。あまり詳しい仕組みは知らない。ただ、生まれたときの天文的な状況、季節、産みの親の体調、諸々の環境条件は、生まれた子にちょっとは何かしらの影響があるかもね程度に思う。あと昔の人の天文学って案外侮れないかも。死活問題だろうから  
人工知能は将来は人間と同じものを食べたり排泄したりするように進化し、生身の人間はレアな存在として天皇家にしかいないほど稀少になるねカッコイイ~とか、そして人工知能は箱庭のような宇宙を作り始めるよねとか、でも実はそれは私らの今いるこの宇宙のことだよ、実は外から観てる誰かいるよねとか
昔は良かったとか、肉を食べるなとか、経済発展いらないとか、そういうこという人は自分だけそうしたらいいと思う/貧乏になろうと薦めてくるひとはまず自分が電気やネットや湯沸し器を使わずに無人島に行って草とか食べてその生活を記録して自費出版して道で配ったらいいかと。
人は誰しも自分の知らない分野のことを知らずにイメージだけでいろいろ思うものだけれど、それを口に出すか出さないか、出すとしたら思ったことのどういう部分をどういう誰に対して聞かせるか、聞いてる相手がそれをどう思うのか気にするのかしないのか、…そこ無頓着なヒトとは私は付き合えないな
ヒトは自然に含まれるし、ヒトのやることも作ることも自然と呼んでいいと思うけど、ヒトの手におえないような大きい自然と、わりとヒトがなんとかできる範囲の自然とがこのヒトの世には混ざりあってて、その手におえない大きさの自然を特に「大自然」って呼んでみたい感がある
料理、動物性の脂肪に果物の甘味と酸味を取り合わせるのが好き。炭水化物を焦がした香ばしさが好き。あと、煮炊きするとできる隙間に旨味全般を水分と共に染み込ませてできるものが好き。
迷惑かけて欲しいけど迷惑かけたくなかったり。頼られたいけど頼らないで生きていたかったり。甘えて欲しいけど甘えない自分を保ちたかったり。弱いとこ見せて欲しいけど弱いとこ見せたくなかったり。…しちゃうよね、ついつい。
死の価値を生きてる人が解ることは最初から不可能だし、私はもし死にかたを仮に選べるならば、やむなくそれしかないという選び方じゃなく、一番自分の好きな人が傷を負わないように死ねたらいいなと思ってるが、ヒトの分際でそれを選ぶこと自体が超難しい
自分や他人の生の価値を、こうだとは決められないし、自分や他人の死の価値をも、こうだとは決められない。ただ私個人の都合で言えば、私が死ぬときにはなるべく遺族がそれに際して「あ、満足してたらしいな、勿体無くはなかったな、あまり痛く悲しく悔しくはなかったっぽいな」と思わせたい願望はある
女王様は庶民感覚に疎くて浪費家で心がない人っていうイメージでいてくれたほうが革命家にとって都合が良かったんだね
怖いよ、もう住めないよ、終わりだよと煽る商売の人々にとっては、そこはいつまでも怖くて住めなくて終わった場所であって欲しいとおもってるかのよう。
幼少時を演じてる子役さんと、大人になってからを演じてる役者さんの、容貌や雰囲気が似ていれば似ているほど、それを観る私がとても嬉しい。
一日だけ等の単発バイトばかりやってた頃、印刷点検の仕事をしたあとは印刷物が目につき、化粧品パッケージの流れ作業をしたあとは化粧品に、通販注文関係の入力仕事のあとは通販サイトに、商品陳列の仕事のあとは店内の棚に…と、日頃あまり気にしないものとその背後の人を意識するようになった
文明が滅して遠い未来に私のiPod本体だけ発見されたとして、その中のデータである音楽を、電気もなければイヤホンもないその未来の社会の人達にどうやって気付いて貰えて聴いて貰えるかを、懸命に考えている…っていう夢を見てるうちに(あ、これ夢だ)と気がついた朝おはよう(2017.2)
人(自分や他人)を傷つけそうなこと、それだけに絞って叱れたらいい、毎日そう思ってはできなくて、できなかった自分に毎日涙が出て、だけどこれは自分の都合だから子供にはぶつけちゃいけなくて、子供は可愛くても時々ホント憎くて、精神ダメな状態、これ事前に練習しておけたらいいけどできないし
よく、記憶の引き出しが開くとか例えるけど…先輩から後輩へ記憶の引き継書類を手渡すようなものかと思ってたら、そうじゃないみたい…先輩も後輩も、ともに巨大な人文字を作っていて、大勢いるから仮に誰かが抜けてもまた新しい人がそこを埋められる、その人文字が、記憶ってことなのかな
家族がとあるスポーツ大会に(趣味で)参加したのを応援したんだけど、観る前は興味薄かったのに、応援してたら熱くなってしまった。もしかしたらこういうことかも「興味ないから見ないんじゃなくて、見ないから興味なかった」気がする
自分がその何かをただ知らないってだけなのに、その知らないものを見て「嘘」「くだらない」「無意味」と切り捨てる人にはならないようにしたいと思った。
「嫌われる勇気は幸せになるために必要」は、まあ分かるよ。しかし、「幸せ」のなかには、自分の存在が他人の快さを奪わないで済むことも含んでいる、ってひとも多くいるわけだから、安東蘭子のようなサンプルって、その幸せの参考にはなりにくい。
地理も時間も年齢も性別も超えて誰かが心の声を読んでくれているという安心感。それを手放せないあまり、誰にも遠慮なく独り言を言える気楽さを確保できないとしたらそれも惜しい
他人に見られる場所に言葉を書くとき、自分の思ってることのどの範囲を、どういう基準で定めて書くか、それを何目的で発してるのか人それぞれなんだけど、私はそれが気分によって変わるし、このように気分によって定まらない人は他にもたくさんいるだろうと思う
私の場合、自分用のメモ的に特に誰かに有効かどうか考えず呟くことも多々あるけど、そんなときでも心のどこかで「これが誰か知らない人の目に入って、その人の心に何かしらの作用を起こせばいいなあ」っていう欲を持ってる。だけどその知らない誰かのことをどうにかしたいわけでもない
自分でも時々バカみたいと思うよ。思うんだけども。たぶん私は「誤解」を毛虫のように嫌っている。無くせる訳がないのにね。悲しいんだよ。悲しいの。誤解されて悔しかったことが小さい頃からたくさんあったから、他人のことでもなんかなんだか静かな気持ちで見ていられない。
けど、芸能界の闇とか政界の闇とか経済界の闇とか「○○界の闇」とかの闇って、その半分?くらいは?そこに闇があるということにして人々に「何々?その闇って」と興味を掻き立てガセだろうと何だろうと売れればその場は良しとするマスコミによって作られてることが多々あるんだなって近年つくづく思う
園児の持ち物が親の手作りじゃなければならない理由がよく分からない。既製品にデメリットがあるというならともかく、「手作りのほうが愛がある」とかいう理由なら、それは保護者に対して、愛の形を狭めた押し付けと思う
恋して結婚して…は、分かりやすい幸せのように思われてるからみんなに勧められてしまうのだろうか。分かりやすい幸せを辿った人は、分かりやすくおおっぴらに人に勧めてくる、ということだろうか
人によって食べ物の好き嫌いはあるし、生まれてこのかた食べたことのないものとかあるけど、それでその人の人格を云々されたり人生の幸せと結びつけられたりしないじゃん。恋愛とか性とか結婚とか縁があるかないかなんて納豆食べられるか否かの程度のものじゃないか(納豆は美味しいけど)
人間って他の生物と比べると物凄く特殊だな…って考えてから、あ、でも他の生物も、自分達って他の生物と比べると物凄く特殊だなとそれぞれに思ってるのかもしれなく、ただそれを私が知るよしもないだけなのかもしれない、って思って寂しいような面白いような気がしてる
あと、親っていうのは親自身で自分の人生を楽しんでてくれるのが、子供にとっては一番ありがたい、ってこと再確認
まだ親しくない人と会話を続かせて、あわよくば親しくなれたらいいと思うときは、その人に何か些細な質問してみる。知りたいことを訊くというより、訊くことで相手を知りたい気持ちを自分に興す。その一石を投じて自分の興味をも動かして会話が展開するきっかけ作る。思わぬおまけがついてきたりする
その服、かわいい。どこで普段買い物するの?とか、さして知りたさがなくても、とりあえず訊いてみたのを切っ掛けに、会話は案外いろいろな方面へ転がって拡がって、意外とその人のことの知らない面を知って好きになるかもしれないよね、と
昔の人が作った宗教、とても腑に落ちる時と、ん~それだとこれには効かないな~って時とある。ヒトが、昔から変わらない部分と、昔とは(進化退化とか社会の構造の変化とかで)随分悩みの内容も変わってきた部分とあって、やっぱり昔の人の作ったものは今の人の何にでも使える万能薬じゃないなって思う
ベニスに死す、(ネタバレ)グスタフおじさんの気持ち少し分かる。自分は年寄り、しかも愛する対象は同性で幼い、そんなんただただ見るしかできないし手も足もでない。誰にも説明釈明できない愛で心一杯、でも幸せ。相手はそんなの知るよしもない。アイドルヲタっぽい。哀しくて可笑しい
そうなんだよ、小さい頃からよくよく、「自分を守りたい人」達の「正当防衛」っていう飛び道具に怪我させられることしきり
如何に子供のことを尊重しながら躾られるのかを、悩みながら一生懸命育ててる人は、いいよ、それ以上完璧を目指さなくても。迷惑なのは端っから我が子のことを自己実現の為の素材みたいにみなしてて、それを親の愛だと思い込んでる人ね、生き甲斐の捌け口が子孫だけに集中しちゃまずい。分散して欲しい
ざっくり思った。言葉の通じなさは、ものの捉え方の通じなさだし、依って立つ感じかたや思考パターンや人生観が違うのが人だから、七割でも八割でも、それが通じるって本当に奇跡だな
左派の人々や自然派の人々の中に、少なからず、いまここまで来られてここに生きていられてるのは科学や経済や人工のインフラのお蔭だったことをすっかり棚に上げちゃってるような考えの人をよく見かける…。
人類滅亡しても世界に覚えててもらいたいか、それとも人類滅亡しちゃったらもう世界がどうなろうとどうでもいいか、みたいな話を延々してたけど、こんな話ができること自体が幸せなように思った
西部劇に憧れてた子供の頃が井之頭さんにもあった。ということが愛しく思えるし、そんな彼が大きくなって、こうして一人でグルメを楽しんで、一人でできる幸せを誰に遠慮することもなく楽しむ大人になったことに、良かったね…嬉しいよ…と、近所のおばちゃん的な目線で観ている(2017)
おトイレに行くことは全然恥ずかしいことじゃないんだけど、おトイレでは扉を閉めて用を済ませて欲しいし済ませたい
子は「祖父母の前でおとなしくなっちゃうひとつの要因としては、特にオチのない話をするのが躊躇われるということがある」でも祖父母にとって孫はアイドル。オチ無かろうが、「だから何?」なんて絶対思わない。アイドルの発するお言葉はどんな単語でも胸に大事にしまうものなんだよ
「何もしないとか、何も考えないとか、そんなの、間が持たないし、何のために生きてるんだ、って気がしない?」いや、しない…生きてるために生きてることでもう既にいっぱいいっぱいで、何も考えない時間が喉から手が出るほど欲しい、それ、あればあっただけ良いし、なにもしなくて済むなら至福
六条御息所のこと全然好きじゃないけど、プライドが邪魔しちゃって拗らせるような部分は自分にもなきにしもあらずだし、形は平安恋愛物でも、自分のなかにもどっかにあるような人間心理のサンプルが何気に種々取り揃えてあって凄い
今にいたっては、子孫を増やせばいいってもんではなくて、少数の子供を一組の夫婦がしっかり育てるのが良いことだとされたから、産めよ増やせよの頃の名残のような人間の自然は抑え込まないと、みんなが各自の自然に従ってたら誰かが不幸になる…って思うと、誰もが心のままに幸せになるの難しいな
娘は、なんか知らないけど、滅びるということに美しさを感じるらしい。私(滅びるとか亡くなるとかダメになる系が苦手)から生まれたとは思えない。クールだ。カッコいい
みんな何かしら小さな不安を超えてそこにいてそこの務めをしていると思うと、道の交通整理の人も、駅の売店の人も、そこここで会う人々みんななんか可愛く思えてくるね、っていう
なんか不安なことでも、自分のやるべきことに対して具体的なイメージがつけば少しは気が安らぐ。あとは、捕って食われる訳じゃなし。死ぬわけじゃないから。なるようになる。おまかせ。好きなひとのこと考えていく(2016)
仕事、そんなに頭を使いそうにないと思ったものも、意外と要領と機転が必要で、この仕事はラクそうだなと思ってもそこまでラクでもないことを知るから、みなさんありがとうの気持ちになる
身体疲れる仕事を始めては、座る接客がいいと思い、座る接客をやってみては、もっと動いてるほうが気楽だと思い、重いもの運ぶのいやだからPC作業がいいと思い、タイピング急かされるとやっぱりアナログな力仕事がしたくなるし、自分、めんどくさい
他の人の長所を気づいて誰かに教えてくれる、そういう心をいつも持ってるような人を、私はとても好きなんだ…と改めてこのごろ思った
毎日のように誰かのすごい技や何かのすごい仕組みを見せてもらってわあすごいって言えてる。テーマパークみたいだ
何かひとつの出来事が出現し、誰かがそれをその人なりに受け取り、その人の中で料理されて吐き出される、それをまた多くの誰かが各々の受け取り方をして各々の料理で発される、その様子を見ては、そこは分かるけどそこは賛同できないそれはそういうことじゃない、ポイントはそれじゃなくてと気を揉む人
愛するほどに自分のことどうでもよくなっていくものなんだと思う。いや、自分がないがしろになるわけじゃなく、犠牲になるってことじゃなくて、もうその人への愛で自分も満ちるから、自分を人に押し付けなくても自分に満足してしまうんじゃないかな
赤一面を見ると青を混ぜたくなるし、固いものをみるとばらけるようにしむけたくなる。これしかないと思い込んでる人を見るとあれもあると言いたくなる。
親とか先生とかの言うことは必ずしも絶対じゃないし正しくないこともある、ってことを、親でも先生でもない人がいつどうやって教えたらいいんだろう。
かなしいことだけど学校の先生も良い先生と悪い先生がいて、悪い先生は子供の教育よりも、その場がまとまり自分が安泰でいることを優先する為なら、それがいじめの加害者側であっても生徒の多数派に媚びたりする
自分にとって良かったことしか子供に勧められないような気がしてしまう。いつもなんだか手探りの気分だった。でも私のこの心許なさを子供の荷物にしちゃいけないってことは、自分がされたらいやなことだったから分かる
校閲ガール素晴らしい!この回、めっちゃ泣いた…。「当たり前を作ってくれる人」ああもう本当そうなんだよ…。幸人くん良く言った。そして悦子もなんと可愛い。森尾も良い。最近の森尾、特に良い(2016.11.30)
泣かしておきながら、泣いてることを責める人って、自分の否を認めるのがとことん怖いんじゃないだろうか。相手を泣かしてしまったことへのばつの悪さまで、相手を責めることで打ち消そうとする。自分は絶対に悪くない、ってわけね
美味しさって、噛みごたえや舌触りなど食感からくるもの大きい。表面パリパリ中はぷるぷるとか、サクサクとモチモチの組合せとか、いろいろ楽しみたい
"ところで夫婦や親子の間でも「これに関しては意見が合わない、議論しても平行線だ」ってことがある場合、私は次の2パターンのどちらを取るか体調で変わる。1そういうテーマを極力回避し、意見相違は無かったことにする 2我こそはこの人に異文化をもたらす使命を負う者とばかりにわざわざ混ぜ返す"
でもだからこそ、気楽に、それこそ、取って食われるわけじゃなし。始めてみる。何かがきっとある。フォロワーさんを見ててそう思えた。ありがたい(2016.11)
昔に描いて後生大事にとっておいた自作の落書きを、今見るとダメだわこれって思って、一気に捨ててしまうとき、実に昔の自分に対してゴメンねって感じ。その一枚一枚にどれほど時間をかけたと思ってるの、と自分に泣かれそう。でもいま要らないんだから、酷なようだけれど仕方ない
地球の自転軸と公転軌道とのあのズレ、私は好きだよ、ただ、欲を言えばもう少しだけ、ほんの少しだけ垂直に近付くといいなあと思う。夏と冬が少し穏やかになればありがたい(※誤字修正済)
楽しみな気持ちと、しんどい気持ち、嬉しい気持ちと、かなしい気持ちが、セットというよりほどけない結び目みたいに一緒にやってくるんで、参ったなあもう
いろいろな事柄を観たり聴いたりしながら想像している。この今が映画館で、私はたまたま話の途中から入場してきて訳もわからず観始めた。あれはなんだろうこれはどういうことって不思議なんだけど、でもなんか知らんが圧倒されて溜め息ついてるんだ
心と身体の入れ替わりモノを観るのがホント好き。入れ替わったあとの演技に目が見慣れた頃、第一話の最初に戻って、入れ替わり前の通常の様子をまた鑑賞してそのギャップを楽しむのがこれまた好きなんだよ
とても酷いことをした人にちょっと優しい時があったり、嫌いで仕方ない人に関して好きな部分も見つかったりするの、めんどくさいから困る
今の頭と身体を健康なまま保ったままで趣味として寝ていたい。寝てずっと好きな夢を鑑賞していたい。私が監督して私が観るので、脚本やキャスティングに文句付けるような自分はいない。
私の記憶に幼少時の面影を参照できる状態のまま、大人になってて素敵になってる姿も現している人を見ると、なんかいつもその間の何年間かを想像させられて、きっといろいろなことがそれまであったろうにと思い、涙出そうになる
自分や他人のあれこれが受け入れられない人によって、時に鮮やかな色が世に投入されることもあるので、何でも受け入れられることが良いか悪いかは判断できないけど、何でも受け入れるタイプの人がお隣に座ってくれるほうが私は痛い思いをせずに済むから安心
友達の有無で性格の良さを判定されるような風潮が親の世代から根強くあったと思う。友達がいないのを恥と思わせるような何かがあった。おかしい。変に依存したり束縛したりするような友達ならいっそ、いないほうがいい。結婚さえすれば幸せになれるわけではないのとそれは似てる
ズームで見たらいろんな色と形があるけど遠目に見たら単なる砂にしか見えない、これって「人がゴミのようだ」って言ってる人の目と、そうは感じない人の視線との違いのように思えた
近年私は、アイドルというお仕事を完璧につとめている人達って、並ならぬ努力でそれをしているんだなあと敬服。歌や踊りや演技は勿論、イメージを保つことが本当に大変。人の夢を壊さず幸せにしてる仕事。私は個人的にはアイドルの私的性的事情全く構わないけど多くの人の需要に応える仕事大変だなあと
なんとなくいま順調に日々を送ってる我が子らも、毎日毎日無数の「もし今これをしたら、これをやめたら」っていう分岐点を通過して来たからそこにいるのかもしれない、って思った
ところで、「あんなに小さかったのにいつの間にかこんなに成長したんだね」っていうものにホント弱いです、うるうる来ます
子供の頃、見た夢の中で路上に停められた車の下に出来ていた影から地下に降りる階段があったので、目覚めてからも駐車されたよその車を見かける度に車の下を覗き込んでいた時期が私にはあった。あぶない。子供、なにするかわかんない
夢の中でものすごく可笑しい何かに出逢った気がするのに全く思い出せない。これこそ夢の理想なのかもしれない/見てた夢が思い出せないっていうことも不思議だけど…そもそも、自分で見るのに自分の予想しない世界が夢で展開されること自体が本当に不思議
今まで私が最もリピートしたアニメ映画DVDは「ノートルダムの鐘」なんだけど、これも映画館で観たときあのオープニングで朝の光の中で主人公が鐘を撞きながら高いところから降りてくる場面でめっちゃ圧倒される美しさに泣いてしまったもん。また大画面で観たくて堪らない
何が哀しくて綺麗かって、やっぱり、誰をなぜいつからどういう訳で好きなのかという記憶が、いつか消えてしまうのかと思うと怖くてかなしくて、でも、好きっていう気持ちだけ一番遅くまで残ることがもしあれば、それは悲しいけど綺麗すぎる
ずっとずっとサボっていた事項、それに向かって自分は必ずや少しずつ着手するスイッチが入る日が来る。それを信じてこの数年間生きてきて良かった。
また考えてた。もし自分が「部活」で命が「活動中の部員達」または自分が「会社」で命が「現役社員」の持ってる各細胞の活動のまとめとすると、発足以来記憶されてる伝統や引き継ぎ事項は参考でしかなくて、あくまでこの部活なり会社なりの評価は、現時点の構成員がいま何を感じ何やるかで決まるって
自分じゃない身体に入って世界を見る、時間を遡る、こういうことは現実にはできないから、こういうことを夢見させてくれる物語が好き。/他に、抗え難いものとして、薄れゆく記憶を取り戻すっていうのがあるけども。薄れゆく記憶って、ホント、哀しくて優しいよね…
単純な入れ替わりものだと思ってたら違う。反則だー。泣いたよ、もう本当に。ヒトの記憶の消えるものはかなしい。だから言ってるでしょこういうので私が泣かないわけないって。思わずこのあともう一回観て帰ろうかと思って夕食の支度のこと考えて思いとどまった
怒ってるんじゃないんだよね…子供が死んでしまったらやだ、ただただもう、生きててほしい、それを伝えたいだけのことなんだ…怒ること以外に、もっと効果的かつインパクトのある伝えかたをしたいよ、できれば
今朝改めて思ったけど、うちの息子って病み上がりのしんどいときでも何かの懸案に悩んでるときでもいつでも、「行ってきます」の時になんであんなに笑顔で行ってくれるんだ?素晴らしすぎてもう何も言うことないんだけど…これで起きるのもう少し早ければ全く非の打ち所無いんだけど
良かったほうの昔の思い出をBotにして流してると、自分で「ああそうだったそうだった」ってあれこれ思い出しては、生きてて良かったと思う。ずっと良い状況が続くわけないのなら、ずっと悪い状況が続くわけもないんだ、ということを思い出させてもらえる
あの子史上もっとも手探り混沌先が見えない時代を過ごしてるだろうけど、そんな状態なのに家族に当たり散らすでもなく、要所要所で笑顔を見せるの、よく考えたら何気に素晴らしいんじゃないだろか。これよ、こういうところを採用担当者は見抜けばいいんじゃないの?(2014)
心の赴くままに何を喋ってもどこにも傷をつけなくて済むような、運転初心者の練習場のような場所、何を言っても悪意に捉えないで面白がってくれるような人、が欲しい…と、その子供の頃の自分を振り返って思う
現代の「やばい」の使い方、優れてるなあ。秀逸だと思う。危ないほどに魅了されたり、いろいろ困ったことになりそうなほど素晴らしいことって、あるよね、それを三文字で言えてしまう、こんな便利な使い方を開発してくれてありがとうって思う。
でも急がない。私の好きなドラマの主人公が言った、私の好きな台詞「夢に速さは必要ない」がいつも心によぎってるから
昔の自分のに比べたら私は他人に甘えられるようになったと思う。むしろ近年の私は「お?私、ひとに結構甘えられるようになったぞ、よし、どうだほら!こんなに甘えられる!昔の私よ、見てみろ、ほら今の私を!」…的な気持ちで甘えている
うん、「歩いて大丈夫だよ」って声かけることはできるし、倒れかけてどこかに掴まりたそうにしてたら捕まっていいよっていう近くに居ようとすることはできそう(親が子に)
いいなあ無痛分娩。もっともっと普及すべき。無駄な痛みは一刻も早く無くなればいい。「苦労してこそ一人前に成れる」説と「痛い思いしてこそ親に成れる」説は全く誤りだということが世に広まれば広まるほどいい
いや、大人になってからの自分が「あんな人のことまでも傷付けまいとしなくったっていいんだな。」と思うことでかなりラクに生きられるようになったからね
誰をも傷付けないで生きてくって無理だし、傷付けてしまうことを必要以上に避けることで自分が追い込まれるのはしんどいことなんだけれども、「人を傷付けるのイヤだな」「人を傷付けないほうが快い」って感覚は子供のうちに備わって欲しい。その為には何が育児の決め手なんだろうか。
物事には、程度とか一長一短とか色々な面から計算して評価しないとならないものがほとんどなのに、自分の好みやイメージとか、その時その時で何が怖い気がするのかとかに拠って勝手に何かを悪者にしてしまって逆に何かを損なう。自然派ママとかもそうだし放射能わずかでも毛嫌いする人もそうだと思うし
輪廻転生してるの説、疲れる。本当は命が人間コーナーの部屋にたまたま入室して、そこに展示したあの有名な「生き物は輪廻転生してる説」を見てヒト生活してる状態なんだが、部屋を出たら記憶なくなり、次のどの部屋に入るかどうかは気紛れに任されてるんじゃない?じゃない?って言われても回答無理
自分だけじゃなくて全体で成り立ってるんだ…って思えるので気楽になれるってとこある。
一人一人にくっついてくる親とか親族のそれぞれの持っている、家という制度に関する考え方や風習や感覚、これが統一されてないからいまこの時代の結婚が一層めんどくさい
そうなんだよね、あの狭い世界でイジメと片付けられていることの多くが、外から見ると法律を犯してるケース
ひとに長生きを薦めてしまうんだ…私は。子供の頃に自分で自分を不自由にしていたものから、いまかなり解き放たれてると思ってるので。まだまだ縛られてたり縛ってたりもするんだけど、長生きしてるとこれも弛む日が来るかなあ、って期待してしまうんだ
そーですね。インフラとか医療とかネットとか文明のお蔭で生命維持してこうしていられてるのでね。なにがなんでも自然っていってる人は未開の土地で自然だけの中で頑張ってみたらいいよね。
宇治十帖は、なんなら本編より好きかもしれない!浮舟の悩みかたが、なんか…そんなに思い詰めなくたっていいのにと傍目には思われるけど、なんか分かるよ、自分さえいなくなればって思っちゃうの。ああいうの平安時代から既にあるんだ、って思えて好きかも(あさきゆめみし)
このゲームでレベルアップすることが無益なら、生まれてからこれまでのことだってそんなに意味ないとも言える
普段の私が知り得ない・知ろうともしていなかった人の生き方について思いを馳せるのは、もしかしたらそれが他人事か他人事じゃないかのフィルターにかけて他人事じゃないと感じたからこその偽善なのかもしれない。我が事だと感じるために心に響くストーリーを求めてしまうことがあるかもしれない
座ってるときに脚を組んでしまう自分をなんとかしたい。何かの筋肉が弱ってるからなんだろうけど。脚を組もうとすると警告音が出るように進化したい
四光年位の距離に仮に地球に似た星があり生命が居て、彼らと互いに接触できたとして、知的水準に関わらず対等に交流できるのか疑問。餌にしたりされたりするんじゃないだろか。地球外生命ともしも地上の外国同志のように付き合えるのなら、蜜蜂や蟻の王国とも国交が成立できてる筈だよねー、っていう
若い頃の頃の夢は、夢っていうのかな…自分が好きな服を自分で勝手に選んで買ったり、自分が好きな番組を自分で勝手に選んで見たり、自分の好きなことを誰に一挙手一投足を否定的に見られることなくできる平穏な毎日を手に入れる、…それが私の考える幸せだった。そしてそれはいま手に入ったから幸せ
芸能人の逮捕のニュースを見るたび思うんだけど。ドラマや映画にワンカットでも出てその作品の世界を作る一員となった人間は、もっともっと責任持って生きて欲しい。その後の振る舞いでその作品に傷が付きかねないし、その作品を愛した人のことを悲しませることはやめて欲しい
源氏物語や、それをベースにした創作を読んでると、身も蓋もないようなことに意味を持たせて文学的に綺麗に見せてくれているものに対して一人の自分がすごく酔えるし、もう一人の自分が一周回ってくすくす笑ってしまうことが、わかった
つまりいま置いておきたい事項。もし親族等が子育てに理不尽な干渉をして、自分のみならず、子にまで支配を及ぼそうとしてくるときは、せめて子供に「彼ら彼女らは世界の夥しい数の人類の内のたかだか数名でしかないんだ」と教えてあげて欲しいってことです。
好きなものを眺めて夢中になってるうちに死にたいって思うけど、好きなものを眺めて夢中になってるうちは永遠に生きていたい
歳とっていくにつれ、割と何でも多くのものにまあ嫌いじゃなくなっていったんだけど、このことを喜んでいいのかは分からない。若い頃の、あの嫌いなものに対するあの嫌いという気持ちが、今はもう手に入らないかと思うと
たまごの形ってかわいいなあ、って気付いたらずっとぽけごーのたまごのことを数十分は見つめてた先程。どうしてあんなに可愛いと思う仕組みになってるんだろう卵形(2016)
先輩に敬意を払うことと、価値観や感覚が世代によって異なることで生じる感想を伝え認識してもらおうとすることとはまた別なんだ
この掃除片付け問題は、自分の内なる声が「いくらなんでもこれじゃだめだ」といってくるそのある線を越えたとき、やっと一ヶ所二ヶ所、七割くらい手を付けて、それで軽く自分に満足してしまい、次回の自らの「これじゃだめだ」衝動が湧いてくるのをただ待ってしまう
そんなつもりでされたんじゃないかもしれないことで怒る癖に、自分は、こんなつもりで言ったんじゃないことぐらい察して分かってて欲しいと思ってる…それが、子供の頃の私を泣かせた人々のパターン
ちっちゃなやらかしを色々積み重ねて、それが全て自分のものの見方を複雑に豊かにしていく、その道中に、みんないる。ひっかかりもつまづきも寄り道も何もない平坦な道をするする進んでいくのはつまらないからね
親って、自分に馴染みのある、わかっている幸せを、子供に勧めて安心したくなっちゃう…つい。でも、親の安心を成立させるために子が生きようとするのは本意じゃない。幸せに生きて欲しいのが本当の願いだから
ってことは私の知識も、孫が生まれる頃にはかなり更新を余儀無くされるんだろうし、その頃には人々の結婚観、人生観、幸福観、も今とはかなり違うのかもしれないし。昔と今とが違うように
私の親の世代だと、離乳食もオムツ外しも早いほうが良いみたいな風潮だったようだ。私の代には、離乳食が早すぎてもアレルギーの原因になるからやめよう、オムツ外しも子供の身体機能が適応する年齢にならないと急かしてもうまくいかない、と知られるようになった。子育て常識、世代によって変わる
カロチンなんかは身体に貯めておけるから、必ずしもその一日でキッチリとバランスとる必要はなく、数日~一週間の中のトータルで偏りがなければいいって聞いてからは、献立考えるのが気楽になったことある
脳でもなんでも長年の間にすっかり細胞入れ替わってても、同一人物なのって、サークルのメンバーが入れ替わってもサークルは存続してるようなもんじゃないかな。
元々はただ子孫を残すための本能から来てることなのに、その欲からどんどん発展して絵画や歌や恋愛小説や服のデザインや色々な文化になっていってるの、ヒトってすごいな。そういうところが好きだ。ヒト好き。さて、まず洗濯干す(2016.7)
大人になった人間にだって、逃げ込む拠り所が必要だし、甘えられる人が必要だし、逃げ込めて甘えられる存在が自分にはあるんだと思うだけで立って前を向ける力が出るんだなあ、って改めて(2016.7)
ところで私は子供の頃は、まだ子供なんだから大目に見て欲しかったし、学生の頃は学生なんだから大目に見て欲しかったし、その後は新人なんだから大目に見て欲しかったし、新米主婦なんだから大目に見て欲しかったし、子育て中なんだから大目に見て欲しかったし、今はもう歳だから大目に見て欲しい
新製品開発製造の過程で繋がっていく人達とは、最初ピジネスが切っ掛けだったとしても、この人の為に役に立ちたいという気持ちが結局金儲けより勝ってしまう、宮沢も村野も飯山も坂本も大地もあけみも。みんなが。その様子。いやあ、良いよ~。おすすめだよ~。(「陸王」の件)
この年齢に達するのが生まれて初めてなのでよく分からないことがたくさんある
和訳、我が輩じゃなくて僕ってなってたと思う。そこが好き/すごい勝手な感想だけど、このとき彼は子供の頃の自分に戻っていて、若い彼女に向かって言ってたと思う。私も、いまわのきわのときに、ただの子供のときの記憶のなかで逝くのかなあ、ってことまで想像して泣いたので
めんどくさがりなので、人生の目標を「めんどくさいことを一切しなくていい身分になる」にしてるのに、全く叶う気配がない。あと、めんどくさがりなので、子供に何か宿題やノルマが課されてると親の私までめんどくさい気分になる。これはやめたい
私の好きな食事のシチュエーション第二位、好きなひとと一緒に食べる。第一位、独りで好きなものを自分のペースで食べる。
同じ何かを、同じ人であるはずの自分が、それを楽しく思えたり楽しく思えなかったりするけど、その差は何だろう、楽しく思えるときの鍵はどこにあるのか/急に色褪せて見えてしまったり、また、その逆、なにこれ本当は凄い良いじゃない!ってなったりする
生まれたときから決まっている職業をすごく頑張って努めてくれてる人達のおかげで成り立っていることって、かなりある
太陽や地面から放射線出てるからね。
オーガニックなら何でも安全とか、自然由来なら安心とか、そんな簡単なもんじゃないです。/危なくて仕方がない自然、をヒトにとって安全なものに変えてくれてる科学産業があるから、こうして生きてこられたんじゃないの。
家の中と外で、片付けやら買い物やら懸案事項を今日はかなり終わらせたのに、誰かが今、家の中を見ると、一体どこが変わったのか?って思うだろうね。相当頑張ったんだけどな…。だからね子供が「頑張ったよ」って言ったらそれは本当に頑張ったんだよ。目に見えての成果が分からなくても頑張ってたんだ
好きな役者さんのドラマを私が観ると、声の出しかたから表情の一瞬の変化から何から何まで何度でも繰り返し味わって焼き付けるように観て覚えるくらいで、心の中に役を実在させ、その人の未来のことまで考え、私と一緒に生きて貰う。我ながら気持ち悪い。その役者さんの別の役をすぐには受け入れ難いの
なんで相容れない人達が互いに相容れないかというと、信じ依っている情報がそもそも同じものを見てないのでは、って気がするし、同じものを見てたとしても、脳で変換して外に出すときはもうその人の変換の仕方で別物になるからだろうか
光って結局何なのか私にはよく分かってない。色んな色の光が混ざれば混ざるほど白くなっていくというのも、妙なことだ。何なんだろう、おやすみなさい(2016)
リストから色々なクラスタの方々のツイートを読んでいると、つくづく思う、…TLで話題になってることが本当に人それぞれなんだなあって。どこかで大問題になってることが、ここでは全く知られていなかったりするし、その逆もある。当たり前だけど
なんでもかんでも私より子供のほうが上手になっていったこの年月…幸せなことだと思う
目、ってあんなに小さいパーツなのに、何を思っているのか出てしまうし、こんなに小さいところから外のほとんどの情報をここから得たりして凄い
観たら泣くと分かってる母と暮せば映画DVDを、やっぱり観て泣いてた。明日出掛けるのに…。それと相変わらず私の手の甲と腕の血管が、泣かせる場面にくるとちょっと熱くなるので、ヒトの体って面白いと思った(2016.6)
可笑しい。ヒトって可笑しい。どこのお墓に入るかでそんな熱くなってるのヒトっていう生き物可笑しいいい
よく分かりもしないで人気のあるものを叩くようなネット記事なんか、アクセス稼ぎが目的なんだから、見に行きたくない…けど、何をどう書かれているのか知りたい…だけど本当に良いものは、それを分かって、良いと思う人達によって、ずっと残ると思うから。がんばって。
基本、一人でいるほうがなんかなんとなく幸せでいられる率が高い。子供と一緒の時はまた一緒の時で楽しいが、それは「一人でいることを子供が楽しむまでになってよかったな」という確認に幸せを感じるんで、結局私は一人が好きなんだ
巨人とか、私のこと踏んでも良心が痛まなくなるには、どれくらい巨大になる必要あるんだろ。相対的に、どれくらい私が小さかったら、こいつにも五分の魂があるって思われなくなるんだろか
どちらかというと、結婚当初にあれがキライこれが困るのと言われたことより、ずっと後になってから、実はこれがダメだった、我慢してた、とか言われたのが、よりショックが大きかったな…
たまに夢想することある。この大人ならではの図々しさのまま、見た目だけ小学生になって、いじめられている児童のそばに転校し、誰を敵に回してもその子の味方になって事態を解決して去っていく役をやりたい。小学生に何を思われ言われても、中身が大人だからきっと平気なのに
子供時代に感じてたあらゆる不自由がキライだった。見える範囲や動ける範囲が広がって、自分で自分のことを決められる身分に、大人になればなれるから、自由になれる、とか思ってた。大人になってみたら、それ少しは叶った。でもまだというか尚更、何かに自分から縛られたくて縛られてるところある
それは私にとってもヒトにとっても恐ろしい考え方だと思う。有意義なことができなくなったら無価値だという。どうやって意義と価値を決めるかに左右される。自分で自分の価値くらい決めたい気持ちと、他人に無価値と思われた自分には自分でも価値を感じられないだろうというおそれとが、同時にある
「こういうのって普通、子供の頃に憧れて、だんだん懐かしさに変わるものでしょ?私みたいに18歳にして急にセーラー戦士になりたくて堪らなくなっちゃう人っているのかな、つらいんだけど!」とか言ってるけど、そういう人、たくさんいると思う
突然の体調不良というもののことを考えてる。正味の物理的な苦痛の他、加えて、いつ収まるのかという不安とか、なぜ今このタイミングでこんな目に遭うのの理不尽さへの怒りとか、これがもっと大事な人の大事な時に起こったことじゃなくて良かったという安堵とか、諸々思う。思った。
私の知らない感情や生き方を描いたフィクションとか読むと、私の知らない感情や生き方がこの世にあるんだね、そうかそうかい…でもそれを知らないままでいてやる!って変に燃えてくることってない?あるんだよー
あと右と左を均等に飲んで欲しくてテンパってたときにエンヤの曲で気を鎮めたりね…
あの子と家にべったり閉じ籠っていた頃は、外との繋がりを持ちたくて仕方なかったし、あの子が昼寝した隙に、外に行かないでお金を稼ぐ道ばかり検索して過ごしてたし、でも今更思う。もっと寝顔をイヤというほど眺めて過ごしても良かった。それこそ今はもう出来ないこと
というのを踏まえてもう一回産むところからやり直してきていいですか、ってたまにおもうときある。子供に不満はないけど、私があの時もこの時ももっと優しくできたのに、という。あの場面だけ撮り直したい、あの時の台詞は差し替えたい、そういう、自分への後悔のことを言ってる。子供は今のままでいい
私は大人だから、ここにこんなふうに気持ちを書いて吐き出せる。小さい子にも、こんなふうに気持ちを吐き出す場をあげたい。吐き出す場が主に「お母さん聞いて聞いて」なんだと思ったら、やはり聞いてあげてほしい。私だってもしTwitterアプリにいちいち咎められてたら、こんなこと書けないもん
謎で面白い。同じ家に住んでるし、血も繋がってるのに、頭のなかが見えなくて可笑しい
あまり親しくない人に会うような用事、出掛けるまでがめちゃ億劫で、いざ行って帰ってくると、なんか行って良かったなあってなる。これ、なにかに似てると思った。お風呂だ。お風呂って入る前に激しく億劫だけど、お風呂から出たときに「お風呂なんて入るんじゃなかった」とは微塵も思わないんで。
早く一人になりたい欲が募る。一方で、子供との関係は私にとっては大切過ぎてもはや言葉に尽くせない。だけど、一人になりたい自由になりたいとずっと思ってそれを待っていた。どの自分が本来なんだ。もうわけわかんないや
私の人生結局ただ、そのときそのとき何か好きな人好きなもののことで頭一杯にしてただけ
あーわかった。私、何々を誰々風にやるとこうなる、とか、誰々が何をやってみたらこうなる、っての大好きなんだ…。
眠いから、なすすべもないって書きながらスベスベした茄子のイメージしか出ない
身体とか脳とかの返却期限がいつなのか何の説明もされてないの、どうかと思う。まあ、明日ですって言われてもなすすべもないし
ところで、「これだから○○という人種は」「○○な人々はみんなおかしい」みたいな、主語の異常に大きい言い方ってあるでしょ。私、あれが苦手
食べたい、って目と口が思っても、胃腸の方では別にいま要らないと言っている。この人たちの連携がいつもうまくいかないからこまる
人間の顔に対しては、十人十色でさまざまだと思えて判別できるのに、天道虫の一匹一匹の顔が見分けられない。みんな同じに見えちゃう。でも天道虫はそれを見分けてるんだね。…と考えるたびにまた気が遠くなって軽く虚しくなって気持ちいいんだ
私は好きなひとに関して興味があり、好きじゃないひとには興味がない。だけど好きになる前のひとにどうして興味を持ったのか、不思議としか言いようがない。
私を好きになってくれる誰かはみんな、私を作った諸々の経験や私が出逢ったたくさんのひとびとのことを好きになってくれてる、それって世界をすきになってくれてるのと大体一緒じゃないの
ところで私は子供の頃は、まだ子供なんだから大目に見て欲しかったし、学生の頃は学生なんだから大目に見て欲しかったし、その後は新人なんだから大目に見て欲しかったし、新米主婦なんだから大目に見て欲しかったし、子育て中なんだから大目に見て欲しかったし、今はもう歳だから大目に見て欲しい
なぜ、私にしか成し得ないことなどこの世にないほうが気楽、と思うかというとじゃあもしこの世に「私にしか出来ないなにか」があったとする…それ私が死んだら終わりじゃん。すみません、私はいつか死ぬ人なんです不死身じゃないんですよ、ってなるんだ
私がしんだあと、私のことを覚えててくれるひとの記憶がなくなって、私を覚えててくれなくなっても、それでも私がしたことによる何かが誰かの中に少しずつ生きてそれがまた、違うだれかに作用する。だからずっとなんだかんだ私は生きてく。うわあ
種明かしされないまま長生き!
なんていうか、ある程度は我が儘にしてくれてたほうが。思うがままにしてくれてたほうが。こちらとしては付き合いが気楽になる。というのをふまえて敢えて私のほうはある程度は我が儘なスタンスでいようとしている
私が逢った友人は一人だけど、その一人の友人を通して何人も何十人もの人に間接的に逢った気がした。
細胞が入れ替わるの脳も同じだろうに、二十年も四十年も前のできごとや感情の記憶が保存されてて時々思い出せるのなぜ。この世にある物質だけでこの仕組みを作ったのすごい。
縁があるならあるだろうしないならないのかもしれないし。どうなってどう転んで行くか敢えて楽しめたら大したものだと思う
どこにも繋がっていない、なにとも関係のない、切り離されたことなんて、きっと存在しないんだと思う。
どう考えても、いま人間が考え得るここの宇宙の外側って、誰かの細胞のひとつの中にあるちいさな仕組みのひとつに過ぎない気がしてくるし、その巨人が誰でどんな存在だろうと私にはホント何の関係もないんだよ~
ひとってそれぞれ、考えてることも感じてることも違ってる。そこに到るまでの育ちも経験も体質も違う、歴史も違う。違いが愛しいけど、それぞれ違うのに、そのなかで数少ない共通項が稀に見い出されたりもする。奇跡だ、と思ってまたそれも愛しくなる
また考えてた。もし自分が「部活」で命が「活動中の部員達」または自分が「会社」で命が「現役社員」の持ってる各細胞の活動のまとめとすると、発足以来記憶されてる伝統や引き継ぎ事項は参考でしかなくて、あくまでこの部活なり会社なりの評価は、現時点の構成員がいま何を感じ何やるかで決まるって
聖書も仏典も同じ事象のことを違う角度から違う表現で喩え話にして見せてくれてるんじゃないのかなって思っちゃってるので私は
「あなたの肉体に生命を吹き込んでいる存在と、ほかのすべての肉体に生命を吹きこんでいる存在は、同じもの」(「ポケットの中のダイヤモンド」)いつか肉体が終わるしそれがどんなに酷くてもそこから逃げられないってことを認め全部受け入れられたら自由。特別でもない私も誰かの鏡で、この配役GJ
ヒトの肉体、ヒトの繋がる社会、そこから生まれるヒトの感情、…を否定して壊す教義について私は「そういう視点も有りかもしれないが、それをヒトが支持することに何のメリットがある?」と思うし、「そんなに他を壊したいならまず自分が滅びれば良いでしょ。なに自分は例外に置いてんの?」とも思う
胃腸の痛みが引いた。「身体のどこも痛くない」こんな幸せが他にあろうか…?24時間前の自分に教えたい。あんたは24時間後に「身体のどこも痛くないという、とても幸福な状態を味わえるんだよ」と(2020.1)
脳が疲れていると、受け取った言葉の善意を汲み取れないでわるく解釈してしまうことがある。よく寝て食べてから同じ言葉を再生すると、意味が違って見えることがある。
脳と目と指があれば好きな人達と繋がっていられるの楽しいんだけど、本当に脳と目と指しかなかったら今の私の経験も性格も考え方もきっとなかったから、他の機能も無駄ではなかった。
脳が覚えてられなくなっても、全て心のほうで覚えていたい。
脳でもなんでも長年の間にすっかり細胞入れ替わってても、同一人物なのって、サークルのメンバーが入れ替わってもサークルは存続してるようなもんじゃないかな。
自分が妊娠中には外で見掛ける妊婦さんが気になり、出産すれば赤ちゃんに目が行き、もう少し経てば幼児を探してしまい、そのうち小学生中学生…にアンテナ感度が良くなり、学生や社会人の可愛いポイントもわかるようになっちゃったりして、そのうちあらゆる年代に我が子くらいの親しみを感じ始め
自分が幸せでいないと親が不幸せに思うんだなと思わせちゃうと、子供は不自由になる…自分が幸せでいないと誰かも不幸せになるの苦しい。けど、っていうか子供の幸せを願わなきゃ、子育てという超絶めんどくさいことはできない。問題は、如何にそれを子供に負担に思わせないようにするか演技力か
自分には必要の無い、でも誰かにとってはとても必要なもの、それが集まってできている世の中
そういう、自分にないものを持っている人を好きになるくせに、その人の中に自分との共通項を見つけたと思うと、異常なくらい喜んでしまうの何?
自分が独りだな、誰かと一緒にいても自分て独りだな、って思うことが多々あったりするのですが、っていうかいつもいつでもそう思っているのですが、ほかのひともそう思いながら一緒にこの空の下にいるっぽいですね。今日もありがとうです。
自分で自分用の宗教作ってなんとなく自己満足してるけど、よそさまにお出しするには気が引けちゃうなあ
私が無事に生きていたら、楽しみなことが続々と控えている。でもそのひとつひとつを思いながら、これらの楽しみなことが終わってしまうのを寂しくなったりする。美味しいものを食べる前に、食べ終わった状態の自分を想像してしまうような生き物、人間の他にいるのかな。我ながら何やってんのって感じ
昔の人が作った宗教、とても腑に落ちる時と、ん~それだとこれには効かないな~って時とある。ヒトが、昔から変わらない部分と、昔とは(進化退化とか社会の構造の変化とかで)随分悩みの内容も変わってきた部分とあって、やっぱり昔の人の作ったものは今の人の何にでも使える万能薬じゃないなって思う
タイムラインに流れてくる文字のひとつひとつが、人が入力して送信したものなんだよ、しかもただ入力したんじゃなくて、何か考えたり思ったりしてそうなったんだ…すごいね、すごくない?なんか気が遠くなるよ…。私以外に人類がたくさんいて、私の脳に浮かんでることと全然違うことを各々思ってる
何十年分もの体感や経験や知識や何やかや、視覚や聴覚や嗅覚や触覚の記憶も全部、入れるためのものって、私のイメージからすると超めちゃデカくて堅牢な装置に入ってても良さそうに思うけど。あんな小さい頭の中の小さい組織で保って時々ササッと取り出せる、それを一人一人持ってておかしいしこわい
ひとを好きになれるって幸せだな/子供に、それぞれ各々、好きな対象があるのを知ると、親の私も幸せな気持ちになる。ひとを好きになれる人に育ったのを見ると安心する
小説でも映画の脚本でも、割と私が好きなストーリーというのは、…現実には有り得ない「もしも何々だったら」の設定によって、登場人物のとてもリアルな反応の数々が作用し合って、結果的に彼ら一人一人が目から鱗を落としまくって、補い合って癒し合うことになるやつ
不思議っていえば、歌が入ってない、楽器の音だけの音楽を聴いたときに、いつも不思議に思うんだけど。歌詞が無いのに、音の強弱高低音色のいろいろの組み合わせだけで、なんでこんなにヒトの心に諸々のことを思わせて楽しくさせたり哀しくさせたりできるのか
すてきな音楽を聴いている間は、聴く意味なんて考えちゃいけないし、聴き終わったあとのことを考えたらつまらないから、ただ聴くこと。美味しいものを食べてるときも同様。観ている時もそう。歌ってる時も、踊ってる時も。疲れたら眠ればいいので。
夢の中でむかしの想い人に「私の好きなものはセロリと音楽とあなた」と言います。そしたら「セロリと音楽はいいけど僕のことは嘘でしょう」って返されます。一番の好みを否定されたので、へこんだり、心外だと思って腹が立ったりします。でもセロリと音楽だけは認めてくれたから溜飲を下げます
ツイートってよく考えたら笑える。呟きが届くのは、フォローしている人へじゃなくてフォローしてくれている人へ、だものね。ラブレターを紙飛行機に折ってあなたが前方へ投げ飛ばしたメッセージはぐるっとUターンして全て後ろの誰かがキャッチするばかり
自分の一部が産まれてきたような風で、実は自分とまったく違う宇宙を持つ別なひとが、おまたから出てきておっぱい飲むの面白不思議だったので、この経験ができたことに本当に今回の人生はグッジョブな夢でした。ありがと
そうなんですよね…。これ前にも呟いたかもしれないけど、私がお店に入ってどのメニューにするか迷うときって、大抵は「このお店にまた何回も来られるなら今どれに決めても後悔しないし隣の芝生も青くないけど、ここに二度と来られないなら、選ばなかったほうも食べたかったと思ってしまいそう」=人生
脳の中、不思議。また子供とこのことが話題になったんだけど。脳の細胞入れ替わっても何年も記憶あるの何故と。頭の中の新人細胞が先輩細胞にその都度口頭で情報を引き継ぎされてるんじゃね?ってなった。でもその口伝えする情報を各々細胞自体はどうやって覚えてんの?ってなった文系母娘
とても頑張ったことや願ったことが、思ったように実を結ぶかどうかはわからない。わからないけど、嬉しいまたは悔しいの気持ちも含めて、頑張ったことや願ったことはその後の人生を作っていく大切な何かになった。と私は自分の経験から言う
「迷惑をかけないように生きる」という考え方が、他人に頼ってはいけないような気にさせるけど、頼ることイコール迷惑かけるではない。「互いに自分ができないことを他人に頼って良いし、自分ができる別なことで、また誰かを助けたら良い」ことと「他人に迷惑かけない」が矛盾するように思われがち
大変な思いをしてた過去の、その時にしか味わえなかったあの味だけを、また味わってみたいだけ
子供が幼かったときの、子育てしてた時代を、めっちゃ懐かしく思って…戻ってみたいと思ったり、でも、また戻るなんてとんでもないよ折角ここまでやってきたのに!と思ったりする。
あなたの言葉があなたの知らないところであなたの知らない誰かの財産になっていますよと伝えたいひとがたくさんいる。
生きていればいいことがあると、思っています。生きているうちにいいことが私はあった。ていうか、いいことだと以前は思えなかったことについて、いまはそれをいいことだと思えるようになった。そういう自分の変化、ある意味、負け。負けるって、気持ちがいい。
自分の今現在怖いものを過大にとらえることで、今興味のないものがどれほどもっと危険なのかを考えなくなるのっておかしなことだなあって。
自分が信じていて自分の思考を方向付けていた、あるひとつの仮定を「もしかしたらこれ自体が誤りではないか?」と疑ってみることで、その後はもう、同じ言葉を見ても別視点からの別な風景に見える。すると、かつては良かれと思ったことも、実は諸刃の剣なんだとわかってくる。
ああ僕は左利きなんだ、くらいの軽いカミングアウトができるような世ならと思う。色覚のマイナー。紫外線を見ることのできない人間をもし蝶が可哀想がってきたら、大きなお世話だと思うだろう、と同様に、彼の中には彼なりの色彩豊かな世界がある筈で。
心だけで繋がれるのが一番いい。それが可能なはずのネット生活でさえ体力に左右される。若い頃から軽視してきた体力というものに最後に笑われるのは哀しい。
楽しむ準備は出来てるかーっ(事前にお手洗いを済ませよう!)幸せになる準備は出来てるかーっ(どんな準備が要るのかな!)
自分以外の誰かを幸せにしたい欲、自分以外の誰かが幸せでいるのを見たい欲、は確かに存在する。←私の場合は偶々、その最大は我が子に向かっているだけで、人によっては恋人、配偶者、親兄弟、人によっては仕事を通じてもっと多くの人へ、間接的に直接的にどこに向かうかは人それぞれだけど
時々よくわかんない寂寥を感じて堪らなくなったりとか、彼の彼女の心の中が見えそで見えなくて気を揉んだりとか、しちゃってるんだけども、それも、宇宙とかから支給されたこの身体を着ている今だけなんだよね。脱いでお家に還ればなんのことはなくみんな一緒に裸でお喋りするんだよね?と思いたいです
とりあえず、帰宅した子どもの口元、とりわけ口角が上がってるのを見ると、まずは安堵/口元を手で覆ってじっとしてたから、心配になって、どうしたのか聞いたら、自分が作った楽しい妄想に吹き出しそうになるのを手で押さえていただけだと言う。
何かが怖いという風評が定着することによって稼げる商売の人々が、世の中には存在してて、その不安を煽ることで地道に事にあたる人を邪魔する。世の中で怖い怖いとされているものは、どの程度の量がどの程度の時間なら人体に危険なのか安全なのか正確に知る必要がある
おトイレに入ってるところは普通は見せたくないし見たくない。ドアに鍵はかける。でもおトイレにいる人が嫌いなわけないし自分も当然入るしみんなどんどんトイレに行こう。みたいな?
頭の中を割って見せ合えないという仕組みが「いったいなんなの」と思うけど、そのもどかしさを味わうために頭蓋骨があるのかな
そうか、あれだ…命ある身体って、誕生日に暖簾分け独立した「有限会社誰々」ていうチームだから、同一会社だけど構成員たる社員は代替わりしてるから、創立当時を当の中の人が知らないってことか。引き継ぎ資料は主に脳の中そして社風に残っていく
あの人がキツく当たってきたのは常に自分の価値を認めてもらいたかったかららしい。攻撃は最大の防御とばかりに。
男の子を見守るときは、トイレの個室を上から覗くんじゃなくて、ドアの外でそっと待機し、必要があればトイレットペーパーを投げ入れるくらいのスタンスで
子どものことは何でもかんでも親が仕切って決めてやらなやきゃっていう人がいたけど、あれは子どもを育てた自分のことも信用してないからなんじゃないかなあ?
なぜ、私にしか成し得ないことなどこの世にないほうが気楽、と思うかというとじゃあもしこの世に「私にしか出来ないなにか」があったとする…それ私が死んだら終わりじゃん。すみません、私はいつか死ぬ人なんです不死身じゃないんですよ、ってなるんだ
昔々 親の用意した服を着て親の用意した食事をたべ親の用意した家で寝ていた頃のこと。心からホームレスになりたかったことがあった。親類縁者の期待や何やかやの思いからなんとかして自由になろうと。いまおもえば笑止なことだけども真面目にホームレス生活を夢見ていた
喜んでいる自分を喜んでくれる誰かがいてくれたおかげで、いま、誰かが喜んでると喜べる自分でいられるのかも。
色の名前を表す言葉がこんなに多い日本って素晴らしいと思う
これは、嘗て私が感じてた、就職のややこしさについて人に説明する時の気に入ってる喩えなんだけども…自分がどんな形の鍵を幾つ持っていて、どんな鍵穴を用意してる職場がどこにあって、それがピッタリ合うのはどの業界方面にあるのか、見極めがめっちゃ難しいなあ…ってこと。鍵が合えば開くけども
叱ってるようで実はただ怒ってるひと、子どもが「ごめんなさい」って言って涙をこぼせばとりあえず満足なのかな
ギヴアンドテイクじゃなくて本能的に誰かを喜ばせたいと思ったことがみんな一度はあるとしたら、やっぱり心はそういう仕組み、それを濾過して濾過したものに名前をつけたら「愛」とか「慈」とかになったんじゃないの?
いつか太陽系ごと地球も人類もなくなってしまうのに、生きてても、子孫繁栄しても、世の中を良くしたいと思っても、何もかも無意味じゃないのか?…いや違う。口のなかですぐに溶けてなくなってしまうアイスクリーム、一瞬光って消えてく花火、なくなるからって無駄な存在ではなかったでしょうと。
エゴをすっかり濾し切って純水になって、誰のことも潤せて、誰も傷つけず、誰のどんな形の価値観にも容れられる人になりたいって思うけど、でもこれって自分が消えることだからできないとも思う。
諸行無常を知って心の容積が大きい人が好き。いろんな色が集まっているもの(※比喩)を崇拝している。心だけが時間と空間を超えたい派。
理想の結婚相手ってものがあるとしたら、相手のことを全面的に受け入れられる人などではなく、相手のことを全面的に受け入れられなくても気にしない、そして相手に全面的に受け入れられなくても気にならない、水か何かのような人。ってことになる
そして娘に話したこと。バイトを辞めることが自分の中で決まってるなら、上司に早目にその旨を伝えなさいよと。仕事は申し込むのも経験、続けるのも経験、でも、辞めることも経験だからねと。辞めることにまつわる諸々が億劫、でも頑張って辞める経験って意味があると思う(2017)
警察が拳銃という飛び道具を持ってることについて「人殺しができる」とかあまり言わないのに、日本が防衛のことを現実的に考えようとすると「戦争ができる国になる」という人がいるけど何だろうね。できるけどやらないやりたくない当たり前。警察だって別に殺したくて拳銃持ってる訳じゃない
自分が幸せでいないと親が不幸せに思うんだなと思わせちゃうと、子供は不自由になる…自分が幸せでいないと誰かも不幸せになるの苦しい。けど、っていうか子供の幸せを願わなきゃ、子育てという超絶めんどくさいことはできない。問題は、如何にそれを子供に負担に思わせないようにするか演技力か
それと、どういう形の幸せのあり方なら親を喜ばすことができるか、なんていう気を使わせちゃわないように、どんな形であれ子供の幸せは子供の幸せだ、って当然のように親も子供も思える親子でいるのが理想的かな。これもなかなか難易度高いけど
そうなんだよな、私が(親じゃなくて親戚に対してだったけど)苦しかったのは、私が許可された幸せのあり方が、私の望むものとは関係がなかったことだった。どんな形であれ私の幸せは私のもので良いんだ、と思えたらよかったし、そう思わせたい
だから子育ての目標に相応しいのは、親の思い描く幸せとかじゃなく、子供が子供の幸せを勝手に幸せに生きられるように見守ることなんだと思うし、親は「そっちがどう生きようがオールオッケー」って顔してないとならないんだが、内心はいろいろ心配しちゃうよ
基本的には、子供には、誰かの幸せを奪うような生き方を選んで欲しくないし、そういう、人を搾取することに喜びを見出だすような子には育って欲しくはない、これ最低限の親の期待。これくらいは言ってもいいでしょ
なんだろ、たとえばリアルタイムでは観てなかった理由って、当時の自分の状況や心境や興味の有る無し諸々あったんだろうけど、こうやって何かの拍子に時間差で出逢うものがはまることある
生きててほしい人が生きてることを知るだけでこんなに嬉しいのに、じゃあ生きててほしい人が生きられるために私に何ができているのかっていうと…分からないし、こんなことを思うこと自体がその人のためになるとも思えなかったりする
祖母は「親」という立場を使って誰かを自分の偉さ証明に役立てたくて仕方ない人だったし、それができないと泣いたり嘆いたりする人だったが、それが孫の私に対してもそうだった。当時、祖母の価値観の外で生きることは、いわば祖母に死の宣告をするようなものだった
多分だけど私は、こんな何も成し遂げてない私が、考えたり思ったり感じたりしたことを、言葉にして遺してみることで、私っていう意味のない者でさえ何かしらものを考えているのですよと確認することで、自分や、自分みたいに意味のない存在に「意味のないなりに有意義。お疲れさん」て言いたいんだろう
ところで、私のことを嫌いな人に嫌われても平気、とか頭では考えてる。人は人それぞれだから。でも実際は、人から嫌われることはむちゃくちゃ悲しい。人と私とは同じ感覚ではないことを思い知るから。言葉や表情で何か伝えるのも難しいと思い知るから。皆とひとつになる無理さを思い知るから。…かも
ネット用語等、今更、人様にに訊くのがなんとなく恥ずかしくて訊けなくて、かといって今すぐ検索で調べたいほどでもないから、そのうち分かるだろうと放置していること、が積もり積もり、それを知らなくてもなんとなく渡れてしまっているネットの海
家族の写真も、家族の作品を収めた画像も、好きな曲や映像コンテンツも、好きな人の言葉も、自分の思いを綴った呟きや日記も、銀行口座残高も、悉くデジタル情報で保存してると、土の上というより電気の上に立ってる気持ち。電気がなくなったら全てお終い感、が強い。地球滅亡の前に電気の消滅が怖い
電力は命と生き甲斐を支えてる
私の保存したデータが消えることは、体がなくなることくらい寂しい。データが消えると人の作った世界が消えちゃう。そのあと何が残るかっていうと、私が関心を払わなかった勝手に存在する自然とか宇宙とかが勝手に残るけど、それって私と関係ある?…って程には生き物感覚を忘れてる
朝はこの世の儚さを思い出す。なぜなら脳が直前まで見ていた夢の中のことが、起きてみたら全然意味もわからないし、どっかへ消えちゃったからだよ
もしかしたら、人の心を信じていたい陽の光みたいなおとわで居て欲しくて、政次はその分、暗く黒いものを引き受けているのかも、と思った。そんな政次がおとわに「俺を信じろ」っていうのがもう、本当に好き(2017.7おんな城主直虎)
どっちかというと「好きではない」「好みではない」「苦手である」という語彙をよく使うようにしているのは、私自身が「嫌い」の語にやたらに重く鋭いものを感じてしまうからだ。他の人がそうとは限らないんだ。こうしてひとつの言葉をとっても、感覚は様々だ。だからコミュニケーションは複雑
昔の思い出話もした。小さい頃に一緒にいった博物館のことなど。「連れてった場所を子供が覚えていないのって、親としてはどうなの?」と娘に訊かれたから「その時その時に子供の脳や心に何かの栄養になればいいんで、いいんだ。たとえば蜜柑食べてビタミン摂ってもその日限りだけど意味あるでしょ」
なぜだろう、私のこの人生で経験のないことって他にたくさんあるのに。たとえばドラクエやったことないしスカイダイビングしたことないし紐パンツ穿いたことないし富士山頂に登ったことない。そんなひとつに過ぎない、恋人の有無。なのにこれだけ何だか忘れ物のような気がしてしまう
天体、遠くで見てるのが好き。あんまり、近寄りたくはない…おやすみ
昔の人は何故あんなに家の存続や子孫繁栄を強く願ってんのか、やはりそれは今より寿命が短かったからだと思う
理不尽な目に遭ってる人に言いたいのは「日記や手紙にはポエムじゃなく具体的証拠になる記録を細かく書いて。複数の人の耳に入れるべく早く何でも喋っておいて」と/学校のなかに防犯カメラがあっても良いんじゃないだろうか
自分の頭や心のなかにある感動の記憶が、自分が死ぬと無くなる(断定はできないけど多分無くなる)ということ、これがとてもかなしい。私は最近このことをとても残念に思う
趣味について、例えば子供や配偶者や親しい人の趣味について、それが役に立つか立たないかでジャッジする人々が世にいるけども。お金にならない、仕事に結び付かない、どうでもいい。役に立とうが立つまいが良い。人生がどのみち役に立たない。役に立つかどうかは人智の及ぶものではないので
好きなTV番組や映画の一幕を、何度も何度も思い浮かべて時間を過ごす。なんてことは、確かに一銭にもならないし、特に目に見える現世の利益にはならないよ。役に立つか立たないかで言えば立たない。楽しいんだからそれでいい。なのに、ただ楽しいだけでは勿体無いように思う人は何故
これまでの様々なめんどくさいことは、全て、いつか好きなように遊ぶためだった
好きな人が、好きなように遊ぶこと、それは嬉しいこと。だから私は子供がいつかもっともっと好きなように遊べることを願っていま衣食住の世話をしている。
子供には、偉くなってほしいとか私を助けてほしいとか思ってない案外ね。とにかく将来は、遊べるようになればいいねと思ってしまう。これは私の勝手な願望であり
予想以上の反応に、何かつらいことがあるのか、辞めてもいいと思うよ、と、つい言ってしまったけど、ううん!大丈夫!行ってきます!って笑って家を出ていったので、我が子ながら、奉りたくなった(2017)
難しいな。ちっちゃい子のやることに理由が何かしらあっても、自分でも言葉で説明できない、でも大人にも分からない理由が、説明不能なだけで、あるはあると思うんだけどな。あるはあるんだろうなと推測するにとどめる、でも無理にきちんと説明させようとしない、ってことかな
振り返れば私はまずいことをやってた。訳を言わないと分からないでしょ?と、子供の言葉でとことん説明させようとしていた。あれは今思うと酷いな。説明などできないだろうに。親の私が納得したいだけだったのかも
私のことを何でも肯定して受け入れてくれる人とでなければ、一緒に暮らしたくないんだと思う。本当は。でもそんな人類がこの世にいるわけないし、私だって、この人のことなら何でも肯定して受け入れられるという生身の人間がこの世にいるとは思えない。結婚が幸せであるとは私からは言えない
理想の結婚相手ってものがあるとしたら、相手のことを全面的に受け入れられる人などではなく、相手のことを全面的に受け入れられなくても気にしない、そして相手に全面的に受け入れられなくても気にならない、水か何かのような人。ってことになる
そして娘に話したこと。バイトを辞めることが自分の中で決まってるなら、上司に早目にその旨を伝えなさいよと。仕事は申し込むのも経験、続けるのも経験、でも、辞めることも経験だからねと。辞めることにまつわる諸々が億劫、でも頑張って辞める経験って意味があると思う(2017)
なんか時々、子にはすごい速さで大人になってしまって貰いたい、っておもうときがある。子が子供だと、万一何かあったら可哀想過ぎてつらいから、私がつらくない程度に娘がオバサンに、息子がオジサンに、なってくれないかなと。(我儘)
脳みそってすごいよね、好きな人の歌声などをちゃんと再現してくれる
ところで、見た目が透明な水なのに、飲んだらミルクティーなあの商品のこと思ってた。技術の進歩で、私の五感の知ってる世界からどんどん実際の外界が離れていくの、面白いし怖い。もうなにも信じられないや
ところでMonster歌詞「見かけじゃなくて心を抱いて」何いってんの貴方達イケメンじゃん、って思うけど、そっか違う、これは、怪物の中の綺麗で可愛い心(不可視)を美形アイドル(可視)によって表現してる…アイドルの正しい仕事だと解釈した(目に見えない仏心を仏像偶像で表すような感じ)
うん…やっぱり私は恋人のどんな状況をも我が事として感じ愛し包み込む心意気のある人のことを、男女問わず推したい
ドラマとか映画に出てくる男性が彼女の妊娠を知った時に自分の子かどうか疑うことなど露ほど思わず手放しで祝福歓迎する場面とか観ると私は褒め称えたい…全ての人類はこうであれと思うのだった
映画「九月の恋と出会うまで」の彼がとても良かったという話の続き。私は単に恋に不慣れな人が好きというわけではなく、不慣れ且つ、自分への見返りよりも利他の心を持って必死に恋人に尽くすべく、不慣れなりに奮闘する人の姿を愛でるのが、私は好きなんだと分かった
風化する自分の脳、哀しくて心地好い。悔しいことも、愛しいことも、貰い泣きも、貰い笑みも、諸々の思いの記憶を、宇宙の誰かが預かってくれるなら砂になれる。冷凍庫よりも堆肥コンポストで。無記名でいい。誰にでも使われればいい。私のもののようで、そうでもない
記憶データを外部に遺す安心感を支えるインターネットサービスにありがとう/曖昧な記憶から生まれて長く遺る感情をどこまで信じていいのか/記憶されない誰かの意思の集合が世の中を作っている
生身の身体を持って人と人の世で経験を積み重ねた総合的な命は単にデータの集まりとは違う…と思う一方で、だけど別に私じゃなくても構わないデータの集まりだと思いたい、という考えも私にはあり、
なんでそう思ったかの具体的なことと紐付けずに何か「思った」という脳内データだけを、私という歴史や肉体から離してネットに預けてどこの誰だか存じない人がいつか見る、…ということも実は私にはなんだか安心することではあるんだ
問題なのは、具体的な事実という情報ソースを参照できないのに、まつわる思いだけがずっと残っていること。本当は嫌わなくても良かった人へのキライという印象だけいつまでも持っていたりするかもしれないおそれ。子供の頃の記憶なんかあやしいから、怒られてイヤだったとかの感情だけあるのは困るし
たかだか数年前のことなんかも私の脳が勝手に記憶を分別したあとは具体的なことを憶えてない、だけどその時の感情…好きだとかつらいとかそういうの…だけが後々まで強く残っていることがある。君の名は。に出てくるアレみたいに、今朝見た夢の中で感じたことのように
だから何か鑑賞して感動したことや何かとても心の動いた出来事を私の脳が「いま差し当たりこの情報は使わない」と勝手に判断して保管期間をどんどん短くして削ぎ落としているらしいことが悔しく哀しく恐ろしい。抗うには何か書かずにいられない。15年前に隠したヘソクリ万札がまだ見つけられない
人が人を救うとは何ぞやといったことが仮面ライダースーパー戦隊シリーズなどで描かれている、そんなヒーローの無償の人類愛精神を観て思う…誰かが人知れず人を助けていることを、誰がどこで何をどう助けていたか知らずに無事に我々生きてることだけでも覚えていないとな…ってなる
特撮シリーズは、ヒーローを全うする人物が、何の為に誰の為に何をどう守るのか選ぶ際に自身のことより他人の幸せを優先してしまうものだが、観てる側(救われる側)としてはそんなヒーロー自身も幸せでいてくれないと悲しいから、彼(彼女)を支える友なり相棒なりがいてくれるとホント嬉しい
特撮ヒーロー作品の、とある最終話とその前の数話を観る機会があり、その影響を受けて空想してた…この現実世界は実はつい最近、破滅してて、それをどこかの救世主がリセットして破滅前の時点に戻す作業を頑張ってくれてたんだとしたら、その救世主を私らが覚えていないのは凄く悔しいことだなと
このアニメ、好き…ものの見方をぐるんぐるんと変えさせられる楽しいアトラクションだった…四畳半神話大系…最終話を観た目と頭でまた1話からおさらいするのも面白そう。あとなんなら小津目線のパラレルワールド達も観てみたい気がする
昔、会社勤めしていた新人の頃、自分に任せられた仕事をしっかりこなしたくて昼休みも削って作業していたら、「そういうことをするとこの会社の為にならない」と先輩に叱られたの忘れられない思い出
自分一人じゃタイヘンであることをタイヘンだということを周囲に積極的に示していくのは、後続の人々に何かの学びを促すためにも、その職場の仕組みを改善する為にも、有意義且つ必要なことだと思う等
一人でやるには限界がある、ので、このように他者の協力があってよかった(あればよかった)等の事例を後々の為に残すと、それも社会貢献だし、一人の人間が全力ふり絞らなければ回らないような仕事の仕組みってサステナブルとは言えないから自分の出す力を七割くらいに敢えて留めとく
最近、家族以外の人とあまり会わない生活の中で、自分の容姿を気にしない時間が増えてて、この心地よさってTwitterやブログで互いに「どんな顔、どんな体型、何歳の男、女、…」などの余計な情報無しに思いだけをやり取りしてる心地よさと似てるなと思った(2021.8)
アラジンのアリ王子のお通りなど聴いてて楽しくて思ったのは、ディズニーアニメ音楽で私の好きなとこは…その物語の舞台になってる場所や時代の音楽と、ノリの良い現代音楽が、絶妙に気持ちよくミックスされてるとこだなあ
出先で買ったペットボトルの飲み物の蓋が殺人的な固さで開かないので死ぬかもしれない。通りすがりの人に頼もうとまで…でも思い直してもう一度渾身の力を振り絞って開けることができた。飲む前にこんなハードル設けなくてもじゅうぶん美味しいから開けやすくして欲しい…(2021.8)
新人に引き継ぐ人に考えて頂きたいこと…ご自分がその仕事を始めてやるという立場に立ってね…もう慣れ知ってることでも新人には全て初耳ワード。分かってる操作も説明なければ知る由もない想像外の件ばかりだった筈…積み上げた貴方の記憶をリセットし如何に新人目線に立てるかの能力を発揮してよね
また、「ワクチン接種後の心配なニュースは出回りがちだが、ワクチン接種2回完了した多くの人達が新型コロナの重篤化から守られたり後遺症から守られたりしたことについては、目に見えないからなかなか報じられない」ってことも話した
ドラマや舞台や映画や小説や漫画や…ストーリーを作る人ってすごい…登場人物をよくよく設定作り込んで、まるで各人を生きたような或いは育てたような理解で各人の思想や思考を決め、その人ならこんな時こう発言してこう動く、と、彼や彼女らを交わらせて物語の筋とテーマと矛盾無きよう絡めるのは
仮面ライダーオーズ(※最終回も映画も、素晴らしい!)に出てくるアンクの話に戻るんだけど、アンクの髪型とてつもなく様々な要素が集まってて笑う/大好き。くるんとしている部分、真っ直ぐな部分、編み込まれた部分、剃ってある部分。これはアンクの考えた最強の髪型なんだろうか…とても良いとしか
朝顔さんは仕事を通して様々な人々の、生きてきた人と遺される人の、人生を見つめて繋げるし…桑原くんや平さんは仕事を通して、人が安心して生きられるよう人を守るよう頑張ってるし…そんな朝顔さん一家のひとりひとりもまた懸命に生きていて、お互いにお互いの命を見つめて守って繋げているの
「善き人の善き考えや情報を、ルールを守りつつ支持し世に広めたい、その為にSNSを正しく嗜んでゆきたい」という私と…「ポ~~とか、プ~~とか馬鹿なことだけを気ままに呟いていたい」という私が…同時に存在していてランダムに前に出てこようとする
自分が投票した候補者が落選したからってやさぐれてはいけない。当選した人達はみんな誰かががその人達に票を託したんだから…公平な選挙にてそうなったんだから自分が望んだ結果じゃなかった時も人々の選択を認めること、マスコミさん宜しくお願いしたい。当選した人をちゃんと民意と受け止め応援して
人生を深く勉強するサークルに入った筈が、洗脳され財産を吸い上げられ世間を敵と思い込まされ殺人も人類救済のための善きことだとマインドコントロールされ教祖を利するだけの教義を守るために人権も失い個人の幸せとは程遠い無差別テロの兵隊となってしまう…そんなカルト宗教教団の怖さを垣間見た、
こんなにいろんなこと考えたり思ったりして生きてきたのに、いつか自分はこの世にいなくなるってマジなの…おかしい…
我が子のことを自分の作品や分身のように勘違いしてる人がいるけど、よくないよね…子供は親とは違う人間として、その子の視界から親の知らない人やモノから学んでいくんだからさ…
欲望を、生きるモチベとして全面肯定する者もいるし、欲も夢も全て無に帰してしまうのを理想とする者もいるし、他者の欲を利用し暴走させることで生きる者もいるし、人類を生かすという大きな欲しか自分の欲を持たない者もいるし、で欲望サンプルあれこれ揃った番組だなあ(仮面ライダーオーズ
仮面ライダーオーズ/人が人々を助けることにまつわる諸問題…自分の手の届く範囲で行うことの大切さ…善かれと思ってすることが裏目に出るかもしれないことを覚えておくなど…とっても勉強になるよね…
あと、このそれぞれの身に起こった出来事を通して、お互いを通して、本来なら関わるはずのない人との交流を通して、等で…ものやヒトへの捉え方を拡げたり緩めたり成長したりし始めてる様子。日高にも彩子にも人間の変化の可能性を見せてくれる予感がして面白い(天国と地獄)
泣くことで責めたりしてるわけじゃないのに、泣くことが攻撃だと言われ怒られてしんどかったな/それで涙が止まらず、余計に怒られるんだから消えたくもなるよ(※過去の自分の話)
私の祖父母~親の世代は、戦時~戦後にかけて食べ物が少なくつらい飢えを味わった人々が多く、ゆえに子供達への愛情は、高栄養食を沢山食べさせることに繋がり。また当時はアレルギーだとか少食とかについての科学的な知識まではなかったろうから…食事を残すこと=悪しきこと、糺すべきこと、となる
リモラブ/5話~6話辺りの展開めちゃめちゃ刺さる…。SNSだけで繋がっていた相手のリアルの像を知る、逆に自分のリアル像を相手に知られる、ことへの戸惑いhttps://twitter.com/komisokabot2/status/1349168189343584257?s=19
生きるために酸素や水と同じくらいに大切な電気
気象現象系の美しい写真をアップしてくれるフォロイーさんの空や雲など拝見していて、いつも不思議だなあと思ってること…地球の周りにある水蒸気や大気の層が、時間や状況によってこんなに彩り豊かに見えるのホントに不思議で大好きだな…私の中の「いろんな色が好き」というツボにくる景色
幼児の頃から私の好きな色は緑色だけど、もっと好きなのは虹色、っていうか多くの色が集まっているのが好きなので、プリズムとかオーロラとかオパールとかを崇めてるし、今の推しはARASHIだしホントどんだけ…
いろいろ見て思うことは、「大企業」に対し、自分とは全然関係がない雲の上の人間の集まりだからいくらでも槍玉に上げていいと思ってる人も結構いるのかなあ。企業に勤めている人々にも家族がいるし、企業の取引先の会社の従業員、その人達にもまた繋がってる人達がたくさんいるんだし
効力が切れて使い終わった使い捨てカイロを、ごみ箱に投げつけるように放って入れるとなんだかカイロが可愛そうで心が咎め、そっと入れてみる、…みたいな感覚、私にもあるけど意味がわからないや。どのみち焼却されるのにな
心の中も表情も相手に見せたい部分だけを限定的に見せ合っているからこそ心地良かったSNS…そこから恋が始まった二人が、今やもう、心の中身を相手にすぐにきちんと言わないことで擦れ違ってるんだなあ…リモラブ(2020.12)
あの子供たちそれぞれ、行動パターンも好みも得意も不得意も違う、私とも違う。なにを幸せと思うかも違う。けれど、だから、私はあの子たちに教わっている。貰ってる。一人では味わえなかったし考えもつかなかった人生を。それが時に面倒くさい。その分、嬉しい。
でもやっぱり…「美味しいものもどうせ食べたらすぐなくなるんだから、最初から食べなくても同じだ」とは全然思えない
我が子や自分の小さいときのことを思い出して感じるのは、おもてに現れる言動が子供っぽくても、考えてることは大人よりも時に凄い高度や深度を瞬間的に出してたという。それを表現する術やタイミングが掴めてなかったけど
出会った情報に対して、想像力と謙虚さが必要だなあと思った。自分の知っていることや、生きてきて思ったこと、それも大事だけど、その自分の持っているものだけで推し量れないこともあるんだという気持ちも携えながらじゃないと、優しくはなれない
大人は子供よりも進んでいるとは一概に言えない。ある部分では衰えていってる。ある部分では変わっていってる。経験と学習で変わっていく。変化の前後の優劣を単純に比べることはできない。無理にじゃなくどちらも好きになれたらなれたで良い
他人にとって何が不快で快なのかを想像し察する時に、よすがにするのは自分の中にある体験と感情の記憶、自分がそこから導き出した「幸せとはなにか」だから、参照する自分のなかが多様かどうかに左右される。そして限界も、どうしようもなくある。限界を自覚しつつ多様性を持っていたい。
こういった、色々なご縁で色々なものが心に浮かぶこれ自体ドラマ、これを宇宙には録画しておいて欲しいって思っちゃう
自分というものが在る、って思って安心したいときと、自分なんて別に無い、と思って安らぎたいときと、両方ある/いろんな場面で「じゃあなんで私はいつも自分の身体で朝目が覚めてんの。たまに別人になっててもよさそうなのに」とか思う
神様がいるかいないか…私は、いると思うっていうか、何を神様と呼ぶかだと思ってる。この世がこんな風に「在る」そのこと自体を神様って呼んでもいいし(私が自分でどうにもできないしそのわけも分からないこと)
私にしか成し得ないこと、などこの世にないほうが気楽なんだ
息子、割とどんなときでもどこかでマイペースに自分の楽しみを見つけてくる。そこが良い
人気アイドルと事務所はなぜか叩いても大丈夫なものと思われているのか、ともすると必要以上に貶される。人気というのは降って涌くものではなく地道に各人が獲得したもので、またそれを育てる人々も並みならぬ努力をしているし、そういった人気タレントが発信することで何かが世に広まる。それも仕事
ここだけの話、アイドルはそもそも「美形、ハンサム」ではないんですよね。ステージでの振る舞いや歌や踊りや作品での演技やギャップ萌やその他諸々の総合の魅力で「カッコイイ、素敵、可愛い」ですよ~
あと、ほぼ同じ気持ちから派生してる願望として「親に自分の死を見せたくないにも関わらず、『私は人生に概ね満足して怖くなく痛くなくサラッと終わりました』と親に知らせたいと望む」
我が子より先に逝きたい、といつも思うと同時に、相反するようだが、「我が子が人生に満足して、あまり怖くなく痛くなくサラッと命を終えた。」という事実をいつか見届けて安心したい、という、叶わぬ願望があり、それを可能にするとしたら私は一旦死んだあとにまた霊魂だけ戻る必要がある
卒論/誤字脱字だけ見てくれと言われたのに、内容に感動してしまって私のヲタ心が「売ってくれ!お金を払いたい!娘だからとかじゃなく普通にこれ買うしかない!」みたいになった(***年12月
懸案が100?200?それ以上?ありそうなとき、その200なり全部を消化できそうにないと思って1個も消す気になれないよりは。全体でどのくらいあるのか知らないが今日は1個解決していこうの繰り返しでこつこつやって、翌年には全部クリアしていた、っていうほうが良いんだろうなあ
人が何かワクワクするものを見つけて楽しんだり喜んだりするのを、目撃するのが、私はとても嬉しい。何故なんだろ
生まれると人生が面倒だし、全ての悩みは生きているからだし、いつか無くなる滅びると思うと何もかも無駄のように思えてしまい、だから最初から生まれないように願うという願いが、未来では叶い過ぎて滅ぶのかも
被害者だとアピールすることで別な風評被害を生む仕組み、色々な分野で見かける
あまりにも我が事のように親身になられると逆に「心配かけまい」って感じてしまっていろいろ言えなくなるんだよね、そう、子に言われて、それは私が痛いほど経験したはずなのに、やってしまって/気をつけよう…寄りかかりたくなったら寄りかかれる存在でいよう
人生、肉体と意識が一緒になって催す舞台だとしたら、その演じられたものを見て誰かが何か感じて受け継ぐことがあるだけで、終われば舞台装置も役者も解散してどっかへ行く、でも舞台の記憶は誰かの中に残る
とある試験の記述問題の採点仕事をしていた時に思った。幾つかポイントをおさえて部分点を稼いでた答案が、語尾の不備とか誤字脱字とかいろいろ減点してゆくと結局0点になっちゃうのを見…やるせない気持ちになった。ちゃんと理解していたのに勿体無い。甘く付けてあげたいが決まりだから仕方なかった
歩道のアスファルト隙間に、久しぶりにたんぽぽの綿毛を見つけて思ったんだけど、昔の私はたんぽぽ綿毛を見つけるやいなや息を吹きかけていた。今はね…自然の風がきっと綿毛を散らすんだろうから私が手を下すまでもなかろう…と遠くから眺めるようになったので、自分の加齢を実感する
私の身体を通って出てきた子の頭のなかに、私の知らない世界があるのが不思議で面白くて、その中に一泊二日だけでいいから住んでみたいと常々思ってる。
どうして、日頃から、身体は要らないし心だけを交わらせたいと思ってるのに、人の外見に惹かれてしまうんだろう。表皮一枚の数ミリのバランスが何だってこんなにものの見方まで左右してしまうんだか謎
好きなひとや大切なひとたちのこと思うときに依るものが、脳のなかの記憶、って心細い。溶けて混ざってしまわないならバーチャル彼岸は要らないって前に呟いたけど、やっぱり記憶のデータだけは、バックアップしておけたらいいのにって思った。/でも自分の意識が永遠に生き続けるとかは勘弁して欲しい
どういう状態が幸せかが考えようによって変わってて、体のどこも痛くないことが幸せだって今は思ってるけど、足に激痛が走っても舞台で踊れることが幸せっていう場合もあるし色々だわ。
苦しいことや不安なことの存在感すごい大きい。ホントは嬉しいことも有り難いことも同じくらいあるかもしれないけど心配事のほうが頭のなかで妙に目立って来ちゃってる
他人の気持ちをとてもあれこれ考えてしまうこと、ある。私は、自分がとても鈍感なのを知ってて、私が気にしないことを他人は気にするのを知っていて、でもどんなことをどんな他人がどのように気にするのかはよく知らないから、おっかなびっくりなんだ。
他人が気にしないことを私が気にしたり、私が気にしないことを他人が気にしたりする。これがいつも困りごと。
なんか、特定の物質を量や程度を考えずにただただ恐れるのって、雨垂れが石を穿ってるのを見て雨粒を怖がるのと似てるかも。
自分以上に子供の、出来なかったことができるようになる、知らなかったことを知るようになる、瞬間に立ち合える幸せ、思い出してる。
絶望から救ってくれた映画 ラスト・エンペラー。当時の私は心が雁字搦めにされてた。主人公の、中国最後の皇帝(という肩書あれども寂しがり屋でお母さん恋しくて素直になれなくて重圧にもがいて独立したくて背伸びしてた男の子)が諸々経て心穏やかになるまでの歴史を観て、すごく癒されてた
こういうなんでも「政権の陰謀に違いない」とされたニュースたちを考えると政権ってそんなすごいことができるんだね!ってなるけど?
認知症の親族を見ていた近年、つくづく思ったのは、若い頃に覚えた歌って一生ものなんだなあ、ってこと。綺麗な声で正確に歌ってたよ、あんなにわけわかんなくなっても、歌詞もすらすら出ていた
ゼロだったところに生み出す1、価値がすごい
一巻から七巻の間に、悪人が善人に善人が悪人にくるくる変わってもう面白いったらないよ手塚さんのブッダ
独り言のように呟いたことを、フォロワー数の多いひとに取り上げられたことについて、文句を言ってる人が時々いる。だけど鍵あかでもない限り、インターネットに書き込むということは世界中の人々に向けて喋ること。また、いまネットを見てる人にだけじゃなく未来の閲覧者に向けて喋ることと同じ。
新しい環境にこれから馴染まなくてはならない、馴染もう、そう心に決めてその扉を開けたときに、そこに見える景色のなかに少しでも不安な何かを見つけては思い悩むの、そんなに完全を求めてしまうの、全てが安心安全であってほしいの、それはどこかで諦めてまずは踏み出してみよう
ちゃんと、その子なりのドラマ、その子だけの成長を見てくれるひとの存在、これ凄く安心と意欲をもたらしてくれると思う。子供の出してきた結果だけ見て他の子と比較して気持ちをそぐ人もいる中、見てくれるひとの存在が
自分がこうだから他人も皆こうだと思っちゃダメだし思わないでいるようにしている。色々な考え方と感覚があるのが世界の良いところ、いや良し悪しでなく、それが世界か。と分かっていても、寂しさが付いて回る。たぶん、いつまででも
この頃沁々と思う。おうちで、お外で、有償無償に関わらず、お仕事を頑張ってる人達のお仕事が、直接目に見えて私に関係がないように見えても、私の大切な人達を、そのまた大切な人達を、きっと支えてくれてる。必ず役に立ってくれてる。ありがとう
昔、私が、幼かった子に対して間違ってたなあと思うのは、あの子がちゃんと謝ったら許そう、とか思ってた件。自分と対等な大人のようにとらえてしまってたこと。私でさえなかなかできない我慢を子にさせようとしてた。できるだろうと思ってしまった。
「本を読んだりネットを見たりしている子が、親にその様子を眺められていることを意識せずに何かに反応して一人で無言のままにやっと笑ったときに盛り上がる頬っぺた」を、斜め後ろから見つけて喜ぶのがマイブーム